【第76回】THE BATMAN-ザ・バットマン-
『ノワール世界の住人から、ヒーロー世界の住人へ』
ファンタジーの申し子であるティム・バートンのバットマン・シリーズにおけるゴッサム・シティは、正しくファンタジーとしての世界観を獲得していました。重工業地帯と荘厳なゴシック建築物が同居するという手段で構築されたその世界がファンタジーであるならば、そんな世界で活力を得るのはバットマンではなく、むしろ社会から疎外されてきたフリークスたちの方であり、バートンがバットマンよりもジョーカーやペンギンたちに愛情を注いでいたのは歴然です。
一方で、クリストファー・ノーランの手掛けた「ダークナイト・トリロジー」におけるゴッサム・シティはバートン版よりもリアリティ・ラインをぐっと高くしており、それは他方で「正義と悪の壮大な実験場」であり、我々の「いま、ここ」の現実をシュミレーションしている映画でもありました。悪という脅威を前に、いかに社会的な正義が脆弱であるかを見せつけ、そのうえで「正義」の在り方を問い直す作品だったのです。
ゴッサム・シティ……やはりどう考えても、バットマンの活動拠点はここでなきゃいけない。そのように私は感じます。スパイダーマンがニューヨークの摩天楼を飛び回るのと、バットマンがゴッサム・シティの高層ビルから滑空するのとでは、そこに含まれる映像的な意味合いは全く異なってきます。
だから私、ゴッサムが舞台じゃないバットマン映画、あんまし好きじゃない。好きじゃないというか、興味がない。都市を離れてこれほど魅力が半減してしまうヒーローというのも結構珍しいと思いますけど『バットマンVSスーパーマン ジャスティスの誕生 』とか『ジャスティス・リーグ』とか、正直なところ1時間くらい観て止めましたもん。
そういうわけで、久々のバットマン映画。舞台は我らが暗黒の都市、ゴッサム・シティ。良心がクソの掃き溜めに捨てられ、悪徳が絶頂を極めるこの大都市を舞台に、今度はどんなバットマンが描かれるのでしょうか。
【導入】
バットマンが活動を開始して二年後のゴッサム・シティを舞台に、ゴッサムに隠された「嘘」を暴露するために活動する知能犯・リドラーが巻き起こす事件をバットマンが捜査するサスペンス映画(そう、ヒーロー映画じゃない)
監督は、ゴジラであってゴジラではない怪獣が都市を破壊しまくる映画『クローバーフィールド』シリーズや、「おさるさん版・出エジプト記」で知られる『猿の惑星:聖戦記』を手掛けたマッド・リーヴス。すごい個人的な感想になるけど、色々ともったいないというか、惜しいなぁ……という印象のある監督です。取り扱っているネタは結構オタク的に燃えるものが多いんですが、なんか「佳作」や「良作」止まりで「大傑作」って撮ったことないよなこの人。
主役のバットマン=ブルース・ウェイン役を演じるのは『TENET』の好演で女性ファンのハートをさらにさらにガッチリと掴んでしまったロバート・パティンソン。甘いマスクで知られる俳優ですが、今回のパティンソンの演技はかなり気合いの入った「病み」方向に舵を切ってます。
相棒にしてヒロインのキャットウーマン役を演じるのは『マッドマックス 怒りのデス・ロード』でイモータン・ジョーに唾を吐いた勝気な女・トースト役で知られるゾーイ・クラヴィッツ。悪くないんですけど、やっぱキャットウーマン言うたらハル・ベリーが一番なのよね。
メインヴィランであるリドラー役には『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のポール・ダノ。ツイッターでフォローさせていただいている映画アカウントの方が仰っていてハッとしたのですが、今回のポール・ダノ、どっからどう見ても佐野史郎です(笑)。『ずっとあなたが好きだった』の冬彦さんです顔が(笑)。だからめっちゃ存在感あるよなぁ(笑)。
