(6)怒涛の執事研修(後編)
ミッシェルが侵していた失態とは?
この御話が、ラストです。
其の事態の大きさをミッシェルが知るまでには、暫しの時間が掛かった。
夏も終わる頃。
執事としての要領を大分覚えたミッシェルは、自分はなかなかに手際良く働いていると、
密かに自負していた。
だが此の日、穏やかな昼下がり、雷鳴の様な夏風の貴婦人の声が屋敷中に響き渡った。
「てめぇ等、此処に集まれぇぇっ!!」
夏風の貴婦人の怒号に、屋敷中の者たちが急ぎ足で一斉に一階のホールに集まった。
唯一、蘭の貴婦人だけは、夏風の貴婦人の後ろに立つ。
ホールで一列に並ぶ使用人たちの顔に緊張が走る。
当然ミッシェルも其の列に並び乍ら、かつてない緊迫感に心臓がドギマギしていた。
「調理場の奴らは、いい。戻れ」
鋭く言う夏風の貴婦人に、料理人たちはぞろぞろと戻って行く。
残されたのは執事とメイド達だ。
夏風の貴婦人は一枚の手紙を持ち乍ら、使用人たちの前を行ったり来たりする。
「本日、大変許し難い手紙が届いた」
語調強く夏風の貴婦人が言う。
「順番に読め」
渡された手紙を執事のリンドンを始め、読んでは隣の者に渡していく。
ピリピリした空気がホールに張り詰める中、漸くミッシェルに其の手紙が回って来ると、
ミッシェルは心臓が跳び上がりそうになった。
何故なら・・・・其処に書かれていた事は・・・・。
バクバクと心臓が早打ちを始める。
一同に手紙が回り終わると、再び其れを握った夏風の貴婦人が言う。
「『三十五の日の面会の答も得られない儘、三十五の日は過ぎた』と書いて在るが、リンドン、
御前は此の事を知っていたのか??」
夏風の貴婦人に睨まれて、だが、リンドンは静かに首を振る。
「存じ上げておりませんでした」
「ファテシナ!! 御前は??」
「存じ上げておりませんでした」
静かに答えるファテシナに、ミッシェルはどうしようかと内心慌てふためいた。
だが夏風の貴婦人の雷鳴の様な声は続いた。
「商談の大切な持ち掛けだった!! 其れを知らずに、私は三十五の日を送った!!
こんな馬鹿げた話が在るかっ!!」
屋敷中がシン・・・・と静まり返る。
「トゥーンベルク公爵の商談は、以前から受けたいと思っていた。
其れを、やっと相手側から持ち掛けてくれたと云うのに、其の日は過ぎてしまった!!
こっちの返事も無く指定の日が過ぎ、トゥーンベルク公爵は怒り狂っている!!」
夏風の貴婦人は、ガン!! と花瓶台を蹴った。
ガシャーン!! と激しい音を立てて花瓶が床に落ちて割れ、花と水が散らばる。
其の様に益々ホールの空気が凍り付く。
「誰だ?! トゥーンベルク公爵の伝言を受けた奴は?!」
怒鳴る夏風の貴婦人に、ミッシェルは、どうしようかと震えていた。
あの酔っ払いの男が、まさかトゥーンベルク公爵だっただなんて!!
