【第77回】ポゼッサー
『企業、肉体、情報――「わたし」という「性別」について』
去年の暮れにここの活動報告でちょっとお話した通り、実は私、去年の9月からダイエットを開始しました。大好物が二郎ラーメン(小ブタヤサイマシマシニンニクアブラカラメ)な人間なので「糖質制限ダイエット」なんて絶対に無理だというのは、やる前から分かっていました。なので、有酸素運動と筋トレをメインに実行。結果として半年で27キロの減量に成功しました。ですが、まだ目標体重には届いていないので、今もなお継続中です。
ろくに連載小説も更新しないグータラな自分が、どうしてダイエットなんてものに手を出したか……これを話すとめちゃくちゃ長くなるので割愛しますが、一言で言うなら「印象を良くしたかったから」というのがあります。
「人は見た目が9割」というメラビアンの法則な文句を耳にして、しかめっ面を浮かべる身なりに気を使わないオタクな皆さんへ告げます。残念なことにそれは事実です。しかし、この「人は見た目が9割」という言葉の裏にあるのは――ブサイクな私が言うと自己弁護に聞こえてしまうかもしれませんが――ルッキズムがすべてというわけではないという意味です。「※ただし、イケメンに限る」という言説は、当たり前ですがギャグに過ぎません。変身願望を抱えるオタクに特有の自己肯定感の著しい低空飛行をオタク自身がイジった言葉に過ぎず、「チー牛」と同レベルの「どうでもいい蔑称」に過ぎません。私たちは見た目で相手のすべてを決めているのでもないし、イケメンでも中身がどうしようもないクズなら普通に社会生活を送るのに支障をきたします。そういったキャラ(たとえば『呪術廻戦』の直哉など)がもてはやされるのは、あくまでも二次元の世界での話です。
しかしながら、それでも私たちは「人は見た目が9割」という文句に、心のどこかでは説得力があると感じています。そうでなければ、これほどまでに「美容」「ダイエット」がもてはやされ、ファストファッションが大手を振って歩く時代を説明できません。ずーっと家に引きこもってばかりのニートでもない限り、学校や職場や家庭生活において、私たちは表情・発話・身振りといった「わたしたちの肉体」を使ったコミュニケーションを通じて、相手との相互理解や妥協点を探る生活を送っているのです。
つまり「人は見た目が9割」という言葉は「人は肉体でコミュニケーションを取っている」という、当たり前の、しかし「当たり前すぎる」がゆえに、私たちの意識から外れてしまった事実に則った言葉であるからして、やはりそれは、ある意味では「真実」であるのです。
肉体……わたしたちの肉体。「ダイエット」を通じて、私は私という肉体を見直そうと決意しました。顎や腹回りに纏わりついている脂肪を燃焼させ、肩や腕や脚に筋肉を搭載させ、さらには「メンズ脱毛」に手を出し、スキンケアを入念にこなし、それまで一度も読んだことのないファッション雑誌やファッション系Youtuberの動画をチェックして、私は自身の、この身ひとつの「肉体」を「改変」していきました。
そして半年が経過した今、こう結論付けました――なにも変わりませんでした。私という肉体をどれだけ改変してみせたところで、やはり「わたし」は「わたし」なのであります。
さて、私はこの映画レビュー集の第68回でシャマランの『オールド』をレビューした時、次のようなことを書きました。
『私は初期クローネンバーグなどに代表される「肉体変容映画」を好んで観るのですが、それはなぜかと言うと「肉体的な変化無しに、精神面での劇的な変化などあり得ない」と感じているから』
今にして思えば、これはとんでもない妄想であったということ。オタクのたわごとであったいうことが、他ならぬ私自身の「変容した肉体と、しかし変容しない精神」の存在で以て証明されました。
ところが、「ダイエット」や「脱毛」や「スキンケア」という手段で、私は私の肉体をどんどん改変していくたびに、強烈に意識させられる面がありました。
それは、私が「男」であるという事実。
私という存在が「肉体ある人間」であるというよりは「男という人間」として、この社会を生きている事実。そのことを、どうしてか真に突きつけられるようなことが、たびたびありました。全裸になって鏡の前に立ち、腹回りや腕周りの筋肉を確認する作業をする時、そこに立っているのは「わたし」という個人ではなく「男性」という個人であることを、まさかこれほど突きつけられるとは、思ってもいませんでした。
私たちを私たちたらしめている「性別」という概念――その、人間の根源的な部分に突き刺さる恐怖映画を、今回はご紹介したいと思います。
【導入】
他人の脳内に自らの意識を転送して肉体を操作し標的を殺害する「遠隔殺人システム」と呼ばれる技術を使った「暗殺業務」に従事する女性工作員の姿を通じて「肉体と情報」の在り方について問い直すSFスリラー映画。ちなみにR18映画なので、そこんとこよろしくです。
監督は鬼才なド変態映画監督で知られるデビット・クローネンバーグの長男、ブランドン・クローネンバーグ。蛙の子は蛙ということで、変態の子もやはり変態でございました。とは言っても、親父さんの映画はそのほとんどがスリラー映画のようで芯の部分ではスリラー映画「ではない」作品なのですが、息子の方はしっかりスリラー作品に仕上げていて、単に親父さんの作風をそのまま受け継いでいるわけではありません。ちなみにこれが二作目。デビュー作である『アンチヴァイラル』は未見ですが、「セレブの細胞から作った人工肉を食べるのが流行している世界」を舞台にしたお話らしい。うん、やっぱり変態じゃないか!