バットマン・シリーズお馴染みの「萌えキャラ」たちも登場します。萌えキャラその①は、ゴッサムの数少ない良心にしてバットマンの相棒的存在、ジェームズ・ゴードン警部補。今回のバットマンは警察連中から凄い嫌われているので、この人が画面に出てくるだけで安心する。演じるのは復活のフィリックス・ライター(笑)ジェフリー・ライト。そして萌えキャラその②は、ブルース・ウェインの保護者的立場にある老執事のアルフレッド・ペニーワース。マイケル・ケインが演じていた時はめっちゃパパ感出してましたが、今回のアルフレッドはちょーっとブルースと距離を取ってる感があるんですが、見どころもちゃんとあります。演じるのはモーションキャプチャー役としての経歴が結構すごいアンディ・サーキス。
でですよ。今回はリドラーの他にもファルコーニであったりとか、名前だけだけどマローニであったりとか、シリーズお馴染みのギャングたちも出てくるんですが、そんなギャングの一員として『バットマン・リターンズ』でメチャクチャ愛嬌あるヴィランとして出てきた「ペンギン」が登場するというね。これが一番のサプライズというか、なんか喜ばしいですね~。私が一番初めに見た「アメコミヒーロー映画」が『バットマン・リターンズ』だったもんで、実はかなり思い入れのあるキャラなんですよペンギン。たしか金曜ロードショーで放映されていたのを観たんですが、母親の話によると、私ペンギンの境遇に同情して泣いてたらしい(笑)。ジョーカーは「カッコいい悪役」として大好きだけど、ペンギンは「カワイイ悪役」として大好きなのよ。
とはいっても、今回のペンギンは全然可愛くない(笑)。演じるのは若かりし頃の顔がプラピそっくりな、ランティモス映画の常連、コリン・ファレル。はっきし言って何も知らない状態で見たらコリン・ファレルだって気づかないと思います誰も。それくらい他の作品に出ている彼とは別人です。
【あらすじ】
かつての昔、神は悪徳と姦淫に満ちた二つの都市を、その聖なる力で灼き尽くし、この地上から跡形もなく葬り去った。
だが現実に存在するその都市は、愚かなる人々の餌場として傲然と大地に根を張り、暗き欲望を抱える悪人たちのはけ口として肥大し続けていた。そして、それは限りない悪徳を積み上げながらも、いまだ神の逆鱗には触れずにいる「奇跡的」に「悪魔的な」都市でもあった。
殺人、恐喝、拷問、汚職、賄賂、裏取引、麻薬………無法の大都市【ゴッサム・シティ】には、裁きを下す神はいない。いないが、しかし犯罪者たちの身を震え上がらせる恐怖の体現者は実在する。高い夜空へ投影される光と闇の紋章を見よ。ハロウィンを迎えて浮かれ立つゴッサム・シティの罪深き路地裏を照らし出すのは、夜の眷属たる「コウモリ」をモチーフにしたシグナル。そのシグナルが、今宵も「彼」の到来を予感させる。人々の気の緩みに乗じて店を襲った強盗犯も、徒党を組んで銀行に押し入ろうとしていたギャングらも、そのシグナルを目にした途端、排水溝へと全速力で逃げ込むドブネズミが如く、一目散に姿を消していった。
その一方で、光の届かぬ地下鉄車内では、それと知らぬピエロメイクのチンピラたちが獲物を物色していた。目をつけられたのは、しがないサラリーマン風の男。電車がホームに到着し、男が降車したところでチンピラたちは動いた。あっという間にホームの端に追いやられて囲まれ、恐怖に震えるサラリーマン。助けを呼ぶ声が空しく人気のない地下に響く。
その時だった。どこからか響く重い足音。異変に気付いたチンピラたちが、一斉に音のした方を向く。目の前にあるのは、闇。そのはずだった。だが次第に足音は近づき、大きくなり、闇がひとりでに人の形をとったとしか言えないような自然さで、彼は姿を現した。腰には黒々しい無骨なバックル。全身を真っ黒な強化プロテクターに覆った頑強な体躯。顔もまた漆黒のマスクで覆われ、その表情は伺い知れない。
