【第85回】SHE SAID/シー・セッド その名を暴け
『プロトコルと、証言』
アレクシエーヴィチの『戦争は女の顔をしていない』は証言文学として知られているが、「評論」ではなく「文学」としての体をとった作品なのに、なぜ作者自身(すなわち、アレクシエーヴィチ本人)の言葉を使わず、インタビューした人々の証言だけで作品を書きあげたのか?という問いが刊行当時にあったらしく、それに対してアレクシエーヴィチはこう答えている。
「時にこの手の作品においては、創作者が頭の中で考えた言葉より、証言者の言葉の方が強いことがあるからだ。私は、彼女たちの言葉の方が、この作品を書き上げる言葉として相応しいと思えたのだ(要約)」
人間の記憶なんてものは大抵当てにならない。特に日常会話で消費するレベルの「他愛のないネタ」を頭蓋の奥底から引っ張り出して話題に出す際には、その場を盛り上げたくて、あるいは注目の的になりたくて、自分が実際に体験した些末な内容を「さも重大な出来事に遭遇したかのように」盛って話す人がめちゃくちゃいる。俺の勤めている会社にはそんな人がたくさんいるし、他ならぬ俺だってそういう時は結構ある。
けれども、もしその人の口から出てくる言葉の源泉が、その人が実際に受けた心の傷から湧き上がるものだとしたら、どうだろう。その人は「場を盛り上げたい」とか「注目の的になりたい」とか、そんな邪な狙いを念頭に置いて話すだろうか。自らの経験した筆舌し難いほどの過去を恐れ、悔い、恥を偲んで己の「体験」を伝えるときに、そんなことを考えていられる「余裕」はあるんだろうか。(いや、あるっしょという人はこっから先の文章は読まん方がいいです)
やたらと「真実」を求めたがるゼロ年代以降のネット界隈において、人の数だけ「真実」は氾濫しているということを、ほとんどの人は知っているようで知らない。ある人にとっての真実が誰かにとっての虚偽となり、ある人にとっての虚偽が誰かにとっては見過ごせない真実として映る。そのような、情報過多なネット空間に晒されて続けている(俺を含めた)多くの人々の「思考の共振」が「いま」という時代を創り上げているのだと仮定するなら、そこにあるとされる「真実」とは、社会活動の摩擦のあわいに浮かんでは消えていく「幻想」のようなものではないのか。
だとしたら、ここにあるのは「真実」という絶対不変にして神聖な、何人も犯すことの許されない神棚に捧げられるようなものではなく、個人個人の口から出てくる「私はそれを体験した」という「証言」すなわち個人的体験に基づく「事実」だけだ。
証言の積み重ね。事実の集積……やがてそれはひとつの「運動」となり、「神棚」に座る者たちの足元を揺るがせる事態となる。そういう時代に、俺たちは生きている。
なんだか賢くもないのに小賢しい文章をノリで書いてまったが、ようはこれサスペンス映画です。おもろかったなー。
【導入】
2017年に発覚したハリウッド映画界の「怪物的絶対権力者」ハーヴェイ・ワインスタインが行った100件近くに渡る性的虐待問題を明るみにしたNYタイムス紙に勤める二人の女性記者の奮闘ぶりを描いた、社会派サスペンス映画。
監督はネトフリで話題を呼んだ(らしい、ちな未視聴)「アンオーソドックス」を手掛けたマリア・シュラーダー。ドイツ人である彼女がハリウッドの醜聞を題材にした映画を撮る、という方針は個人的に良い判断というか面白い試みであるなと感じます。
で、おそらく彼女を本映画の企画に招聘したのはプロデューサーに名を連ねているブラッド・ピットでしょう。ブラピと言ったらワインスタインとの確執が非常に有名ですけど、そこらへんはネットで調べたらすぐ出てくるので、興味のある人はググってみてください。
脚本を手掛けたのはレベッカ・レンキュヴィッチ、というのも監督の狙いのようです。ユダヤ教教義と同性愛の狭間で苦悩する女性心理を描いた『ロニートとエスティ 彼女たちの選択』を見れば、納得の人選ですね。
主演のNYタイムズの記者(正確には『調査報道記者』と言うらしい)のひとり、ミーガン・トゥーイー役には「おい! あと10分で映画終わっちゃけど、どーなんのこれ! どーなんの!?」と俺の心をザワザワさせた良作サスペンス『プロミシング・ヤングウーマン』の主演を務めたキャリー・マリガン。勝手に俺より年下なんだろうと思ってたら全然違ったなー。女のメイクは本当に年齢が分からん。
ミーガンの相棒的存在として活躍するNYタイムズのもうひとりの記者、ジョディ・カンター役にはゾーイ・カザン。恋愛映画とかヒューマンドラマに専ら出ている人なんですが、なんとあの家庭崩壊地獄映画『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』にも端役で出演していたらしい。マジで? あれかなりのトラウマ映画だからあんまり見返してないんだけど、いたっけ?
