【第84回】アバター:ウェイ・オブ・ウォーター
『彼は、彼自身の“妄想”の神になったのだ』
CG技術。
1980年代から映画界で使用され、いまや全世界の映画産業においてごく当たり前に使用されている技術。『トロン』が公開された当初、世間の人々はCG技術を「どんな映像でも創り上げることのできる魔法のステッキ」だと認識しはじめ、その認識は「実写の持つ情報量をアニメーション的技法で装飾する」という『マトリックス』の登場で決定的なものになったと言えるでしょう。
しかしながら個人的な意見を述べさせていただくなら、その認識はとんだ「勘違い」に過ぎません。CG技術は魔法のステッキなんかじゃない。映画を創り出すのは人間の意志と思考、すなわち「アイデア」に由来するものであり、CG技術は、それらのアイデアを理想のかたちで実現するために使用する「ただの道具」であり「方法論」のひとつに過ぎません(押井守は、道具どころか“テーブルのようなもの”と認識しているらしいですが)。仮にCG技術が魔法のステッキだとしたら、これまで日本で作られてきた多くのCGアニメの、そのほとんどがろくでもない出来栄えであることの説明になりません。
「綺麗だな」「美しいな」……優れたクオリティのCG映画を鑑賞した際に、私を含めた多くの観客が持ちうる感想は、そのようなものでしょう。そこには「映画の中で描かれる世界そのもの」に対する「感動」というよりかは、「実写と比べて遜色ない出来栄え」にまで成長したCG技術に対する「感心」だけがフューチャーされています。つまるところ、CGの有効的な使用方法は、例えばデビット・フィンチャーの『ゴーン・ガール』におけるパターゴルフのシーンなどに代表される「局所的な場面の補正」であったり、ディズニーやピクサーのアニメ、あるいは日本のリミテッド・アニメに代表される「キャラクター造形の抽象化の演出」といったレベルに留まるのであり、「CGを使って実写のような世界を作った」としても、それは良くできた「お人形さん」レベルのものであり、むしろ「人工的なモノ」としての主張が強まることだけで、観ていてなんら面白いものではないのです。
これから語る『アバター ウェイ・オブ・ウォーター(以後、WoWと呼称)』も、そういう意味ではまったく変わらない「綺麗で」「美しい」映像だけが展開されていきます。しかしながら、私はこの映画の登場を個人的に「事件」であると感じています。
その「事件」の「首謀者」の名前を、あなた方も良く知っていることでしょう。その男の名はジェームズ・キャメロン。常に映画を「開発」し続け、己の「妄想」を具現化しようとする男。
【レビュー】
結論から言うと私はこの映画、十分に楽しめました。特にデザインが良いですね。ナヴィたちの生活に根差す民族的まじない文化と近代兵器のマリアージュだったり、カニ由来のデザインが為された海中メカ、さらには「操縦してる感」がビンビン伝わってくる、重みがありながらスムーズなパワードスーツの挙動も見応えがあります。さらにさらに、サイバーパンクSFにはつきものの「有線」描写にその原型を見て取ることのできる、髪の毛を使っての「魂の木」とのコンタクトなど、SF好きなボンクラの心をくすぐ絵面が満載です。特に感心したのは、これだけ大量のVFXを投入しておきながら、しっかりと重量物を操縦しているという「感覚」が伝わってくるところでしょう。やっぱりキャメロンは生物や物体の重みを描くのが上手いなと改めて感心。ナヴィたちの手足の長さがアクションのノイズになっていないどころか、むしろ彼らナヴィの身体的特徴に合わせてデザインしたのだろうと思わせる海獣や鳥獣たちの操縦アクションがわんさか出てくるところも、観ていて素直に楽しいです。
特筆すべきは、映画を「開発」し続けてきたキャメロンらしい、技術成果の見本市としての側面を『WoW』は持ち合わせているという点です。アクション場面におけるHFRの導入、『アバター』から始まり『ブレードランナー2049』や『レディプレイヤー1』の撮影現場に波及していった「バーチャルカメラシステム」によるフレキシブルな仮想カメラのポジション決め、バーチャルカメラシステムをさらに進化させたCGキャラと実写3D撮影のリアルタイム合成技術、水の挙動を自然なものにするための流体シュミレーション技術……そのどれもが最先端の領域に到達しています。映像編集を齧っていたり、VFX関係の仕事をしている人間が目にしたら「どーなってんだこれ?」と衝撃を受け、打ちのめされること必至の映像の数々。特に個人的な衝撃を受けたのが、キャラクターの皮膚の「質感」です。キャメロンが製作を担当していた『アリータ・バトルエンジェル』の時よりも、キャラクターの皮膚の質感、指紋の細かさや手の皴といった部分まで、現実の人間のそれに限りなく酷似しているという驚き。サブ・サーフェイス・スキャタリングなんか目じゃないくらいの質感表現の向上に、私はのっけから舌を巻きました。『アリータ~』が公開されてから、まだ3年程度しか経過していないのにこの技術進歩。マジに恐怖です。こんな映像、今までだったらレンダリングするのに一晩どころか一か月かけても終わらない、つーか途中でエラー吐き出しておしまいです。
