【第88回】エンパイア・オブ・ライト
『映画とは、現実と地続きの“夢”に過ぎない』
2018年から続けているこの映画レビューも、第88回というゾロ目回を迎えたわけでありますが、ここのところ、なんだか小難しいんだか小賢しいんだか、自分でも判断に迷うレビューを書いている有様です。
「結局のところ、お前はその映画を楽しんだのかよ?」と聞かれたら、もちろん楽しんだからこそレビューを書いているわけです。しかしながら、どっか斜に構えた書き方になっているというのは自分でも感じている。どこか、映画というものに真っ直ぐ向き合えていない時間を、ここ数ヶ月過ごしてきたように思います。
しかし、そんな私の舐め腐った態度を粉々に打ち砕く「感動作」に、久々に出会えました。そうです。感動作です。それも、わざとらしくない、極めて上品で美しい感動作。いつもサスペンスやアクションやSFばかり紹介しているこのレビュー集には似つかわしくない「珠玉のラブストーリー映画」を、今回はレビューしたいと思います。
【導入】
1980年代のイギリスを舞台に、小さな映画館『エンパイア』で働く白人中年女性と黒人の若者との魂の触れ合いを描いた、大人のラブストーリー映画。
監督はサミュエル・“サム”・アレキサンダー・メンデス。すなわちサム・メンデス。『007 スカイフォール』や『007 スペクター』に『1917 命をかけた伝令』などなど、ここ数年大作アクション映画を撮ってきた巨匠ですが、ここにきて原点回帰。「ラブストーリー」という前情報から「非婚啓蒙三部作の一角(by宇多丸)」で有名な『レボリューショナリーロード』を想起し、観に行く前から胃がキリキリ痛くなったのは私だけではないはず。
主演は『女王陛下のお気に入り』のアン女王や、密室劇の秀作『オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分』で見事な“声の演技”を見せてくれたオリヴィア・コールマン。個人的な感想ですが、今まで観てきたオリヴィア・コールマンの演技の中では、本作が一番ヤヴァイです。心理状態の変化が激しいという難しい役どころですが、表情と視線の演技力の物凄さでなんなくこなしています。個人的に、今年観てきた映画俳優の中ではトップの演技力です。これは必見。
相方は、若干25歳という気鋭の若手俳優、マイケル・ウォード 。スラっとした体躯にビシッとジャケットを羽織ってハットを被ったその出で立ち、めちゃくちゃカッコ良すぎです。やっぱりねぇ、こんなこと言うと誤解を受けるかもしれませんが、白人より黒人がハット被った方がカッコいいんすよ!
脇を固めるのは「お前その復活の仕方はナシだろ」と個人的に考えている『キングスマン・シリーズ』でお馴染みのコリン・ファース。『裏切りのサーカス』において、スパイ組織の強権力ボス“ティンカー”役を演じたトビー・ジョーンズなど、地味に豪華。
撮影は“レジェンド”ロジャー・ディーキンス。音楽は、伊藤計劃が推していたナイン・インチ・ネイルズのトレント・レズナー&アッティカス・ロス。
【あらすじ】
大晦日を間近に控えたその日、エンパイア劇場はいつものように静まり返っていた。まるで「夢」を見ているかのように眠りに落ちている、悠久の歴史を刻む映画館。その眠りを最初に目覚めさせるのが、劇場の統括マネージャーであるヒラリーの日課だった。
彼女の一日は、毎朝決まった時間に劇場を訪れ、鍵を開けるところからスタートする。支配人のために革靴をストーブの前で暖め、前日の客がこぼしていったポップコーンのカスをちり取りでかき集める。そして、朝礼ミーティングが終わったのち、支配人に呼び出されて、彼の性的欲望のはけ口として使われる。それが、ヒラリーの「日課」だった。
年若いスタッフたちに交じって働く中年の彼女には、これといった生き甲斐はなかった。去年の夏に精神を患ったのを契機に通い始めた心理カウンセリングは、もはや惰性と呼ぶに等しかった。趣味として始めた社交ダンスも、一向に上達しない。こんな人生に、一体なんの意味があるのか……死んだような毎日を貪り続けるヒラリーの精神は、限界の一歩手前まで来ていた。
