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【第81回】シン・ウルトラマン

前回と前々回はちょっと手抜きでしたけど、今回は真面目にテンプレに従ってレビューします。

『不思議な不思議な、宇宙人さんの物語』


ウルトラマン


お馴染み、日本が『ゴジラ』と並んで世界に誇るキャラクターコンテンツのひとつでありますが、告白すると私、ウルトラマンってあんまり詳しく知らなかったんですよね(笑)。同じ円谷特撮でも私は幼少期の頃からゴジラ大好き人間だったもんで、そっちの方ばっかり夢中になって、なぜかウルトラマンには心惹かれなかったんですな……しかし、この前ふと子供の頃のアルバムを振り返ってみて発見したんですが、幼稚園の頃の私の写真は「ゴジラのポーズ」と「スペシウム光線を撃つポーズ」の二種類ばかりだったので、案外馴染みがあったのかな……うーん、俺ウルトラマン、どちらかというとあまり好きではなかったはずなんだけど、子供心にスペシウム光線「だけ」は好きだったんでしょうか。


もちろん、知らないと言っても、そこはまぁ一応オタクのはしくれですから、ある程度のことは知ってます。有名どころのピグモン、レッドキング、バルタン星人はもとより、ゴモラとかダダとかジャミラとかアントラーとか、いいですよね。私も子供の頃それらのソフビを親に買ってもらって遊んでました。でも個人的にウルトラシリーズで一番好きな怪獣はセブンに出てくるキングジョー(正確にはロボットだが)。詳しく言うなら「デザインが好き」なのはキングジョーとアントラー、「境遇が好き」なのはジャミラです。


幼稚園の頃は、初代マンを始めとした各ウルトラマンと怪獣のプロレスシーンのみを切り抜き編集したVHS『ウルトラビッグファイト』を全巻親に買ってもらって、夢中になって観てました(てか、ウルトラマン関連の映像作品でまともに観たのがそれしかなかった)。しかし、その時点ですでにゴジラにハマっていた私の見方というのは、完全に怪獣や宇宙人側に感情移入した鑑賞方法であり「ジェロニモンの羽飾り欲しい」「ジラース、エリマキ剝がされて可哀そう……」「ゼットン不気味だけど好き」「ゴモラの首の角度と角の形がカッコいいなぁ」といった感想は抱いても、ウルトラマンやウルトラの一族に対する印象は、正直言ってかなり薄い。彼ら光の国の住人たちに対しては「そんなに怪獣や宇宙人を虐めて何が楽しいの?」「コイツ本当に正義の味方なのかよ」という批判的な印象を子供の頃から持っていたことを、ここに告白しましょう。「ウルトラリンチ」でお馴染みの容赦なきインド特撮封印作品『ウルトラ6兄弟vs怪獣軍団』を後年になって知ったことも、私のウルトラマンに対するマイナスなイメージに拍車をかけていたのかもしれません。


……とまぁこんな風に「初代ウルトラマンの怪獣」は知ってるし好きなんだけど、テレビシリーズを一度もまともに鑑賞したことがなかったせいで「初代ウルトラマンそのもの」に関してはほとんど知らない、知ろうともしなかったわけです。そのせいでウルトラマンに対する偏見がかなりあったと言ってもいい。でも、いまや私も立派なおっさん。このまま怪獣への偏愛だけを抱いていても、ちょっといけないかな~と反省して、シン・ウルトラマンの公開前に二か月ほどかけて、配信で初代マン~帰ってきたウルトラマンまでのテレビシリーズをちょいちょい鑑賞しては「ウルトラマンとはそもそも何ぞや」というのを知ろうとしたわけです。


そんな付け焼刃の鑑賞で私がウルトラマンに対して新たに抱いた印象というのは、次のようなものでした。


「ウルトラマンって、不思議な宇宙人さんだなぁ」





【導入】

円谷プロが世界に誇る特撮テレビ作品『ウルトラマンシリーズ』。その一作目である『ウルトラマン』を現代日本を舞台に再構築し、地球上に初めてウルトラマンが降り立った時代を描く。


