番外編 公開前の「すずめの戸締り」についてあれこれ考えてみた
昨日、新宿のゴジラタワー、もといTOHOシネマズでIMAX版「君の名は。」を観てきた。
ぶっちゃけ君の名は。を真面目に観るのは実は五年ぶりだったりする。DVDはもちろん買ってあるけれど、それも家で最後に観たのはたしか2017年ぐらいのことなので、なんだか新鮮な気持ちで観れたのでお得だった。映像・編集・音楽・美術、すべてが気持ち良く混ざり合い、終盤に行くにつれて力技の目立つやや荒っぽい感じはあったものの、それでも序盤~中盤のスピード感は凄まじく「こんなにテンポの良い映画だったんだなぁ」と驚き喜んだ。俺はあの映画が公開された当初、それまでの新海作品とは明らかに異なる「作風」だと感じたものだが、今にして思えばそれは誤解も甚だしいものだった。初期の新海作品は「物語としての明確な構造」を持っていないが、個人的に『星を追うこども』の辺りからその傾向は変わっていったと感じる。あの時、多くの新海ファンが『君の名は。』を観たときに抱いた「戸惑い」の正体は、物語を持たない「映像作家」としての新海誠に慣れ親しんでいたことの反動なんじゃないかと思う。そしてまた、従来と同様の精緻で(ファンタジーな)映像を使いながらも、編集のスピードを変え、反復表現を多用し、明確な物語の構造を持たせるだけで、こんなにも違ったものに見えるのかと、改めて勉強になった。
とまぁ十分に楽しんだ訳ですが、一方で気になるのは上映前の予告で流れた『すずめの戸締り』であります。公開一か月前のこのタイミングで、改めてどういう話になるのかを、現時点で出ている情報だけを元に、しがない半端者のオタクがあれこれ予想して語ってみるというのが本記事の趣旨。
間違っても、そう、間違っても「論拠」に基づいた「考察」では決してない。あくまでもオタクの妄言であり、「ぼくの考えた『すずめの戸締り』」的な感じのことをつらつら書いていくだけだ。
というわけで早速行ってみましょう。ちなみに、今回おそらく新海作品では初「ノベライズが映画公開前に出版される」という戦略を取っているようですが、購入してません。「買いたい!」という衝動を抑えた俺、偉い。
〇宗像草太と「宗像三女神」―「閉じ師」という生業-
2022年10月2日現在。『すずめの戸締り』の公式HPには、すでにメインキャラクターの設定とあらすじが記載されている。九州の静かな町で暮らす17歳の少女・岩戸鈴芽は、日本各地に点在する「世界に災いを呼び込む扉」を閉めることを生業とする「閉じ師」の一族のひとり、宗像草太に出会う。そこに「ダイジン」と名乗る「しゃべるネコ」が現れる。不思議なネコの力で、草太は椅子に姿を変えられてしまう。逃げるネコを椅子の姿のまま追いかける草太、さらにそれを追いかける鈴芽。こうして不思議なネコに誘われるかたちで、鈴芽と草太は日本各地を旅して周り、災いを呼び込む扉を閉めていく――
まず目を惹くのは、このあからさまに「古事記」を引用していますと言わんばかりのキャラクターの名前にある。それまでにも新海作品には――特に新海誠自身が「物語の構造・類型」を意識して映画製作を作り始めた2010年初頭の頃から――「古事記」などに代表される民間伝承からの援用が散見された。しかし、ここまではっきり見て分かるレベルで示されたのは、たぶん今回が初めてなんじゃないだろうか。
主人公・岩戸鈴芽。「岩戸」とは言わずもがな「天岩戸」である。そして、もう一人の主人公である宗像草太。これは明らかに九州は福岡県に建立された「宗像大社」ひいては「宗像三女神」から取られているとみて間違いない。ちなみに「宗像」と聞いて『宗像教授伝奇考』を想起したそこのあなた、あなたとは良い酒が飲めそうだ。友達になりましょう。