ちなみになんですが、レビューを書くにあたって表記を分類するためにデビット・クローネンバーグを「大クローネンバーグ」として、息子のブランドン・クローネンバーグを「小クローネンバーグ」として使い分けていきたいと思います。どこの古代ローマの将軍だよとか、そういうツッコミはなしで。
さて、主人公である「遠隔殺人システム」の工作員、タシャ・ヴォス役には、アンドレア・ライズボロー。『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』ではニコラス・ケイジ以上に目立ってましたが、個人的にはイニャリトゥの『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』の印象が強いっす。
タシャの意識が潜伏する対象として選ばれた哀れな男性、コリン・テイト役には『イット・カムズ・アット・ナイト』で、これまた可哀そうな(笑)目に遭ってしまう役どころを演じたクリストファー・アボット。
タシャの上司であるガーダー役には『イグジスデンズ』で、あの気持ち悪いゲームのデザイナー役を演じたジェニファー・ジェイソン・リー。タシャの夫役には、ドナルド・サザーランドの息子、ロシフ・サザーランド。コリンの婚約者であるエヴァ役には、タペンス・ミドルトン。『イミテーション・ゲーム』とか『ジュピター』に出ていた方。
そして、大手企業ズースルー社のCEOであるジョン・パース役には「よく死ぬ俳優」として知られるショーン・ビーン。代表作は『007 ゴールデンアイ』だとか『リベリオン』だとか『パトリオット・ゲーム』ですが、まぁ悪役がほとんどですよねこの人(笑)。そんでもって、やっぱり死ぬ。あまりにも死ぬ役が多すぎるから、Youtubeには彼の死亡シーン「だけ」を集めた動画があるんだとか(笑)。でもこの人、当たり役もあるんですよ。『ロード・オブ・ザ・リング』の、指輪の誘惑に負けそうになるも頑張るボロミアさんをやっていたのはこの人なんですけど、まぁ、いいキャラですよね。私はエイム力がエグいレゴラスが一番好きなんですが、次に好きなキャラはボロミアなんだよな~まぁ~死んでしまうんですが(笑)。でも、いい死に様だったなあれは。うん。今作における彼の死に様は、まぁそれはそれはヒドいものですが(笑)。
【あらすじ】
薄いブルーのジャージに着替えた彼女は洗面台の前に立つと、慎重な手つきで自身の頭頂部を指先で確認し始めた。そこに埋められたインプラントの硬さを、頭蓋を覆う皮膚越しに感じ取る。
確認作業を終えると、彼女はバッグの中から先の尖った電極棒を取り出し、そいつを自身の頭頂部へ――インプラントが埋め込まれた位置とズレが生じないよう、ゆっくりと挿し込んでいく。
溢れ出る血を意に介さず、彼女はさっそく作業に取り掛かった。ケーブルで電極棒に繋がれた電子機器のダイヤルを、決められた位置まで、かちり、かちりと回していく。
すると、洗面台の鏡に映る彼女の表情が変わっていく。かちり。泣き出しそうな顔。かちり。冷静な顔。かちり。怒りを溜め込んだような顔。かちり。かちり。かちり……鏡の向こうで、彼女は次々に喜怒哀楽の表情を浮かべていく。与えられた任務を忠実にこなす兵士のような生真面目さで切り替わっていくその表情は、彼女であって彼女ではない「別の誰か」の表情であり、そのことを、他ならぬ「彼女」は知っている。
調整を終えた「彼女」は同僚と合流すると、上階のラウンジで開催されているパーティに参加するために、エレベーターに乗り込んだ。ここはどこかの高層ビルの一角。ラウンジの豪奢な受付を通り過ぎ、階段を上った先では、裕福そうな人々がお喋りに花を咲かせている。資本主義社会に身も心も染まったそんな人々の中には、「彼女」が標的とする、太鼓腹をした男の姿があった。
「彼女」はごく普通な感じを装って、一直線に迷いなく男に近づいていった。そして次の瞬間、ラウンジでくすねた調理用のナイフを、いきなり男の喉元に突き立てた。鮮血が迸り、和やかな雰囲気に包まれていたラウンジは、一転して非日常へと姿を変える。あまりのことに同僚は血相を変えて驚き、その他大勢の人々も叫び声をあげて、ラウンジから逃げていく。そんな彼らを気にも留めない「彼女」は、致命傷を負った男をその場に押し倒すと、そのでっぷりと肥えた腹に猛烈な勢いでナイフを突き刺していく。何度も、何度も、何度も。繰り返し、繰り返し、ナイフを突き立てていく。