監督は『平成ガメラシリーズ』の樋口真嗣。樋口真嗣、と聞いて、リメイク版の『隠し砦の三悪人』や実写版『進撃の巨人』を真っ先に挙げる奴らは、はっきり言ってにわかもいいとこ。樋口真嗣と言えば『平成ガメラシリーズ』を挙げるべきでしょう。まず間違いなく現代日本の特撮技術におけるトップランナーであり、彼に勝る「特技監督」は存在しない。そのことも理解せず樋口監督に「無能」のレッテルを貼って叩く奴らが多いので、心底辟易とします。とにかくさ、この人を馬鹿にするなら、最低でもこの人が特技監督を務めた『平成ガメラシリーズ』を全部見てから馬鹿にしろよなと思う訳。それで馬鹿に出来る奴なんて、いると思わんけどな。いるとしたら、そいつは映画を観る目がない、感性痴呆者だと断言してやりたいですわ。


たしかに樋口「監督作品」に面白い作品があるかって言ったら、ないですよ。『日本沈没』では日本沈没しなかったし、『ローレライ』も蓄電室の構造が広くて違和感しかなかった。リメイク版の『隠し砦~』なんて、樋口作品じゃなくて脚本を担当した中島かずきの作品になってましたもの。だけどさ、少なくともこの人には「技術」があるわけだよ。スケールの大きな作品を迫力のある映像として生み出す技術はピカイチだし、そういう才能があるから、庵野秀明と何十年も仕事してるんだよってこと。


制作・企画・脚本・総監修は庵野秀明。「怪獣に全く興味がない人(by樋口真嗣)」ということで、確かにそれは今回の映画にも露骨に表れています。怪獣に対する淡泊な姿勢が『シン・ゴジラ』を真っ当な災害シュミレーション映画、怪獣映画の傑作に導いた要因のひとつであると仮定するなら、ウルトラマンとなると、やはり話が違ってくるのだろうなぁ。撮影現場にほとんど立ち会えなかったらしいけど、明らかに「庵野秀明監督作品」になっているように見えたのはどういうことなんだろう。


主人公である「ウルトラマンの男」神永新二を演じるのは、映画評論家でもある斎藤工。役名が「新二(シンジ)」ってところが意味深ですが、まぁそれはそれとして、ドンピシャの配役でしょう。ぬぼーっとした顔つきに、どこか離人感のある佇まいというのが「ウルトラマンが人の姿を借りている」という設定に十分な説得力を与えています。


ヒロインの分析官・浅見弘子を演じるのは、長澤まさみ。え~なんか巷ではこの女性キャラクターの仕草云々に関してポリコレ連中が騒いでいるらしいですが、失礼ながら大爆笑ですな。フィクションなんだから、もっと肩の力抜いて観ろよ。アンタの人生、そんなにヨユーがないんですか? と唾を吐いてやりたい気分ですね。ポリコレ……私の苦手な言葉です。


対怪獣案件を担う専従組織の班長・田村を演じるのは『ドライブ・マイ・カー』で国際的な知名度が上がった西島秀俊。この人がウルトラマンになるのもアリかも?なんて最初は思ったりしたんですよね。顔つきや佇まいに独特の風格があるから。


地球侵略にやってくる外星人のひとり、メフィラス星人役には山本耕史。この山本耕史がねぇ~~ホントちょっと、最高の演技をしちゃってくれてます。知的で紳士的な態度の奥に潜む、底知れない悪意であったりとか、真っ当な人間に思えて平然と残酷なことを当然顔で吐いてしまったりといった、我々人間と全く価値観の異なる環境で育った「外星人」という立ち位置を完璧なレベルで演じているので最高です。名俳優……私の好きな言葉です。


音楽を手掛けるのは『シン・ゴジラ』に引き続き鷺巣詩郎。しかし楽曲のほとんどは初代ウルトラマンの音響を担当していた宮内國郎氏のものがほとんどです。鷲巣さんがやったのは、あくまで宮内國郎の楽曲を「現代に蘇らせる」作業であるように感じます。


