7.女子は女子のバリエ
いままで当たり前に見過ごしてきた事物に妙なひっかかりを覚えることがある。いちど考えを巡らせてしまったが最後、それは解決を迎えるまで剥がし損ねたシールみたいに頭の隅にこびりついてしまう。
教員よりも不眠症治療を生業した方がいいのではと思うくらい退屈な世界史の授業を聞き流しながら、ぼんやりとこのあとの部活動について考えていたとき、シンプルな疑問が頭のなかに浮かび上がってきた。
朔耶と美音先輩、髪染めてね? この学校、かなり頭髪に厳しかったよな。だからこそ俺は、地毛が茶がかっているというだけで呼び出され、失態を犯して収監されたのだ。その日の放課後、珍しく千景先輩も含めて4人の揃った部室で疑問を投げかけてみた。
「あのさ、朔耶も美音先輩も髪染めてるだろ。それってなにも言われないのか」
「葛西。私は理事長の孫よ。おじい様からは『美音は似合っているから良し』と言われているわ」
「さいですか。あれ、お父さんからも許されてるんですか」
美音先輩は父親の「このままだと娘は終わってしまう」という危機感から収監された。理事長は学園に美音先輩たのためのプライベートルームを用意するくらいのヤバ祖父だけれど、父親はわりに厳しいのではないだろうか。
「パパが髪の毛の色なんて気にするわけないじゃない。そもそも、頭髪検査なんて前時代的な行いをしていることに呆れているわ」
「その寛容なお父さんに心配をかけているという自覚はあります?」
「……うるさい葛西。反論の代わりに殴るわよ」
最も前時代的な発言のあと、美音先輩はぷいと横を向いた。
「僕は結構言われるよ。でもさ、もうこれ以上ない刑罰を科されているわけだから、そんなこと関係ないんだよね」
「それもそうか」
「つまり、僕たちは失うものがないからなにをしてもいいってこと。どうだい恭司、わくわくしてくるだろう」
「司法の存在を忘れるなよ。リアル監獄にぶち込まれるぞ」
「ロックンロールに生きよう、ぜ」
「ぜ、って言われてもな。あとロックンロールって正式名称、久しぶりに聞いた。
「僕って内田裕也世代だから」
「嘘つくなよ。そんな世代はない」
「恭司くん、その指摘は角度が間違ってると思うなぁ」と千景先輩は言った。
「千景先輩って、髪を染めたいとか思ったりするんですか?」
千景先輩は人さし指を顎にあてて「う~ん」と間延びした声をあげた。この人はあざといというか、妙に男心をくすぐる仕草をする。もし普通の女子だったら、クラス中の男子が好きとはいわないまでも意識するタイプだろう。
「あんまり考えたことないなぁ。恭司くんは、どんな髪色の女の子が好き?」
「右半分が赤、左半分が白、ですかね」
「ん~と、こういうこと?」
艶やかな黒髪が一瞬にしておめでたいカラーに変貌した。残念ながら、千景先輩は普通の女の子ではないのである。人類には理解できない次元の能力を持つ彼女からすれば、髪色を変えることなど造作もない。
「青、黄、赤ってのも好きです」
「こう、かな?」と信号機色に染まった千景先輩は言った。
「1680万色にランダムで可変するのもいいですよね」
「おい葛西。千景先輩をゲーミングヘアーにするな」
流石に遊び過ぎたと反省する。千景先輩は基本的には無害で、なにもなければ生命を脅かされることもないので、ついつい調子に乗ってしまう。いつの間にかもとの黒髪に戻った先輩は「げーみんぐ?」と呟いて小首を傾げた。
「なんでもないです。やっぱりいつもの千景先輩が可愛くて好きですよ」
「わっ……わぅっ。……もう、恭司くんってば。急にそんなこと言われたら、恥ずかしくて脳みそが沸騰しちゃうよぉ。ちょっとごめんね、脳みそ作り直すから……くぁwせdrftgyふじこlp;」
千景先輩は真っ赤に染まった頬に両手をあてて、ふるふると頭を振りながら溶けた脳みそを作り直し始めた(千景先輩がそう言ったのなら、そういうことなのだ)。
「正直、千景先輩の髪の毛が羨ましいわ」
勢い任せのブレインストーミングのように無軌道な癖毛を触りながら美音先輩は言った。
「美音先輩の性格が現れてるんじゃないですか?」
「たしかに、捻じくれてるからね」
「わたしは好きだよ? ちょっとお馬鹿さんっぽくて、かわいい」
「くっ……!」
長机に拳が叩き込まれる音がした。せっかく良いコースにパスをもらったのだから、シュートを打たなければ選手失格だ。
「葛西。あんただってエロゲの主人公みたいに前髪で瞳を隠して、意志の弱さが透けて見えるわ。人のことを馬鹿にする前に、まず鏡を見てからものを言いなさいな」