自身の真っ白なスニーカーや、男の小奇麗な白いシャツが、取り返しがつかないほど赤黒く染まった頃には、すでに男は完全に息絶えていた。「彼女」は肩で呼吸しながら、何かを確かめるように、男の遺体を中心に広がる血の海に左手を浸し、手のひらでそれを拭い取った。さっきまで男の体内を流れていたはずの命の液体を。それがいま、こうして目に見えるという事実に対して思うところがないわけではない。だが「彼女」には、まだやるべきことがあった。殺人の最中に床に投げ出された自身のバッグに手を伸ばすと、そこから偉大な鋼鉄の塊である拳銃を一丁取り出し、銃口を己の口の中に挿し込んだ。
「脱出」
そう宣告して、あとは引き金を引くだけで「全て」が終わるはずだった。だが「彼女」は引き金を引けなかった。かかる指先がひとりでに震え、頬を熱い雫がなぞる。
罪悪感など捨てるべきだった。この「肉体」に対する罪悪感など。だが、いくらそう思ったところで、「彼女」は最後の一手を自身の手で実行することを躊躇した。
そうこうしているうちに、通報を受けて駆けつけてきた警官隊が、銃を構えてラウンジに雪崩込んできた。その姿を見た「彼女」は、ふっと銃口の先を警官隊らに向けた。もちろん、それはポーズに過ぎない。自身の手で終わらせられないなら、誰かの手で終わらせてしまえばいい……そんな「彼女」の思惑を知らない警官隊らは、反射的に発砲した。多数の弾丸が肉体を貫いていく。自分がさっき殺した男と同じように、仰向けになって力なく床に倒れ伏した彼女。そして、止めの弾丸が彼女の脳天を直撃した……
その刹那――ラウンジの受付嬢・ホリーの肉体は、その生命活動を完全に停止し、ホリーの肉体に潜行していた意識としての「彼女」は「彼女本来の肉体」の中へと帰還していった。
病院患者のような装いに包まれた「彼女」の肉体が――タシャ・ヴォスの肉体が目覚める。意識がフィードバックした際の反動が肉体へ直に伝わり、思わず胃の中からせりあがってきた内容物を吐き出すも、それが床にばら撒かれることはなかった。事の一部始終をモニタリングしていたスタッフが、機転を利かせて金属製の受け皿を差し出したためだ。
大きく呼吸を繰り返し、気持ちを整えるタシャ。そんな彼女の耳に、モニタリングしていた技師の作戦終了を伝える冷徹な声が、静かに響き渡った。
「宿主の脳死を確認。リンク切断……完了」
トレマトン社。それがタシャの勤める企業の名称であり、さる恐ろしい技術を秘密裏に開発・所有している企業でもあった。自社が保有する工作員の「意識」を、脳内に埋め込んだインプラントを介して「他人」の肉体へ転送させる技術。転送された工作員の意識は、宿主の人格を完全に支配し、第三者である標的の暗殺を遠隔操作で実行可能とする。俗に「遠隔殺人システム」と呼ばれるこの人格転送技術で、トレマトン社の利益は潤いに満ちていた。この企業のやり口というのは狡猾そのもので、個人や企業から請け負った「暗殺案件」を可及的速やかに処理した後、警察の捜査の手が伸びないように、殺人に「使用した」宿主の肉体を「自殺させる」ことで、自社の存在を表舞台から隠蔽しているのである。
工作員の中でも、タシャの働きぶりはエース級のものだった。女上司のガーダーからも「後継者」として見なされている彼女は、これまで数々の暗殺業務を遂行してきたのだ。だが、そんな恐ろしい仕事に手を染めているのとは裏腹に、タシャには家庭人としての側面もあった。新聞社に勤める優しい夫と聡明な息子。彼らのことを愛したいタシャだったが、別居という形で距離を置いていた。非人道的な職に就いている自分は、彼らのそばにいるべきではないと思っているのだ。それでも、タシャの仕事を知らない夫は、ベッドで夜の営みを済ませた後に、我慢の限界だとばかりにタシャに詰め寄る。一緒に暮らそう、こんな生活はもう嫌だ……だが、夫の訴えはタシャには届かなかった。それどころか、夫の姿を昨日殺したばかりの男の姿に重ねる始末で、心ここにあらずといった具合だった。長年「遠隔殺人システム」に仕えてきた反動によるものか、タシャの自我は崩壊の兆しを見せていた。
それでも、休む間もなく仕事は舞い込んでくる。次の標的はデータマイニングの大手企業・ズースルー社のCEOであるジョン・パース。依頼してきたのはジョンの義理の弟・リードだった。
「遠隔殺人システム」を利用するにあたり、トレマトン社は、これが外部から見て「分かりやすい悲劇」として映るようなストーリーを考えていた。すなわち、誰の体にタシャの意識を潜行させてジョンを暗殺するか。その候補としてリスト・アップされたのが、ジョンの一人娘であるエヴァの婚約者にして、コカインの密売人であるコリン・テイトという男性だった。娘がどこの馬の骨とも知れない男と付き合っていることに腹を立てているジョンは、コリンにある「試練」を課していた。自社のデータマイニング工場に彼を勤務させ、その働きぶりを考慮したうえで、娘との結婚を許諾するというのだ。
