【第83回】すずめの戸締まり
『営為と風景、あるいは新海誠のリベンジ・マッチについて』
いま「新海誠」と耳にして「喪失と別離の作家」とのたまう人は流石にもういないでしょう。一度固定化されたイメージを拭い去るのはなかなかに難しいことですが、それを今作で見事に更新してみせただけでも凄いと思う訳です。
まーたしかに、初期の頃の新海誠は「喪失と別離の作家」だった。むしろ「喪失と別離」以外に興味のない作家だった、と言い換えることが出来るかもしれない。村上春樹の諸作品を引用して、男女の精神的あるいは地理的なすれ違いと、そこから沸き立つ行き場のない感情を、美しい日本の風景に乗せて描く。ともすれば50年代日本映画のような静かで地味にしか見えない(いや、事実地味ではあるが)作品を、まるで新時代の作品であるかのように「偽装」するために彼が選択したのは、PhotoshopやAftter Effectなどの写真加工・動画編集ソフトの力だった。それら汎用化した技術の力は全て、ロケハンした現実の写真をトレース素材として扱う面に注力された。そのようにして手に入れた絶対王権をこれ見よがしに掲げることで、新海誠は、アニメ―ションという「実写よりも数段コントロール可能な世界」における、新時代の王として現出した。
僕は前々から新海誠を「ファンタジーの作家」だと認識している。剣や魔法が出てくるという意味でのファンタジーじゃない。それは、僕らの住んでいる「いま、ここ」の現実風景を精緻に加工することで生まれてくる「異化された現実」という意味でのファンタジーである。「異化された現実」とは文字通り「加工を施された世界」である。加工の度合いで成果物の完成度が変わってくるという前提に立って言うならば、それは作り手側の匙加減ひとつで、いくらでも変容可能な世界を指している。新海誠が取り組んできた「自然を加工する」という表現方法。それこそは、人工的な計画の下に区画整理を施し、自然のかたちを作り変えてきた、僕ら人間の営みに他ならない。そうすることによって生まれた世界にタグ付けされた情報は「設計」という一語に尽きる。仮に僕らの世界に「全知全能の創生神」とやらがいるのだとしたら、新海誠の映画に出てくるキャラクターたちと僕たちとは、同じ環境下で生きていることになる。キャラクターたちが制作者の意図するところに限定して活動を許されているように、僕らもまた効率化を目指して設計された社会で、都市がもたらす社会力学に無意識的に制御されながら活動を行っている。
制御された社会で生きている僕たち。制御された社会における風景……新海誠がなぜ実写ではなくアニメーションという手段での表現に拘るのかが、ここから見えてくる。それは「アニメーションの方が実写より風景を綺麗に描けるから」という単純な理由からではない。彼の世界における風景が、アニメーション技術のフル活用によって常に徹底的に設計されているのは、一目見れば明らかだ。「綺麗ではない現実など現実ではない」と宣言するかの如く、どのシーンにおいても風景や美術の佇まいは新海自身の感性および一般化した専門技術の力で加工され続けてきた。新海誠の作品が気に入らないという方の中には、そのあまりの「乱暴」とも取れる自然加工の工程の部分に、新海個人という枠組みを超えた、人間の傲慢さを感じ取っているからではないか。私たち現代人が、自然を加工し、人間の居住区を拡大してきたという、その罪深くも意識的であらねばならない営為に新海誠がはじめから自覚的であったかというと、そんな風にはどうしても見えない。もし彼に自己批評的な側面が最初からあったのだしたら、あそこまで風景を美化する手段は取らなかっただろうし、そもそもアニメーション監督ではなく実写の監督をやっているはずだと、少なくともこの映画を観る前の僕はそう思っていた。愚かにも。