あ、また来た。
「たしかにエロゲの主人公みたいな髪型してる自覚はありますけど、よくそんなこと知ってますね」
正面で金髪のちゃんねーがわかりやすく慌てふためいている。
「はっ……え、ちがっ。ああああなたこそ、なんで知ってるのよ」
「エロいものはなんだって好きだからです。で、先輩は?」
「いやっ、ええっ? どうしてそう恥ずかしげもなく」
「下ネタで困ったらアクセルを踏んだほうが助かるんですよ。躊躇った時点で恥ずかしくなるんです」
「アカギみたいなこと言わないで! 助平チキンレースをしかけた覚えはないわ!」
「へぇ~。えっちなゲームの主人公って、恭司くんみたいな髪型なんだぁ」
「……え、あ、まぁ。そういうのが多い、らしいっすけど」
「あらあら、葛西クン、お顔を赤くしてどうしたのかしら。ひょっとして恥ずかしいの」
千景先輩の無邪気な問いかけによって潮目が変わった。いつも通り美音先輩をおもちゃにして遊ぶはずだったのに……。
「もしかして、恭司の髪型ってそういうゲームの主人公に影響受けてるのかい」
「うるせぇ! 爆速でお前のCG全回収したろかい!」
「しーじー全回収ってなぁに?」
「いや、それは、えっとですね」
「質問されてるんだから、ちゃんと説明してあげなさいな」
「美音先輩はわかってますよねきっと!」
「そもそも、その髪型が多いのにはどんな理由があるのだろう」
「個性を薄めてプレイヤーが感情移入しやすくするため、じゃないかしら」
「ああ、たしかにこのメンバーの中で恭司だけ個性が薄いな。髪型が原因だったのか」
「わかりやすくボロ出てんのに矛先が変わらねぇ! そんで俺の個性が薄いんじゃなくてみんなが強すぎるだけだから!」
「そうだねぇ。恭司くんだって立派な個性があるもんね。えっちなゲームが好きで……ええっと、大好きなんだよね」
「ど真ん中! まっすぐな言葉がいっちばん心にくる!」
圧倒的に劣勢なまま3人から殴られつづけているうちに、18時のチャイムが鳴った。それは部活動の終了を知らせる合図であり、敗北を告げるゴングでもあった。
社会貢献部のメンバーと連れ立って帰ることはない。朔耶も美音先輩も、18時のチャイムが鳴ると風のようにどこかへ消えてしまうからだ。これはもちろん暗喩だ。そして千景先輩もどこかへ消えてしまう。これはもちろんテレポートだ。
俺はいつものように下駄箱で靴を履き替えると、自転車置き場に向かった。18時を過ぎて気温は落ち着いたものの陽は昇ったままで、おまけに蝉時雨が体感温度の上方修正にひと役買っていた。
自転車のカギを解錠し、スタンドを蹴り上げたところでうしろから声をかけられた。振り向くいた先に立っていたのは美音先輩だった。
「あれ、まさかチャリ通ですか」
「そんなわけないでしょう。リムジン通よ」
リムジン通。リムジン通学。お金持ちってすごい。
「じゃあなんでここに?」
「ちょっと、あなたに用があったの」
神様の気まぐれみたいな風が通り抜けて、背中が汗ばんでいるのを感じた。美音先輩の頬がほんのりと朱に染まっているのは暑さによるものだろうか。普段は攻撃的な眼光が鳴りを潜めて、その瞳は不安げに揺れていた。
数秒間の空白のあと、美音先輩はこちらに駆け寄り、自転車のカゴに大きな茶封筒を押し込んだ。
「嫌だったら、捨ててもいいからっ」
美音先輩はそう言うと、勢いよく身を翻して駆け出した。すらりと伸びた手足が滑らかに躍動するうしろ姿を眺めながら、俺の意識は茶封筒の中身のことでいっぱいだった。
あたりを見回す。誰もいない。……家に帰ってから開けるか? いや、そんな時間はない。早くしないと俺の心臓が爆発してしまう。もしかして、もしかすると、その茶封筒には高校生活を鮮やかに彩ってくれる素敵なにかが入っているかもしれないのだ。
俺は赤子を撫でるように細心の注意を払って封筒を開けた。いつの間にか呼吸が浅く、早くなっていた。
中身を視認すると、天を仰いだ。堆く積もった夏の雲がどっかりと空に腰かけている。雲はいいよな、自由で。
そんで封筒の中身はえっちなゲームでしたなんで? もしかして今日の部室での会話で、同志を見つけたとでも思ったのだろうか。動機がわからない行為は怖いものだ。あとがっつり女の子が悲惨な目に遭うタイプのゲームというのも、恐怖を増幅させるスパイスになっていた。
深く長いため息をつき、俺は帰路に着いた。家に帰り、家族と食卓を囲んで風呂にはいったあとで、めっちゃそのゲームをプレイした。恐怖や不安は、快楽を増幅させるスパイスでもあるのだ。