まず、宗像三女神について説明する。その始まりは、イザナギがイザナミに逢うために「根の国」(いわゆる黄泉国、死者たちの世界)へ赴いたものの、根の国において禁を犯したがゆえに妻を取り返すこと叶わず、現世に舞い戻ってきたところから始まる。根の国からほうぼうの体で舞い戻ってきたイザナギは河に身を沈め、その身についた「穢れ」を落とす。すると、その穢れから三柱の神々が生まれた。アマテラス、ツクヨミ、スサノオの三柱だ。世に言うところの「三貴神」である。
イザナギは、生まれたての我が子たちに、それぞれ統治を命じた。アマテラスには天(天津神の住む「高天原」)を、ツクヨミには夜の国を、スサノオには海原(葦原中国)を治めるように言いつけたのだ。しかしスサノオだけは、イザナギの言いつけを守らず、それどころかわんわん大声で泣いてばかりいる。そのせいで海流は激しさを増すばかりで、稲光は轟くのを止めず、海原は荒れに荒れた。
困ったイザナギが「なぜ私の指示に従わない。一体何がそんなに不満なんだ」とスサノオに問い質すと、スサノオは「ママに逢いたい……泣きたくなってきた……」と、グリーンドルフィン・ストリート刑務所にぶち込まれたばかりの空条徐倫もかくやと言わんばかりの泣き言を漏らした。スサノオは生前の母・イザナミに逢いたくてしょうがない。どれだけイザナギが説得を試みても話を聞いてくれない。イザナギはついに痺れを切らして「もうお父さん知らないからね!そんなに根の国に行きたかったら勝手に行きなさい!」と、スサノオを突き放す。父にも見捨てられたスサノオはしょんぼり背中で根の国へ向かおうとするが、出立の前に、敬愛する姉のアマテラスにはひと声かけておくのが弟としての礼儀だと思ったらしく、びゅーんと高天原目掛けて天を飛ぶ。その時、スサノオの高揚した感情とシンクロして、海はまたもや荒れ、高天原に稲光が轟く。これに驚いたアマテラスは「スサノオが高天原を手中に収めんと攻めてきた」と勘違いし、高天原にやってきたスサノオを問い詰める。「何用でここへ参ったか。まさか叛心あってのことではあるまいな」「とんでもない姉上。私はこれから母に会いに根の国へ向かいます。その前に、姉上にひと声かけておこうと思ったまでです」「そのような言い訳を、どう信じろというのか」警戒するアマテラスに、スサノオはある提案をする。
「それでは、私と姉上で誓約を行いましょう」
スサノオとアマテラスは互いに贈り物を送り合った。アマテラスがスサノオから渡された十拳剣を噛み砕き、息を吐くと、そこから三人の女神が生まれた。この時生まれた三柱の女神が「宗像三女神」なのである。
そして現在、「宗像三女神」は「道」を司る最高神として祀られている。ここで言う「道」とは「陸路」だけではなく「海路」のことも指している。だから、おそらく『すずめの戸締り』では陸路を移動するシーンと同じくらい、フェリーに乗って海路を旅するシーンもあるんじゃないのかなと予想する。
宗像三女神は「陸」と「海」の道を指し示す「道主貴」である。ここから派生して、宗像三女神を「交通安全の神様」「進むべき道を指し示す神様」という見方もあり、さしずめジョジョリオンのペイズリー・パークである。
よって、おそらく『すずめの戸締り』では、宗像三女神の名を冠する宗像草太が、何かしらの障害にぶつかり「人生の進むべき指針を見失った鈴芽」に「進むべき道」を指し示す……そんなメンター的な展開があるのかもしれない。まぁ王道っちゃ王道だわな。
ちなみに「宗像三女神」を主神として祀る「宗像大社」は、前述したように福岡県に建立されてている。だからこの物語は九州から出発するのは当然のことなんだが、宗像三女神は先ほども言ったように「道の神様」という性質を持つため、全国各地の神社で祀られている。北海道にも「宗像神社」が存在するらしい。なので、おそらく『すずめの戸締り』における「扉を閉めるルート」は(物語の中では明示されることはないだろうが)福岡の「宗像大社」近辺を起点にして東へ東へと歩みを進めていき、「宗像神社」がある県や市を巡るかたちになるのではないか。そして、そのゴール地点はおそらく北海道(蝦夷、すなわち「まつろわぬ神々が棲む土地」)ではないか。
