【第78回】ソードアート・オンライン・プログレッシブ~星なき夜のアリア~
『終わらない物語は、いつ"終わり"を迎えるのか』
高級な料理ばかり食べていると、たまにジャンクなものを食べたくなるように、「傑作級」の映画ばかりみていると、たまに「ボンクラ」な映画を観たくなるというもの。
そういう訳で、観てきました。ええ、だいぶ前に観ていました。だってこの映画、去年の11月に公開された映画ですからね。例によって鑑賞直後につらつらレビューを書いてはいたのですが、なんか、出すタイミングを無くしてずーっとパソコンのフォルダの奥の奥に眠っていたのを、ふと思い出してこうして引っ張り出してきたというわけ。
正直言うと「映画」としても「アニメーション」としてもそんなに大したことのない作品だし、肩に力を入れて観てしまうと、物足りなさを確実に抱く映画です。一般的な映画ファンと呼ばれる人たちが、まず相手にすることのない「ジャンクフードにも劣るジャンクフード」な映画です。
しかし、そういう「ジャンクフード」な映画として……部屋の掃除をしながらとか、足の爪を切りながらとか、そんな日常の一コマ風にダラっと流してみても、あまり損した感じのない塩梅の映画として観ることができる、ちょうど良いつくりの作品だったりします。
ですが、そういう「ジャンクな歯触り」を求めること以上に、私がこの映画を観に行った最大の理由は、次のような疑問に対する回答を得るためだったりするのです。
つまりは、「終わりを封じられた物語」の行く末は、どうなるんだろうか? という疑問です。
【レビュー】
超加速社会たる現代における物語は「終わることを許されない」という状況に立たされていると言っても決して言いすぎではなく、その代表格と言えば、言わずもがなソシャゲである。
人気が落ちたから、ユーザー数が減ったから、集金がイマイチになったから「だからサービス終了します」。そんな、ゲーム内における物語の進展とは全く無関係なところに「ソシャゲ内の物語」の手綱は握られている(もちろん、そういうものばっかりじゃないけれど)。
言い換えれば、その手綱を握る運営側が資金的な潤沢さを保ち続けている限り、あの手この手のイベントを投入して物語を引っ張ろうとするのがソシャゲの常である。FGOのように、物語自体がメインのウリとされている一部を除き、大部分のソシャゲにおける物語の「質」は二の次に扱われ、いかに続けるか、いかにエンディングまで間を持たせるか、というところに運営の焦点が向かう。
こうした超加速社会における物語のあり方の特異性は、小説という媒体でも通じる話だ。特にライトノベルでは、それが顕著と言える。マンガ化、ラジオドラマ化、ゲーム化、そしてアニメ化。ある文脈で語られて終わった物語を、様々な文脈に変えて再展開する「メディアミックス戦略」は、それにより多額の利益を制作会社にもたらしてきたことは、角川映画の成り立ちを例に出さずとも明らかだ。「金のなる木」と化した物語は「コンテンツ」として消費されることを半ば強制化され、それはメディアミックス以外のところでも、例えばクリフハンガーで視聴者を釣る配信ドラマにも顕著な傾向であり、そこでもやはり、物語は「どう終わらせるか」ではなく「どう続けるか」という工夫が重要視される。
食っても足りぬ女であれ、とは範馬勇次郎のセリフだが、まさに現代の娯楽は「食っても足りぬコンテンツであれ」という義務を背負わされ、その重圧に潰されたコンテンツは「オワコン」と呼び蔑まれ、ほとんどの消費者からは見向きもされなくなる。最近の例で言えば『100ワニ』なんかが、その典型であると言える。
SAOシリーズ……この、2000年代の半ばにネットの片隅で生まれ、10年代にメディア的な飛躍を見せた物語もまた、そんな「終わらない物語」である責務を背負わされ、そして今のところは、消費者の飽くなき要求を辛うじてクリアし続けている稀有なコンテンツであると言える。
SAOシリーズは終わることを許されない。それは誰が見ても明らかなことだ。本編で描き終わったアインクラッドの物語を、今度は『プログレッシブ』と改めて、ご丁寧にもダンジョンの第一層から第百層までの攻略を「一から全て描ききる」という、常軌を逸したリビルド的戦略を取ったのだから。まさか原作者が生きているうちに『プログレッシブ』が完結すると「本気で」「真面目に」信じている人はいないだろう。誰がどう見たって『グイン・サーガ』ルート直行である。
加えて、本編においても『アリシゼーション』で本来の物語は完結したはずが、今度は新規エピソードの『ユナイタル・リング』が始まり、今まさに刊行中という具合で、ここまでくると読者と作者の体力勝負、チキンレースという様相を禁じ得ない。私は生理的に10巻以上からなる小説は読みたくない人間であるから、あれだけの長編を飽きることなく読み続けていられる読者は素直に凄いと思う。もちろん、書いてる方も書いてる方で凄いとは思うが、終わることのない物語についていく読者の方が何倍も凄いと思う。
