【第87回】アラビアンナイト‐三千年の願い‐
『“能天気さ”と“狂気”のはざま。“構造”としての“物語論”』
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』――それは、血と、暴力と、そして何より「絶望の淵で力強く生きる人間の気高さ」を描いた、今世紀史上最高の「物語」のひとつである。
2015年に立川の劇場で初鑑賞して以来、何十回見返したか分からない。それぐらい、俺はこの珠玉のマスターピースに熱狂し、今も熱狂し続けている。マックス、フュリオサ、ニュークス、ワイブス、鉄馬の女たち、そして異形の改造車を駈るイモータン・ジョーとその信者たるウォーボーイズの軍団……彼らの命懸けの一挙手一投足が、俺の萎びた魂を燃え滾らせ、明日への活力を生み出すのだ。2015年から現在に至るまでの俺の人生は『マッドマックス-怒りのデス・ロード-』という「物語」と共にあり続けてきたと言っても過言ではない。
「物語」――多くの人は、そこに「幻想」の玉座を垣間見る。特に、この「小説家になろう」という場所で読んだり書いたりしている人にとっては、これほど至近的な題材もないだろう。こと「幻想」という点で言えば、これは「書く側」にとって重要なことのように思える。「小説を書くのに大事なのは“情熱”だ」とか「あなたが書きたい物語を書けば、それでいい」とか……とかく小説界隈では「感覚」なるものが幅を利かせる。「感覚にモノを言わせて、愛を込めて書き続ければ、必ず人気作になる」という言説が「真実」であるかのように君臨している。俺も、つい最近までは「小説」や「物語」というものは、そういうもんだと思い込んでいた。
けれど最近、それは大きな間違いだということに気が付いた。間違いというより誤解だ。優れた物語の多くに存在するのは「感覚」ではなく「構造」という概念である。言うなれば、構造という「容器」に、人は語りたい物語を「中身」として詰め込んできた。優れた物語が時に「超感覚的」に描かれた産物であると誤解されてしまうのは、その物語が「優れている」からこそ宿る「神秘性」という名のヴェールが「構造」を覆い隠してしまう傾向にあるからだ。
なぜ物語には構造が必要なのか。それは大前提として、物語が「誰かに伝える」ためのものだからだ。水を飲むのにコップが必要なように、動画を記録するのにカメラが必要なように、物語という名の情報の集積体を収めるためのデバイスとして「構造」があるという見方は、考えてみればごく当たり前のことではある。
そのことを、すでに1000年以上も昔の時代に理解している人たちが大勢いて、そういう人たちで溢れかえっていた都があった。その名はバクダード。多種多様な民族が暮らし、東西南北を貫く長大な幹線道路のおかげで交易が盛んとなり、唐の長安と並び称されるほどの栄華を誇った、古の大都市。
そんな古の大都市を熱狂させた「物語」が、いま、この時代に語られようとしている。他でもない「現代の神話」たる『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を紡ぎ出した、ひとりの創造者の手によって。
【導入】
トルコのイスタンブールを舞台に、ひょんなことから古の『魔人』を目覚めさせてしまった物語論研究者が出くわす、摩訶不思議なファンタジー映画。
監督はジョージ・ミラー。言わずと知れた『マッドマックス・シリーズ』の創設者ですが、他にも『ベイブ』や『ハッピーフィート』などのファミリー向け映画も撮っていたりと多才な方。現在は『怒りのデス・ロード』の前日譚に当たる新作『フュリオサ』のポスプロ作業で忙しいんだとか。この調子だと日本公開は来年になるのでしょうか。なんにせよ超絶楽しみだぜ。ちなみに編集は奥様のマーガレット・シクセルに、音楽はジャンキーXLと、いつもの布陣です。
主演はティルダ・スウィントン。結構好きな人いるんじゃないでしょうか。でも、俺は個人的にあんまり好きな役者じゃない……というのは、この人が別に悪いんじゃなくて、この人の出てる映画をいくつか見たことがあるんですが、まーなんというかおもんなーというか、変にアート気取ってるな~って感じの映画がほとんどなんで、次第にこの人に対しても好印象を抱くことはなくなった……というなんとも身勝手な理由からなのですが、本作のティルダ、私は好きです。今までの役で一番好きかも。
対する「魔人」の役に抜擢されたのは、ソーのお友達ことヘイムダル役でMCUファンにはお馴染みのイドリス・エルバ。ん~でも個人的にはパシリムの司令官役という印象がまだ強いですね。
メインキャラクターは以上なんですが、脇役に嬉しいサプライズが。ティルダの隣家に住むおばあちゃん役をメリッサ・ジャファーが演じています。忘れたとは言わせません。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』において、その天晴な生き様で観客の涙腺を完全破壊した「種もみのばーちゃん」ことキープ・オブ・ザ・シーズ役を演じた方だよ!
