【第75回】偶然と想像
今回はちょっと趣向を変えてお送りするよ。
ただいま絶賛話題の映画『ドライブ・マイ・カー』で、日本人として史上初のアカデミー「作品賞」にノミネートしている濱口竜介監督の、昨年12月に公開された全3話のオムニバス形式映画のレビューだよ。
ちなみにネタバレはないよ~
偶然――今から五年か六年くらい前。まだ私が「活気あるオタオタしいオタク」だった時代。いつものように一年の総括りのために冬のコミックマーケット(通称:冬コミ)に参加した、その初日のこと。コミケの風物詩のひとつである始発ダッシュを乗り越えて企業ブースへの列に並ぼうと、ひとり人込みを掻き分けていた時、すぐ右斜め前に見覚えのある後ろ姿があるのに気付いた。もしかして、という予感と期待感を巡らせながら、とんとん、と肩を叩く。振り向いた相手が、ちょっと驚いた顔でこっちを見た。思った通りだった。小学校時代からの友人で、今はオタク仲間として連絡を取り合う、私の数少ない友人の一人だった。コロナ前のコミケ来場者は、日に平均して15万人程度。つまり私は1/150,000という確率をたまたま意図せずに引き当てて、数少ない友人を見つけたことになる。これを「偶然」と言わず、なんて言おう。
想像――自分で自分の癖を暴露するのはなかなか勇気がいることだが、ここはそんな人間ばかりであるから言ってしまうと、私ほど「想像」に固執する人間もいないだろう。遅々として進まない小説のオチをどうするか、ああしようかこうしようかと想像を巡らせては浮かんだ選択肢を捨て、また想像を巡らせる。それは「想像」というより、もっと狭義的な意味合いと野卑た臭いを放つ「妄想」と呼ぶものに近しいかもしれない。小説を読むとき、アニメを観るとき、そして、こうした生産性ゼロな駄文をキーボードで叩き込んでいるとき、私は常に想像している。この先の物語の展開と、これから先に続く長ったらしい駄文を読んでくれている稀有な読者たちの反応を想像している。
偶然と想像。なんと抽象的で掴みどころのないタイトルだろう。タイトルとは文字通り作品の「顔」であるが、このタイトルでは、どんなお話なのかを具体的に「想像」するのは至難の業だ。とは言っても、本来タイトルというのはあくまで「看板」の役割しか果たさないのであり、「〇〇が〇〇するようです」だったり「〇〇は〇〇なんて〇〇しない」のような、いわゆる「長文タイトル」で作品の中身を容易に「想像」させてしまうようなタイトルのつけかたは品がないし、それこそ観る側の「想像力」を奪ってしまう。それは逆説的に、このシンプル且つ抽象的なタイトルの作品が「観る側の想像力」を試している作品であることを意味している。
この映画、数々の名だたる映画賞を獲得している濱口竜介の輝かしい現在点には似つかわしくない、どこかミニシアター的な空気感を醸し出している作品であるにも関わらず、中身は決してアート一辺倒なつくりにはなっていない。また、私がミニシアター系映画を嫌う最大の理由である「ムラ的閉鎖社会に近い内輪ノリ」も漂っていなければ、作り手の自己満足で完結している風にもほとんど見えない。しっかりとお客さんの存在を意識して、映画はダイアローグの生み出すリズムと、人間の体を「肉体」としてではなく「音を出す器」として見立てる濱口監督独特の演出のおかげで、娯楽作品としての側面を十分に獲得している。
改めて、タイトルの意味について考えてみる。偶然と想像。「偶然」と「想像」。どちらも抽象的な表現としての意味を持つ言葉としてあり、それが物質化することは決してない。「偶然」とは言わずもがな「現象」の領域に留まり、それの意味は「手段」という言葉と結び付けた場合、時として「ご都合主義」という、作り手の多くが避けたがるマイナスな意味を持つ。
しかし、この映画における「偶然」は「ご都合主義」とは別物と考えるのが妥当だ。この映画における「偶然」は、物語を駆動させるための出発点として機能し、また物語を加速させる結節点としてのみ機能しているのであり、「偶然」によって生じた状況の「解決」に「偶然」に依る手段を重ねるという方法は、どのお話でも取られてはいない。「偶然」によって生じた問題や状況を打開するのに発揮されるのは「想像」という言葉に秘められた「可能性」であり、状況を転がしていくのは言語という形態を借りて登場人物の口から飛び出してくる「思考する力」なのだ。