そんなある日、エンパイア劇場に新しいスタッフとして、スティーブンという名の若い黒人男性が雇われる。時は1980年代のイギリス。白人による黒人差別が激化の一途を辿る世情をものともせず、スティーブンは、その持ち前の明るさで、たちどころにスタッフたちの信頼を勝ち取っていく。彼の世話係を命じられたヒラリーもまた、魅力的なスティーブンに激しく心を揺さぶられていった。エンパイア劇場の、今は使われてない旧館で、翼の折れたハトを二人で介抱したのをきっかけに、急接近していくスティーブンとヒラリー。やがて二人は年の差を乗り越えた恋人同士となり、スタッフの目を盗んで、旧館での蜜月の日々を過ごす。
スティーブンという恋人を得てからのヒラリーは、人が変わったかのように明るさを取り戻していった。心理カウンセリングの結果も良好。それまで気にしていなかった身なりにも気を使い、社交ダンスも上達していった。彼は、すっかりヒラリーにとって、心の支えとなっていた。
しかし、それはスティーブンにとっても同じだった。大学進学という夢を諦めてエンパイア劇場に就職した身でありながら、そんな自分の夢を笑うことなく応援してくれるヒラリーに、安心感を覚えていた。劇場にやってくる客から人種差別めいた悪罵を向けられても、ヒラリーの献身を支えに、日々の幸せを噛み締めながら生き抜くスティーブン。
だが、そんな二人の幸せな日々も、突然の終わりを迎えようとしていた。
【レビュー】
サム・メンデスと言えば、ここ数年のうちに大作アクション映画や戦争映画を手掛けたことで、その手のジャンル映画の人と思われがちですけど、学生時代にこの人の『レボリューショナリーロード』を観て、トラウマになるくらい心をガリガリに抉られた私にとっては「騙されるな! サム・メンデスの“本領”は大作娯楽映画じゃない!」と声を大にして叫びたい気分です。
『レボリューショナリーロード』がどういう映画かというと、これ、主演がディカプリオとケイト・ウィンスレットなんですわ。そう、あの『タイタニック』コンビ再びという訳です。そういう宣伝効果も相まって、当時結構話題になりました。私もその手の煽りに釣られて(あの頃は、その手の広告代理店の罠に釣られてよく映画を観に行ったものです)鑑賞した身ですが、まぁ、これがシャレにならんくらいしんどい。本当にしんどい映画で……この映画を観たことがない人は、ある意味で幸福です。どれくらいしんどいかというと、基本的に一度観た映画で衝撃を受けた作品に関しては、日をおいてから二回、三回と観るのが癖になってる私でも、一回しか鑑賞できてない。どういう話かというと、一言でまとめてしまえば「家庭崩壊モノ映画」です。理想を夢見て仲睦まじく暮らしていたはずのディカプリオ&ウィンスレットの夫妻が、徐々に現実のままならなさに打ちのめされて、互いを憎み合い、罵詈雑言を飛ばしまくる映画。冗談抜きで2時間近い映画のうち、1時間近くが、この夫婦の罵倒合戦に費やされます。エンディングも非常に救いようのないもので……この映画は冗談抜きで恋人同士や夫婦で鑑賞するのをおススメしません(マジで)。
その時は、サム・メンデスという監督の名前は知らなかったんですけど、後になって『アメリカン・ビューティー』(これもまぁ、すんごい地獄映画)という作品を鑑賞した際に「なんかレボリューショナリーロードと似た話だな……」と気づき、そこで初めて監督の名前を知るわけです。サム・メンデス。私にとって、この監督の名前は「呪い」に等しい。007シリーズ最高傑作と名高い『007 スカイフォール』を観ても「でも、これ“あの”サム・メンデスが撮ってんだよな……」と、やたらと脳裏に『アメリカン・ビューティー』と『レボリューショナリーロード』がちらつく始末。
思うんですけれど、サム・メンデスは『007シリーズ』や『1917 命をかけた伝令』では、どう見ても職人監督に徹していたように思います。この人の本領、この人の得意とするフィールドは、やはり『アメリカン・ビューティー』と『レボリューショナリーロード』――すなわち「人は、いかにして“ままならない現実”に向き合うべきか」というテーマを描くところにあると思うのです。