怪獣のデザインを手掛けたのは、前田真宏、山下いくと、竹谷隆之の天才三人衆。VFXスーパーバイザーは職人・佐藤敦紀と、強力な布陣が敷かれています。





【あらすじ】

巨大不明生物たちの突然の出現が、日本の防衛体制を一変させたのは明らかだった。空から海から大地から、忽然と姿を現しては街々を破壊していく巨大不明生物たち。当初は自衛隊による総力戦などでこれに対処していたが、相次ぐ出現を前に、日本政府は巨大不明生物・通称「禍威獣(カイジュウ)」の対策を専門とする「防災庁」を設立し、その直轄下に5名の専門家から成る禍威獣特設対策室――通称「禍特対(カトクタイ)」を設置するに至った。


そして今日も、禍威獣はこの日本に姿を現した。場所は首都圏郊外。個体識別名「ネロンガ」と名付けられたその禍威獣は、変電所を襲って電気を「捕食」し、光学迷彩のように全身を透明化させる機能を有する、恐るべき巨大生物だった。


自衛隊の特科が放つ誘導ミサイル弾のすべてを電撃攻撃で撃墜していくネロンガ。怒ったネロンガは辺りかまわず電撃を放射し、山間の集落は壊滅状態に至る。禍威獣出現の報せを受けて現場に急行した禍特対のメンバーたち……班長の田村を筆頭に、非粒子物理学者の滝、汎用生物学者の船縁、そして作戦立案担当官の神永新二は知恵を絞らせるも、なかなか良い作戦案が浮かばない。だが、こうしている間にもネロンガの進行は続いている。このまま手をこまねいていては、被害は拡大する一方だ。と、その時、逃げ遅れた少年が山間の斜面にいるのをモニター越しに確認した神永は、その身一つで指揮所を飛び出し、保護に走った。


それとほとんど時を同じくして、大気圏外から飛来する謎の飛翔物体を自衛隊のレーダーが捕捉する。突然の事態に困惑する自衛隊と禍特対のメンバーたち。飛翔体は地上に勢いよく降下すると、その衝撃でネロンガを吹き飛ばし、指揮所を揺らし、辺りに大量の土砂を舞い上がらせた。


そして、土煙と粉塵のヴェールに包まれた空間の中、悠然と立ち上がったのは……全身が眩いばかりの銀色に包まれた、菩薩めいた顔つきの「巨人」だった。そのあまりに現実離れした光景に、あっけにとられる禍特対の面々。それはネロンガにとっても同じだったのだろう。生物としての本能を働かせ、何事かを察知したネロンガは頭部の角から大量の電撃攻撃を「銀色の巨人」目掛けてお見舞いする。だがしかし「銀色の巨人」は、これを胸部で平然と受け止めてしまった。何十万ボルトという電撃を浴びて平然と立ち続ける彼の尋常ならざる姿は、自衛隊はもちろん、これまで数々の禍威獣退治に専念してきた禍特対の面々にとっても、あり得ない光景だった。


危機を察知したネロンガは、ただちに自らを透明化して一時撤退を試みる。だがその時、それまで立ち尽くすだけだった「銀色の巨人」が、不可解な動きを見せた。まるで祈りを捧げるかのように右腕を縦に構え、ゆっくりと横に構えた左腕をその前に重ねていく。二つの腕の交差点、手首と手首がクロスした地点から、急激なエネルギーの上昇が発生。瞬間、巨人の右手から凄まじい勢いで、青白く輝く光波熱戦が一直線に放たれた。光波熱線は軌道上にあった山々を悉く貫通し、ネロンガを一撃で粉砕する。そして、すべてが終わった後、巨人は何も告げることなく、静かに上空へと飛び去っていった……


謎の銀色の巨人現る!――そのトリビアルな事実は、ただちに官邸へ通達された。禍威獣対応に手一杯の日本政府にとって、件の巨人が人類に福音を齎す存在なのかどうかを見極めるのは、急を要する案件だった。政府の意向は、ただちに人事という形によって反映される。銀色の巨人出現の翌日、公安調査庁から一人の女性が禍特対に派遣されてきたのだ。名を、浅見弘子。彼女は、巨人出現の現場近くにたまたま居合わせ、幸運にも無傷で済んだ神永に興味を持ち、彼とバディを組んで巨人の正体を突き止めることに専念しようとする。


