【第79回】ナイトメア・アリー
【レビュー】
世間一般で知られるところのギレルモ・デル・トロと言ったら、アニメ・漫画・特撮に造詣の深いオタクを極めたオタク映画監督ということで定義付けされていると思います。実際、この人は自宅とは別に家を二軒購入しているんですが、それは別に仕事場用に使っているとかではなく、今まで集めてきたフィギュアやら漫画やらのオタクグッズを収納するためだけの家という、「おま!なんだその贅沢!」と、世界中のオタクたちから嫉妬と羨望と尊敬の眼差しを向けられるようなオタライフを送っているお人です。
そういうわけでこの映画、いかにもオタクらしい「凝り性」なデルトロの気質が画面のあちこちに充満しっぱなし。流石の一言に尽きますな。『クロノス』の頃からやっている「画面にいっぱい小物を配置する」というリドリー・スコットに通じる空間設計に裏打ちされた「異世界映画」としての佇まいは、やっぱり迫力があって凄まじいことこの上なし。物語の前半部分で主な舞台として登場するカーニバルのセット、その緻密ながらも禍々しい猥雑とした作り込みや、従業員たちが雨風吹くなか広げたテントを足を使って器用に折り畳んでいく、その「プロの仕事してます感」のカッコよさ。いいですなぁ。「ここではないどこか」という曖昧とした表現よりも、このカーニバルを舞台にした夜の風景にはハッキリと「煉獄」の趣が感じられるのですが、その「煉獄」の質感が存分に堪能できるつくりになっています。
また、「異世界感」バツグンな赤を基調にしたおどろどろしい世界と、物語後半部分で登場する黒と金と白を基調にした「現実世界」の、それぞれにおける色彩設計のギャップが生み出す「美しさ」の演出も、さすがデル・トロと言った素晴らしさ。付け加えるなら、それらの色彩の美しさ、緻密な空間が醸し出す耽美な画を「これ見よがしに」映さないのもいい。ドヤ顔して自慢するようにダラダラと画面を引き延ばすのではなく、幼い子供の興味が常にあっちこっちに移り変わるように、カメラはカチッカチッと小気味よいリズムを刻むかのように「見せるぶんだけ見せたら切り替わる」ので、まず飽きません。
「凝り性」と言えば、デルトロ映画あるあるな「キャラクターの掛け合いの後ろで何かやってる」演出も健在です。具体例を挙げると、映画の中盤、衰弱した獣人を主人公とマネージャーが雨降る夜の中、病院の前に置き去りにしていくシーンで、やり取りしている彼ら二人の背後に十字架のネオンサインが映り込んでいるんですが、このネオンサイン、最初のカットでは「Jesus Saves(神は救い給えり)」となっているのに、いつのまにか「Jes」の部分の照明が切れて「Us Aves」と読めるようになっている。「Aves」は和訳すると「鳥類」すなわち「Us Aves(俺たちは鳥だ)」つまり「神様の施しなんて受けねぇぜ。俺たちは鳥のようにどこまでも羽ばたいてやるんだからよぉ~~~!」という、後のシーンで主人公がヒロインを連れて一旗揚げる下りの伏線として機能している……他にも、主人公が使う「第三の眼」モチーフのアイマスクとか、ヒロインが街で暮らすようになっても見世物小屋のカラーに使われていた「赤色」を基調とした服を着ていたりとか、衣裳と美術それ自体がキャラクターの心理を補強する役割を果たしていて、こういう「小ネタをばら撒くお茶目な演出」が、いかにも悪戯心を忘れないデルトロらしいなぁって気分にさせてくれます。
ところがこの作品、画面設計や美的センス、色彩フェチ要素においては「デルトロだな~」と感じさせる一方、全体を通した印象としては、これまでとかなり毛色が違う作品だったりするんですな。
まず、なんと言っても見世物小屋の連中を「モンスター」として描いていない! これには驚きましたね。だってデルトロ言うたら皆さんご承知のモンスター偏愛家ですからね。モンスターを愛し、モンスターに愛された彼が、これだけ禍々しく猥雑な異世界感マシマシのカーニバルを舞台にするということは、当然ながら火吹き男だの蛇女だのといった、見世物小屋という限られた世界でしか生きられない「異形」をわんさか出すんだろう……そんな風に事前に予想して観に行ってみたらビックリ。モンスター、出てきません。それっぽく出てくるのは獣人が一人。あとは……まあちょっとネタバレになるけど映画の後半には「幽霊」が出てきますけれども、基本「モンスター」的な演出が為されているのはそんだけです。しかも、獣人なんていかにもソッチ系の呼び名をつけてるにも関わらず、これがただの薄汚い格好をした精神薄弱者。おまけに奇形でもなんでもないから、実はちょっと肩透かしくらいました。