知らなかったでは最早、済まされない。
「さっさと名乗れっ!! 御前か?!」
「ち、違います!!」
「じゃあ、御前か?!」
「違います!!」
使用人たちに鬼の形相で順番に訊いていく夏風の貴婦人に、ミッシェルは・・・・
とうとう観念して告白した。
「ぼ、僕です!! も、申し訳ありませんでした!!」
吐き出す様に言うミッシェルに、夏風の貴婦人は暫し静かに目を向けると、
手紙を手にパシリと鳴らせる。
「何故ちゃんと伝えなかった??」
「そ、それは・・・・」
「それは??」
夏風の貴婦人の橙の瞳が貫く様に見詰めてくる。
ミッシェルは必死の思いで答えた。
「公爵が酷く酔っていて、誠の言い付けだとは思いませんでした・・・・」
「へぇ・・・・御前、サロンが何をする処か知ってる??」
「え・・・・??」
戸惑うミッシェルを、夏風の貴婦人は威圧的に見下ろして問う。
「サロンは、どんな処だ?? と訊いている」
「あ・・・あの、その・・・・」
もごもごと口篭るミッシェルに夏風の貴婦人は言う。
「サロンはなぁ、酒飲んで騒ぐ場所なのよ。
其の酒の勢いでガードの緩む御偉方も一杯出てくんのよ」
そう。
サロンは貴重な取り引きの場なのだ。
「それを御前は・・・・無下にしたっ!!」
大声を張り上げる夏風の貴婦人に、皆の身体がびくりと強張る。
「トゥーンベルク公爵は、抑えてる商業の話をなかなかしてくれなかった。
其れを公爵なりの遣り方で、取り引きしても良いと思って言ってきたと云うのに・・・・!!」
ガッ!! と夏風の貴婦人がミッシェルの襟首を掴んだ。
「ひぃぃ!!」
ミッシェルは恐怖の余り声を上げたが、夏風の貴婦人は更に強く襟首を握り締めると、怒鳴った。
「謝って済まされるかっ!! 貴様の御蔭で私は、
『此れだから女は話にならない。顔だけのぶりっこには参る』と書かれたんだぞ!!」
ガンッ!!
夏風の貴婦人の左拳がミッシェルの頬すれすれで壁に入った。
ぼこり・・・・とミッシェルの耳の横で壁に穴が空く。
ひぃぃ・・・・!! 悲鳴を漏らし乍ら、ミッシェルは叫んだ。
「ぼ・・・暴力、反対です!!」
だが夏風の貴婦人は彼を掴む手を緩めようとはしなかった。
「暴力反対だぁ?? てめぇは自分が何したか判ってんのかぁ??」
「ぼ・・・僕は、ただ、公爵が余りに貴族らしくないと思ったので・・・・」
「貴族らしくない、だぁ??」
弁解しようとするミッシェルの言葉など、夏風の貴婦人には届かなかった。
「トゥーンベルク公爵は、鉄、香草の商業を抑え、更に中東部を他よりずっと良く治めてて、
民衆から支持が高いって事は、御前は知っているのか??」
「え・・・・?? そ・・・其れは・・・・」
「だったら、てめぇの云う貴族らしいってのは何だ??」
「・・・・そ、其れは・・・・」
「答えられねぇのか??」
再度、拳を握る夏風の貴婦人に、ミッシェルは「ひぃぃぃ!!」と両手で顔を覆った。
「てめぇの貴族の誇りってのは、表面綺麗なら、それでいいのか??
ただ綺麗に誠実にしていれば、貴族らしい取り引きが出来るとでも思ってるのか??
てめぇのぶら提げてる誇りってのは何だ?? 今こうして怯えて身を護る事か?!」
バシッ!!
ミッシェルは思いきり夏風の貴婦人に頬を平手打ちされた。
「いっ!!」
左頬を抑え乍ら床に崩れるミッシェルを、夏風の貴婦人は冷やかな目で見下ろし、
冷たく言い放った。
「御前みたいなのは、此の館の執事に向かない。腹を括れない奴は、此の館には要らない。
さっさと出て行け!!」
そう吐き捨てると、夏風の貴婦人は足音高くホールを去って行った。
夏風の貴婦人が自室に戻ったのを見届けたファテシナが、パンパンと手を叩く。
「はい!! 花瓶片付けて!! 大工呼んで!!」
「はい!!」
「はい!!」
手際良く皆が散って行く。
ミッシェルは床に座り込んだ儘、動けずにいる。
そんな彼へ・・・・
「さぁ、ミッシェル」
執事のリンドンが柔らかな口調で声を掛けてくる。
優しく肩に触れられ、ミッシェルは「ああ・・・・」と思った。
今、判った。
何故、此の屋敷に、補装の跡が沢山残っているのか!!
マナーハウスとしては、まだ新しい筈の此の屋敷に、何故、修理の跡があちこちに在ったのか!!