新海誠という「神」の手で加工を施された自然たちは、キャラクターの心理説明/補完のための「従属物」と化す。多くの映画が言葉を映像の従属物として扱ってきたのに対し、彼は風景を心理のしもべとして使い倒す。『秒速5センチメートル』も『言の葉の庭』もそうだった。彼の映画に登場する風景たち……花びら、草木、夕日、雲、夜空、雨……は常に主人公たちの心情を間接的に描写し、あるいは彼らを取り巻くシチュエーションに「寄り添い」続けた。それが自らに与えられた使命であるかの如く、彼らはただ静かに「加工された姿」を僕らの前に晒してきた。
その傾向が変わりつつあったのが前作の『天気の子』だった。身近な自然を「災害」として受け止めた作品。起こった災害をなかったことにすることで、自らの創作世界における「自然の絶対性」を保護してみせた『君の名は。』や、あるいはそれ以前の作品群とは、自然に対するアプローチに微妙な変化が訪れていた。
本作『すずめの戸締まり』において、そのアプローチは完全に別方向へ舵を取った。巷では新海誠の集大成とも評される『すずめの戸締まり』における風景のルックは『君の名は。』以前の新海作品はもとより、『天気の子』の風景とは全く性質を異にする。ぼけーっと観ているだけじゃ分からないと思うけど、注意深く観察していれば、今回の作品の風景に「明確な違和感」を覚えることだろう。
つまり、この映画の自然は、とことん人間たちに対して無関心なのだ。それこそ野村監督版『砂の器』ばりに「無関心な佇まい」を見せつけてくる。これまでの新海作品には絶対にあり得なかった描き方だ。絶対的聖域としての風景は、この映画には出てこない。ある人にとっては美しく見えても、ある人にとっては忌まわしい記憶の呼び水としてしか機能しない。そのように風景は描かれており、どこまでも、時の経過と共に刻々と変化する対象物としての存在以上の価値を獲得してはいない。
そう、この映画における「風景」には「表情がない」のだ。この映画の風景と、過去の新海作品の中で最も自然風景が「顔」として表れている『言の葉の庭』とを比較すれば、その違いは一目瞭然である。ここにきて過去の新海作品として比較して、“『すずめの戸締まり』ではキャラクターの心理が掘り下げられてない”という意見を口にするのは、的外れも的外れであることが分かる。だって、風景でキャラ心理を説明するいつもの手法、使ってないんだから。それまでの新海作品とは、心理描写の描き方が全然違うんだから。
「風景らしく」限りなく後景に引かれた風景。代わりに前景として存在感を増しているのは「厄災」と呼ばれる現象である。赤黒いミミズ型触手のように描かれたそれは「後ろ戸」と呼ばれる異界へ通じる扉を介して現実世界に現れてくる。厄災の象徴であるミミズが日本列島にもたらすのは大小さまざまの地震現象だ。つまり、この世界における大地震のメカニズムはプレートテクトニクス理論に支えられたものではなく、プレートとプレートの間にエネルギーが溜まり、それが「ひずみ」となってミミズのかたちをとって現れてくるというものなのだ。なんだか「伝奇モノ」の十八番のような設定であり、そこに日本列島を巻き込んだ「厄災」が絡むとなったら、これはもう魔人・加藤や夏油を呼んできて怨霊呪術合戦をするしかないっすねぇ!……となるのは、僕みたいなボンクラオタクぐらいのもので、物語構造主義者として一皮剥けた新海誠は、そんなことはしない。より多くのお客さんに届けるために、極めてシンプル且つ王道的に話を進めていく。
冒頭12分がUNEXTで無料公開されているから確認してほしいが、序盤から『君の名は。』ばりの超速編集テンポが炸裂する。「5分に1回は何かが起きてる」というスピード感を最初から維持したまま、前半部分は主人公・スズメと、イスに変えられた宗太のバディ物として進んでいく。「私たち、いいコンビかも!」というスズメの言葉にも表れているように、とかくアニメーションとしてのバディっぷりが面白い(そう、間違っても双方向に想いを寄せ合う恋愛関係ではない。そんなことを真顔で抜かしてるのは恋愛脳に犯された一部のオタクだけである)。イスに変えられた宗太の物理法則を無視したアクションと、それに対応するスズメのリアクションとが有機的に絡み合い、どこかコメディタッチのロードムービーといった趣で進んでいく。その朗らかなやり取りからは、これが「厄災を封じ込める」という重苦しい目的を持った旅であることを、一瞬忘れさせてくれるくらいだ。