だってそれは、この終わりを知らない退屈な日常を生きることと、なんら変わりない行為に等しいから。
私は、終わらない物語に対して、ほとんど恐怖していると言っても良い。なぜなら、私のなかでの「物語」とは「終わる」という形でしか、物語として成熟しないという意識があるから。始まりがあれば終わりがある。それが自然の摂理であり、自然から生まれた人間が紡ぐ物語にも、その習性は残されて然るべきだし、むしろそうでなくては、物語は物語としての「品位」を保てないと私は考えている。
もちろん、人気があるのは良いことだ。多くの消費者から愛される物語があることは、なによりも喜ばしいことだ。その点について、微塵も異論はない。
だが、「人気があるから」「愛されているから」という枕詞に立って「だから終わらない物語にしてしまおう」という商業主義に偏重しすぎた理屈に対しては、やはりどこか例えようのない歪さと、なにより恐怖を覚える。小川哲が「チーズケーキで人類は滅亡する」と口にしたように「終わらない物語」を求める行為というのは、自然界に存在しない加工した味をどこまでも貪欲に求め続ける行為と似ている部分がある。
そして、それはやっぱり、この「終わりを知らない退屈な日常」を貪るように生きることと、そんなに変わりはないのだ。
アインクラッドの美術、というか、SAOの美術が凡庸で退屈なのは、製作者の映画的センスの欠如が原因だからじゃない。いや、それもあるにはあるんだけど、そもそもSAOの世界そのものが、退屈な現実世界と同種の空気で満たされているのを見過ごしてはならない。
外観こそ「浮遊城」の名にふさわしいシュルレアリズムな佇まいを見せてくれるアインクラッドだが、蓋を空ければ、そこに広がるのはアニメ一期の頃と変わらない、ファンタジー映画・SF映画というジャンルにしては、美術や空間のディテールが著しく欠けた平凡で退屈な世界観である。凡百のMMOにありがちなオベリスクの立つ広場は、使い古された様式美以外の役割を成さず、山です、川です、草原です、宿屋です、ダンジョンです、といった具合に、ここには、単語が単語として持つ表象としての美術以外はなにも存在しない。さらに、プレイヤーの主観視点の描写に至っても『ハーモニー』『オーディナル・スケール』で見られたオーバーレイ表示から何も進歩していない。いや、進歩させる必要がなかったというべきだろう。なぜなら、この映画における一番の魅力とされているのは、オタクにとって理解しやすい属性を搭載されたキャラクターの羅列だからだ。事実、巷に溢れる主な感想は「キリトかっこいい」「アスナかわいい」「ディアベルはーん!」「キバオウ(笑)」「エギル(笑)」といった記号化されたキャラ愛に対するものがほとんどで、美術に感心するようなコメントは皆無に等しい。
たしかに作画はリッチかもしれない。「かもしれない」というのは、明らかに手の込んだシーンとそうでないシーンの落差が目につくからだ。単に動きの躍動感で言えば、『無限列車』や『レヴュースタァライト』の方が動画としての全体的なクオリティは高く、ハッキリ言って本作はそのボリュームからしても、テレビスペシャルサイズも良いところである。
『プログレッシブ』を、思いきって本編とは異なる一種のパラレルワールドとして割りきり、アインクラッド内部の美術を刷新する選択もあったろうが、製作陣はそうはしなかったようだ。彼らがやったことは「ノスタルジー」としての既存世界の確認反復作業と、原作小説にはいない美少女キャラの新規登場であり、その二点で映画を成立させようという試みだった。
だけれども、新規キャラをひとり増やしたところで、それで物語が豊かになるなんてことはありえない。スクリーンに広がるのは、演出方針がアニメ一期の頃とほとんど変わらない「いつもの」SAOの世界であり、見慣れた「いつもの」風景、見慣れた「いつもの」システム、見慣れた「いつもの」アクションである。技術の進歩によって、たしかに8年前のアニメ一期放送時と見比べて画面が「きれい」にはなっている。だが「美術の思想」「世界観の意義」というレベルで言えば、8年前とは全く変わらない世界がそこには広がっていた。
時が経過しても変わらない風景の連続。それが意味するのは、SAOシリーズの世界は「いま、ここ」とは違うファンタジー世界でもなんでもなく、そこに存在する世界の佇まいや、そこに生きる人間の感覚レベルでは、私たちの生きる現実の世界となんら変わらない、現実と瓜二つの「味気ない」世界であることを示唆している。
その「味気ない」世界の描写は、アインクラッド編最大の特徴とも言える「デスゲーム設定」にも現れている。キャラクターオブジェクトを構成するポリゴンの飛散、その呆気なさ。「3週間で1800人死んだ」とモブの台詞で片付けられる、その素っ気なさ。ひとりひとりの、かけがえのない命と世間は口にするけれど、実際のところは数字で簡単にデータ化され、ニュースを通じて現実に住む私たちの耳を通り抜けていく死者の行進。「レストランにでも行くような気分」でボス攻略に向かうキリトたちと、常に足元で口を開いて待っている「死」に対して私たちが愚鈍であるのと、なにが違うと言うんだろう。