そして肝心要の「悪の親玉」にして、『トゥルー・ロマンス』や『パルプ・フィクション』や『マスター・アンド・コマンダー』に『ロード・オブ・ザ・リング』といった名作・大作映画のプロデュースを大量に手掛けてきた映画配給会社ミラマックスの創設者、ハリウッド映画界の怪物プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタイン役にはマイク・ヒューストン……いやマジでごめんなさい誰ですか? 調べたら海外ドラマに出ている人みたいです。まあ、ドラマを見ずに映画ばかり見ている奴が「誰ですか?」と首をかしげるくらいには無名か無名に近い俳優をワインスタイン役に起用したのも、監督あるいはブラピの作戦なんでしょうね。というのは、実はこの映画でワインスタインが直接画面に登場するシーンって、ほんのちょびっとしかない。しかも、そのほんのちょびっとのシーンでも後ろ姿だけ。正面というか顔は絶対に画面に映さないという徹底ぶり。そこにも理由があると俺は見ました。詳しくは後述。
【レビュー】
自称・ノンポリの俺が、おそらくリベラル大喝采(なのかなぁ?)なこの映画を観に行った理由はひとつしかなくて、それはもうサスペンスを期待して観に行ったというか、それ以外眼中になかったというか。
だって、ねぇ、新聞記者が主人公ってだけでイイというかねぇ。別に新聞記者でなくとも、例えばTV番組のプロデューサー(『インサイダー』)とかTV番組の司会者(『フロスト×ニクソン』)とか、とかく媒体は問わず、メディアに属している人間がメディアに巣くう闇や悪を暴く!って筋書きの話はねぇ、サスペンス大好き人間にとっては涎ものですよ(笑)。付け加えるなら、そこで暴かれる「闇」や「悪」の濃度が、ガーシーのお粗末な暴露話なんぞ比較にならないレベルで濃かったり、公権力や反社会団体なんかが絡んで根の深い問題になっていたりすると、さらにグッド。
そういう意味で考えたら、本作の悪はデカいですよ~~典型的な「巨悪」ってやつですね。なにせワインスタインですからね。たとえ「ハーヴェイ・ワインスタイン」の名前を知らなくても、90年代~10年代に国内外問わずヒットを飛ばした映画にはだいたい関わっているので、この人がプロデュースした映画を一度でも見たことがあるって人は必ずいる。というか、ワインスタインは『もののけ姫』を買い付けて米公開した人なんですよ! ねぇ、ご存じでした? つまりこの人、映画を観る目はそれなりにあるみたいというか「ヒットを飛ばす映画とそうでない映画」を見極める力はかなり高い。なのに人格は最低ときた。頭はキレるけれど人格は最悪な某呪術なアニメキャラがバカウケするオタク界隈なら、まず間違いなくいいねされるキャラでしょうな。
ほらどうですか~? 「ワインスタインなんて知らねーし興味ねー」と思っていたそこのアナタも、ちょっとは興味出てきたんじゃないですか~? ねぇ、なーんで俺がこんな映画の中身と直接関係ない、くっだらないトリビアな話で皆さんの興味を煽っていると思いますか~?
それはねぇ……この映画、ぜんぜんお客さん入ってないからなんですよ!
全くなんですかこれは! 金曜日の平日とはいえ新宿の映画館で客が俺含めて10人少ししかいないってどーいうことだよ! 公開初日だぞ初日! 日本人大好きなブラピがプロデュースしてるのに、おかしいだろ! ちなみにアメリカ本国でも大爆死しているらしいぞなんで!? アメリカってポリコレ大好きじゃんなんで!? ねぇなんで!?
