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中編



 ごうごうと耳元で風が鳴る。

 馬上できつく抱えられたまま、男の背の向こうだけが目に映る。私は遠ざかる聖堂を、過ぎてゆく景色を、なすすべもなく見ているしかなかった。

 ざわめく者達、混乱する警備の者達、それらを他人事のように眺めながら、小さくなってゆくそれらを見ていた。

 お兄様が私に気付いた。何かを叫んでいる、周りに声をかけている、馬に飛び乗って、そして私たちを追いかけてきた。


 嫌だ、あそこに戻りたくない……!!


 お兄様が追いかけているというのに、恥知らずにも、私はそんなことを思った。

「ラング……ラング……!!!」

 捕まるのが怖い、あそこに戻るのが恐ろしい。

 顔も見えないその身体にしがみついて、私を抱き抱える男の名前を呼んだ。

 力強い左腕が私を支えていた。抱える腕にぐっと力がこもる。それを感じ取って、ふっと恐れが消えた。これは、私を守ってくれる腕だ。いつも私を助けてくれる……。

 唐突に左腕を切りつけられた彼の姿が脳裏をよぎった。無事だとは聞いていた。後遺症もないと。けれど、それでも不安だった。私を抱き上げたこの腕は、怪我をした左腕だ。その力強さが、泣きそうなほど嬉しいと思った。


 何もかもが突然で、考えるべきことはいくつもあって、けれど混乱した頭の中はぐちゃぐちゃで、何から考えれば良いのか分からない。だから、何もかもを放棄して、目先のことだけに感情が揺さぶられる。

 今私に分かることなんて、この腕が私を守って助け出してくれていることと、彼の腕は無事なこと、たったそれだけだ。

 よかった。

 場違いなことを考えながら、今一度強く彼にしがみついた。


 馬は町中ではあり得ない速さで駆け抜けてゆく。

 私を縛り付けていた全てが遠ざかってゆくのを、私は彼にしがみついたままただ眺めていた。

 辺境のためを思うなら逃げてはいけない。そう考える頭の片隅では、解き放たれた歓喜が胸に去来する。

 ずっと、母を、許嫁を、そしてはびこる貴族達を愚かだと心の中で笑い続けていた。そうすることで私は自身を保とうとしていた。でも、今、このときになって、思い知らされる。


 愚かなのは私だ。


 逃げてはダメだと知りながら、こうして攫われてゆくことを喜んでいる。

 私は逃げたかった。自分の背負うべき責任と知りながら、本当はいつだってこの場所から逃げたくてたまらなかった。

 あふれ出した感情は簡単に理性を裏切る。

 今までの我慢全てが無駄になると知りながら、私は彼が来てくれたことを喜び、抵抗すらせず、被害者のふりをして攫われてゆくことを望んでいる。自身の愚かさに気付きながら、その感情に身を任せて、自分に都合の良いこの状況に流されている。

「ラング」

 私にとっても、彼にとってもダメなことの筈なのに、私は許しを請うように彼の身体にしがみついた。


 失ったはずのこの優しい腕が、今、私を守ってくれている。大嫌いな場所から、助け出してくれている。それが嬉しくてたまらない。

 あの場所から逃れたのだ。彼が、また私を助けてくれたのだ。

 そんな想いばかりがあふれ出てくる。

 嬉しくて、愛おしくて、申し訳なくて、ものすごい早さで過ぎゆく町並みを眺めながら、涙がこぼれた。


 王都の門が見えてきた。彼が速度を緩めると門番に向けて何かを放り投げる。門番はそれを受け取ると、行けと合図をするだけで、私たちをつかまえるそぶりさえろくにしない。なぜと思った直後、お兄様の声が響いた。

「何をしている、門を閉めろ」

 追いかけてきたお兄様の言葉に反応して、門番は言われるまま門を閉め始めるが遅い。私たちが抜けるのが早い。門番は私たちを通してからひょうひょうとその門を閉ざした、まるでお兄様の邪魔をするように。

「何をしている……!!」

 門番を叱咤するお兄様の叫び声がして、どうしたら良いか分からないまま、お兄様を見つめていれば、怒鳴った声の厳しさとは裏腹に、お兄様は私に向けてニヤリと笑って行けというように顎をしゃくったのが見えた。

 そうして門が閉ざされた。そうなると、追っ手はすぐには来られない。お兄様の笑みを思い出しながら、閉ざされた門が遠ざかることに、ほっと息をついた。


 彼に抱えられたままどれだけ疾走しただろう。城壁の外の町もそのまま駆け抜けて、今はずいぶんと街から外れた山の中に足を踏み入れていた。

 先ほどまでのような早さではないから、今は普通に話ができる。けれど、何を言ったら良いのかさえ分からず、無言のまま彼にしがみついていた。彼も何も言わず私を抱き寄せて馬を進める。