この状況を利用しない手はない。トレマトン社が考えた筋書きは次のようなものだった。やりたくもない仕事をやらせて、コリンには鬱憤が溜まっている。次第に怒りの矛先はジョンと、何も手助けをしてくれないエヴァへ向けられる。そして二日後の晩餐会で、コリンはジョンとエヴァを衝動的に殺害する。自分がやったことの重大さと罪悪感に苛まれて、コリン自身もその場で自殺する。栄えあるデータ企業とその創業一族を襲った悲劇として、事件はメディアの手で大々的に取り上げられ、世間の同情を買ったリードが、次期CEOとして就任する……だが、これはあくまで顧客であるリードに向けた脚本。トレマトン社の真の狙いは、リードに対して借りを作ることで彼を傀儡化し、ズースルー社の利益や顧客情報の何もかもを手中に収めることだった……
ガーダーの指令を受けて、早速タシャは仕込みに取り掛かった。「潜行」した後の挙動が周囲から怪しまれないよう、夜な夜なコリンの言動を物陰から観察し、何度も何度も彼の口調を反復して、自分自身の意識に刷り込ませていく。
それから数日と経たず、タシャは遠隔殺人システムの装置の前に横たわっていた。時を同じくして、別の場所ではトレマトン社の工作員チームがコリンを拉致し、その脳内にインプラントを挿入した後だった。
全ての準備は整った。ガーダーの号令と同時に、タシャの肉体は静止し、その意識は「別の肉体」を宿主とするために、おぞましい潜行を開始する。悪夢的な幻視的光景が広がると同時に、コリンの人格をねじ伏せるタシャの意識。だがそれは、崩壊しつつある彼女の「自我」と「性」が、新たな「解放」を求める旅路の始まりでしかなかったのだ……
【レビュー】
このレビューを書いている時点ですでに三回観に行っているんですが、そのことからも何となくお察しの通り、個人的にかなり気に入っている映画です。もし『ザ・バットマン』と『ポゼッサー』のどっちを観るべきでしょうかと聞かれたら、まず間違いなく私は『ポゼッサー』をおススメします。とはいってもミニシアター系でしかやってない作品なので、リアルタイムで観に行くにはなかなか厳しいものがあるかもしれません。ですが、その点を考慮したうえでも、私は自信をもって『ポゼッサー』をおススメします。
ストーリーは難解そうに見えてちゃんと筋があるサスペンスになっていますし、近未来レトロな世界観の描写、緊張感と恐怖を煽る音楽の使い方、キャラクターの不安定な感覚を示唆するような独特のカメラワーク……どれをとっても満足のいく作品に仕上がっています。3時間近い大作映画が上映されることがほとんど当たり前になってきている昨今、上映時間100分というほどほどの長さにまとめているのも個人的にはグッド。語るべき物語に見合った上映時間であると思います。
ただ、最初に断っておきたいのですが「万人が楽しめる映画」ではございません。面白いことには面白いのですが、この映画は単純に興奮できて、楽しめるといった映画ではありません。(そもそもSFスリラーというキワものジャンルなのもあって)観る人を選ぶ作品と言えるかもしれませんが、ハマる人にはとことんハマる。そんな映画です。
大クローネンバーグの息子が手掛けた作品なだけあって、グロテスクなビジュアル・イメージ、内臓感覚な面白さに満ちた映画ですが、小クローネンバーグの映画の方が、親父さんよりも美術面において見所があるなと私は感じました。大クローネンバーグの映画は美術というより小道具の面白さ(奇妙、気味悪い、不気味、可笑しい等)が際立ってますが、小クローネンバーグはもっと世界全体に対するイメージ志向の強い方なのかもしれません。
とまあ、父親との類似点や相違点ばかり語っていても仕方ないですよね。このレビューをお読みになっている方の中には「クローネンバーグ? 誰それ?」な方もいると思いますので、大クローネンバーグとの比較はなるべく最小限に止めて、比較したうえでの相対的な面白さではなく、この作品単体での魅力を語っていきたい……と、一口にそう言ってもなかなか切り口が難しい映画なんです。なので、まずはオーソドックスな楽しみ方からご紹介していこうと思います。