とまぁこんな感じで……アメリカ本国でなぜ大爆死してしまったのかはホントに謎なのですが、これが日本でウケない理由はなんとなーく想像がつきます。
ま、地味ですよね。内容が重厚なのは分かってるけど、新聞記者が事件を調査するというスタイルはどーしたって絵面が地味になる。抑制された画面よりも派手に際限なく動き回る映像を求める傾向にある大衆たちにウケが悪いのは当然です。けれど、そういう事情を加味しておきながら、この映画は「地味である」ということを良しとしている。地味であるという事実から映画自体が逃げていない。
地味な絵面からは想像できないくらい、この映画のテンポの良さにまず驚かされます。こういう言い方をすると勘違いする人が結構いるんですが、「テンポが良い」というのは、なにもカットを素早く切り替えて映像をカチャカチャ繋げているとか、そういう意味ではありません。ここで言う「テンポの良さ」とは「場面状況を素早く変化させてストーリーを進行させていく力の作用」を指すのであり、それがジャンル映画で最も良く現れるのが「序盤」にあると私は考えてます。そうだな~ワインスタインが関わっていない映画で例を挙げるとするなら『バットボーイズ』とかその典型ですね。(ブラッカイマー映画である、という部分には目を瞑ります(笑))
主人公の記者二人はどっちも家庭を持っていて、子育てに追われながら自宅や会社で仕事に勤しむ。映画の序盤、画面は育児をしながら仕事をもテキパキこなす主人公たちを映し出しているんだが、ここでは二つの情報が同一のシーン内で開示されている。育児の様子から見えてくるのは、主人公の家族構成と家族の仲すなわち「プライベートの情報」であり、子供を脇に抱えながら、スマホやパソコンを片手に同僚記者や上司あるいはタレコミに来た情報提供者と話すところで「ストーリーの情報」を開示する。
つまり、キャラクターの情報とストーリーの情報、どちらの情報開示も同一のシーン内で同時並行に行うことで、最序盤からストーリーを動かし且つストーリーが止まらないようテンポを維持しながら、キャラクターの状況をお客さんに掴みやすくしてもらうための作劇上の配慮が見えてきます。これだけで「あ、サスペンスとして真面目な作りにするつもりなんだ」と分かったので、もうあとは安心してお話を楽しむことができました。
たったひとつのツイートを契機に始まった被害者女性への聞き取り調査。そこから徐々に波及して、ハリウッドの女優だけでなく、ミラマックスの元従業員にまで言質を取り、ワインスタインの性的暴行疑惑が信憑性を帯びていく事実に戦慄するNYタイムズの女性記者ふたり。調査を進めていくなかで、彼女たちは秘密保持契約を利用されたり、女優としてのキャリアを人質に取られるかたちで、泣く泣くワインスタイン側からの示談に応じるしかなかった被害者女性たちの「証言」をひとつひとつ拾い集めていきます。
そこには、もちろんワインスタインがやったことの全貌をサスペンス的な流れに沿って明らかにするという意図も当然含まれているでしょう。だけれども、それだけではありません。この映画は全編に渡って、物語のキーポイントとなる要素を、全て被害者女性たちの「証言」の中へと仮託しています。主人公たちは、それら「証言」を裏付けし、テキストにまとめ、記事として世に出しただけ。言ってしまえば、映画を進めるためのアクションらしいアクションは、実は主人公二人は直接的には起こしていない(というか起こせない)。それら全てを、すなわち物語を大きく転換させたり、前進させたり、葛藤を解消する行動を促したりしているのは、すべて被害者女性たち自身であり、彼女たちの「証言」にあるのです。
言うなれば、この映画は「証言文学」ならぬ「証言映画」と呼ぶべき作品でしょう。ワインスタインの毒牙にかかり、名誉を傷つけられた女性たち。そんな彼女たちが口にする数々の「証言」が帯びる色は、同情を寄せられるだけの被害者のそれというより、実態としては「過去への言い訳」であると同時に「今の呪いを解く手段」であり「現実に立ち向かう手段」という側面が濃い。「証言」の積み重ねが果たす役割とは、出来事の真実を開示させるのみならず、出来事にひどい関わり方をしてしまった人物の想い、その解像度を高めて行くことをも意味しているのだと仮定するならば、証言を重ねていくにつれて、だんだんと被害者ひとりひとりが心の内に抱え込んでいる「本当の顔」が覗き出てくるような構成にしているのは、これは見事というほかない。