私たち人間にとっての、最大の武器である「想像」。この、何もかもが無節操に消費されていく超加速化社会において、いま「想像」すなわち「思考する力」という言葉が持つ特別性は、断崖の絶壁に立たされているのではないかと危惧する時が、しばしば存在する。アマゾンで商品を一個買えば、寸毫を待たずして表示されるおススメ商品。キーワードを打ち込めば金魚のフンのようについて回ってくるサジェスト。ひとつの動画を見終わったと思いきや、ユーザーの嗜好に合わせた動画が自動的に開始されるネット環境。ドラマの第一話を流しておけば、そのまま最終話まで勝手に垂れ流してくれる配信サービス……わざわざ選択をせずとも、口を開けていれば勝手に心を(ある程度)満足させてくれるコンテンツが大量に投下される時代にあって、人々が「思考する力」を回りくどい手段だと見なすようになってから久しい。テクストを当人の思考の下に分析することなく、作者が意図的に仕掛けた「伏線」をこれ見よがしに拾い上げて「考察」などと謳い、それで思考した気になっている映画系Youtuberたちの戯言は耳に毒だ。彼らの戯言を夕飯を掻っ込むついでに耳にするたびに、私たちは『1984』の世界線というよりかは『華氏451度』の世界線を生きていることをまざまざと実感させられる。まったく、ブラッドべリは偉大である。
それでも、私たちは「想像」という言葉から逃れることはできない。なぜなら「想像」とは「言語」とワンセットで、私たちの日常に当然顔で存在するからだ。私たちは常に何かを「想像」しながら、特定の他者に向けて「言葉」を編む。学校のクラスメイトに、仕事先の上司に、息子娘に、両親に、妻や夫に、プライベートの友人に、ファミレスの店員に向けて言葉を放つ。そこでは尺度の強弱に関係なく、必ず相手のリアクションに対する「想像」が、すなわち「思考」が(断片的ではあるが)立ち現れる。私たちが、どれだけ思考を腐らせる社会を創り出し、そこにどっぷりと肩まで浸かっていようとも、それでも「想像/思考する力」が消えることはないと信じたい。「言葉」という不完全な形を借りて表現されるにしろ、私たちが「考える」という行為から永久に脱することは、人間の本質的な部分として絶対に無理な話なのだ。
同じことが、映画においても言える。登場人物の話す言葉。キャラクターの感情をそのまま台詞にするという行為。いま起こっていることの状況を説明する台詞。実写であるとかアニメであるとかに関係なく、台詞の一切は「脚本」という「想像の産物」によって生み出された言葉の集積体であり、それは物語を動かすと同時、登場人物たちの心理を説明するために徹底して「映画」の骨子たる「映像」に奉仕する。ここから分かるのは「映画」というのは本質的に「心理を説明する力を持ち合わせていない」ということだ。レンズに映し出されるのは景観であり人でありモノであり、つまるところ「目に見えるもの」だけしか、映画は映し出さない。当たり前の話だが、この当たり前を忘れている映画人、並びに映画批評家は意外と多い。
「映像」は心理を説明しない。心理を説明するのは「言葉」であり、その言葉は映画の世界においては、「脚本」という「想像の産物」によって、物語に組み込まれるのだ。
言葉は不完全であるが、それゆえに尊いものだ。私たちが私たちの心理を表現するにあたり、コミュケーションを図る際に使う道具として言葉だけが存在する以上、適切な言葉を適切な場面場面、その時その時の状況に対応/配置しながら相手に伝えることの、如何にむずかしいことか。実社会でそのことを経験した人はめちゃくちゃ多いだろうし、ましてや「想像」の産物である「小説」を書いている人間なら、誰だってその壁にぶち当たったことはあるはずだ。
そのことを、きっと濱口監督は身に染みて理解しているんだろうと、この映画を見ながら考えた。この映画は、とにかく映像自身が「何かを語る」ということは一切しない。語るのは常に登場人物たちであり、彼らは他者と向かい合った際に「想像」を巡らせながら自分の思いの丈を、時にスピーディに、時にリアリズムの調子で、時に「音」として平板な響きを含ませて投げ合う。
それでも、そこで交わされる言葉が登場人物たちの心理を完全に表現しているかといえば、そうとは言い切れない。先ほども言ったように、映画はそもそも心理を説明しない媒体であるからして、そこでいかなる言葉が飛び交おうとも、それ単体で心理の確立には至らない。映画が当初から持つフレームの世界では、最も効果を削がれるのが言葉であり、むしろ言葉による心理の描写が輝くのは「小説」の世界なのだ。
だからこそ、この映画では「観る側の想像力」というのが重要になってくるのであり、それを喚起させるような仕掛けがそこらじゅうに配置されている。ずーっと台詞が出ずっぱりの映画であるにも関わらず、この映画に出てくる台詞はキャラクターの「リアリティ」「行動原理」を担保するための「心理説明」の奉仕者たらんとする、その前段階、ギリギリのラインに留まっているものがほとんどで、むしろ観る側がキャラクターの心理状況を「イメージ・または補填」するための「想像力のトリガー」として機能する台詞が多い。
その点を考慮してみると、観客の想像力をハナから信用していない映画にあるような「キャラクターの台詞“だけ”で心理を説明する(あるいは、そうした気になっているだけの)」作品では当然、ないのである。一方的にキャラクターに喋らせて、状況から感情から、何から何まですべてを説明している気になっている映画とは、その部分が大きく異なる。そういった作品の中にも、観客を満足させる作品はあるのだろうが、濱口竜介が目指した映画の地平は、そこではないことが、この映画を観るとなんとなくわかる。