マスクの奥で光るふたつの眼差しが、チンピラたちを冷たく見つめる。そして、彼は動いた。襲い掛かるチンピラたちを容赦なく叩きのめしていく。さながら暴力の化身と呼んでいいほどの暴れっぷりに、助けられたサラリーマンさえ、恐怖に慄いた眼を彼に向ける。
二年前、突如としてゴッサム・シティに現れた謎の覆面男……バットマン。それが彼のコード・ネームだ。コウモリのように、たっぷりとした黒マントを翻してシティの街道を蹂躙し、犯罪を一掃することを目的に活動する闇の騎士。悪人を容赦なくねじ伏せる腕力と、内に秘めた過剰な正義心を買われ、ゴッサム市警のゴードン警部補とタッグを組んでいるバットマンだったが、素性の知れなさに胡乱な目を向ける警察官も多かった。
市民の口の端にのぼる謎多き覆面男・バットマン。ゴードンも知らないその正体は、ゴッサム・シティの創設に関わった都市有数の資産家・ウェイン家の現当主であるブルース・ウェインだった。幼い頃に両親を通りすがりのチンピラに殺された過去を持つ彼は、犯罪を醸成するゴッサム・シティに対する「復讐」として、両親から受け継いだ莫大な遺産を背景に準備を整え、たったひとりで自警団活動を開始したのだ。その事実を知るのは、ウェイン家に長らく仕える老執事、アルフレッドのみである。
10月31日……いつものように事件が起こった。ゴードンからの連絡を受けて現場に到着したバットマン。自警団気取りの覆面男の登場に色めき立つ警察官たちを受け流し、現場に足を踏み入れて遺体を目にした彼は、すぐにこれが普通の事件ではないことを直感した。
被害者はドン・ミッチェル市長。かつてシティに君臨していた麻薬王・マローニの逮捕指揮を執った腕利きの政治家。一週間後に新人市長候補、ベラ・リアルとの決選投票を迎える予定だった都市の最高権力者でもある。その死因は、鈍器による頭部裂傷。だが、遺体の状況は異様だった。頭部はなぜかテープでぐるぐる巻きにされ、市長自身の血で次のようなメッセージが残されていたのだ。
【嘘はもうたくさんだ】
さらに、現場には犯人がしたためたと思しきバットマン宛の手紙が残され、そこには犯人お手製の「なぞなぞ」が記されていた。ウェイン邸に戻りアルフレッドと共になぞなぞを解いたバットマンは、ゴードン警部補を連れ立って、事件の手掛かりとなるであろう市長の自家用車を探し当てる。運転席には、犯人が切り落とした市長の指と、USBメモリが残されていた。そのUSBメモリには、マローニの逮捕後に勢力を伸ばし、今やゴッサムの裏社会を牛耳っているギャングのファルコーネと、その右腕のオズワルド・“オズ”・コブルポット……通称・ペンギンとあだ名される二人の男が市長と密会している写真。さらには、彼らに暴行を受けたと思しきロシア人女性の画像データが残されていた。
麻薬撲滅に力を上げていたはずの市長が、都市の大物ギャングと密会していた事実に驚愕するゴードン。事件の背景に巨大な陰謀の匂いを嗅ぎ取ったバットマンは、ペンギンが経営するナイトクラブ【アイスバーグ・ラウンジ】に潜入して尋問を試みるが、生き馬の目を抜く裏社会で生きてきたペンギンは尋問をのらりくらりと躱し、まったく口を割ろうとはしなかった。
だが、地道な調査を進めていくうちに、市長と深い仲にあったロシア人女性がラウンジに勤務している事実をバットマンは突き止める。彼女の自宅に出向いたところで、彼はひとりの女性と知り合う。【アイスバーグ・ラウンジ】でペンギンを尋問している最中に見かけたことのある女だった。彼女の名はセリーナ。バットマンが探しているロシア人女性……アニカのルームメイトだという彼女もまた、連絡の取れないアニカの身を案じて、彼女の自宅を訪れたのだった。
だが、自宅にアニカの姿はなく、室内は何者かに荒らされた後だった。途方に暮れるセリーナ。その時、バットマンがたまたま点けたテレビが、衝撃的なニュースを告げる。市長に引き続き、今度は警察本部長のピート・サベージが遺体で発見されたというのだ。テレビ局に送られた犯行声明の動画には、拘束され、身動きを完全に封じられた生前のサベージ本部長と、彼を拘束した犯人の姿が収められていた。