 沈黙の道のりは、私の心を少しだけ落ち着けてくれた


 日が暮れる頃たどり着いたのは、隠れたようにひっそりと建つ小さな小屋だった。草木に埋もれたその場所は、知っていないとすぐには気づけないだろう。

 馬を止めたラングに、ひとまずの彼の目的地がここなのだと分かった。

「ラング?」

「疲れただろう、ひとまず休憩を取ろう」

 私を攫ってから一度も合わなかった目が、ようやく交わる。

 さっきまで周りを警戒して鋭く光っていた目元が、今は柔らかく弧を描き、私を見下ろしている。

 訳の分からないこの状況の中、それでも私は彼に守られている安心感の元で、ようやくほっと一息をついた。


 彼に抱えられて、馬から下ろされる。そして小屋へと促されながら、その背中に問いかけた。

「……お兄様も、グル?」

 お兄様からは何も聞いていない。いや「何があっても心配するな。自分のことだけを考えろ」と、そういえば言われていた。今になって思えば不穏な言い回しだったのだと気づく。

 結婚した後のことだと思っていたが、まさか式の前に何かを起こすとは、思いもしなかった。


 首をかしげて彼を見れば、見慣れない大人の顔をした彼は、ニヤリと笑った。

 あの当時も十分に大人に見えた物だが、五年ぶりにこうしてみると、完全に幼さはぬけ、当時の面影はあまりない。体つきがそもそもだいぶ違う。彼は体格こそ良かったが、部族の男達に比べていささか華奢で王国の人間寄りの体型であった。それが今では一見して部族の男だと分かる、鍛え上げられた身体になっている。頬の肉は以前のような柔らかさはなく、眉間に入った皺は、彼のこれまでの苦労を感じさせた。

 五年の月日は、若々しい青年を厳つい部族の男へと変貌させていた。

 彼を傷つけたあの時から、どれだけの苦労があったのだろう。顔にまで残った傷跡は、あの時の物もあるのだろうか。


 もう私たちは、あの頃の私たちとは違う。彼の変貌はそれを実感させた。

 守るべき物も、住む場所も、何もかもが違ってしまった。子供だった私は、子供ではなくなった。私たちの子守をしていた彼は、部族を束ねる立場になった。

 何もかもが変わってしまった。あの頃と一緒の物なんて、ほとんどない。

 なのにあなたは、全てが変化してなお、私を助けて笑っている。

 簡単なことじゃなかったはずだ。助けたいからといって、助けられる物ではない。互いに立場がある、守るべき物がある。きっと、私を国に差し出す方が、ずっと簡単で、何もかもが上手くいく選択の筈だ。

 なのにあなたは、あの頃と変わらず、当たり前のように私を助けるのだ。


 まさかとは思うが、お兄様とお父様が頼んだのだろうか。

 部族に土地と関わりのない、私を助けるような要求を? しかも一番危険なこの役割を、彼に? あり得ないと思うのに、事実彼はここにいる。

 彼が危険を顧みずこんなことに関わる必要はなかったはずだ。

 どうしてこんな役割を引き受けたの。部族の人間が、ここまで深く関わるだなんて、本来はあり得ないことだ。


「こんなことして、大丈夫なの?」

 大丈夫じゃないのは分かっているくせに、大丈夫だと言って欲しくて、声を震わせた。なのに私の不安などものともせず、彼はふてぶてしく笑った。

「……お前は、誰に攫われたか、分かっているか?」

「……ラング」

 問われた意味が分からず、彼の名を答えれば、彼は「いいや」と軽く肩をすくめた。

「この装束は、隣国の傭兵が好んで使う物だ。となると当然俺は、隣国の命を受けて、辺境の花嫁を奪った賊ということもあり得る」

 面白そうに肩を揺らして笑う彼の顔を見つめる。言っていることが、上手くつかめない。

「……ラング?」

 首をかしげれば、意地悪くニヤニヤと笑いながら、子供の頃のように、ぐりぐりと頭を撫でられた。


「何を呆けている? さあ、セリーナ、選ぶんだ。辺境の姫は隣国に攫われて行方不明となり、死んだ物とされるか、それとも、偶然辺境の部族に助けられて王子の元に戻るか」


 隣国に攫われて、行方不明? ラングが、私を隣国に連れて行くってこと……? ううん、違う。私を攫った咎を、隣国になすりつけるということだ。そして、私は行方不明のまま、殺された物とし、王子との結婚から逃げられるということではないだろうか。彼の意図するところをようやくつかみかけて、頭を働かせる。

「行方不明になったら、辺境伯の娘には、戻れない?」

「当然そうなる。ただ、部族長の息子の嫁は、辺境伯に会うこともあるだろうな」

 家族とも断絶する必要もないだなんて……何もかもが私に都合が良すぎる。

 ……って、まって、そうなんだけど、そうじゃなくって……。

「ラングの、お嫁さん……?!」

 カァ……っと、体中が熱くなる。いつの間に、そんな話に?

「なんだ、不満か? 昔からお前が俺の嫁になると言っていたのは嘘か? 五年で心変わりとは、良い度胸だな。……こうして迎えに来たのに」

 ククッと、彼は笑う。面白そうに、からかうように。


 その様子を見て、すっと頭が冷えた。

 そうか。彼は別に私のことが好きで迎えに来たわけじゃない。かわいがっていた妹分を助けるためにその一環として嫁にもらい受けると言ってくれているのだ。

 それは喜んでも良いことの筈なのに、そんな風に結ばれるのは嫌だと、心がうずいた。


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