全ては・・・・夏風の貴婦人が空けたのだ。
拳で・・・・。
ミッシェルは執事に促されて立ち上がった。
「今から翡翠の館へ馬車を出しますから。いいですね??」
「・・・・はい」
執事研修終了を暗黙で告げられて、ミッシェルは、とぼとぼと自分の部屋へと向かった。
そして荷造りをすると、ミッシェルは太陽の館を出たのだった。
そう。
其れは、とても、あっけない終幕であった。
翡翠の館へ向かう馬車の中で、ミッシェルは此の十ニ日間の太陽の館での生活を思い出していた。
窓から流れる街。
東南部の繁華街が遠ざかっていく。
何故だろう。
今なら判る。
ファテシナに、
「夏風の貴婦人様の何を見ていたの??」
と訊かれた訳が。
早朝に起きてトレーニングをする夏風の貴婦人は、
まるで自分の気持ちを自ら高め様としているかの様だった。
多くの貴族や男と対等に遣り合っていく為に・・・・。
そして外出する時の夏風の貴婦人は、いつも強いオーラを放っていた。
誰も話し掛けるな・・・・と云う様に。
これから逢う貴族たちに男たちに、決して負けない様にと・・・・。
接待で笑っている間も、いつも強い譲らない眼差しをしていた。
其の眼差しが、帰りの馬車の中で漸く解ける・・・・。
やっと今日を終えた・・・・と溜め息をつく様に。
それから蘭の貴婦人と女らしくぺちゃくちゃ話をして、山積みになっている書類へと目を通す。
凄まじい信念。
凄まじい精神力。
今なら判る。
「あの屋敷で遣っていけるのは・・・・
本当に夏風の貴婦人様を愛している人たちだけなんだ・・・・」
僕は・・・・僕は・・・・何を思って執事を目指していたのだろう・・・・。
異種様の傍で働く事が、何よりも誇り高い事だと思っていた。
確かに其れは誇り高い事だろう。
だが、そんな想いでは、傍には仕えられないのだ。
例え、どんなに誇り高い職業であろうと、其れに就きたいだけでは、
此の世界では駄目なのだ・・・・。
そして其れに気付いた自分は・・・・僕は・・・・。
「僕は・・・・太陽の館じゃ・・・・駄目なんだ・・・・」
あの、今を走る太陽の館。
眩しいけれど・・・・自分は、ついていけない。
あの館に仕えられるのは、本当に一握りの人間だけなのだ。
何より、あの力強いパワーに溢れた夏風の貴婦人を、
誰よりも愛している人間でなければ駄目なのだ。
ガタガタと馬車に揺られ、太陽が西へ回る頃、人里離れた翡翠の館が見えてきた。
太陽の館とは違う、年期の入った小さな外観。
自分が戻るのを判っていたのだろう、門は開放されていた。
馬車が門の前で止まると、ミッシェルは下車して敷地内へ入った。
何の飾り立てもない前庭を縦断し、正面扉の前まで来ると、ミッシェルはノッカーを鳴らした。
すると直ぐに執事のポフェイソンが出て来た。
「おかえり。ミッシェル」
優しく笑う執事に、ミッシェルは戸惑う。
「え・・・・あの・・・・」
太陽の館から追い出されてきたと云うのに、そんな風に優しく迎えられては、
何と言い返せば良いのか・・・・。
ミッシェルは暫し俯いていたが、
「あの・・・・僕・・・・執事見習い・・・・もう駄目ですよね・・・・」
ぽつり、と呟く。
だが。
「其れは主様に訊ねられれば良いでしょう。おや、御噂をすれば主様です」
玄関ホールに居る二人の処へ、丁度、夕食の為に翡翠の貴公子が階段から下りて来た。
執事が優しく言う。
「さぁ。自分で言いなさい」
「え・・・え??」
自分でって・・・・。
勧められて、だが、どう言えば良いのか、ミッシェルには判らなかった。
自分が信じていた誇りも何もかも砕け散った今の自分に、一体何が言えると云うのだろうか。
だが俯いているミッシェルの肩を、執事が優しく叩いた。
其れに押される様にミッシェルは一歩前に出ると、咄嗟に叫んでいた。
「翡翠の貴公子様!! た、只今、戻りました!!
