不快を煮詰めた男
「セリエス嬢!」
声を張り上げてから後悔した。聖女の婚約者が自分であると知らしめるようなものだ。
案の定、集まっていた人々がざわつく。王都ではあまりにも珍しい黒髪と赤い目。ここでざわめきに目を向ければ、好奇の視線が一斉に自分を射抜くのだろう。
脇目も振らずに衆目を駆け抜けて、リネッタの青の瞳を睨み付けた。
「どういうおつもりでこんな所へいらしたんですか」
リネッタは、デイドレスのスカートを軽くつまんで会釈した。そして、クウィルが苦手と伝えたはずの社交用笑顔を貼る。途端、見物人の群れにささやき声が波立った。
なるほど、聖女を二年こなすと、魅せるための技が身体に染みつくのか。
冷ややかに彼女の振舞いを眺める。
するとリネッタはクウィルとの距離を詰め、内緒ごとでも伝えるように声をひそめた。
「昨夜、あんな風にお話を終えてしまわれたので。もうこのままお戻りにならないかもしれないと思って」
「……戻りますよ、今夜。話はそれからでいいでしょう」
「本当に? わたしの顔も見ていたくないほど、昨夜はお怒りでしたのに」
感情がないことと、感情を察せないことは別の話か。
リネッタの双眸は、何も宿さないからこそ底が知れない。こちらの奥を見透かされるようで、クウィルはふいと顔をそむけた。
「戻ります。昨夜はまだ貴女との距離が掴めず、申し訳ないことをしました」
謝罪すると、リネッタがけろりとした口調で返してくる。
「嘘です。そんな私用でクウィル様のお仕事を乱すような女だと思わないでください」
「は……嘘」
聖女が、嘘を。
虚を突かれて美しい婚約者を凝視する。
リネッタは左手を上げた。どうやらクウィルの反応が愉快だったらしい。
からかわれたことに気づいて、顔が熱くなる。見物人がいる中で見せたい醜態ではない。
クウィルが顔を背けると、リネッタは日傘の位置をずらし、人目からクウィルを隠すようにした。
「貴女は、なかなかいたずらがお好きなようだ」
「好き、だったのでしょうか。今はもうわかりませんが」
その声が一瞬沈んだように思えて、クウィルは視線を上げた。日傘を盾にしたからか、リネッタは表情を消していた。
「今日は模擬戦だそうですね。白騎士様が屋敷へ言づてをくださって。せっかくなら見物してはどうかと、伯爵様が馬車を手配してくださったものですから」
「それで、なぜ修練場に?」
「わたしが観戦して良いものか、クウィル様にうかがいたかったのです。お邪魔ではありませんか?」
「それは……」
構わないが、と。
答えようとしたクウィルの言葉を、面倒な声が遮った。
「聖女様、こちらにいらっしゃいましたか!」
「げ……」
クウィルの口から、貴族らしからぬ濁った声が出る。
嬉し気に駆け寄ってくる男は、ふと足を止めて観衆に礼をする。観衆の内から、うっとりしたような声がいくつか上がった。
白騎士団第二隊長マリウス・クラッセン。これぞアイクラントというプラチナブロンドを揺らし、深緑の瞳を輝かせる侯爵家嫡男である。
マリウスはクウィルに目もくれず、リネッタの右手を取ると軽い口づけを落とした。
「門前までお迎えに上がったのですが、入れ違いになってしまいましたね」
「すでに聖女の役目を終えた身です。クラッセン卿のお手を煩わせるわけにはいきません」
「寂しいことをおっしゃらないでください。私はまだまだ、聖女様の護衛のつもりでおります」
一応の婚約者であるクウィルを前に、遠慮の欠片もない。それどころか牽制のようにちらちらと視線を向けてくる始末。
不愉快を煮詰めて型に流し造形したものをマリウスと呼ぶのかもしれない。彼の態度を前に、クウィルは口を挟む気にもならない。
マリウスの後方には、さも愉快という顔のギイスが立っている。彼を修練場へ通したのは、あのギイスに違いない。