宗像草太の職業は「閉じ師」ということだが、それは「陸路」や「海路」という道という道を辿って日本各地を旅する、まさしく「道」に縁を持つ生業なのかもしれない。その過程で、彼は多くの人と縁を持った過去があったのかもしれない。おそらく、その仕事内容からして一般の職業とはかけ離れたものであり、山から山へと移動し、一か所に定住することをしない「まつろわぬ民」の末裔である「サンカ」のような風習が「閉じ師」にはあるのかもしれない。だが、それも時代が下るにつれて現代社会との関りを余儀なくされるようになったことで、規律が乱れ、時代に取り残され、風習と伝統だけが残された。もしかすると、現代における「閉じ師」というのは、物乞いに近い生活なんじゃないのか。そういう暮らしを送っていれば、人々の優しさが肌に染み入る経験だってするだろう。草太が「閉じ師」として活動する、その一番の行動原理は、案外そういう部分にあるんじゃないだろうか。鈴芽は日本各地を旅してまわる中で、かつて宗像草太と縁のあった人達とも出会うようになり、そこで草太の人物像を知っていくというような展開があるのかもしれない。
〇岩戸鈴芽と「天岩戸」-扉の向こうにあるものとは―
宗像三女神と天岩戸。実はこの二つは無関係ではない。日本神話に詳しくない方でも当然のように知っている「天岩戸」の伝承は、先ほど説明した「宗像三女神」を生んだ「誓約」の出来事と繋がっている。
アマテラスはスサノオとの「誓約」に臨んで三柱の神様……宗像三女神を生み出した。それを見たスサノオは「見ましたか姉上!私の差し出した剣から、こんなにも優しくてカワイイ女神が三柱も生まれた!これは私に謀反の意志がないことの証です!」と勝ち名乗りを上げる。アマテラスは弟を許し、高天原に彼を住まわせる。そして、スサノオはめっちゃ調子に乗る。それはもう調子に乗りまくる。高天原で乱暴狼藉を働き、沢山の神様たちに迷惑をかける。アマテラスもアマテラスで「この頃のスサノオ様の行いには目に余るものがあります。宮中にウンコまき散らすとか正気の沙汰ではありません。なんとかしてください」と部下から諫言されても「あの子は本当は優しい良い子なのよ……だから許してやってちょうだい」とダメンズウォーカーぶりを遺憾なく発揮してしまう。なんだかこのアマテラスは、DV夫から離れられない奥さんみたいで気の毒に思えてくる。
しかし、そんな風にスサノオを甘やかしていたアマテラスだったが、部下の女官がスサノオの悪戯の巻き添えを食らって亡くなったと耳にして、ついに堪忍袋の緒が切れた。「お姉ちゃんもう知らないからね!」と憤り、その身を天岩戸に隠してしまう。「太陽神」であるアマテラスが岩戸の奥に隠れてしまったために、高天原も、地上にある葦原中国も闇に覆われて「災い」が起こり始める。困った神様たちは知恵の神・オモイカネにこの一件を相談する。オモイカネは「とりえずみんなで踊って、それでアマテラス様の気を引き付けよう」という、なんだか小学生が休み時間に鼻くそほじりながら考えたような作戦を提案し、実行に移すことになる。この珍妙な作戦は踊りの神・アマノウズメと力の神・タヂカラオらの協力を得て無事に完遂され、アマテラスは再び高天原にその姿を現し、こうして太陽は再びの輝きを取り戻した。一連の騒動の原因となったスサノオは神々の手によって高天原を追放され、葦原中国へ帰っていった……