そういう路線で考えると、テーマの完成度から言っても、ストーリーの淀みなさから言っても、キャラクターの描き方にしても、本作『エンパイア・オブ・ライト』は、サム・メンデス史上最高傑作と言っても過言ではない映画です。舞台となるのは1980年代のイギリス。『炎のランナー』や『レイジング・ブル』などの傑作映画が出たこの頃のイギリスは、しかし決して「明るい」時代ではありませんでした。二度の世界大戦を経て疲弊しきったかつての大英帝国の栄華を取り戻そうと、時の首相である「鉄の女」ことマーガレット・サッチャーが打ち出した新自由主義政策は、結果的に労働組合のパワーを完全に無力化することになり、労働階級の暮らしが悪化の一途を辿っていた時代。その影響力は現在に至ってもなお「ゼロ時間契約やギグ・エコノミーの蔓延」というかたちで尾を引いています。経済面だけでなく、人種差別問題もそう。たとえ黒人がアメリカの大統領になったとしても、それでも未だに根深い人種差別問題。1980年代のイギリスならば、言わずもがなというところです。
そういう「厳しい」時代背景が「映画の中の現実」と化して、主人公の二人に襲い掛かってくるのがこの作品。主人公のヒラリーは過去に患った統合失調症の治療を受けながら、エンパイアのスタッフとして「死んだような」毎日を送っている。かたや、大学進学の夢を絶たれてエンパイアに就職してきたスティーブンは「黒人」というだけで、レイシストなお客さんや道行く人から言葉の石を投げられる始末。そんな傷を負う二人が、年の差を越えた熱い恋に落ち、どうにかこの厳しい現実を生き抜こうとする。
しかし、そこはやはり『アメリカン・ビューティー』と『レボリューショナリーロード』を手掛けたサム・メンデス。「現実なんて、人間の手ではどうしようもないから現実なんじゃん」という、当たり前な、しかし当たり前すぎて私たちが忘却の彼方に置いていってしまう「事実」を、こともなげに全開にしてみせます。恋に落ちる二人の目を覚まさせるかの如く襲い掛かる「現実が、現実であるがゆえの事実」という試練と、その試練によって心がズタボロになっていく登場人物の「追い込み方」には、一切の容赦がありません。特に中盤、ある出来事がきっかけでヒラリーの精神が「逆行」してしまい、錯乱/狂人の手前まで来てしまう下りには、戦慄さと同時になんとも言えない哀しみを覚えました。これは、家族や友人に精神を病んでしまった方がいる人にとっては、非常に身につまされるシーンです。「サム・メンデスのラブストーリーを観るんだから、腹を括らなきゃ」と、ギアッチョ戦におけるミスタばりの「覚悟」を胸に秘めて鑑賞した私ですが、はい、見事に打ち砕かれましたね。
ところで、この映画の舞台となるのは「エンパイア」という名の映画館です。映画館と言っても、現代において幅を利かせている、人気作の公開と同時にファミリーやカップルが大挙して押し寄せてくるようなシネコンではなく、地元の人に長年愛され続けてきた「こじんまり」とした映画館。そのこじんまり感というのは、言わずもがなヒラリーとスティーブンの「個人的な世界」を象徴するものとしてある一方、こういう場所をワザワザ舞台に選んでいるということには、もちろん狙いがあります。そう、この映画の表層の部分で描かれているのは男女のラブストーリーであるのは間違いありませんが、根底で描かれているのは「現実世界における“映画”なるものの立場」に関する、監督なりの訴えなのです。
そもそもなんですけど、なんで私たちは映画を観るんでしょうか。楽しいから? ドキドキワクワクしたいから? はい、そうですね。家族や友人、心を許し合った恋人同士で「楽しい」時間を過ごすために映画を観るというのは、何もオカシナことじゃありません。私のような独り身の男にだって、それくらいのことは分かります。そして、そんな映画の「楽しさ」「素晴らしさ」を、普通の人の何倍も経験しているであろう映画人や映画評論家や、あるいはシネフィルと呼ばれる人たちの中には、まるで映画の力に「魔法」のような性質を見出す傾向があります。そうして、彼らは二言目には必ずといっていいくらい、こう口にするのです。「映画には、現実を変える力がある」と――
ですが、もちろんそんなのはまやかしです。この世には「愛」「平和」「思いやり」「反戦」を謳った映画が、それこそ文字通り山のようにありますが、現実の世界はそうじゃない。私が/あなたが、映画を心から愉しんでいる間、ウクライナでは毎日毎日、何百人もの人々が殺されていっています。これは個人的なスケールで考えても同じことです。前回のレビューで『マッドマックスー怒りのデス・ロードー』に感銘を受けたといった私ですが、だからと言って私が直面している現実が辛いことに変わりはありません。