そんな彼女が禍特対室長、宗像に提出した「銀色の巨人」関連の報告書のタイトルには、公安調査庁時代に使用していた最重要機密(ウルトラ・シークレット)事項の符牒を文字って、次のように書かれていた。


「巨大人型生物ウルトラマン(仮称)調査報告書」


果たして、ウルトラマンとは何者なのか――





【レビュー】

不思議な宇宙人さんの物語――私がウルトラマンのテレビシリーズを観て抱いた印象は、この映画『シン・ウルトラマン』を観終わった後、より一層膨らんだと言っていいでしょう。


端的に言って、この映画は「面白い映画」「凄い映画」というより「奇妙な映画」「変な夢のような映画」として私の目には映りました。矢継ぎ早に繰り出される専門用語の嵐や、実相寺スタイルを踏襲したような、同ポジを嫌った奇抜なアングルの連続といった部分は『シン・ゴジラ』の時より密度が濃いものになっていると直感。しかしながら、『シン・ゴジラ』とは全くと言っていいくらい作風が異なります。先に挙げたアングルについても、実相寺昭雄のアングルは、それが一見奇抜に見えたとしても演出上の意味があった。しかし『シン・ウルトラマン』におけるアングルは、どう頑張ってみても「ただ奇抜なだけ」で、なぜそのアングルを選んだのか演出上の必然性がありません。「面白いアングル」を選択してそれを編集で繋げていけば「映画」になると、編集を担当した庵野秀明は考えているみたいですが、私はその意見、真っ向から反対の立場をとります。奇抜なアングルと編集の組み合わせだけで「映画」が成立するなんて、そんなアホなことがありますかって話です。


しかしながら、こうした演出レベルにとどまらず、この『シン・ウルトラマン』という映画は、やっぱり全体を通してみても「変」な印象だけが残ります。単にアングルの問題だけではないように思えるし、監督が庵野ではなく樋口真嗣だからというのとも関係がない。むしろ『ウルトラマン』というコンテンツに起因しているものなんじゃないだろうかと思う訳です。


もちろんエンタメの王道を往く作品であり、話の筋は分かりやすい、決してアートで難解な要素があるわけではありません。それでも、この映画が「奇妙な映画」に見えたのは、脚本・企画を担当している庵野秀明の「ウルトラマンという存在」に対する異常なまでの愛情こだわりと、ウルトラマンという作品が持つ「キワモノさ」が融合した結果であると私は見ています。


誤解を恐れずに言えば、私にとってのウルトラマンという作品は「キワモノ」という立ち位置にあります。こういうと熱心なファンほど激怒してしまうかもしれませんが、頭を冷やしてよっく考えてみてください。「巨大な怪獣と巨大な人間が睨み合って戦うお話」という概要だけ耳にして、大なり小なり可笑みを抱く人はいると思うんです。「いや、人間じゃなくて宇宙人だし!」という理屈は通りません。「怪獣とロボットが戦う」なら、ぜんぜん話は分かります。「怪獣と仏像が戦う」という設定でも、まだ分かります。しかし「怪獣と巨人が戦う」というのは、これはどうでしょう。「巨大な人間」というトリビアルな存在を持ち出してきた時点で、一気にフィクション感、虚構のレベルが何段階も上がる。これを映像的に分からせてくれたのが、松本人志の『大日本人』であり、あの実写版『進撃の巨人』であると私は考えています。物語の中身を問わず、そもそも「巨人」という設定自体がファンタジーの領域、ガリバー旅行記の世界の産物なのです。


しかも、飛ぶ。マントもつけずに。普通、空を飛ぶ演出をするのであれば、何かしらの目に見えて分かる科学的な理屈を付与すると思うんですが、そういうのは一切しない。両手をピンと高く掲げて「シュワッチ!」と叫んでジャンプしたら、それだけで「空を飛んでしまう」という、冷静に考えてみると実行するのをためらうようなオカシナ演出が平然とまかり通ってしまう作品。しかしながら、こういったウルトラマンのキワモノさにほとんどの方が気づかないのは、円谷英二率いる特撮班の技術による工夫であったり、ウルトラマンや登場怪獣・登場宇宙人のデザインが機能美的に優れているためであるからなのです(特に、タキシードを着ているような造形のメフィラス星人なんてたまりません。カッコよすぎだろあのデザイン)