あの・・・・僕・・・・此処で執事研修をしても・・・・宜しいですか?!」
屋敷中に響く様な声で叫ぶミッシェルに、翡翠の貴公子は目を丸くしたが・・・・
「好きにすればいい」
そう言って、さっさと食堂へと行ってしまった。
そんな翡翠の貴公子の後ろ姿を見送り乍ら、ミッシェルはへなへなと床に膝を着き、
ポフェイソンにしがみ付く。
「僕・・・・僕・・・・!!」
好きにすればいい・・・・好きにすればいい・・・・其れは決して見放した言葉ではなく、
受け入れの言葉。
なんて・・・・なんて・・・・優しい言葉・・・・!!
ミッシェルの瞳から滝の様な涙が溢れた。
翌朝、ミッシェルは帰り支度を済ませると、翡翠の貴公子と執事に挨拶をして屋敷の玄関を出た。
すると、
「よぁ。少年」
屋敷の窓から声を掛けられた。
窓に肘を着いているのは、金の貴公子だ。
「帰るのかよ??」
前髪のカールを揺らして訊ねてくる金の貴公子に、ミッシェルは慌てて窓辺に駆け寄る。
「金の貴公子様、済みません。朝方、御挨拶に行ったのですが、
まだ眠られているから良いと、ポフェイソンさんに言われて・・・・」
「あ、いい、いい、そんなのは。それより、辞めるの??」
執事修行。
問われて、ミッシェルは大きく首を横に振った。
「いいえ!! 辞めません!! 僕、又、来週から此処へ来させて戴きます!!
今日は一旦、実家の方に帰って、報告をして来ます」
はっきりとした声で言うミッシェルに、金の貴公子は口の端で笑った。
「なぁ~んだ、結構、骨在るじゃん。じゃ、其の賞与として、此れやるよ」
金の貴公子は本を差し出してくる。
「此れ、立派な執事になれる本」
に、とウィンクする金の貴公子。
「え・・・えー!! いいんですか?!」
「うんうん」
「あ、有り難うございます!!」
ミッシェルは嬉しそうに本を受け取ると、金の貴公子に何度も挨拶をして馬車へと走った。
そして馬車に乗り込むと、馬車は街へと向かって走り出した。
ガタゴトと揺れる馬車の中で、ミッシェルは、かつてない歓喜を胸に抱えていた。
大丈夫だ・・・・。
遣っていける・・・・。
偏った貴族としての誇りは今もまだ強く在るけれど、でも今は、それよりも・・・・
翡翠の貴公子様の傍に仕えたい。
あの深い森の様な翡翠の館が、自分には太陽の館よりずっと合っていると云う事が、今なら判る。
今は、ただ、あの殆ど無口で物静かな翡翠の貴公子様に・・・・仕えたい。
あの方が、どんな風に日々を送っているのか、どんな風に異種として過ごされているのか、
全てが気になる。
そして其の補佐を自分が出来るのなら、そんな素晴らしい事はない。
「ああ、そうだ」
忘れてはいけない。
翡翠の館には金の貴公子様も居るのだ。
一見ちゃらんぽらんに見えるけれど、
異種様の中でも特に崇拝されている翡翠の貴公子様と一緒に暮らして居るのだ。
きっと本当は、しっかりした人なのだろう。
そう思い、ミッシェルは金の貴公子から渡された本を開いた。
ガタガタ、ゴトゴト。
揺れる馬車の中。
ミッシェルは目を見開いた儘、微動だに出来なかった。
何故なら・・・・手の中の本は・・・・
「此れ、エロ本じゃないかーっ!!」
だったからである。
バタン!! と閉じた本を片手に、
「やっぱり、金の貴公子様なんて嫌いだーーっ!!」
と叫ぶミッシェルが後に立派な翡翠の館の執事になるのは、まだまだ先の事であった・・・・。
この御話は、ここで終わりです。
ミッシェル、初登場でしたが、どうだったでしょうか?
ミッシェルは、これからも出てきますので、また、その時に☆
少しでも楽しんで戴けましたら、コメント下さると励みになります☆