『すずめの戸締り』における岩戸鈴芽のモチーフが「天岩戸」にあるのは、その苗字からしても明らかである。扉を閉める旅に出かけた少女の名前が、その扉自身を暗喩しているとは、なんだか妙である。また「古事記」においては「岩戸=扉」を閉めたことによって「災い」が起きるが、『すずめの戸締り』のあらすじを見るに、本作では「扉」を開けることによって「災い」が起こるとされている。重要なのは「扉を閉める行為」そのものではなく「“なにを”扉の向こう側へ追いやるのか」だと思う。それは鈴芽たちの住んでいる世界においては「災い」であるのかもしれないが、扉の向こう側にある「セカイ」では、また違った意味と役割を持つのかもしれない。
これまでの新海作品に共通して言えるのは、そこで活躍するキャラクターの行動から見えてくるのは、この世界は「ディスコミュニケーション」の世界であるということだ。人間は理知的な生き物というよりかは、その場その場の問題を合理的な推察よりも感情を優先して片づける傾向がある。人間とは感情で何かを成し遂げてしまう生き物であり、それが時に良い方向に働くこともあれば、悪い方向に働くこともある。個人が「これは良いことだ」と思ってやったことが、巡り巡って世界的な問題を呼び起こしてしまう。「わたし」がいて「あなた」がいるこの「世界」は、「わたし」と「あなた」がそれぞれ見ている「現実」を複合的に「重なり合わせた世界」であるのだから、そこではどうしたって摩擦が起こりえる。新海誠の世界における「理解」とは「誤解の総体」であり、それはどうすることもできないという「諦観」にも似た空気が、新海作品には必ずあると言っても良い。しかし、そんな「ディスコミュニケーション」の世界で生きていても、人間が人間を誤解し続ける世界であったとしても、それでも人間は誰かを「理解したい」と願い努力することが出来る。美しい風景というのは、ただ風景が「美しく見える」から「素晴らしい」のではなく、風景の中で様々な人の想いが醸成されるからこそ「美しく見える」から「素晴らしい」のだとする。そういう「機能」が人間には備わっているのだと新海作品は語り続ける。「(世界の一部としての)人間を肯定する」のが新海作品の基本思想であると個人的に類推するなら、主人公はたくさんの間違いを起こすし、間違いを起こさなければならない。過ちを犯し、その過ちを受け止め、反省し、次にどう行動するかを考えるのも、人間が持つ「美しさ」のひとつであるからだ。
だとするなら、おそらく『天気の子』における帆高がそうであったように、鈴芽もまた劇中において何かしらの「過ち」を犯してしまうかもしれない。それは、帆高が犯した軽犯罪よりもずっとずっと重く、苦しい過ちであり、それは物語のメインフレームである「扉を閉める旅」に関係しているんじゃないだろうか。人々を不幸にする「災い」がこの世に訪れないよう「扉」を閉めて回っていた鈴芽の行為そのものが、実は「災い」の背後に控える「“本当の”災い」を呼び起こす遠因となる……そういう展開がきてもおかしくはない。仮にそうなった場合、鈴芽はどうやって「“本当の”災い」を食い止めるのだろうか。まさか某死神漫画のように「俺自身が〇牙になることだ」ならぬ「あたし自身が“扉”になることだ」的な展開になるのか。それなら、鈴芽の苗字が「岩戸」であることにも納得がいく。そうなると問題は、やはり「“なにを”扉の向こう側へ追いやるのか」「扉の向こうにある”なにか”とは何なのか」という点だと思う。
実は、この点については、すでに2022/7/15に東宝MOVIEチャンネルがYoutubeに公開した予告編のラストにおいて、ある程度示唆されている。
「迷い込んだその先には、全部の時間が溶け合ったような、空があった」