たしかにね、大電圧の電流を浴びても平気な女芸人とか、片手でバーベルを持ち上げるゴリラ男とか、低身長症の小男とか、見世物小屋という場所に相応しい特技や風貌のキャラクターはもちろん出てくるんですが、どれもこれも「人間」として描かれていて、モンスター的な描写なんて一切されてない。むしろそこで強調されるのは動き回る彼ら彼女らではなく、『デビルズ・バックボーン』の「ラム酒に漬け込まれた胎児」よろしく、ホルマリン漬けにされた「額に“第三の目”を持つ異形の胎児」の存在なんですが、この標本化された胎児は「エノク」という符牒で呼ばれていることからも明らかように「人の心を預言する力を持つ主人公」の行く末を暗示するメタファーであり、また一方では、この映画全体を俯瞰する立場にいるわけなんで、正確には「異形」には分類されないんですよね。
さらに言うなら、主人公の設定もちょっと変。それまでのデルトロ作品における「主人公」といったら、大体が少女であったり少年であったりモンスターであったり「マイノリティな人々」であったりしたんですが、今作の主人公はそれらとは真逆のタイプ。なにせ、このスタントン・カーライルというキャラクターは、後ろ暗い過去を背負い、野心に溢れ、金と権力のために嘘を重ね続ける詐欺師であるから。どっからどう見ても悪役です。それまで脇役に過ぎない(しかし独特の存在感のあった)『デビルズ・バックボーン』のハチントや『シェイプ・オブ・ウォーター』の博士などの系譜に連なる「歪められた悪役」を主人公に据えた時点で、これまでの「マイノリティを美しく」「モンスターを愛しく」をモットーにしていたデルトロ作品の文脈から、やや外れた位置にある作品であることが分かります。
そんな「歪められた悪役」であるスタントン・カーライルが世の中をのし上がっていくのに使うトリックが「読心術」……まぁ早い話が「プロファイリング」ですな。メンタリズムとも言いますけども、ようは対象とする人の仕草や口調や持ち物から、その人の性格や生い立ちや現在進行形の悩み事などをズバズバ主人公は言い当てていくわけなんですが、この「読心術」を「神秘的な力」ではなく、徹底的に「人心を掴むための技術に過ぎない」という見せ方を延々と繰り返している点も、オカルト神秘好きなデルトロの性格からすると、ちょっと珍しく映るかもしれません。
コミュニケーションの力とは、言語を介した交流を通じて人の心を断片的に物質化させる力だ。断片的に物質化させるというのは、つまり趣味であったり好きなアニメであったり住んでいる地域や故郷であったり、その人を形成している要素の一部を「分かりやすいかたち」に抜き出して、共感したり好奇心を向けることで、その人がどういう人物であるかの輪郭を掴もうとするということ。本作における「読心術」は、そんなコミュニケーションの「延長線上にある歪んだ技術」として描かれている。
「神秘」ではなく「技術」として描いているところがミソで、つまり読心術とは言っても、本来の意味で人の心を「読んで」なんかいないし、ましてやその人の心を主人公が「理解」することなんてない。むしろここで行われていることは「私とあなたは初対面だけど、たった一言二言やりとしりしただけで、私はあなたのことをこんなに把握してみせましたよ」という、コミュニケーションによる対象心理の一方的な「制圧」であり、その「制圧」によって「人生」という、本来なら要約不可能なはずの生々しい複雑な迷宮が「要約/単純化」されてしまうという、地味ながらも恐ろしい暴力性の発露であるのだ。