まずこの映画の素晴らしいところは、冒頭~オープニングタイトルまでの短い流れの中で、お話の要点をほとんどすべて描いてしまっているという点。舞台となっている世界がどういう世界であるのを映像的に説明しているだけでなく、この映画全体を貫くテーマをさりげなく描いちゃってる点が凄い。謎めいた器具、ちょいレトロな近未来世界の美術、外連味のあるカメラワーク、メッタ刺しのシーン、拳銃自殺をためらうシーン、グロテスクな鮮血、そして技師の発する「宿主の脳死を確認……リンク切断」という一言。時間にして5分にも満たない展開の中で、話の中心になる「遠隔殺人システム」技術の特異性を際立たせているだけでなく、主人公が密かに抱えている精神的な問題から、この映画が「どういう映像的イデオロギーの下で描かれる物語であるか」までを「さりげなく」「ほとんど映像のみで」説明してしまっているというこの事実に、正直私は驚きました。
たしかに、お話の頭の部分で主人公の人となりや世界観をある程度説明するという手法は、すでに確立されているハリウッド脚本の王道に沿ったものです。しかしながら、この映画の凄いところは、その冒頭~オープニングタイトルに至るまでの映像すべてが「つかみ」を超えて「見どころ」として撮影されている点。実際、この映画の予告編(それは一般的に、映画の「見どころ」を集約して編集されている)の映像は、その8割近くが冒頭~オープニングタイトルまでの映像を寄せ集めて制作されています。長編二作目の映画でそんなことができてしまうという驚き。小クローネンバーグが親の七光りで映画を撮っているわけではないのがよっく分かります。
だから、この映画の「一番面白い部分」って、実はこの冒頭~オープニングタイトルまでだったりします(笑)。じゃあそっから先は面白くないんかい、と言ったら当然そんなことはなく、お客さんの興味を引くための映像的な仕掛けが盛り沢山なので、画面を観ているだけでもそれなりに楽しめてしまいます。近未来SFにありがちな、奇抜なデザインのウケを狙ったわざとらしいプロップが登場するというよりかは、その手触り・雰囲気はどことなくレトロで、私たちの住んでいる「いま、ここ」の世界と地続きにあるようなデザインのものばかり。C-PAP(無呼吸睡眠症候群患者が使う呼吸器具)を巨大化させたような潜入装置はもちろん、一番私の目を惹いたのは、宿主との意識の同期を調節するのに「電極棒」を使うというセンス。この電極棒、先端部分が尖っているんですが、なんとコイツを頭のてっぺんにズブリと挿して(その際の血の溢れ方が、何気に怖い)ケーブルで繋がれた古臭い電子機器のダイヤルをかち、かち、かちと回していくことで電極に信号を送り、宿主の意識と潜入している工作員の意識を同期していくんですが……はっきり言ってかなり痛そう(笑)。主人公(が憑依したキャラクター)が電極棒を頭に挿すシーンを観て、私の隣に座っていた男性客は「ひっ」と小さく声を上げていたくらいですから、なかなかに身構えていないとショッキングな映像として映ります。
でも、インパクトで言ったらまだまだ。こんなもんじゃありません。この「電極棒を頭にブスっと挿す」シーンで「ちょっと無理そうだな」と思った方は、はっきり言ってここから先の展開にはついていけないでしょう。なにせこっから先に待ち構えているのは、主人公であるタシャが標的をナイフや肉切り包丁でぐちゃぐちゃにメッタ斬りにするシーンであったり、火かき棒を標的の口の中にグサッと突き刺してぐりぐり捻じったり、眼球をぐちゃっと抉り出したり、至近距離で標的の脳天を銃弾でぶち抜いたりと、血まみれ惨劇グログロな「肉体的に過激な映像」ばかりであるからで、しかもそれが「怖い」ときた。
大クローネンバーグの映画も、今はそれほどでもないですが、初期の代表作(『スキャナーズ』『ザ・ブルード』『ザ・フライ』『デッドゾーン』などなど)においては、小クローネンバーグに負けず劣らずのグログロな肉体崩壊描写を得意としていました。しかしながら、大クローネンバーグの映画は「グロテスク」で「おぞましい」印象を与えても、それが「怖い」「スリラー」といった領域にはいかず、むしろ「私たちはいつか私たち自身の肉体に決別を告げるときがやってくる」ことを暗に示すことで「悲しい・やるせない・せつない」といった印象を与えます。だから、私にとって大クローネンバーグの映画は「スリラー」でもなんでもない。それはどこまでも、サルトル的な実存主義に彩られた「肉体にまつわる物語」であったのです。
その一方で、小クローネンバーグの映画には「スリラー」としての趣がしかと存在しています。この映画における肉体損壊描写には、大クローネンバーグの映画には絶対になかった「肉体に対する激しい嫌悪感」であったり「相手の肉体を手懐けていることに対する圧倒的な優越感」というものが、家系ラーメンのスープ並みの濃度で滲み出ています。カメラワークや役者の演技は冷徹そのもので、どこまでも淡々としているのですが、そのぶんかえって、隠しようもないほどの肉体に対する憎悪と怒りを強調してくるのです。