しかしながら、この映画に対して否定的な意見を持つ人の多くが、この序盤~中盤の展開が「飽きる」と口にしている。まぁ、分かる。ダイジンを追って目的の土地に行く⇒人々と触れ合う⇒その土地の後ろ戸を閉める……という、オープンワールドゲームのサブイベントみたいな展開が連続するため、宗太とダイジンの追いかけっこや宗太のイス・アニメーションという部分に着目すれば面白く感じられるものの、ドラマ面に注目する人には、どこに主眼を置いて良いか分からなくなると思う。
けれど、この序盤~中盤で注目すべきはドラマではない。そこで意識するべきは、反復作業として描かれる「扉を閉める」行為そのものにある。ドラマは後半部分にしっかりと取ってある。それは、主役二人の背景情報の開示を最小限に留めたまま先へ先へ進んでいく序盤の展開から、明らかに示唆されている。「ドラマ?それは今見るべきところじゃないよ」とでも告げるかのように、ともすれば「生き急いでいる」ともとれる展開のスピード。そのスピードに乗せたダイジンとイス宗太の爽快感あるアクションとは別に、その土地その土地での人々との交流や「扉を閉める」という、あまりにも地味過ぎるアクションが並列化して展開していくのだが、これの意味が後半繰り広げられるドラマの伏線として十分に機能している。「扉を閉める」という、言うまでもなく僕たちが日常的に繰り返すアクション。「日常」のメタファーとして機能する「扉を閉める」というアクション。それは、どうしたって地味になる。いや、地味でなくてはならない。なぜなら僕を含めた多くの人たちの「日常」そのものもまた「地味」なものだからだ。
目の前で起こった、あるいは起こりかけている悲劇を、誰それの責任だと「押し付ける」のではなく、「喪失を抱えて生きていこう」と知った風な口をして「引き受ける」のでもない。ただ、目の前の危機を未然に防ぐにはどうすればよいかだけを考え、行動に移す。その一見して地道な、しかし欠かすことのできない作業によって支えられる日常のありがたみを、これまた地味で、その行動様式だけに着目すれば私たちの日常に数えきれないほどある「扉を閉める」という「大事だが目に留まることのない地味な」作業を繰り返し繰り返し反復することで描いて見せる。そして、そんな地味で一見退屈にも見える日常の積み重ねこそが、不自由さを覚える他者の救いに繋がるかもしれないし、もしかしたら、絶望の淵で懸命に足を踏ん張っている己の魂をも救済することにも繋がるんじゃないかと、この映画はド正面から訴えてくる。おそらくこれまでの新海作品において最もアクションの外連味がある部分とそうでない部分の落差が激しい作品であり、それはそっくりコメディ的な要素とシリアスな要素の落差に繋がる。このギャップが観客を映画の世界に繋ぎ止めるアンカーとして十全に作用しているため、この映画に「飽きる」ことはまずないでしょう。観客の興味の持続が保つように娯楽映画としてしっかり描くという意識があるからこそ、作り手側の真摯な想いが明確に伝わってくるのだ。
この映画は「人間賛歌」というよりも「人間の生活賛歌」とも言うべき作品だ。それまで「風景第一主義」らしく人間の生活にはまるで目もくれなかった新海作品にしては珍しいくらい、雑多な人々の暮らしぶりが描かれている。温泉宿で働く人々、パブで働く人々、電車通勤する人々、船のデッキでくつろぐ人々、SNSに興じる人々……薄気味悪い存在として日常にべったりと張り着く「厄災」に気づくことさえできない彼らに対して、どこまでも無関心を貫く「自然」。対して、新海誠の眼差しは極めて穏やかだ。ここでは自然の代わりとして、新海自身の「眼差し」がキャラクターの心理に寄り添っている。彼は、すぐそこにある「厄災」に対して鈍感でいる市井の人々を「危機意識に欠如した愚者」としては描かない。何気ない、ごく普通の生活をごく普通に送っている人々としてしか描かない。社会はそのような「普通」とされる営為の、しかし個人個人にとって欠かすことのできない生活の集積物として在るとする。死と生が等価の概念であると頭では理解してはいるが、それでも死ぬのは怖いし、今を全力で生き抜いていきたいんだと、恥ずかしがることなく同等と語ってみせる。その語り口ははごくごく普通で、なんの奇天烈さもない。僕のようなスレた人間からすれば「薄っぺらく」も見える。終わり方も「綺麗に逃げたな」ととらえることだって出来る。けれど、どこかでスズメのアクションに対して「そうだよなぁ、そうでなくちゃなぁ」と思える自分もいる。