映画には、現実を救う力なんてない。どれだけ素晴らしい映画を鑑賞したとしても、私やあなたの人生が、それこそ「映画のように」劇的に変わるなんてことは、ありえない。それでも、私たちは映画を観続ける。なぜか? それは「夢を観るようなものなのだ」と、サム・メンデスは結論づけています。映画のフィルムとは、すなわち24fps(正確には48fps)の世界。連続する静止画という名の光の帯が絶えずスクリーンに映し出され、その帯と帯の一瞬の切れ間に覗く闇を、しかし私たちは「闇」だとは知覚できない。映画とは、その構造から言って「ただ静止画と静止画を決まったフレーム数の中で繋いだだけ」のものであり、それがあたかも「動いて」いるように見えるのは、現代における映像技術の力と、私たちの脳が生み出す「錯覚」とが合わさった「幻」に過ぎないのです。
付け加えるなら、映画館で観た映画を、人は「おぼろげに」しか覚えていないというのもまた事実。スクリーンに映った全ての映像を脳に保管できる人間など(一部にはいるとしても)常識的に考えて存在しない。「あのシーンが良かった」「あのシーンの、あの俳優の演技が良かった」「あのシーン、興奮したなぁ」……そんな風に「断片的」にしか、私たちは映画を記憶できない。朝、眠りから目覚めた瞬間、自分がついさっきまで「観て」いたはずの「夢」を「断片的」にしか覚えていないように。ただ、映画が夢と異なる唯一の点があるのだとすれば、後者が空間的且つ時間的に「現実/夢」と断絶している事象であるのに対し、前者すなわち映画とは「映画館」という「現実と地続きの世界」で観る「夢」なのだということです。
映画とは、現実と地続きの「夢」である――所詮は「夢」なわけです。そこには、繰り返しになるけど、やはり現実をどうこうする力があるわけじゃない。だけれども……そう、だけれども。私たちは映画を観ている間だけは、辛い現実を忘れることが出来る。私たちが、枕元で「夢」を見ている間、現実の夜を「観ていない」ように、お客さんはスクリーンに映し出される夢を観ている間、現実の出来事を忘れることができる。それは、私たち人間ひとりひとりが、生まれながらにして持つ「映画を観る力」を、無意識のうちの発揮していることの、何よりの証ではないでしょうか。
本作は、そうした「私たちは映画を観ている間、現実を忘れることが出来る」という事実を「素晴らしい」と称賛しているわけでも「現実逃避だ」と非難しているわけでもないし、ましてや「映画は現実を救えない」と悲観的になっているわけでもない。素晴らしい映画を観て「よーし!明日も頑張ろう!」と、安直で楽天的なことを言っているわけでもない。限りなくフラットに「映画」たるものを捉えようとしている。映画の恩恵を受け続けてきたサム・メンデスが、こういう作品を撮ったというのは、これは凄いことじゃないでしょうか。
ままならない現実、容赦のない現実、それらを忘れる機能が映画にはある。そのことを「良い」とも「悪い」とも言わない。現実が「そんなもの」であるのと同じように、映画も「そんなもの」としてしか描いていない。どっちの考え方が良いか、悪いか、といった単純化をしない、お客さんとの慣れ合いをギリギリのところで拒絶するという度胸が、この映画にはある。そのうえで「私たちには映画があるよ」としか言わないサム・メンデス。まるで「映画をどう“使うか”は、あなた次第だ」と暗に告げているかのようです。
なんというか、世の中には「巨匠」と呼ばれる映画人が「巨匠」という名称に宿るレアリティの割に、かなりいる気がするんですが、本当の意味での「巨匠」が撮る映画って、こういう作品のことを言うんだろうなと、しみじみと思い知らされた気分です。私たちには映画がある――その「事実」を、フラットな感情と、静かで端正な映像と、秀逸なストーリーでさりげなく伝えてくる、そんな作品です。
この映画を観たところで、私の生活が劇的に良い方向へ向くかと言ったら、当然、そんなことはありません。ただ、今の私なら自信を胸に、こう宣言することが出来るでしょう……私のクソッタレな人生には『エンパイア・オブ・ライト』という名の映画が存在するのだと。
 