キリトやアスナに感情移入する人が多分にいるのは、何も彼らがオタクの無い物ねだりの変身願望からくる自己顕示欲を満たしてくれるキャラ性を確保しているからというのが、理由の全てではない。彼らの感覚が、今時のボンクラなオタクたちと同じく「普通に怠惰」だからだ。私たちはいつだって世界に対して「普通に鈍感」なのだ。そういうレベルでしか読者・視聴者の共感を得られないのだから、実はSAOという作品はキャラクターの心理描写においても(原作のレベルからして)かなり幼稚で都合良く描かれているのがわかる(アスナ母役の「あの大御所声優」が、キャラクターとしてのアスナを全否定していたのは有名な話だ)。だからこそ、ファンタジー「っぽい」世界でカッコよくキメる彼らを見ることは、美男美女の精巧なコスプレ衣裳を見ているのと、そう大差はないと言える。
「これはゲームであっても遊びではない」というシリーズお馴染みのキャッチは、単に「ゲーム内の死」を「現実の死」と結びつける印象操作のみに留まらない。SAOの世界がシステムという名のルールの下に運営されるように、私たちの世界も法律や道徳といったルールの下で統制され、SAOの世界が遊び半分の気持ちでいると簡単に命を落とすように、私たちの世界も遊び半分で人生を送れば取り返しがつかなくなる。SAOは基底の部分において「現実世界」の話であり、だからこそ美術や世界観は「いま、ここ」の世界と同じく、見飽きた凡庸なものにならざるを得ないのだ。
そんな、退屈な現実と地続きなSAOの世界を描く『星なき夜のアリア』だが、メイン客層であるボンクラオタクらへの目配せは忘れてはいない。(ファッションとしての)百合シーン、あります。美少女のリョナシーン、あります。アスナの入浴シーン、もちろんご用意しています。こちら、アスナのえちえちな太ももです……という具合に、「好きな世界に囲まれた生活」を日常的に送るオタクたちの渇きを満たすため「だけ」に存在を許されているようなシーンが目白押しであり、そのために、現実の世界と同じように広大なはずのアインクラッド、その第一層を舞台にしてるにも関わらず、この映画における風景絡みの演出は、どことなく狭い、視野狭窄な印象を残している。
その「視野狭窄な」世界の切り取り方が、あるいは「良い奴は最後まで良い」「悪い奴は最後まで悪い」というキャラクター描写にみる極端な幼稚性・単純性が、まだ本当の意味での世界の残酷さを知らない、一筋縄ではいかない人間力学の不気味さを経験するには至らないオタクなボンクラ中高生にハマるのは、当然と言えば当然だ。映画館はその手の若者でいっぱいであり、彼らは「大人としての大人なキャラクター」を欠いたこの世界を愛している。なぜなら、自分もそうだったから分かるけど、それくらいの年の頃は「自分が大人になる」未来を……「大人の自分がいる世界」を、うまく想像できないからだ。
自分は本当に二十歳を迎えるのか……中学生の頃の私には、その予感がまるで湧かなかった。実は大人になるというのは幻想に過ぎないんじゃないかと、オカシナ妄想に走りかけたこともあった。そんな私も、ついに三十路を過ぎてオッサンになってしまった。その途上で、「普通なようで普通じゃない映画」をそれなりに観てきた。恥ずかしながら、この年になってようやく「異世界」のなんたるかを、徐々にではあるが理解しつつある。
そんな私を含め、「本物の異世界映画」の味を知ってしまった人たちにとって、「外見は普通、中身も普通」なこの作品は、過去の己の中にあった「幼稚な熱」を画面の向こうに見てしまうという、どこかノスタルジックな気分に浸る役割しか持ち得ない。そのことを痛感させられる映画体験だった。
だから、この映画は『オーディナル・スケール』がそうであるように、オタクな中高生たちが楽しむ映画だ。「日常」が持つ永続性に対する疑問を持つことなく、「好きな世界」に囲まれた生活を「熱い生き方」とする行為が、その実は「孤立」と表裏一体であることに気付かないことが、まだ社会的に許される年齢。彼らの渇望を満たすためにSAOは「終わらないコンテンツ」として、まだ君臨し続ける(本作のエンドロール後に続編も告知されたことだしね)
そんなわけで、劇場のスクリーンは完全に「ただのデカいテレビ」と化してしまっていましたが、それでも時間潰しにはなりました。映画だからこその「味わい深さ」を噛み締めるような作品ではなく、さっさと暇を潰すためだけに観る「ジャンクフードな映画」として鑑賞するのが宜しいでしょう。子供たちにとっては特別なんでしょうが、いい年した「大人」の方々にとっては、ごくごく「普通につまらないだけ」の作品かと思われます。
あ、でもね。エンディングに流れるLisaのテーマ曲は、やっぱりアニオタとして痺れるものがありますね。かっこいいっす。