メッセージはありきたりで、そこへ至るまでの手法も古今東西の物語構造の王道を往くものだ。でも、ここまで「普通に」物語を語ろうとする映画監督って、いまの日本にどれくらいいるんだろうか。なにか、変わった設定を持ってこなきゃいけない。なにか、変わった展開にしなきゃいけない。そうでなければ観客の興味を持続できないと強迫観念じみた勘違いに囚われた監督たちが多くある中で、物語を伝えるための構造を把握したうえで、自分が語るべきメッセージを届けるためにどこにアクションを配置すればよいか、どこにドラマのピークを持ってくるべきかを、これだけ考えていけるのは凄いことだと思う。まぁ、個人的な要望を言えばスズメのバックボーンはプロットポイントⅡの辺りではなく、もう少し前、より正確にはミッドポイント(東京で“アレ”をやる下り)の少し前あたりで明らかにしてくれた方が良かった……そうすれば、スズメの感情ベクトルは更にグチャグチャになり、俺のような業の深い変態紳士の溜飲も下がるもの……でもそんなことしたらドシリアス過ぎて引くお客さんもわんさかいるだろうし、そこは悩ましいところですね。
物語構造……いわゆるハリウッドで古くから使われている三幕構成という奴ですが、新海監督はデビュー当初からそれを常に意識した制作をしていた訳ではない。構成を明らかに匂わせてきたのは2011年、折しも今作『すずめの戸締まり』で重要なモチーフとして間接的に使用される「東日本大震災」の最中に制作されたハイ・ファンタジー映画『星を追う子ども』からだ。そして、本作『すずめの戸締まり』は『星を追う子ども』のセルフリファレンスという領域を超えて「リベンジ・マッチを賭けた作品」としてみても、大いに楽しめる作品として仕上がっている。
『星を追う子ども』とは、端的に言えば「妻を病で亡くした中年男と、好きになった男の子を亡くした少女とが、死者蘇生の秘術が眠ると言われる謎の地下世界を共に旅する物語」である。その作品的ビジュアルはアニメーションの王道を歩んでこなかった新海監督の負い目や嫉妬を覆い隠すかの如く、あちこちどっかで見たよーな、誤解を恐れずに言えば「ジブリ的な」記号やらシーンやらだったりが散見していた。別に引用するのが悪いとは言わないし、古今東西の物語は全て引用で成り立っていると考えるなら『星を追う子ども』から本格的に物語構造を意識して作劇に取り組み始めた新海誠ならではの引用量だと思う。問題なのは、その引用がただの「引用」すなわち記号的モチーフだけを借りてきただけであり、そこに込められるはずの象徴性といったものが、まるで見えてこなかったことにある。反対に、アクションではなくキャラクターの口を借りて語られるのは、空疎なお題目の数々だった。「死も生も、もっと大きな流れの一部でしかない」「私たちは喪失を抱えながら、それでも生きていかねばならない」。なにか、遠慮している。なにか、諦めている。しがみつくのではなく、離すことで人は大人になれるという知った風な論理に、しかし当時、まだ若かった僕はヤラれてしまった。そうだとも、人は理性の力で不条理や喪失の一切を引き受けることが出来るのだと、愚かにも西洋被れな人間理性の万能性を妄信してしまったわけでありますが、ここのところが翻って『星を追う子ども』が最も批判されうるべきポイントであるのだ。それこそ頭でっかちな、合理主義一辺倒な、物分かりの良い、真っ新なノートに筆ペンで書かれた「きれいな」主義主張は、極端に主体性を欠いたキャラクターたちの雑多なアクションと、凡庸極まりない美術の「普通さ」も相まって、今となっては見れたもんじゃないんです。