ちなみに、同じ円谷特撮の『ゴジラ』はどうなのかというと、私個人的には、アレはそこまでキワモノ作品ではないと考えています。ゴジラって、シリーズによって出現場所は異なるけれど、ほとんどが海からやってくるじゃないですか。海の彼方というのは、日本神話で言うところの「常世国」であり「ニライカナイ」でありますから、神としての性質を持つゴジラが海からやってくるというシチュエーションは自然なこと。むしろそれは古代日本の原始信仰に即したものであり、大和民族の無意識レベルにおいて刷り込まれている概念であるからして、オタクだろうとオタクでなかろうと、案外誰でも素直に受け入れることができる設定なのです。


たしかに初代ウルトラマンにも、そうした日本原始信仰の要素を見出すことは可能です。巷では、初代ウルトラマンの脚本を担当した沖縄県出身・金城哲夫の出自になぞらえて、ウルトラマンを来訪神、すなわち「まれびと」として見る向きもありますが、私は個人的に、ウルトラマンの出現様式は古代日本の祭祀形態のうちの「巫女型」に非常に似ていると感じました。ハヤタという人間の身にウルトラマンという来訪神がこもり(・・・)、最終的にはハヤタ自身がウルトラマンとして地上にみあれ(・・・)するという、呪術的な要素が盛り込まれている。そう考えて比較類推すると、『ゴジラ』という作品は『ウルトラマン』より、もっと直接的な手段で「神をみあれ(・・・)させた作品」と言えるのかもしれません。ただし、年中行事である祭りを身近に感じる日本人の性質上、直接的な表現で「神」として描かれたゴジラより、「祭祀」という形態で間接的に神の来訪を描いたウルトラマンの方が、親しみやすさを覚えた確率は高かったのかなと思われます。そこをうまく逆手に取ったからこそ、いろいろと挑戦的な作品に仕上がったのかもしれません。


話を元に戻しますと、先に挙げたオリジナルの初代ウルトラマン要素が、そっくりそのまま引き継がれているのが『シン・ウルトラマン』。テレビ版と異なりカラータイマーは排除されていますが、むしろ成田亨のオリジナルデザインに近づけたことで、ウルトラマンの引き算的な「身体的機能美」は極北を迎えていると言ってもイイでしょう。シンプル・イズ・ザ・ベストという言葉は、まさにこのウルトラマンのためにあるような言葉であり、「ヒーローのデザイン」という観点で言えば、ここ10年の間に出た映像コンテンツにおいては『ガッチャマン クラウズ』を越えて頂点に君臨すると思います。


一方で、先ほど私があげた「キワモノ感」も、『シン・ウルトラマン』はほとんど受け継いでしまっています。というか樋口監督や庵野秀明をはじめ、制作陣は、オリジナルにあったキワモノな部分を明らかに意図的に面白がったうえで取り込んでいるとしか思えません。「私たちが住んでいる現実の世界で、人間がビルよりでっかく巨大化するとはどういうことなのか」「巨大な人間が、その身体を十全に発揮して近接戦闘を行うとは、どういうことなのか」という事実を映像化した際に生じる違和感を、誤魔化すことなく、ありのまま露出しているため、そのシュールな絵面にクスリと笑えるシーンが結構あるというのも、この作品の特徴。これは『進撃の巨人』を手掛けたことで得られた大きな収穫だと、樋口ファンである私は考えたい。あのどうしようもないドラマとどうしようもない役者たちの見るに堪えない演技によって構成された作品の唯一の収穫が『生き生きと人間を食べ、大地を踏みしめる巨人の特撮映像』であったことを踏まえると、この『シン・ウルトラマン』は信念の面において『進撃の巨人』の延長線上にあると言ってもいいかもしれません。