そして、ここにきて鈍感な私はようやく思い知らされました。先ほど「マジに恐怖」と言いましたが、これは大袈裟な比喩でもなんでもない。この映画は「ある意味」恐ろしい映画です。どう恐ろしいか。それは、この映画が放つ、私たちが住んでいる現実空間と比較して1ミリも遜色ない「綺麗で」「美しい」質感の映像を見るにつけ、間接的に、いま私たちが住んでいるこの現実世界が「計量可能なもの」であることを、まざまざと思い知らせてくるから恐ろしいのです。AI技術やメタバース技術の講演などで、大手IT企業のエンジニアや大学教授らが「これから先の現実世界は技術躍進によって計量可能な存在たりえる」という話を聞いても、正直なところ私は半信半疑でいました。いや、そんな世界が来てほしくないと、眼を背けていただけかもしれません。しかしながら、そんな私の鈍感で臆病な脳味噌を『WoW』は限りない実感を伴って激しく揺さぶってきました。
この映画の「映像面に」批判的な意見のひとつに「ただのゲーム画面じゃないか」という意見があります。それは、ある意味では正しいのです。なぜなら、デザインだけを切り抜いて語ってしまえば『WoW』の世界デザインは『Horizon Zero Dawn』や『Horizon Forbidden West』、直近で言えば『原神』のスメール地方の景観の解像度を上げたものでしかないからです。しかしながら、その解像度のレベルが桁違いなのです。
実写の情報量を「そっくりそのまま」仮想の世界へ移植してしまったと言っても過言ではない「限りなく細かい」映像の数々。そこには、なにひとつ"新しい発見"や"驚き"はありませんが、それは私たちが住んでいる世界に存在する木々や海などの自然景観に「なにひとつ"新しい発見"がない」と言っていることと同じです。CG映画を評する際に必ずと言っていいくらい使われてきた「リアルと比べて」という枕詞は、『WoW』においては完全に無化されてしまっています。ゆえに「綺麗すぎて逆に普通」という評価は個人的にとても良く理解できますが「ただのゲーム画面でしかない」という評価には、私は納得がいきません。そういう人は、現実を感覚する力が弱いか、あるいは現代のゲームをやり込んでないくせにゲームを知った気になっているかのどちらかでしょう。
『WoW』が描き出す世界。キャメロンの妄想と意思によって律せられた世界。言うなれば『WoW』では「世界を語る」ことにしかキャメロンの興味はいってない。それは逆説的に「物語を“語ろう”という意思があるかどうか」という部分に焦点が向かいます。映画に込められたメッセージ性がどうとうか、テーマがどうとか、そういう部分を抜きにしての「物語の躍動感」「その物語が“そう”であるための必然性」というものが『WoW』や前作の『アバター』にあったかと言えば、正直あやしいところです。
そもそも前作の『アバター』がどういう物語だったか、覚えてる人いますか? 俺はぶっちゃけ『WoW』を観るまで忘れてました(笑)。それくらい、あまり記憶に残らない。なぜかというと、物語ではなく「構造」だけしかないからです。『アバター』における物語の構造は、ハリウッド脚本の伝統的な「白人酋長モノ」に分類されるものですが、乱暴な言い方をすれば「白人酋長モノ」という「構造」が『アバター』の中で「物語そのもの」として「擬態」していたと言ってもいいでしょう。あれだけ壮大かつCGでは難しいとされていた「空気感」までも再現した渾身の惑星を舞台にしておきながら、なぜ使い古された「白人酋長モノ」で物語を語る必要があるのか。その構造を使うことにどういう必然性があるのか。“「惑星パンドラ」をかつてのアメリカ西部・フロンティアに見立てていたからだ”と口にする人もいます。その意見も確かに分かります。しかし、本当にそれだけだろうか? という疑念が当時の私にはありました。
けれども、今になればこう考えることができます。つまり「異世界」や「新天地」を舞台にした作品において、最も「安全」に使えるオーソドックスな構造が「白人酋長モノ」であると『アバター』制作時のキャメロンは考えた。どう「安全」なのか……それは言うまでもなく「惑星パンドラ」という舞台にとって「安全」であるということ。すなわち「物語」が「世界観」のノイズになってはいけないと、キャメロンは考えたのかもしれません。その前提に立って考えるなら、本作『WoW』の物語が、あまりにも凡庸で間延びしているのも納得がいきます。
『WoW』の物語は前作『アバター』からは一転して、ジェイク・サリーとその家族にまつわるお話です。そして誤解を恐れずに言えば、『WoW』の物語は「お引越し映画」です。お隣さん(地球人)が居住地に放火したり嫌がらせをしてきて森に住めなくなったから、新居を求めて海辺にお引越し! でもでも毎日が大変~! 子供たちはご近所さんとトラブルを起こすし、奥さんは「実家に帰りたい」と不満タラタラ。それでも、一家の大黒柱であるお父さんは家族の絆を信じて頑張ります!……というお話。もちろんそこには、前作のラスボスにして、今作において反則気味な設定で「アバター」として蘇ったクオリッチ大佐との因縁や、他者との身体的差異に悩む次男・ロアクの葛藤と成長があったりと、様々なイベントがてんこ盛りなのですが。