深緑色の四角い目出し頭巾を被った、不気味な風体のその犯人は、自らを「リドラー」と名乗り、警察とバットマンを激しく挑発する。ゴッサム・シティに隠された「真実」を白日の下に晒してやると豪語するその男こそ、市長を殺害し、バットマンに執着してなぞなぞを送り付けていた猟奇殺人鬼であった。
バットマンは一連の事件を通じて、アニカは犯人に誘拐された可能性があると指摘し、彼女の救出に協力する約束をセリーナと交わす。その後、リドラーが事件現場に残した新たななぞなぞを解読したバットマンは、サベージ本部長が裏社会を潤す違法ドラッグ【ドロップ】の密造と流通に関与していた事実を突き止める。
市長と警察本部長。麻薬王の逮捕に貢献し、都市から犯罪を一掃することを誓ったはずの正義の担い手である二人が、なぜ悪の道に手を染めてしまったのか。市民の安全と都市の治安を預かるはずの警察機構が全く機能していなかった事実に懊悩するゴードン。そんな彼とは対照的に、正義の心を蝕み続ける都市に対し、復讐心と憎しみを募らせていくバットマン。
二人を嘲笑うかのように、連続殺人鬼リドラーは、己の計画を実行に移すためのピースを着々と揃えていく。それらのピースには、当のバットマンすらも含まれていることを、この時の彼は、まだ知る由もなかったのである……
【レビュー】
闇――バットマンにとって、なくてはならない重要な要素のひとつ。
闇が似合うかどうか。そのただ一点において、バットマンは他のヒーローたちの追随を許さないと言っても過言じゃない。アイアンマン、キャプテン・アメリカ、ブラック・ウィドウといった他のアメコミ・ヒーローたちは、闇を背負うに「相応しい」立場を獲得していることは確かだけれど、それでも「闇」が「似合う」かどうかという点では、(コスチュームの配色を鑑みても)バットマンに敵わないだろう。やはり「闇」が「似合う」というその一点において、バットマンほど抜きん出たキャラクターもいないのである。
それがなぜかと言えば、コスチュームの配色もそうだし、それこそ「バットマン」というキャラクター元来の性質に「闇」という概念が深く関わってくるからだ。両親を犯罪者に殺されたトラウマを抱えつつも、ゴッサム・シティの秩序を守るヒーローとして生まれたバットマン。しかし、彼は秩序の側に立ちながらも、力による正義を執行するに当たり、時には過激に法を逸脱してしまうこともある。「バットマン」という社会的正義の存在が、だが暴力という形態を借りて街に現れ出ることで、逆にジョーカーをはじめとする悪の創造、呼び水に一役買ってしまうというこの痛烈な皮肉。その皮肉を現代社会に対する政治的メッセージとしてではなく、シンプルに「バットマン」という物語の要素として受け取った時、それが意味するのは、バットマン=ブルース・ウェインが常に「自己矛盾」を抱えた存在であるということに他ならない。バートン版においても、ノーラン版においても、バットマンはそうした「自己矛盾」を抱え「葛藤」してきたキャラクターだった。
果たして自分は「正義」の責務を正しく全うできているのか? そのことに人知れず悩み、苦しみ、それでも彼は戦うからこそ、多くの共感を集めてこれた。黒光りするスーツに身を包み、誰にも本心を打ち明けないことの象徴である「マスク」を彼が被るとき、彼は同時に「闇」を被っている。正義の体現者として暴力を行使することの是非。その自己矛盾に己が苛まれないように、世間に決して己の内面的弱さを露呈させないために、彼は闇を被り、都市の守護者たる闇の騎士として、バットモービルを駆るのである。