また、それは同時に『シン・ウルトラマン』の映像面におけるリアリティラインが、あの『シン・ゴジラ』と比較するとめちゃくちゃ低いということを意味しています。なにせ、『シン・ゴジラ』では自衛隊を動かすのにもいちいち役所的な手続きを踏まなければいけなかったのに、今回はそのあたり、かなーりあっさり簡略化されていますからね。


『シン・ゴジラ』は怪獣映画としては言うまでもなく傑作ですが、政治的なドラマ、ポリティカルサスペンスという面でもかなり見応えがあるのは周知の事実でしょう。私が思うに、これは初期プロット案を練る段階で神山健治が企画協力枠で一枚噛んでいたからだと踏んでいます。しかしながら、『シン・ウルトラマン』のスタッフクレジットに神山さんの名前はなく、そこには中島かずきの名前が。


つまり制作陣は最初から『シン・ゴジラ』レベルのリアリティラインを『シン・ウルトラマン』では目指してはいなかったのです。


『シン・ゴジラ』が、「現代日本におけるゴジラ出現」の描き方や、その対処法のレベルにおいて「虚構と現実の狭間」を描いていたのに対し、『シン・ウルトラマン』は限りなく虚構の側に偏っています。ここで優先されているのは「シチュエーションに宿るリアリティ」ではなく「空想」と「浪漫」であり、「こうだったらいいな」という「夢物語への期待」の爆発です。リアリティは二の次です。高速の字幕でも、しっかりと地名を記載していた『シン・ゴジラ』に対し、『シン・ウルトラマン』では、そこがなんという県のなんという場所であるのか、一切字幕では説明されません。一部の怪獣のデザインも、オリジナルにあった非現実的な設定に寄せたデザインになっていて、カッコいいけどフィクション感マシマシです。ガボラやネロンガの後ろ脚の形状も着ぐるみ時代のそれであり、四脚獣類のリアリティを考えたらありえない形状をしています(まぁ、カッコイイからいいんだけど)。そもそも前提として「怪獣」という飛躍した存在を倒すのに「ウルトラマン」という飛躍した存在をぶつけているわけですから、リアリティもへったくれもない。まさに「空想」と「浪漫」だけで成立してしまっているような作品なのです。


では、それだけリアリティラインを落としたこの虚構だらけの作品が、地に足がついていないシチュエーションだからといって「白ける」のかというとそうはなっていない、というのが、ますますこの作品を「奇妙な映画」たらしめている。その要因は、画面を通じて滲み出てくる庵野秀明の「ウルトラマン愛の異常な深さ」ゆえであります。俗に「独裁者」と称される映画監督……晩年の黒澤明やタルコフスキー、キューブリックが「全てを俺の映画に捧げろ」といった信念で映画を製作していたのと同じように、この映画では、監督・樋口真嗣をも巻き込んで「全てをウルトラマンという存在に捧げろ」という、総監修・庵野秀明の狂気的な熱意が充満しています。彼が禍特隊や大臣たちのキャラクター性なんぞには、ほとんど興味がないっていうのは、映画を観れば一目瞭然。怪獣たちのシーンも、ちゃんと撮っているんだけれど、どこか淡泊。ところがウルトラマンが画面に出てきたとなったら、ありとあらゆる手を尽くしてその存在を際立たせようとする。そのアンバランス感にハラハラします。


空中で高速縦回転してガボラを蹴っ飛ばすウルトラマン。まるで「祈り」でも捧げるかのように両腕をゆっくりクロスしてスペシウム光線を放つウルトラマン。刀で鍔迫り合うような迫力でメフィラス星人と戦うウルトラマン。シュール&王道な手法で、清々しいまでのウルトラマン贔屓が炸裂しています。その贔屓っぷりたるや、オタクでない人が観たらちょっと、いや、かなり引くレベルです。「達人は、保護されているッ!」ならぬ「ウルトラマンは、保護されているッ!」ってなぐらい、ウルトラマンを「真実と正義と美の化身」という異名に相応しい存在として描いているし、そのことに無邪気なくらいためらいがない。


それが具体的に現れているのが、ウルトラマンと主人公の「出会いのシーン」です。オリジナル版におけるウルトラマンと主人公ハヤタ・シンの出会いは、ウルトラマン側の「ミス」による空中交通事故がきっかけであり、ウルトラマンはさだまさしの名曲「償い」もかくやとばかりに、人身事故の責任を取るかたちで瀕死のハヤタ隊員と融合し、地球で怪獣と戦うわけです。