ところで「顔」と言えば、この作品の目玉的キャラクターであるハーヴェイ・ワインスタインの映像的な捉え方は後ろ姿をロングで撮ったりする程度のもので、その「顔」は最後まで画面には出てこない。途中、演出の一環として、実際にワインスタインが被害者女性に性的関係を強要した音声(本物)が流れるという、なかなかの恐怖シーンがあるんだが、映画の中でワインスタインの「存在」を印象付けるのはそれくらいのものであり、彼は決して「顔」を見せようとしない。そこで俺が思い出したのは、神・荒木飛呂彦がジョジョ三部の序盤において、当初は登場させるはずだったDIOの素顔を、あえてエジプトまで引っ張ったというファンならお馴染みのエピソードについてだった。荒木先生は、序盤にDIOの「素顔」を登場させてしまうと、読者の意識がDIOに引っ張られてしまい、承太郎たちの冒険に集中してくれないのではないかと危惧して、前半では素顔を影で隠したバージョン(通称・影DIO)のDIOを劇中に登場させるようにしたのである。本作が取っているのも、これと同じ手法だと言える。つまりこの映画は「ワインスタインという巨悪に対して、どう記者たちが立ち向かったのか」ということを語る話でありながら、そこに意識を向けてほしくないとばかりに、ワインスタインの素顔を隠す。逆説的に浮かび上がってくるのは「いかにして彼女たちはワインスタインと戦う"武器"を手にするまでに至ったのか」という過程についての物語という点である。
証言はインタビューを終えたからといってすぐに記事掲載できるかというとそうではない。情報の信憑性を調査するために裏を取るのはもちろん、この手のスキャンダルは匿名よりも実名で報道した方が相手の経歴にダメージをつけやすいので、できれば記者たちとしては被害者女性たちに実名で名乗り出てほしい。ところが被害者女性たちは、そのほとんどがワインスタイン側が掲示してきた秘密保持契約を盾にした示談交渉に応じてしまっているため、実名報道にサインしてしまうと契約違反という形になり、逆にダメージを負ってしまう懸念がある。そこをどうクリアしていくか。物語はやがて、被害者女性たちの「証言」を集めながら、それら数々の証言に秘められた「法的パワー」を現代のアメリカの訴訟システムと合理的に照合したうえで、いかにして開花させるべきか苦心する記者たちを映し出していく。これこそは「プロトコル」の描写に他ならない。そう、この映画は、物事を進めていく上での正規の手続き――「プロトコル」――そのまどろっこしさから、眼を背けようとはしないのだ。
だからこそ、この映画は、そのセンセーショナルな題材に反して、話題になりこそすれ「売れる」映画にはなりえない。あるスキャンダルが取り沙汰された際に、メディアや大衆は、スキャンダルそのものが持つ「パワー」と、そのパワーがもたらした「結果」の方に注目しがちだからだ。あらゆる出来事をエンターテイメントの渦中に回収してしまう怪物的ネット社会において、投げ込まれた餌の大きさと質ばかりが議論される中、その餌が、どこからやってきたのかを気にする人は少ない。
だが、だからといってこの映画が「映画」としての力を損なっているとは、俺には思えない。過程をすっとばして、有り体の結果に飛びつきたがる人たちには「まどろっこしい」と感じられるプロトコルの積み重ね。しかし、そのまどろっこしさ・しぶとさこそが、遠回りという名の最短の近道として確実に機能している様には、どこか往年の刑事ドラマにあるような「どっしり」とした佇まいを感じざるを得ないのである。
腰を据えてじっくりサスペンスを楽しみたいという方に、おすすめです。あ、あと#MeToo運動の発生過程を知るのにも役立つので、そっち方面の教養のさわりだけでも知りたいという方にもおすすめです。