この台詞と共に予告編のラストで映し出された世界は、夜空に浮かぶ雲に混じって銀河が流れているという、現実の自然現象では「絶対にありえない」世界である。しかし新海監督は、これと似たようなことをすでに『秒速5センチメートル』でやっている。私たちの現実には決して存在しない「ありえない風景」……そして「全部の時間が溶け合ったような空」が暗喩しているもの。これはおそらく「多様性が実現した社会」のことではないか。映画界だけでなく社会全体を浸食しているポリティカル・コレクトネスの波と、それに対する反動として過激化の一途を増すナショナリズム・極右活動の傾向は、現在も深刻な問題として根深くある。そしてこの、右に大きく舵を振るか、左に大きく舵を振るかしかできない、極端且つ単純化された現代社会のどこにも「中庸の精神」を見出すことはできない。世界が「多様性」に固執すればするほど世界は混乱の渦中に飲み込まれていくというのが、今の私たちが暮らしている世界の現実だ。つまり、私たちの世界は「多様性」を容易く受け入れられるほど成熟しちゃいないし、そこまで人間は理知的な生き物ではないと新海誠が考えているのなら、「扉の向こう側の世界=多様性が実現した世界」からやってくる概念・事物を「災い」として描写するのにも納得がいく。しかし間違ってはならないのは、新海誠はなにも「反ポリコレ」の人ではないということだ。彼は「多様性」そのものを否定しているのではなく「多様性を受け入れる準備は、まだこの社会は整ってはいない」と考えている節があるというだけの話だ。というか、少なくとも新海誠自身はノンポリだろう。そういった政治的な要素をあからさまに作風に出す感じの人ではないように思える。
私たちの世界は理想を受け入れられるほど成熟しきっていない。人間はそこまで理知的な生き物ではない。間違いも犯すし平気で他人を傷つける。だが、それでも人間は生きていかなくてはならない……『すずめの戸締り』に込められたメッセージは、きっとこれまでの新海作品と変わっていない。
〇しゃべる猫・ダイジンとはなにか
ところで先ほど話に出したアマテラスだが、その正式名称を漢字で書くと「天照大神」となる。『大神』と聞いて、あの某名作ゲームを思い出した方とも、俺は友達になれそうだ。
「大神」……「神の敬称」として用いられるこの言葉だが、訓読みでは「オオカミ」と読む。そして音読みでは「ダイジン」……ま、まさかっ! そ、そんなダジャレのような展開があっていいのか!?
いやねー自分でも間抜けな予想だなとは思いますよ? でもそうでないとつじつまが合わないというか。「岩戸」「宗像」と象徴的な名前を持つキャラクターに混じって「ダイジン」なんていうふざけたネーミングのキャラクターがいるのは、これは理由があると見て然るべきでしょうに。
でもこの考えに則って、あの喋るネコ=ダイジンが「アマテラス」と同一の存在、あるいは「アマテラス」の役割を持つキャラクターだとすると、なかなか興味深い。「古事記」において、アマテラスはスサノオの横暴に怒って天岩戸に隠れたことで「災い」が起きたと記述されている。しかし、この映画における「アマテラス=ダイジン」は、予告編から察するに、別に扉の向こう側に引きこもっているわけではないように見える。というか、もっと言ってしまえば、あの「きゅうべぇ」崩れのネコは世界中の扉を開けて災いを振りまこうとしている元凶のような存在として描かれているようにも見える。そして、岩戸鈴芽に対して、何かしらの好意を抱いている。これは一体何を意味しているんだろうか。
謎を解くカギはあると俺は見ている。新海誠が2019年の大晦日に自身のホームページ「Ohter voices~遠い声~」にて掲載した文章がそれだ。ここで新海誠は、物語を紡いでいく行為、脚本を書いていく行為を「ひとつひとつの可能性を閉じていく行為」と表現している。脚本で最初の一行を書くという行為は、それ以外の無数の物語の可能性を諦めていくことと同じである。一行一行、少しずつ物語を書き進めていくうちに、当初は無限の広がりを見せていた「セカイ」のかたちは、エンディングを迎えると同時にひとつの「世界」に収まる。その過程でこぼれ落ちていった物語や、閉じてしまった物語、その断片がいかなるものであるかを知ることは、作者本人にさえできない……アニメーション制作とは「何かを諦めていくこと」の連続であると新海誠は語っている。