【レビュー】
アラビアンナイトに収録されているお話のひとつに、こういうのがある。タイトルはたしか「背中にコブのある男」という奴で、ざっくばらんに言うと「死体の責任を他人におしつけまくる」というお話。あるところに仕立て屋の夫婦がいた。夫婦はある日、背中にコブのある男を自宅に招いて料理をご馳走する。すると、男が喉に魚の骨を詰まらせて死んでしまう。困った夫婦は死体の責任を近所の医者になすりつける。そうと知らず、自分が男を殺したと思い込んだ医者は、今度は近所の料理人に死体の責任をなすりつける。またそうと知らない料理人は、たまたま目についた商人に死体の責任をなすりつける。誤解が解けないまま、商人は背中にコブのある男を殺した罪で刑場に連れていかれて……という、なんだか古典落語みたいなノリのお話なんだが、このお話はその内容の(いい意味での)くだらなさに反して多重構造となっており、読み進めるのになかなかの時間が必要だったりする。
アラビアンナイトには、こういう「多重構造」「入れ子構造」の物語がたくさんある。つまりAのお話を含んだBのお話、を含んだCのお話、を含んだDのお話……という風に、物語そのものというよりも、物語の「構造」を弄って面白さを獲得しようとした形跡が多々見られる。それが、アラビアンナイトが生まれた当時のバグダードという巨大都市が持つ文化的側面または多民族的な影響によるものかどうかは分からないけれど、端的に言えば本作『アラビアンナイト 三千年の願い』も、これとまったく同じ構造を持つ。一見すると、魔人が過去に経験した古の物語を語り、それを物語論研究者である主人公が聞く(いうまでもなく、このシーンは原典である『アラビアンナイト』の聞き手:シャフリヤール王と語り手:シェヘラザードの「引用」である)だけの話に見えるけれど、実はそうじゃないんだよというのが、オープニングとエンディングで、さりげなく示される。そういう面で考えると、物語の「構造」という部分にあまり注目せずに、映画や小説や漫画などの「物語」を楽しんできた人にとっては、新鮮に映るのかもしれない。
しかし一言で言ってしまえば、この映画は「楽しい」映画でもなければ「凄い」映画でもない。誤解を恐れずに言えば、これはファン向け映画です。ジョージ・ミラーの映画が好きな方へ向けた映画。彼の映画を支えるモノが何であるのかを知りたい方向けの映画であり、ジョージ・ミラー自身の哲学を映像化した作品。「ぼくの考える物語論」を「映画」に宿る「構造」にそのまま投影した作品なのです。
なんとも歯切れの悪い感想が続くから察している人もいるかもしれませんが、じつはちょっとガッカリしてるというか(笑)。鑑賞前に期待したものとはちょっと違ったんですよね。
俺がこの作品にどういうものを期待していたかというと、それは物語の「構造」について語る映画ではなく、物語の「役目」について語る映画なんじゃないかと期待していたわけ。いや、物語が果たすべき役目についても語られているちゃ語られているんだけど、その切り口がどーにもナイーブなんだよな。
そもそも物語というものは、太古においては部族間の対立を防ぐための「武器」として扱われていたという歴史的事実がある。物語が、ある特定の集団の結束に多大な影響を与えうるというこの仮説は、単一民族社会であった太古の昔にも、そして多様性社会の黎明期である現代においても有効だとされている。実際のところ、物語は銃器類などと同等の「武器」として通用する可能性を秘めている。アメリカ国防高等研究計画局(DARPA)では、すでにその手の技術を確立するための資金提供をしているという報告もある。事実、DARPAの行政官たちは、物語を「“構造”という入れ物の中に“情報”という毒を仕込ませた爆弾」として捉えることで現代兵器としての運用可能性を見出し、そのためにストーリーテリングに関する国際会議すら開催している。
物語が持つプラスのパワーは凄まじいものがある。それはコロナ禍における『鬼滅の刃』の爆発的ヒットがすでに証明している。『鬼滅の刃』が、なぜあれだけヒットしたか。その根底にあるのは「いま、ここ」の現実に対する「反動」に他ならない。病魔の蔓延によって唐突にコミュニティの断絶がもたらされたからこそ、多くの人が「優れた物語を通じて誰かと繋がりたい」という欲求を爆発させた結果に他ならない。それは、人間という生き物が元来「物語を求める」生き物であるからこその、社会的行動の当然の帰結であるともいえる。