しかしですね、そうした前提を踏まえてみても、今作の『ザ・バットマン』の「闇の濃度」はハンパじゃないです。それはお話が陰惨で救いようがないとかそういう意味で「闇が深い」のではなくて(いや、それもあるにはあるが)単純に風景の数々が、もうどこを切り取っても「闇」だらけ。映画が終わって明るさを取り戻した劇場内が「うお、眩し!」と感じるくらいには暗闇ばかり続く映画です。数少ない昼間のシーンでもコントラストを極力抑えたライティングでまとめていて、とにかくこの作品は今までのバットマン・シリーズとは比較にならないくらい画面が暗い。極めつけは、執事のアルフレッドが朝食に「新鮮なブルーベリー」を用意する場面。画面が暗すぎるせいでどっからどうみても「ブルーベリー」が「ちょいデカい黒豆」にしか見えず、しかも続くシーンでブルース・ウェインが屋内にいるにもかかわらず何故かサングラスをかけるなど、これ見よがしに暗闇の濃度を演出する始末。上映時間「3時間」という長丁場と、決してサクサク進むとは言い難い編集テンポも相まって、「Q.この映画どうだった?」という問いかけに「A.真っ暗な映画だった」と答える人の割合はかなりいることでしょう。
どうしてこんなに『ザ・バットマン』では闇背景の描写が他シリーズ作品より圧倒的に多いのかというと、理由はもう明白も明白です。それはバートン版、ノーラン版における「闇」が「シチュエーションとしての闇」として演出されていたのに対し、本作における「闇」は「心象としての闇」としてメタファー的に演出されているから。すなわち、それは両親を殺されて犯罪者たちに復讐を誓ったブルース・ウェインの「闇」であり、社会から見捨てられたと感じている孤独を拗らせた悪役の「闇」であり――そして重要なのは――キャラクターたちの絶望や不安の根源を司り、凄まじい腐敗臭を漂わせながらも悠然と佇む「超絶悪徳都市ゴッサム・シティ」が放つ「闇」であるのです。
というわけで、この映画は直近で公開された『ラストナイト・イン・ソーホー』と同じく「都市の“存在”や“匂い”そのものを主役に据えた映画」すなわち「都市映画」として鑑賞すると楽しめるでしょう。物語の回転軸としてあるのはバットマンでもキャットウーマンでもリドラーでもなく、彼らが生きているゴッサム・シティそのものであり、物語の背景も、この救いようのない悪徳都市の再開発計画に端を発した利権を巡る市長、警察、ギャングらのパワー・ゲームによって支えられており、バットマンはゴッサム・シティの「探偵」としてリドラーの繰り出す「謎」を解き明かすうちに、都市の背後に蠢く政治的陰謀、ひいては自身の家にまつわる陰惨な過去を知っていく……そういう作りのお話になっています。
一方で、こうしたノワール調の映画を撮るということは、マッド・リーヴス自身、本作をMCUの流れに乗る形での「ヒーロー映画」としては撮っておらず、DCコミックスの源流、まさに「探偵漫画(Detective Comics)」のリズムで撮影したことの動かぬ証拠にもなります。そのことはすでに予告編の段階から「解りやすいくらい」暗示されていたことですが、不幸なことにこの映画を従来のバットマン・シリーズやMCU作品群と同じく、最初から「ヒーロー映画」として見てしまったお客さんの反応は、どれもこれも「微妙だった」の一言に尽き、彼らが期待していた「闇の守護者として秩序の側に立つヒーロー像」としてのバットマンは――ネタバレになるので詳しくは言えませんが――鳴りを潜めてしまっているんですね。
ヒーローとして描いていないというなら、この映画におけるバットマンはどのような描かれ方をされているのか? 無論のこと古の「Detective Comics」キャラらしい「探偵」という立ち位置で描かれているわけですが、それ以上に目を惹くのがバットマンの凄まじい「病み」っぷり。ロバート・パティンソン渾身の演技も相まってか、素顔でいる場面では常にバリバリな「不健康」感を醸し出してしまっています。その不健康感は、リドラーから遠回しに「青白くて死体みたいだ」と揶揄されてしまうほどです。アンタ、ちゃんと睡眠取って三食ご飯食べてる?と、田舎にいる母親が上京したての我が子を心配してしまうがごとく、観客もブルースの健康状態が気になるところでしょう。