この映画は「肉体を嫌悪する」映画と言ってもいいでしょう。では、ここで「嫌悪されている肉体」とはどういうものか。それは、今世紀に入ってから決定的に変わってしまった、私たちの生活に根付いた肉体。「企業によってコントロール可能な存在となってしまった肉体」に対する「嫌悪感」なのです。
インターネットの登場とその普及により、私たちの肉体の在り方というのは大きな変革を余儀なくされてしまいました。そんな風に言っても、頭に「?」を浮かべる人の方が多いと思います。それもそうで、つまりはそのぐらい「無意識のレベル」で、私たちの生活に企業の思惑が浸透してしまっている。私たちが何気なく毎日を送る中で利用しているアプリやサービスの中に、それらは広告として、アンケートとして、あるいは宣伝として巧妙に配置されており、私たちはその事実すらも、いつの間にか「退屈な日常のいち風景」として認識しているのです。
新型コロナウイルスの蔓延によって、ますますコミュニケーション・ツールとしての利用価値を高めているSNS。テキスト、動画、画像の投稿でどこかの誰かと「仮想的に」繋がれているという現実。それは言い換えれば「肉体を欠いた現実の繋がり」と言えるでしょう。それが良いか悪いかの問題ではなく、すでに「そうなってしまった世界」で私たちは生きているのであり、そのように私たちのコミュニケーション手段を規定しているのは、他ならぬ企業そのものです。いまや世界中の人間が発信者となり、インフルエンサーの登場で個人の能力が組織より注目されるようになりました。しかし、それでも個人はしょせん「個人」に過ぎず、そのことがむしろ、個人の発信力を高める「ツール」を開発した「企業」の存在を、より強調しているとさえ言えるのです。
学校や職場に電車通学/通勤されている方に問いたい。あなたが乗っている電車にはどんな広告が貼られていますか? ちなみに、私が普段通勤に使用している電車の広告は、そのほとんどが「美容」に関するものです。フォトショであからさまに加工された芸能人が得意げな流し目を送り、印象的な文句と共に「脱毛」を推奨しているという現実が、いま、私の目の前に広がっています。それは20年前には存在しえなかった現実です。女性はともかく、少なくとも男性にとってはそうでしょう。「男が脱毛する」という風潮に対して、20年前なら白い目を向けられることもあったかもしれません。けれども今はどうでしょうか。この20年のうちに、むしろ「男性の脱毛」は比較的「喜ばしいこと」として、世論に溶け込んでいるんじゃないでしょうか。Youtubeで動画を再生すれば必ずと言っていいくらい「男性脱毛」や「ダイエット」に関するわざとらしいまでの広告が、幾度も幾度も垂れ流されている事実を指摘するまでもありませんよね。ダイエットに関して言うなら「脂肪の吸収を抑える」という謳い文句の健康飲料がコンビニの棚にずらりと並び、サラダチキンをはじめとする高タンパクな食べ物が「筋トレに良い」「健康に良い」とされていますが、ではそれを「良いもの」として喧伝し、インターネットの情報拡散力を利用し、爆発的な勢いで以て普及させたのは、いったいどこの誰なんでしょうか。
日本トレンドリサーチが去年の4月に行った調査によれば、今の20代の6割近くがタトゥーに関する規制を緩和することに「賛成」の意見を投じているらしいです。自らの肉体を自発的に「損壊」する行為を「損壊」としてではなく「ファッション」や「流行」として捉えている若者がそれだけいるってことですな。ですが、ここで考えるべきはそれが良いか悪いかという道徳的な是非についてではなく、文化的・民族的背景を持つタトゥーを「流行」という即物的なモノとして扱うことに抵抗のない空気感がどこで醸成されてきたかということで、十中八九それはインスタやTikTokなどの「企業」が開発した「アプリ」の中でのコミュニティの中で生まれたとみて良いでしょう。
今年の1月、あるニュースが私の目に留まりました。アメリカのメリーランド大学医療センターが、遺伝子操作したブタの心臓を人に移植する手術を実施したというニュース。医学の発展によって死の瀬戸際に立たされた命が助かることは、もちろんそれは純粋に喜ばしいことです。
