情熱の欠片もない夜這い
* * *
拷問のような一日だった。
突然に子ども扱いをしてくる両親を思い出すと顔面が熱い。恥ずかしさに顔を覆いたくなる。もう二十五ですと幾度叫びかけたことか。
クウィルは寝支度を整えて早々に明かりを落とし、ベッドに身体を投げ出した。
無駄に弾力のあるベッドも落ち着かない。やや硬い宿舎の寝台に慣れてしまうと、高級なベッドの感触には違和感がある。
今夜だけだと諦めて、長々と息を吐いたときだった。
控えめなノックが二度響いた。
嫌な予感に顔をしかめ、クウィルは身を起こした。
扉を開けると案の定、立っていたのはリネッタである。
真っ白な薄い寝衣に、若草色のショールだけを羽織った姿。長いシルバーブロンドの髪を片側に寄せて緩く編んだ婚約者はクウィルを見上げた。廊下の灯りが、彼女の頬を橙色に染めている。
無言で立ち尽くす姿は、精巧な人形のようだ。
「入りますか?」
促すと、リネッタは小さく謝意を述べて室内へ踏み入ってきた。
クウィルは少し悩んで、軽く開けた扉に鐘型のストッパーを噛ませた。その作業をリネッタの青い瞳がじっと見つめてくる。
「こんな時間に訪ねてくるのは感心しませんが」
「……ぃ、です」
聞きづらい。クウィルが軽く頭を下げると、リネッタの吐息が耳を掠めた。
「夜這いに参りました」
雲の切れ間から顔を出した月が、室内に明かりを持ち込む。
リネッタの白磁の肌が照らされる。真白な頬は赤らむこともなく、瞳は恥じらいに伏せられもしない。真っすぐな視線はクウィルの双眸を生真面目に捉えている。
こんなにも艶も色香も足りない夜這いがあるか。
任務をこなしに来たかのような申し出に、ふはっと笑いがこぼれてしまう。
「まだ婚約です。こういったことは、義務でもなんでもありませんよ」
「騎士のかたは旺盛でいらっしゃるとお聞きしましたので」
どこの誰だ。そんなことを聖女に吹き込んだのは。
はぁと肺をひっくり返すようなため息をついて、クウィルはベッドに引き返した。どさりと座り込んで頭を抱える。
拷問の一日に、とんだおまけがついてきたものだ。
すげなく追い返していいものか。それでは彼女の矜持を傷つけはしまいか。ほとほと自分はこういったことに向かないなと自嘲して、背中からベッドに倒れ込んだ。
ためらいなくスススと寄ってきたリネッタが、クウィルの隣に上がり込む。白い指が少し迷子になって、それからクウィルの首筋をついと撫でた。
彼女にもし今感情があれば、緊張や恐れで震えるぐらいするのだろうか。十六歳で聖女に選ばれて、二年間旅をして。さすがに護衛の白騎士が聖女に手を出すとは思えない。
こんな風に誘いをかけるのは初めてだろう。リネッタより、感情持ちのクウィルのほうが気恥ずかしくなってしまう。
リネッタの指が、ボタンに引っ掛けられた。そこでクウィルは彼女の手首を掴んだ。力加減に気を遣う。本気で掴めば簡単に折れてしまいそうだ。
「やめましょう、セリエス嬢」
「こういうことはお嫌いですか」
「嫌い、とまではいきませんが、積極的に必要とは思わない」
戦場での猛りは性的な欲に近い。決まった相手のいない騎士が勧められる高級な店もある。クウィルも誘われたことは幾度となくあるが、店からも同僚からも堅物と言われ呆れられた。得意とする魔術属性と相まって、堅牢な氷壁などと呼ばれているらしい。
性だの愛だのというものに、ひどく関心が薄い。クウィルは自身を結婚に向かない人間だと思っている。
「わたしも貴族の娘です。恋情を伴わずとも、務めを果たすことは厭いません」
「ご立派な心掛けだ。ですが」