しかし『シン・ウルトラマン』におけるウルトラマンと、主人公・神永新二のファーストコンタクトは、初代マンと比較するとかなり改変されています。そこでは、ウルトラマン側の「ミス」は全く描かれておらず、神永が現場で取ったある行動に「興味を持った」から、ウルトラマンは神永との融合を図ったことになっています。


ひとりひとりは弱く小さいが、互いを思いやり、群れとして行動する「ヒト」の姿を見て、「この小さく脆い生命体を慈しみたい」と心から願ったウルトラマンの姿は、地球を侵略しにやってくる外星人たちと比較しても、かなり奇妙に映ります。むしろ、観客が理解しやすいのは外星人側の理屈ではないでしょうか。「仕事だから」という割り切った理由で人類を駆逐しようとしたり、地球を手に入れるために政府関係者と密約を結ぼうとしたり……私は彼らの方がウルトラマンよりも「宇宙人らしい」と思いました。


それはなぜかというと、外星人側の地球侵略の根底に流れているのが「大人の理屈」であるからです。政治的な駆け引きや、各国のパワーバランスを考慮したうえで、あの手この手の策を練ってくる敵性外星人たちの働きっぷりは、そのスケールが違うだけで、やっていることは企業に勤めているサラリーマンや政治家たちとほとんど変わりません。


対して、『シン・ウルトラマン』のウルトラマンはどうでしょうか。ウルトラマンの行動原理は「自分よりか弱くも懸命に生きる“ヒト”という生命体に興味を持った」というのが根底にあり、これは「子供の理屈」に通じるものがあります。幼稚、という意味ではありません。言い換えるなら、幼い子供が樹液を啜るカブトムシを眺めたり、巣を行き来するアリたちの生態系を興味深く眺めるのと同じ「無垢な好奇心」とでも言いましょうか。その「無垢な好奇心」という「愛情」だけで動いているのが、今回のウルトラマン。かつて、私たちが子供だった頃に誰しもが抱いていた「世界へ向ける新鮮な好奇心」を、大人になっても忘れない「子供心を持った宇宙人」それがウルトラマン。だったら、彼が人身事故などという間違いを犯すはずがありません。子供の犯した間違いを糾弾するように社会はできていないからです。


「子供の理屈」で動くウルトラマン。「子供の理屈」で、人類のために己の身を捧げてしまうウルトラマン。故郷である光の星の価値観とは全く異なる社会を育む人類のことが、ウルトラマンは気になって気になってしょうがない。なぜかというと「分からない」から。「分からない」からこそ、ウルトラマンは「人類を知ろうとする」。「知ろうとする」からこそ「そこに愛が生まれる」。だからこそ、彼は「真実と正義と美の化身」たりえると、庵野秀明は考えたのでしょうか。


なんにせよ、庵野秀明や樋口真嗣を始めとした作り手たちが「真実と正義と美の化身たるウルトラマン」の「実在」を「信じ切っている」からこそ、この映画は成立していると言えます。巨大な人間が、その身そのまま空を飛ぶという現象を「信じ切っている」からこそ、シュールな映像にも奇妙な説得力が生じるのでしょう。ありもしないフィクションを「信じる」ということ。自分が好きなものを臆さず大声で「好きだ」と叫ぶその度量が異様な熱気と共に花開いたこの作品は、傑作というにはどこか不格好。しかし珍作というには捨て置きがたい。実に奇妙な「夢物語」であるのです。

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― 新着の感想 ―
[一言] ぜひ「シン・ゴジラ」の感想もお願いします。 2018年からの感想なので「シン・ゴジラ」については触れられてませんが、(おそらく)熱い感想かと思います。すでに4年以上たっているのでまた別な視点…
[良い点] さすが浦切さん、まとまり良く考察の深いレビュー、素晴らしいですm(_ _)m 大分前にこちらのレビューを読んでましたが、感想を書く時間がなくて、今ごろの書き込みで申し訳ないです(汗) …
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