けれど、このニュースに秘められたもうひとつの事実。それは「私たちの肉体が、家畜のそれと代替可能な存在になった」というおそるべき事実であり、もはや「肉体」という存在は、人間の特権ではなくなったことを意味しています。これは「大学」の「医療センター」の話だから、一見すると企業は関係ないかもしれません。けれど、倫理や法律を整備さえしてしまえば、企業の方がもっと上手くやれるだろうと私は思います。およそ「人間」という「肉体」を「コントロール可能」とするために、どの技術を重点的に伸ばすか、どの技術を汎用化させ、そのためにどれぐらいの資金を投入するべきか。アメリカや中国の大企業は、すでにそういう計算を日夜私たちの知らないところで始めている……そのように考えているのは、果たして私だけでしょうか。
この映画には一か所、とても奇妙なシーンがあります。主人公であるタシャがコリンの人格を乗っ取り、彼の仕事場に向かうシーン。そこは工場で、従業員たちは全員おかしなVRゴーグルを身に着け、ゴーグル越しに次々に表示される静止画像の中から「カーテン」「ランプシェード」など、ある決まった単語が意味するパーツを休む間もなく画像から切り出していく。朝から晩まで、延々とそれをやるよう強いられています。
基本的に台詞の少ない映画ですから、ここがなにを意味しているシーンであるかは、具体的に言葉で説明されることはありません。私も最初このシーンを観たときには「なんだ、これ」という感想しか浮かばなかったんですが、パンフレットに掲載されている監督の弁によると、これは大企業が今や当たり前のようにやっている「データマイニング」を風刺的に描いたシーンなんだそう。
ああ、そうなんだ。データマイニングね。そういやデータ採掘の会社だって説明されてたね……その時はそれで終わったんですが、後々考えてみると、そのシーンを私が最初に観たときに抱いた「なんだ、これ」という感覚というのは、私たちが――アップルやグーグルやテスラモーターズなどの――「大企業」に対して無意識のうちに抱く「不確かな感覚」と、そっくりそのまま置換可能なんじゃないでしょうか。自社の内実を精緻に理解しているサラリーマンなど一人として存在しないはずなのですが(そもそも人間の個人能力は「全体」を「詳細」に「把握」することはできない)私たちが先に挙げた企業の「内実」を「知った気でいられるように」なっているのは、他ならぬインターネットによる情報収集手段が発展したからです。ですが、それでも私たちは「企業」の「全容」を知る術をほとんど永久的に失っています。むしろ、私たちは私たちの生活に紐づいた情報を企業が「どう活用して」「どう関与しているか」については「なんだ、これ」というあやふやな感覚でしか捉えられなくなっているのが実情です。
私たちの個人情報を取り扱っている「企業」という存在。私たちは(ほとんど無意識的に、そして自らの意思で)進んで「わたし」という「情報」を「切り売り」して企業が施すサービスを受けているのに、その肝心の企業については、前世紀よりもずっと「巨大な、しかし曖昧な存在」としてしか捉えられなくなっているという現実。いつの間にか、そのように今世紀の企業を「規定」してしまったのがインターネットという現代の魔術であり、いまや大企業はインターネットを駆使する「魔法使い」でありながら、インターネットの力で複雑怪奇な変貌を遂げてしまった「怪物」でもあるのです。
この『ポゼッサー』という映画は、そういうことに気づかせてくれる映画であり、それだけ現代の企業の在り方というものをほとんど正確に&冷徹に捉えているんですが、そういう部分は先に挙げた風刺的なシーンとしてちゃんと映っているにも関わらず、全体を通してみると限りなく後景にあるのが分かります。あくまでもジャンル映画としての枠組みに留まるのがこの映画の特徴であり、それゆえに、先に挙げた肉体損壊描写も「スリラー映画」の「お約束」といった風に当然顔で描かれているのですが、しかし当然顔で描かれれば描かれるほど、それは「歪な肉体損壊」として映り、描写の背後にあるものがなんであるか、観客は想像せざるを得なくなるという、実にスマートなやり口で、私たちの「肉体」と「企業」の関係性を痛烈に皮肉っているのです。
そしてもう一つ、この映画は「肉体に対する凄まじい嫌悪感」を表す容赦のない肉体損壊描写や、自我と自我のぶつかり合いをストロボ効果などで強調した、CGを一切使っていない悪魔的なビジョンを通じて、あるおそるべき「未来」を示しています。この世に唯一無二の存在として尊ばれ、本来なら不可侵領域であるはずの「わたし、あなた個人の肉体」が、しかしインターネットという魔法を手にした「企業」と「企業」の扱う情報拡散力・宣伝力の下で、いともたやすく影響を受け、当事者の、半ば無意識に近い意思で自発的に「変容」してしまうという世界に生きざるを得ない現実。より健康的で快適な(と、信じられている)暮らしのために「ダイエット」や「脱毛」「臓器移植」などの手段を講じて、自らの肉体情報を「改変」し続ける私たち。SNSに代表される仮想的手段による「肉体なきコミュニケーション」を、いつのまにか当然のものとして受け入れている私たち。そんな私たちの「肉体」が所有する「情報」の「最後の砦」として、この映画は「性別」を扱っています。いま、この映画を観た後なら私は「自分とは何か?」と聞かれてこう答えるでしょう。「私は男性である」と。私は「浦切三語(まぁもちろん本名じゃない)」である前に「男性」であるという、ごくごく当たり前の事実に、ようやくこの時気が付いたのです。