これまでのシリーズにて描かれてきたブルース・ウェイン像には「親の莫大な遺産を受け継いだ金持ちのボンボン」という側面が多少なりとも反映されていましたが、それとは対照的に、本作のブルースは受け継いだ遺産に対してさほど興味もなく、金持ちアピールなんて1ミリもしません。『バットマン・ビギンズ』では金にものを言わせてヒーロー活動用の小道具を嬉々として制作する描写がありましたけど、それと類似するようなシーンはどっこにもない。そんな余裕はないというか、「受け継ぐ」という点にフォーカスすれば、今作のブルースは「財産」という「正の遺産」だけではなく、ウェイン家の過去にまつわる「負の遺産」をも相続している状態にあるため、精神的にはだいぶギリギリなところにいるわけです。またそれに加えて、彼のバットマンとしての活動が犯罪撲滅に一役買っているとは言い難い状況がずーっと続いており、バットマンという存在が更なる悪を都市に呼び寄せてしまっている。そのことに対してブルース自身が「葛藤」しているのではなく、どこか「諦念」しているのが、彼の「病み」具合をさらに強調しています。
だから、今作のバットマンのアクションは「アクション」ではなく「暴力」としての側面を強く帯びています。映画の冒頭で夜空に投影されるバットシグナルが、これまでのシリーズにはなかった「恐ろしい」印象を与えるのは、それが「ヒーロー映画」ではなく、めくるめくノワール映画の始まりであることを告げ、ここから先の物語は「暴力」と「陰謀」だらけの世界なのだという、監督からのメッセージに他なりません。
犯罪者を取り締まるのは腐敗した法律ではなく「痛み」であり「恐怖」だ。俺は「恐怖の体現者」としてゴッサムの秩序を守るのだ――そのように「割り切ってしまった」のが本作のバットマンであり、これまで正義と悪の境界線上で葛藤していた彼とは全く異なる「暴力の権化」「恐怖の象徴」そして、自身の意図しないところで「都市が形成する“悪”の一部」と化してしまった状態で、もう一人の“悪”であるリドラーや「ゴッサム・シティそのもの」と対峙するわけです。そんな有様なので、本作のバットマンは警察からまーったく信用されてない。公的機関で味方なのはゴードン警部補だけ。なんなら今作のバットマン、指名手配されちゃいますからね。完全に犯罪者と同格の扱いを受けているわけです。
とまあ、いかにもノワール世界の住人です。現代を舞台にしたノワール映画として君臨する『セブン』『ゾディアック』『L.A.コンフィデンシャル』『大統領の陰謀』からの引用が多々見受けられ、都市の利権を巡る争いにどことなく『マルドゥック・アノニマス』な感じを彷彿とさせる本作は、おそらくですが「ノワール世界に相応しいゴッサム・シティをどう演出するか?」という世界観構築の段階から始まっており、バットマンやリドラーは、そんな「ノワール・ゴッサム・シティ」の登場人物に相応しい立ち位置を獲得していると言ってもいいでしょう。
そうは言っても、メインヴィランであるリドラーの造形は『ダークナイト』における世界精神型悪役であったヒース・ジョーカーに比べると、悪役像としてはかなり後退しているというか、守りに入ってるな感が否めません。リドラーを犯罪へと駆り立てるその行動原理の要因が「疎外・分断・現代的」とする見方もある一方で、ワイドショーやマスメディアが犯人の行動原理を過去に受けた屈辱やトラウマなどの明確な因果関係に基づいて通俗化・矮小化して「排除」してしまうのと似た傾向を私は感じました。つまりヒース・ジョーカーが「揺るぎない絶対的な他者」として振る舞っていたのに対し、リドラーは昨今の電車内殺傷事件に代表される「〇〇のジョーカー」程度の通俗化された悪役であり、その行動原理は、私たち凡人の常識範囲レベルで「理解できてしまう」程度には簡略化されてしまっているのです。