基本的に、物語は大したことありません。
主軸のアクションの流れはサリー一家vsクオリッチ大佐の軍勢というところにあるのですが、このパワーバランスの描き方がちょっと、いやだいぶ雑です。だって、物語の中盤でサリー一家(特に子供たち)は森の民として完成された経験にプラスして貪欲に海の民としての知識や経験を吸収していってるのに、同時間軸におけるクオリッチ大佐ときたら、ナヴィ語を習得したり翼竜を手懐けたり、ナヴィ人としての生活力を確保するのに手一杯なんですよね。完全に両陣営のパワーバランスが釣り合っておらず、従って両陣営がぶつかる終盤に至っても、サスペンスなんて起こりようもありません。
だいたい、こんな物語に「上映時間三時間」もかけるなんて、正気の沙汰とは思えません。物語の流れは一見スムーズに見えますが、ストーリーを前進させるためのシーンだけをつまみ上げていけば、余裕で二時間の尺に収まる代物です。終盤のアクションなんて、あまりにも長すぎ。物語を畳むのを惜しまんとばかりに、雪だるま式のサスペンスが展開していきます。敵の人質に取られた子供たちがようやく脱出できた……と思いきや、またすぐに捕まる。そこから解放されて、さてようやく脱出……と思いきや行く手を阻まれててんやわんや。伏線もなにもあったもんじゃない。「なんなんだこれ」と困惑したのは否めません。『ターミネーター』や『エイリアン2』で上質なサスペンスを創り上げていたキャメロンにしては、あまりにも不可解なほどの「遅延し続ける物語」を見るにつけ、対照的に浮かび上がってくるのは、やはり「やりすぎ」なくらいの「惑星パンドラ」の質感です。ナヴィたちのドラマが凡庸であればあるほど、生き生きと画面に映る惑星パンドラの動植物たち。キャメロンがナヴィ側のドラマと、パンドラ側のドラマ(つまり、あの知性あるクジラたちのドラマ)の、どちらに肩入れしているかは一目瞭然です。キャメロンの目的は己の頭の中で煮え立つ「妄想」の世界を観客にぶつけることにあり、そのインパクトを最大限に発揮するために、アホみたいな予算を使ってイチからソフトを開発して惑星を創り上げたのです。
キャメロンは『アバター』及び『WoW』において、使い慣れた物語の技法を使った、いや、使わざるを得なかった。ストーリーは凡庸で、キャラクターの葛藤とその解消手段もサラッと流して描くしかなかった。なぜなら、それらは「惑星パンドラ=キャメロンの妄想」の「添え物」でなければならないから。ほとんどの映画が「キャラクター」「ストーリー」「世界観」の三つを基軸に描くのに対し、『WoW』においては「世界観」以外の要素はすべて「不純物」として割り切っている。「世界観」の純度を上げるためだけに、あらゆる力を注ぎ込んでいます。彼が「世界観」の構築にどれだけ力を注いでいるかは、パンフレットを見れば、その凄さが良くわかると思います。
だから、この映画はある意味では「事件」なのです。それは、直近で公開された「世界が分厚い映画」である、フィル・ティペットの『マッドゴッド』とは異なる方向性の「事件」です。自らが抱える過酷で奇天烈な妄想を、そこに宿る抽象性を異様な濃度のまま具体化する『マッドゴッド』が取った(取らざるを得なかった)方法論とは異なる、私たちが住んでいる「現実の世界」と同程度の質感と情報量を持たせたまま「現出させる」という行為。その行為のためだけに膨大な時間とお金を費やしてソフトを開発し、そのソフトによって生まれた「惑星パンドラ」を映画というフレームに収めるためだけに「ありきたりな物語」を扱った。ここまでくると、キャメロンは映画監督というより「事業家」や「デザイナー」に近いと言えるでしょう。
「でも、そんなの莫大な予算があるから出来るんでしょ?」と口にする方がいますが、違います。優れた技術が目の前に置かれていたとしても、その技術を「どう使うか」という部分に頭を使わなければ、これほどの「妄想満点」な世界は生まれないからです。
あくまで『アバター・シリーズ』のためだけに開発された技術。そういう技術を使って「ストーリーのことを考えながらストーリーに全く関係のない部分まで作り込む」のではなく「ストーリーのことなんぞ後回しにして、とにかく世界観の構築に勤しむ」ことを優先させたキャメロン。その「無邪気さ」には、やっぱり恐ろしいものを感じます。リドリー・スコットやドゥニ・ヴィルヌーヴと比較しても異常です。どー考えても普通の感覚じゃない。
「映画を成立させる」のではなく「世界を成立させる」という行為に、現実世界を計量可能とする最先端技術を投入し、私たちが暮らす世界と遜色ない情報量を持つ世界を創り上げてしまったという事実を、どうか皆さん噛み締めてください。そんなことが出来る映画人は、おそらく現時点においてジェームズ・キャメロンただひとりだけなのですから。
しかし……このシリーズ、あと3作もあるって本当なのかよ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
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