これは何も、主人公に読心術の才能がガチであったからだとか、(第二次大戦大戦下という背景があるにせよ)限定的な状況下ゆえに通じる戦術なんだとか、そういうもんじゃございません。むしろ現代に生きる私たちの身の回りにこそ「他人の人生を要約したコンテンツ」で溢れているのは承知の通り。Youtube界隈で一時期流行した「ルーティーン動画」なんてまさにそれだし、「世界○天ニュース」や「情○大陸」や「プロフェッ○ョナル 仕○の流儀」といったこれらの番組は、センセーショナルな人物たちの「人生」を限定的な放送時間の中で「要約」することで成立しているのだし、視聴者も(もちろん私も)そういう番組を見て、その人のことを「分かった気分」になってしまう。しかし言うまでもなくそれは「分かった気」になるだけで、やっぱり本質的な部分では全然わからない。たかだか30分やそこらの時間でまとめられてしまうほど私たちの人生は取り扱いの容易なものではない。にもかかわらず、メディアには、あたかもそれが可能であると錯覚させるような力がある。つまり、この映画における「読心術」とは、現代メディアが備えている「事物の矮小化/通俗性を可能とする力」と、そっくりそのまま置換可能なものとして映る。
もちろん、人の癖や口調といった身体的な動作特徴と心理状態が無関係なんてことはなく、そこに幾ばくかの科学的なメスを入れて、対象の心理をある程度まで把握することは可能だ。そうでなければ「プロファイラー」という職業は社会において成立しない。だけれども「それが全てではない」ということですよ。本質的に人間は「良い面もあれば悪い面もある」「良くわからんいい加減な生き物」で、デルトロはそうした人間の清濁併せ呑んだ本質に立脚したキャラクターを生み出してきた人だ。そんな彼がこの映画でやったこと。それは「良い面もあれば悪い面もある」はずの人間を「単純化」させてしまう「暴力的コミュニケーション技術」の凄みと、そんな「技術」に翻弄され、そのことに不思議と「快感」を見出してしまう「大衆」たちの「生臭い信仰心」の表出だったのです。
これまでマイノリティな人々を描いてきたデルトロが今作で挑戦したのは、そう、他ならぬ「大衆の物語」であったのです。そしてそれを、やっぱりどこか寂しげなタッチで描いている。なんで寂しいかと言えば、この映画に登場する大衆たちは、主人公の読心術にいともたやすく翻弄され、しまいには江原啓之よろしく「スピリチュアルメッセージ商売」に手を出した主人公の手で、亡くなった息子や娘の言葉を聞かされたりして、そんなのは主人公がそれっぽく脚色したでっち上げに過ぎないのに、それを「真実」だと思い込んでしまうから。そこに、人間という生き物の「やるせなさ」「どうしようもなさ」を感じてしまうような音楽や美術やカットに溢れているから。
この映画に限って言うなら「人は見たいものしか見ない」という言葉は「人は、その人が望むかたちでの赦しを欲している」という風に描かれており、そこから、デルトロがキリスト教という「信仰」をどう捉えているかが見えてきます。この映画に登場する大衆たちは、人には言えない原罪を抱え、それをどうにか赦してほしいと願いながら生きている。「赦してほしい」と「願っている」からこそ「赦してくれる存在」としての主人公を「癒し手」として盲目的に「信仰」してしまう。「自分が望んでいたものを見せてくれた」「自分が心の内に秘めていた想いを言語化して、正しい向き合い方を示してくれた」という「錯覚」を「真実」だと思い込むことで、ズブズブと主人公の手練手管にハマっていってしまう。「見たいものが見れた」「見たいものを見せてくれた」だから「この人を全面的に信じる」という信仰過程を通じて視野狭窄に陥り狂気していく人々の姿が、もうね、見ていていたたまれません。
「何かに縋りつくことでしか生きていけない人間」がたどり着いた果ての果てを描き出し、そこに込められた悲哀を、残酷に、寓話的に、それでいて儚い暗黒の調べにのせて高らかに歌い上げた美しい詩。それが『ナイトメア・アリー』という作品なのです。
人間という生き物の、脆く普遍的な一面を、こうも見事なストーリーテリングにのせるかたちで切り取り、描く対象がマイノリティからマジョリティに変わっても、「ファンタジーを使って現代を語る」というその根幹部分はいまだ健在、どころかますます磨き上げているギレルモ・デル・トロ。間違いなく現代最高の「ファンタジー作家」であり、現代最高の「才能あるオタク」と言っても過言じゃありません。
そして、この「見たいものが見れた」「見たいものを見せてくれた」という感覚から生じる事実の認識は、映画にも言えることで……自分も酷評してしまった身なのであんまり口にするのも気が引けるのですが、『大怪獣のあとしまつ』がなぜあれだけ多くの人から批判されたかといえば、そこには宣伝と内容の乖離であったり、脚本の拙さであったり、的を得ない演出だったりといった諸々の要素があるにせよ、一番の理由は「怪獣映画」というジャンルが「観客の自己意識を投影しやすいジャンル」であるというのが関係しているんじゃないかなぁ。
