左手は快を
悩んでいると、背後で扉が開いた。
ニコラに誘導されるように、リネッタが姿をみせる。
十人に訊けば十人が、彼女を美しいと評すだろう。聖女の選定基準には容姿が含まれるのだろうか。運命を押し付けられなければ、間違いなく社交界で引く手あまただったに違いない。そんな令嬢が、なにを踏み外して、押す手あまたのクウィルの元に来てしまったのか。
リネッタは、悩むクウィルのそばまでやってきて、まっすぐに赤目を見上げてきた。
背だけは人に誇れるほど伸びてしまったクウィルだ。リネッタは決して小柄ではないが、クウィルと並べば頭ひとつ差がある。
「騒がしかったでしょう。妹が失礼をいたしました」
アデーレはまだ子どもだ。クウィルとラルスが声を抑えたところで、アデーレの声量でだいたいの内容は察せてしまうだろう。
しかし、リネッタはあの器用な笑みを貼り付けてゆるゆると首を振った。
「アデーレ様は、お可愛らしいかたですね」
「歳が離れているぶん、私も兄も甘やかしてしまいまして」
「そんなことはありません。十歳なのにとても大人びていらっしゃいます。わたしが十の頃なんて、木から落下するような子どもでしたもの」
今の彼女の姿からはおよそ想像がつかない。
聖女にも少女のころがあったのだなと当然のことを思いながら、クウィルはリネッタに手を差し伸べた。
リネッタの左手首に安っぽい誓約錠が揺れる。いつでも断ち切ってしまえそうな頼りない紐一本。これを選ばせたのは、クウィルの自信の無さだろうか。
美しい婚約者の口からこぼれる声は柔らかで、ちょうど今の季節の、マロニエの花を揺らす風のような心地よさを感じる。つくづく、なんと身に余る相手を迎え入れてしまったのか。
目の前の婚約者と向き合っていかねばと思う。しっかり向き合えば、おそらく彼女のほうから婚約を破棄してくれるだろう。クウィルの自己評価はそんなものだ。
「セリエス嬢。快、不快を感じる心はお持ちだと、そうおっしゃいましたね」
「ええ。ですが、三つ数える間に消えてしまうようなものですから、気に留めていただく必要はありません」
「ではその三つの間に、手をあげてくださいませんか」
「手を、ですか?」
「快と思えば誓約錠のある左手を。不快と思えば右手を。もちろん、セリエス嬢があげたいと思った時だけでかまいません。社交用に笑顔を作ってくださるより、私にはそのほうがいい」
ちょっとした思い付きだった。
内に何を秘めているかわからない令嬢たちの笑みが、どうしてもクウィルには受け入れがたい。社交嫌いの最大の理由がこれだ。
社交界では誰もがこの容姿を見下していることを、クウィルは嫌というほど理解している。だから、夜会を飛び交う笑顔が気持ち悪い。社交辞令に吐き気がする。
婚約者としてしっかりと向き合うなら、リネッタが用意した仮面は外してもらわねばならない。
リネッタはしばらくの間、誓約錠を見つめていた。やがて顔を上げると小さくうなずき、左手をあげた。
手首についた青い石が揺れる。動きの他には言葉も表情もない。いくらでも取り繕える単純な動きにすぎない。これだって、社交用の作り笑いと大差ない。
だが。
「この手は決して嘘をつかないと、クウィル様のくださった誓約錠に誓います」
まだ、誓いをたてるような関係を築けてもいないのに。
目の前の婚約者の瞳は、真っすぐに曇りなくクウィルの暗赤色を捉えていて。クウィルはそれを直視できず少し目を伏せ、彼女の手を取った。