なぜトランスジェンダーやジェンダーフリーといったものが御大層な概念として丁重に扱われているかといえば、それは性別こそが、人間が人間である最後の寄る辺であるからだということを、この映画はグロテスクなビジュアルに乗せて、切実に訴えてきます。人間とは詰まるところ、その肉体的な特徴において「男性」か「女性」かの二種類でしかない。けれども、そんな「自分を自分として」この世界に留めている「性別」ですら、もしかすると近い将来、いや、もうすでに、企業と情報の力によって自由自在な「変容」を可能としてしまっているかもしれない……そういう意味で、この映画は「SFスリラー」であるのです。
自我と自我の衝突を描くことで、アイデンティティの脆さであったり、記憶と想い出、意識と行動の不確かな関係性を描いているのも『ポゼッサー』の特徴です。そういう意味では、なんとなく『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』に通じる「意識を扱った映画」として映ります。実際、タシャが意識を転送するシーンでは、『攻殻』のオープニングタイトルで描かれていた素子の義体生成を反転(つーか、逆再生したような)演出が為されていますし、なんかちょっと『攻殻』に似た匂いは、あるっちゃあるんですよ。
しかしながら、この映画は意識や自我の問題に最後まで拘泥したりはしません。それらとは別の次元において、むしろ一貫して強調されているのは「男の肉体」に「女の自我」が潜入することで起こる「男性」と「女性」の衝突・分離などであり、性格劇へ以降する以前の大クローネンバーグにはなかった「性感覚」を研ぎ澄ませた作品なのです。タシャが標的を殺すシーンにおいて、そのことが嫌というくらい強調されています。タシャは「男の体」に入って殺人を決行する際、女はあっさり「銃殺」するのに対して、男は刃物で「刺殺」、それも執拗に痛めつけてから殺すのです。女上司のガーダーに「なぜ男を銃で殺さない?」と聞かれて上手く答えられなかったり、宿主の意識から脱出する際に「拳銃自殺」が出来なかったり……極めつけは夫とセックスしてる最中に「男性を刺殺した感覚」を反芻しているシーンがあったりと、まぁとにかく「あからさま」ですわな。分かりやすいくらい「拳銃」が「おティン〇ィン」のメタファーとして扱われているし、夫のアレでアソコを突かれている時に、自分は男をナイフで殺した感覚を重ねているという、男性「性」に対する一筋縄ではいかない感情を有しているのは明らかです。
企業によって肉体をコントロールされる立場にある女性工作員が、人間であることの最後の証明として肉体に宿す「女性」という「性別」――それがいかなる遍歴を経て、男性性を支配し、分離し、反発し、その果てに何が待ち受けているのか……この映画のラストは、「性別」によって「わたし」という存在がある種の限界に留められている世界を生きている多くの観客からしてみれば、おぞましくも「希望的」なラストにも映りますし、自我と性別の相克の果てに辿り着いた「絶望的」なラストにも映ります。
その判断は、ラストに登場する「赤い羽の蝶」をいかに受け取るかで変わります。この「赤い羽の蝶」は、オープニングタイトルが終わってすぐの場面と、このラストのたった二か所にしか登場しないのですが、そこで「蝶」にまつわる想い出を口にする主人公の「台詞の違い」に注目してみてください。注意深く耳にしていないと聞き逃すレベルの自然な台詞の違い。その違いが何を意味するかは、観る人ひとりひとりの「性」に対する自己認識によるのかもしれません。
ちなみにこの映画、近年のホラー映画でもほとんどお目にかかれない、というかゼロに近いであろう「何の非もない子供を殺害するシーン」が登場します。それも、がっつりブッ殺してるシーンをカットせずに映しているので、かなり面喰いました。こういうシーンって、今は倫理的なアレだったりお客さんの反応が良くないからカットするもんですが……いやはや大したもんです。