ひとつひとつの可能性を閉じていくという、新海独自の表現によって語られる創作行為。これは、鈴芽が「扉を閉めていく行為」と、深層の部分において置換可能と見ることが出来る。鈴芽が閉じているのは「災いを招く扉」でありながら、メタ的な視点で見れば、鈴芽がしていることは「物語を一つの結末に収斂させるために、あらゆる可能性を捨てている」行為でもある。ひとつのゴールに向かって進む物語の中で明確化されていくのは、切り捨てられていく「こうであったかもしれない物語の可能性」としての「全ての時間が溶け合ったような空を持つ世界」と、その世界の「入口」として機能する「扉」が放つ、物言わぬ儚さなのだろうか。ならば、扉の向こう側の世界からやってきた「異邦の神」、あるいは「“扉”自身が遣わせた“使い魔”」的な存在のダイジンの狙いとは、扉の向こう側に追いやられた「可能性としての世界」を「可能性」としてではなく「現実の世界」として、鈴芽たちの世界と「接続」することにあるんじゃないだろうか。
「こうであったかもしれない物語の可能性」……それはSF民ならお馴染みの「並行世界」「マルチバース」そのものともいえる。そしてすでに、新海誠はそれを一度描いている。架空の戦後日本を背景に描いた『雲の向こう、約束の場所』がそれだ。そこでは、ある研究所の研究員が「並行世界」を「夢」になぞられて説明している描写がある。「並行世界」とは、いま、私たちが暮らしているこの世界が見ている「夢」のようなものなのだと。
「夢」……『雲の向こう、約束の場所』『君の名は。』と、これまで新海作品の主要なモチーフとして使われてきた要素だが、今作『すずめの戸締り』にも『夢』のモチーフが出てくるようだ。というのも、主人公の鈴芽はよく夢の世界で、幼い頃の自分が見知らぬ廃墟の中で佇む夢を見るという。これはきっと「扉の向こう側にある世界」の夢であり、もしかすると鈴芽というキャラクターは作中の世界ではなく「扉の向こう側にある世界」で生まれた存在なのかもしれない。扉の前でオギャッっていたところを、母親に拾われたとか、そんな展開なんだろうか?
〇その他
『星を追うこども』との明らかな類似性(ロードムービーである点、行きて帰りし物語、「いってきます」の台詞の使い方)が見られるのも『すずめの戸締り』の特徴だけど、めんどくさいから書くの止めます。
〇まとめ
・鈴芽と草太は九州から出発して北海道へ行く。途中、東京でデカい事件が起こって足止めを食らう。
・鈴芽は「扉の向こう側」からやってきた存在で、だから扉を開け閉めする「鍵」を使うことが出来る。
・鈴芽は順調に扉を閉めていくが、逆にそのことが遠因となって「“本当の”災い」が起こる。扉を閉めまくったことで、行き場を失くした災いのエネルギーが一か所に集中化してしまう?
・鈴芽は某死神漫画みたいに「扉自身」になって災厄の流れを食い止める?
・草太はマルドゥック・スクランブルで言うところのウフコック的な存在。つまりメンター。最後には「閉じ師」の職業から解放されて、自分が本当にやりたいことをやる。たぶん写真家になる。
・ダイジンは天照大神の変種。「忘れられた世界」を現実のものとするために行動している。「扉」を使って、逆に鈴芽たちのいる世界を「閉じる」展開がくる。そのことにより、大量の災いが鈴芽たちのいる世界へなだれ込んでくる?
・少なくとも『君の名は。』までに見られた「時間的・空間的な断絶とすれ違いのお話」ではないように思う。