マリウスのことを常日頃から仔犬と評すギイスだ。今日も今日とてキャンキャンとやかましい若者が面白くて仕方ないのだろう。
「さ、聖女様。模擬戦の会場へご案内します」
「クウィル様に許可をいただいているところです」
「許可など必要ありませんよ。さぁ」
「そうはいきません。婚約者様のご機嫌を損ねるようなことはしたくないのです」
美しく口角を引き上げて、リネッタが微笑みを作る。
マリウスは秀眉を軽く逆立て、声を低くした。
「本当にこの男を指名なさったのですか。聖女様のご意思で?」
「そうです。クウィル・ラングバート様に婚約を願い出て、この通り、誓約錠をいただきました」
リネッタが左手首を上げると、そこに革紐と青い石が揺れる。
それを目にするなり、マリウスはクウィルの胸ぐらを掴んだ。
「聖女様を誑かした不埒者が。こんな安物の誓約で聖女様を縛るとは」
やはり安物ではいけなかったらしい。兄、妹、ニコラと三人分の評価が積み重なった上での、とどめのマリウスである。クウィルは自分の失敗をしかと胸に刻んだが、マリウスの手は力任せに振り払った。
「誑かした覚えはない。というより何故私が選ばれたのか、私にも理解出来ていない!」
きっぱり告げると、マリウスの口がぱっかと開いてしばし固まった。
「ラ、ラングバート! ベツィラフトの赤目の分際で聖女様に選んでいただきながら、そのようなことをよくも!」
「お止めください!」
その場が静まり返るほどの、凛とした強い声。
リネッタはクウィルの隣に並び、まっすぐにマリウスを見上げた。
「クラッセン卿。この婚約はわたしが望みました。聖女の肩書きを振りかざし、ユリアーナ王太子妃殿下に後押しをいただいて、無理を通したのです」
一瞬呆気にとられた様子だったマリウスは、我に返ったように目を見開いた。
「聖女様。もしや、ご存知無いのかもしれませんが、ラングバート家のクウィルは実子ではなく」
「知っています」
「は」
リネッタはするりとクウィルの腕に手を添えた。
「卿よりわたしのほうが、クウィル様のことを知っています。断言できます」
カッと。マリウスの顔に怒りのようなものが走る。
「……ラングバート。今すぐ模擬戦の準備をしろ。貴公が片膝をつく姿を聖女様にお見せして、目を覚まして差し上げねばならん」
苛立たしげに走り去るマリウスに、クウィルは脱力して肩を落とした。隣で涼しい顔をしている婚約者をじとりと睨む。
「挑発してどうするんです。私のことなど、好きに言わせておけばいいものを」
彼女が何をもって自分をよく知ると断言するのかは知らない。しかし、クウィルの身の上を承知で婚約したというなら、リネッタにも周囲の声を聞き流してもらいたい。
ラングバート家の次男は、伯爵の実子ではない。伯爵夫人が懇意にしていた女が生んだ子であり、父親はわからない。女が亡くなった際に、伯爵夫人たっての希望で引き取られたのだ。
生死もわからない父親がベツィラフトの血筋だったのだろう。クウィルは残念ながらその血を濃く継いだ。
容姿が特徴的すぎて隠しようがない。貴族の間では昔から周知だ。
そこで、リネッタの右手がさっと上がった。
その手が示すのは、不快だ。
「赤目と、言いました」
「それが?」
「クウィル様の瞳は、琥珀石です」
「貴女の目には、一体これがどう映っているんですか」
王太子レオナルトから初めに聞かされた話でもそうだった。血を固めたようにすら見えるこの暗赤色が、どうしたら琥珀石と呼べるのか。
「琥珀……だったでしょう?」
リネッタに問われて、びくりと身体が強張る。
なぜ、と。声にならない息で問い返した。しかしリネッタは、社交の笑みを貼り付けるだけで、答えを返してくれない。