投げ出していた身体をくるりと回転させ、彼女の身体に四つん這いで跨る。長い髪を巻き込まないように気をつけて、リネッタの顔の両横に手をついた。ベッドが体重移動に合わせてきしきしと鳴る。
質のいい宝石を嵌め込んだような青の瞳は、何も伝えようとしない。映り込むクウィルの顔のほうが、はるかにこの場に困惑している。動揺を隠しきれていない自分が恥ずかしい。相手に感情が無いということは、こんなにも自分の感情の波を際立たせるのか。
ごくりと唾を飲み、心を静かに落とす。関心は人より薄くとも、とうに成人した男だ。美しいものをどうぞと出されて、まったく疼かないほど枯れてはいない。身体が先に本能に負けることはある。リネッタのふっくりとした唇を、魅力的に思う自分も内側に存在する。
起き上がりかけた欲を叩き潰し、冷静に問いかけた。
「セリエス嬢。今、私に恐怖を感じますか?」
「いいえ」
「では、胸が騒いだりしますか? 身体の内が熱くなるようなものはありますか?」
「いいえ」
正直な返答だ。二十五の男としては複雑に思うべきだろう。夜の寝台で上から覆い被さって。これで何も感じないと言われては、まっとうな婚約者なら自信喪失だ。
これが、彼女が聖女に選ばれてしまった結果なのだ。
「感情が揺れなければ、身体は痛みます。刺激は痛みしか呼ばない。行為のすべてが苦痛になり、貴女にひどい負担を強いることになる」
「かまいません」
「かまいましょう。私はかまいます」
彼女の背に腕を差し入れ、ゆっくりと引き起こす。硬さ自慢の同僚らと違い、柔らかな彼女の身体は軽々と起こせてしまう。
上半身を起こしたリネッタは、少し考えるようなそぶりを見せた。
「魅力が薄いということでしょうか」
「っはい!?」
さすがに腹から声が出た。
仰天してリネッタを見ると、青い目と真っ向からぶつかった。
彼女が傷ついたのか、悩んでいるのか、安心したのか。探ろうとしても、三つ数えるまに消えてしまった彼女の気持ちはもう、クウィルには探りようがない。
「クウィル様はもっと、胸部のたわわな女性をお好みですか」
「いえ、全くそういうことでなく。そもそも、なぜそんなに夜にこだわられるのですか」
「他に差し上げられるものが無いのです。この婚約を受け入れてくださったクウィル様にできる限りのお返しをしたくて」
お返しが、身体。
自分は盛りのついた魔獣か何かだと思われているのだろうか。クウィルの胸の内に、ざわりと黒いものが湧いた。
なんだ。結局、彼女もそうなのか。
赤目のクウィルには、魔獣を使役した亡国ベツィラフトの野蛮で穢れた血が流れている。
そんな黒騎士に興味本位で迫ってきた令嬢たちと同じか。
「貴女が何を聞いて私を選んだのかは知らないが、早いうちに目を覚まされたほうがいい。私には受け継ぐ領地も爵位もなければ、特殊な力も持っていない。平凡で冴えない残り物です」
吐き捨てるように言って、クウィルはベッドから立ち上がった。そのまま視線を合わせることなく部屋を出ると、心配そうな顔のニコラが廊下に控えていた。
「く、クウィル様。どちらに?」
「少し頭を冷やすだけだ。セリエス嬢を部屋にお連れしてくれ」
「……はい」
残念そうなニコラの顔は、クウィルへの同情か。
聖女付きに任じられて気合いの入っていたニコラには申し訳ないことだが、この婚約は早晩破談になるのだろうとクウィルは思った。
少し、苦いものを感じる。
今まで自覚していなかったが、どうやらクウィルはこの縁談にわずかながら心を踊らせていたらしい。
そんな自分が無性に恥ずかしくなり、クウィルは廊下の隅でへなへなとうずくまった。