嘘だと思うそこのあなた、序盤の展開なんてそっくりだから比較してみてください。ロードムービーという点も共通しているし、ネコだって出てくるんだぞ!(笑)。ここではないどこかへ行きたいと願う少女が地元の裏山で未知の現象に出会い、男に助けられ、異世界へ行くための鍵を預かり、異世界へ旅立つ……というこの下りも、そのままですから。キャラクターの情報開示量を制限し、“動機”ではなく“目的”を早々に明確化し、編集テンポを変えるだけで、構造は同じなのに全く別物に見えるというマジック。だがその魔法が解けることはなく、それは映画の時間の中で「現実」として君臨し続ける。そのための補助として、この映画は多くの作品を引用している。無論、『星を追う子ども』の頃のような、額面だけの引用ではない。少女の成長物語として『魔女の宅急便』を、彼岸へ渡る物語として『千と千尋の神隠し』を、そしてそして、これはマジで驚いたんだが『劇パト2』からの引用もあるときている。凶兆のしるしとして鳥を大量に出すシーン、「危機がそこにある日常」として東京都民らを切り取り繋げたシーン。これは流石に本家押井のようなダレ場にはなっていなかったが、しかし意図としては明白だ。人々の思考の中で息づく都市、設計された現実の空間としての日常。それを意識させるのに『劇パト2』を引用してくるのはベストチョイスだと言わざるを得ない。「新海……!貴様、押井映画も嗜んでいたのか……!」と椅子から転げ落ちるオシイスト多数と思われますです。
だからまぁ、凄いんですよ。だってさ、なかったことにだって出来るわけじゃないですか。これは僕個人の肌感覚になってしまうけど『星を追う子ども』を語る人ってそんなに周りでいないわけよ。そりゃあ、酷評とまではいかなくても語るべき言葉を持ち合わせてないなんてことは、みんな分かり切ってるからね。新海さんも「あれはアニメーションの王道に一度手を触れてみたかっただけなんです」で、済ませておけばいいじゃないですか。事実、インタビュー記事やなんかでそんな風なことを口にしているし、それでファンは「そうなんだ」で納得できる生き物なんですよ。好きなクリエイターの黒歴史をわざわざ掘り返して腐臭いを嗅いで嫌がるなんてことはしないんだから。
でも、新海監督はそういう「言い訳」だけで済ませようとはしなかった。彼は自己批評をした。過去をなかったことにするのではなく、過去を悪夢として遠ざけるのでもなかった。反省し、思考し、行動したのだ。その作家的スタンスと本作における『すずめの戸締まり』におけるスズメの立ち位置と見事にリンクしているのが、実はこの映画で一番僕が感動した点だったりする。震災映画という枠組みとして見ると、どうしても当事者としての主観が邪魔をして冷静に見ることは難しい。それでも、これだけ多くのターゲット層を抱えて大ヒットを飛ばすことが半ば宿命づけられている立場に立たされた上で、そのお客さんを満足させつつ、それとは別次元のところで過去の自分との「勝負」に打って出た。そのカッコ良すぎるスタンスを見せつけられて、感動しないわけがないんですよ。
だが、だからと言って新海監督が「災害」を自身の永遠のテーマにしているかと言えば、それは違うと僕は言いたい。彼は自分の伝えたいメッセージを伝えるために災害というシチュエーションを利用しているだけで、なにかこれといった特別な「テーマ」を持ち続けて作家活動をしてきた人ではないと僕は考えている。だから、この次を観たいと切に願う。心理描写の従属物としての風景を鎖から解き放ち、人と人との「生々しいコミュニケーション」に着目した新海誠……もう、我慢しなくていいから、次はSFを撮ってくれ! グレッグ・イーガン好きなんだろ? ハードSF大好きなんだろ? そんなん分かるんだよ観てりゃあよォ。だから、頼むから川村元気プロデューサー! 彼にSFを撮らせてくれ! 頼むよ!
あと、もうそろそろ天門さんと再タッグを組んでくれ 天門推しの友人が新作のスタッフ公開されるたびに毎度微妙な顔をするのをこれ以上見たくないのだ!(笑)