1.ごあいさつ を します
苦手なことなら山ほどあるけれど、自己紹介ほど難しいものはない。年齢や性別、趣味のカテゴリーを並べたところで一体なにがわかるというのだろう。かといって「わたしはこういう人間です」なんて自分を総評する奴は、「明るくて楽しい職場です」と謳う求人募集くらい信頼が置けないと思う。
だから苛烈な暑さの続く夏の午後に、同級生の女の子から自己紹介を求められた俺は代わりに象の話をすることにした。
「サーカスの象がどうして逃げ出さないか知ってるか?」
質問を受けると少女は顎に手をやってしばらく中空を眺めた。大ぶりな瞳に好奇の色が浮かぶ。
「普通の会社じゃやっていけないから、かな」
「は?」
「ほら、小さいころから芸能界にいるわけだし。巡業があるから学校もろくに通えないだろうから、なかなか一般企業に就職っていうのは難しいんじゃないかな」
「おーい」
「あ、でもさ。ガチガチの縦社会でやってきてるわけだから、先輩を立てるのとかは上手いのかも。だからまぁ、20代までなら間に合うような気がしない?」
「気がしない? じゃなくて」
「けど一般常識には欠けてしまってるのかな。ずっと芸事の世界に身を置いてるわだしね。うーん、難しいな……。しかし、君に言われるまで象のセカンドキャリアについて考えたことはなかったよ。興味深い質問だね」
少女は片肘をついてピアニストのように美しい手に顎を乗せたまま、穏やかな顔つきでそう言ったが、瞳が笑っているのは容易に見て取れた。
「ああ、もうやる気がなくなった。この話はおしまいだ」と俺は言った。
「いやいや、まだサーカスの象に対してセーフティネットが必要かどうかについて話してないよ」
「知るか! そんなものは要らん!」
「ほー。だいぶ時代錯誤な意見だね」
「サーカスの象にも社会的な受け皿を用意することでやり直しの効く社会を作っていこう、そういう時代だ、じゃないんだよ!」
「あれかな、そういう時代の潮流とは外れたところに芸術を置いておきたい人なのか。たしかに、ガラパゴス化した小さな社会に干渉せず、受け入れていくことこそが多様性という意見も――」
「うるせぇ!!!」
思わず木製天板の長机に拳骨を落とすと、少女はくつくつと笑った。感情に合わせて栗色のショートカットが揺れる。
「ごめんごめん。僕は質問をされると、どうしてもふざけたくなってしまう性質なんだ。今度はちゃんと聞くから、答えを教えて欲しい」
いまの時点で少女についてわかったことは3つ。ひとつは質問をされるとふざける、ふざけ続ける、なかなかふざけ終わらない。つぎに一人称が僕という危険因子(これまでの経験上、ヤバい奴率100%)を孕んでいる。
そして最後は、直視するには眩しいくらい整った顔立ちをしているということだ。この教室に入って彼女の姿を見たときから、心臓はいつもより早く脈打ち、体温が上がるのを感じていた。
「ええと、だな。そう、象がまだ小さなうちに『ここから逃げられない』という刷り込みをしておくんだ。具体的には杭と象の脚を鎖で繋いでおく。子象の力ではその鎖を引きちぎることはできない。毎日毎日、その杭からは逃れられないという認識を積み重ねていくんだ」
「ふぅん」と少女。
「やがて象は成体になる。人が畏敬の念を抱くほど大きなサイズに。でもそれを管理するために必要なのは、杭と鎖だけだ。なんなら鎖じゃなくて粗末なロープだっていい。頑丈な檻も、電流の流れる柵も必要ない」
「強化された認識が消えないから?」
「消えないというより、それは日々強化され続けるんだと思う。行動は起こさなくても、逃げられなかったという結果は生きていくだけで積み上がっていくから」
少女はさっきとはちがった色の光を瞳に浮かべながら、ぼんやりと中空を見上げていた。
「それで、この話を聞いてどう思う?」
沈黙が流れ、窓の外からは野球部の威勢の良い声が聞こえた。今日は朝から雲ひとつない快晴で、気温も30度を優に超える猛暑日だった。中学校まではサッカーをやっていたから、グラウンドの苛烈な暑さを考えると、それだけで汗が噴き出してきそうだった。
「おもしろい、っていうのが最初に来るかな。ただ、ちょっと悲しくもあるし、象って賢いんだなとも思う」と少女は言った。
「むかし何かの本で読んだ記憶があるんだけど、最近思い出してネットで検索したんだ。そうしたら、サーカスの象の話を人間の心理と結びつけるみたいな記事がたくさん出てきてさ」
「あぁ、なんとなくわかったかも。『できない』と思うことで行動を起こせなくなるみたいなことかな」
「大体そんな感じ。ただ、俺はいまいちそういうのが好きになれなかった。別に杭と鎖は象を管理するために人が考えた知恵でしかなくて、わざわざ人の心理にまで結びつけるってのがどうも、性にあわなかったんだよ。目についた端から気づきとか学びを摂取してたら、脳みそがパンクする」
「好きになれなかった。じゃあ、今はそうじゃない?」
金属バットが白球を叩く音がした。窓の外に目をやると、泥だらけのユニフォームを身にまとった部員がファーストに向かって走っているのが見えた。空は嘘みたいに混じり気のない青に塗られている。
「そう、きっと学びを得ようとするのは人間の美徳なんだ。どれだけ空疎に見える物事でも、そこに何かを見出すことができる。……そう思わないと、これから先はやっていけないって、思ったんだ」
少女は目を伏せ、軽くした唇を噛んでなにかをつぶやいた。その声は消え入るように小さくて、聞き取ることはできなかった。
長い沈黙のあと、意を決したように少女は顔を上げた。
「……君、罪状は?」と少女は言った。
「教頭のハゲをいじった罪です」
「刑期は」
「……卒業まで、っす」
「僕の名前は高槻朔耶、君は?」
「……葛西恭司」
「ようこそ、社会貢献部へ。学園の罪人たちがぶち込まれる監獄に、君を歓迎するよ」