だけれども、物語には良い面だけが備わっているわけではない。「アーリア人こそが人類史上最も優れた民族だ」「ユダヤ人こそが世界の敵だ」という、ナチ党が喧伝する「物語」を当時のドイツ国民の多くが「信じてしまった」からこそ起こった悲劇。それは、ナチス率いる当時のドイツが、自分たちの「物語」を世界中に感染させようとした結果、起こった悲劇だともいえる。
そう、物語を語るという行為は、本来は恐ろしいものなのだ。目に見えない力で誰かの心を激しく揺り動かし、集団の結束を固めるだけでなく、やりようによっては思いのままに集団を誘導し、孤立させ、他のコミュニティと分断させることだって出来る。人が語る「物語」には、そういうパワーが確実に存在する。
そういう「事実」に対して、この映画はとことん無頓着だ。物語が持つ「感染力」の恐ろしさであるとか、誰かの語る物語を信じてしまうことの狂気的な様についての描写が圧倒的に不足している。そこから演繹的に導き出せるのは、この映画で語られているのは「物語」そのものではなく、「物語」を収納する容れ物としての「構造」だけが語られているということだ。シバの女王とソロモン王のお話も、スレイマン大帝とムスタファ皇子のお話も、ムラート四世と狂王イブラヒムのお話も、それは「物語」として語られているというより、物語の「構造」を強調させるための道具立てでしかない。
たしかに物語は、観客の心を重力から解き放ち、現実の苦しさを忘れさせ、病んだ心を癒すことが出来る。だけれども、それが物語の全てじゃない。曲がりなりにも創作者なら、そういう自己批評的な観点を持っていて然るべきだと思うんだが、そこはやっぱりジョージ・ミラーなんだな~と、妙にその能天気な結末に納得した。
能天気さ――俺はこれこそが、ジョージ・ミラーの作風の長所にして短所だと考えている。思えば『ハッピーフィート』の「ちょっと人間世界に行って交渉してくるわ」な展開や『怒りのデス・ロード』におけるマックスの「“やっぱ砦に戻ろうぜ”発言」とか、それらの突拍子もない展開の裏に隠れているのは「お前それマジで言ってんの?」な能天気さの顕れに見えなくもない(笑)。なんだけれども、その「能天気」が深刻さを極めていく劇中の状況と上手いことマッチすることで、まるで登場人物が「狂気」の領域に片足を突っ込んでいるんじゃないかと思える瞬間がある。そういう作品はどれも個人的に面白く感じるんですよね。
しかし、その能天気さがマイナスに働くこともある。言うまでもなく『マッドマックス-サンダードーム-』のことを名指ししてるんですよ。ハリウッドの横槍があったとはいえ、あのとんでもない「駄作」を過去に生み出しているという前科を忘れちゃならない。俺は『怒りのデス・ロード』は大好きだが『サンダードーム』はこの世から消えて欲しいくらい嫌いな映画だ。なんでかと言ったら、深刻なシチュエーションに対して掲示される答えが、やっぱり極めて「能天気」なんだけど、それが「狂気」からはかけ離れた「ただの能天気」でしかないからだ。
この映画でも、その「能天気」さが「狂気」に片足を踏み込んでいきそうで踏み込まず、なんだか悪い方向に発揮されているな~と感じたんですよね。これはどうなんでしょうね。物語を語る話でありながら、その着地点が人類学的な「愛」に落ち着くのも、頭の中でこねくり回した聞こえの良い説法のように感じられて、正直「うーん」という感じです。本当の本当に監督は、この映画を作りたかったんだろうか。もしかすると、この映画は「物語のための映画」と監督自身で言っておきながら、本当は「物語の構造についての映画」として最初から作られたのかもしれないな~なんて思ったり。
まぁ、ここまで色々言ってきましたが、魔人の回想で語られる映像は迫力満点です。古代オリエントを舞台にした装飾品に衣装の数々。異世界の楽しみや面白さを知っているジョージ・ミラーらしい映像の連続には楽しませていただきました。個人的には『オスマントルコ帝国外伝 愛と欲望のハレム』が好きな方は、なかなかハマるんじゃないかなと思います。