つまりそこでは「映画が映画としてどう良いのかor悪いのか」という「評価」の部分がすっぽり抜け落ちていて、自分が見たいものがその映画に含まれているかどうかの「確認作業」に終始していたんじゃないかということ。『大怪獣のあとしまつ』に対する悪罵の裏側に存在するのは「見たいものを見せてくれ」という、消費者が常に持つ凡庸な欲求であり「自身の欲求の発散と解放を受け止めてくれる作品ではなかったからダメ映画の烙印を押す」という、そんな「映画の中身とは直接的にまったく関係ない個人的理由」を憎悪の肥やしにしてる人がかなりいるんじゃないかと、今なら考えたりするんですよね。これは何も『大怪獣~』だけに限った話ではなくてね、『100ワニ』を酷評する人や『無限列車』を称賛する人たちのなかには、映画の「中身そのもの」に対して怒ったり喜んだりしているのではなく「見たいものを見せてくれたかどうか」という個人的な願望に照らし合わせて映画の価値を判断している人もいて、もしかするとそういう「鑑賞」ではない「確認作業」的な見方を無意識のうちにしている人たちの割合の方が、実は多かったりするのかもしれない。
しかしながら、クリエイターは別に「お客さんを満足させる義務」なんてものを背負ってはいない。商売であるとはいえ、クリエイターは読んで字のごとく「創作する人」であるからして、彼らが本来の意味で奉仕や責任の対象とするのは、自身が創り出す「世界」や「物語」に対してであり、それを受け取る側の「消費者」ではないのだ。
もちろんお客さんに楽しんでもらうことは大事だけれど、それは「媚びを売る」ってこととイコールじゃない。「物語」や「世界」に対するその人なりのアプローチを通じて、お客さんに自作をどう受け止めてほしいかを考えに考えながら創作する。それが本来の意味での「クリエイター」であるはずなんだが、この「売れた者勝ち」な現代社会にあって、クリエイターの中には「世界」や「物語」に対する思考を即座に止めて、客に平気で媚びを売る奴らもわんさかいるし、「お客さんの満足度」なんつーものを人質に、安易な物語や世界の構築だけで満足するクリエイターもわんさかいる。
そういう安易なクリエイターたちが作る作品に満足しているオタクたちへ。それって、本当に作品の「中身」を見て満足しているんですか? あなたはただ、あなたが映画や小説やアニメや漫画などに対して密かに抱いている猥雑な好奇心を作品に対して「反射」させて、そのレスポンスが良いか悪いかという点だけで作品の価値を判断しているんじゃないですか?『ナイトメア・アリー』に登場する大衆たちが、それぞれの好みとする答えを、主人公の言葉に「反射」させて満足しているのと同じく、観客たちもそれぞれが好みとする「答え」を作品に「反射」させて、うまく返ってきた作品だけを称賛していませんか? そんな、自己承認を満たすようなことばかりしていると、近いうちにあなたは狂うでしょうね。自分の好きな答え、自分が望んだ答えだけに囲まれた世界にどっぷりと浸かっていくうちに、あなたの世界に対する視力はどんどん近視眼的になるし、どんどん視野狭窄に陥っていくでしょうね。そのうち「何が本当に良くて何が本当に悪いか」を見極める「審美眼」なんて、永遠に身につかないまま破滅していくんじゃないですか? むしろ(詐欺師の口八丁手八丁を前にした時に懐疑心を働かせるのと同じように)「見たいものを見せてくれた」作品に対してこそ、じっくり向き合って観察する行為が必要になってくるんじゃないですか?
……そういう切実な訴えが込められたお話にも見て取れたので、映画が観終わった後、なんか身につまされる思いになったんですよね。自分はどうなんだって。ちゃんと「映画」の「中身」を観れているのかなぁって。映画を「反射材」として利用していたり、自分の好きなものが好きな形で描かれているという「事実」だけを映画に求めていないかなぁって。そういうことを悶々と考え込んでしまうくらい、重層的な映画です。まだ公開している劇場もあると思いますので、お近くの劇場でやってるよという方は、この機会に是非とも観てみてくださいな。