ですが、こうした意見はあくまでリドラーを「悪役」として見た場合に起こりうるものであり、彼もまたゴッサム・シティという都市の機構に絡めとられてしまった「被害者」なのだという風に視点を変えると、この映画の全体像が見えてくるかもしれません。ネタバレぎりぎりのところに踏み込んでしまうと、本作のリドラーは都市をどうこうしようとか、そういうこと以上に、バットマンを「完全に堕落させる」のが一番の目的。物語開始時点で「都市の現状に対して諦念を抱いており」「ゴッサム・シティの“悪”の一部として」機能しているバットマンを自身と「同化可能な存在」と見ており、そのためにあの手この手でバットマンに「気づき」を与える「導き人」としての側面を有しています。ノーラン版におけるゴッサム・シティが「正義と悪の壮大な実験場」であったのに対し、この一作に限って言うのなら、ゴッサムという都市は「正義が立ち上がる余地のない、どこを見渡しても悪一色の無法都市」でしかない。そんな「悪一色の無法都市」で、まるで「死人」のような佇まいでいるバットマンを「悪の象徴」として機能させようというのが、リドラーの本当の狙いなのです。
つまり、ペンギンやらギャングやらリドラーやら、たくさんの悪人がこの映画には登場しますけれども、実は「悪役らしい悪役」なんて1人も出てこない映画であり、むしろ群像劇というアプローチによって犯罪を醸成する餌場である「ゴッサム・シティ」という環境を際立たせた映画であり、やはりこれは「都市映画」なのです。
ここでぶっちゃけてしまいますと、実は私、始まって2時間30分くらいを過ぎても、この映画に対してあまり良い印象を持つことができないままでした(笑)。つまらない話では決してありませんし、過去の名作を引用したストーリーに対してあーだこーだ言う気もありません。しかし巷の高評価に比べると「そこまで言うほどかぁ~?」という印象がずーっと続いており、なによりゴッサム・シティの「闇」を「引き延ばす」という演出の為にスピード感や間を犠牲にしたテンポの悪さに少々辟易としてしまっていたのも事実。『ダークナイト』も2時間30分という長丁場でしたが、本作を観た後に改めて鑑賞すると、あっちは滅茶苦茶テンポ早いのが良くわかります。元ネタである『セブン』や『ゾディアック』を手掛けたフィンチャーの映画も時に「タルい」印象を観る人に与えますが、それでもなんだかんだと観れてしまうのは、フィンチャー自身のタイミングの良さや間の取り方の上手さに支えられているからであり、それらがマッド・リーヴスにはあんまり感じられなかったので、う~ん、どうなんだろ~な~とか思いながら観ていたのです。
ですが、そんな私のマイナスな気分はラストの30分で完全に払拭されました。極端な言い方になりますが、この映画始まってからの「たいして面白くもない2時間30分」は、ラストの30分を活かすためだけに存在する「壮大にして退屈な前座」と言えるでしょう。どれだけ都市が断崖絶壁の状況に立たされていようとも、都市の人々と「共に生きる」ことを諦めず、疲弊しきった人々の心に、再び「信頼」という名の「灯火」を取り戻させるために活動するバットマン。この映画は、彼を「リアルなヒーロー」として現実世界の住人にしようと画策し、見事に失敗してしまった『バットマン・ビギンズ』なんかよりも、ずっと真面目に『バットマン・ビギンズ』しています。あの過剰なまでの闇描写も、高所からの落下シーンというバットマン・シリーズお決まりの見所(と勝手に私が思い込んでいる)をそれまであえて格好がつかない風に取ってきたのも、すべてはこのラスト30分の為にあったのです。そのラスト30分でバットマンが出した答えがなんであるかは、ぜひあなたご自身の目でお確かめください。
ノワール世界の住人として繋ぎ止められていたバットマンが、正しく「ヒーロー映画」のキャラクターとして着地する。本作は、ジャンルの横断によってバットマンをヒーローとしてのスタートラインに立たせるための映画なのです。