つまり『偶然と想像』という映画は、「偶然」によって生まれた状況に「想像」で対応するキャラクター同士のダイアローグを通じて、観客側もまた無意識のうちに「想像」し「思考する力」を働かせざるを得ない作品なのだ……が、もちろん、そういう映画はほかにもある。その人物の人となりを他愛ないダイアローグを通じて観客が想像するような、そういう作品は山ほどある。ただ、『偶然と想像』がそれらの中でも異彩を放つのは、観客側の想像力を働かせるような仕掛けに満ちたアングルやカットが「極めて意図的に多く配置されている」点である。
これにより『偶然と想像』は「それ単体」で「映画」として機能するというより、観客とのインタラクティブな構築関係を樹立することで、初めて「映画」として成立するような構造を持たせた、短編映画らしい、極めて実験的な雰囲気を持つに至るのである。この作品はパッケージ化されて「映画として完成」するのではなく、観客の「想像」を加味したうえで「映画として完成」する作品なのである。
それがどういうことなのか、各話ネタバレにならない程度に、具体的に説明していこうと思う。
①魔法(よりもっと不確か)
冒頭、モデルの芽衣子とヘアメイクのつぐみが、タクシーの車中で会話している場面。二人は仕事上の付き合いを超えた親友同士で、つぐみが最近出会った男性についての印象を皮切りに、10分という長尺に渡って恋バナを展開するという構造。「不在の中心」である男性の個人情報ばかりが延々と掲示されていくので、自然と観客は、その男性の「容貌」や「性格」だけでなく、「この会話をその人が聞いたらどう思うだろう」と、その男性の心理状況すらも「想像」することになる。と同時に、この会話の最中にひとつの「偶然」が発生するのであるが、それが「偶然」であることに気づいた、ある人物の表情カットの「さりげなさ」は、映画につきものとされる作り手側の作為的な意識を消臭し、非常に現実的な印象を観客に与える。
場面は切り替わり、今度は芽衣子と、先ほどまで不在の中心として恋バナの餌にされていた男性との会話が繰り広げられる。ここでは先ほどとは一転して「不在の中心」になるのがつぐみであり、観客は芽衣子と男性の緊張感あるダイアローグを通じて、その場にはいないつぐみの心理状況を「想像」せざるを得なくなる(ちなみに、ここのシーンのダイアローグは『寝ても覚めても』の終盤15分におけるダイアローグに近い。ヒリついていて実に私好み)。
タクシーの場面と合わせると、どちらも「その場にいない人物」の「心境」を観客に「想像」させる構造となっているのが分かる。つまり、スクリーンに映し出されている人物たちのやり取りを見ながら、しかし観客の意識のベクトルは、半ば「スクリーンの外」にいる人物へいくような仕掛けが、どちらの場面においても施されている。ここにおける「スクリーンの外」というのは、物語の構造上において観客には掲示されることのない「不可視な場面」(または作劇の都合上「省略された場面」)であるのと同時、文字通りのスクリーンの外、すなわち「現実」を示唆しているのだとも受け取れる。
つまりこの第一話は「撮影」のレベルにおいてアクチュアルなアングルの選択をし続けることで「映画」が「映画である」という意識を観客の中から薄め、そして「構造」というレベルにおいては、観客の「想像力」を「スクリーンの外にいるキャラクターの心境」へ向けるようなギミックを施すことで、観客の意識を画面外=現実へ向けようとしている。
そして、この効果が勢いよく反転するのがクライマックスの段、すなわち芽衣子の「心境」について語られる段である。クライマックスとなるこのシーンでは、前述した二つの場面における「不在の中心」の配置とそれを巡るダイアローグという手法は撤去されている。
だが、その代わりとばかりに、あるひとつの決定的なカメラワークが機能する。それまでの、アクチュアルな撮影からは程遠い、そのカメラの使い方は、いままでどこかこの映画をドキュメンタリーのリズムで「現実的に」見ていた観客に対して、ひとつの「衝撃」を与える効果を持つ。その衝撃とは、物語への没入が不意に阻害されたことに対する受動的な衝撃であり、「これが映画である」ことを否が応でも突き付けられる衝撃なのだ。そして無論のこと、「あ、映画だこれは」という観客側の意識の芽生えは、「撮影」「構造」という形で劇中に巧妙に配置された数々のギミックと、それに誘発される形で喚起される観客側の「想像力」なしには成立しないものなのだ。
②扉は開かれたままで
大学の単位を落とした学生が逆恨みの果てに、セックスフレンドである女性・奈緒に頼み込み、単位を落とした教授・瀬川にハニートラップを仕掛けるという展開。
このお話は、第一話とは違って「想像」よりも「偶然」の力、そして「想像」の「不完全な現出」というかたちで表現される「言語の力」に対してクローズアップしている話である。とは言っても、やはりここでも第一話で使われたような「不在の中心」たる人物の人となりや性格を観客側に「想像」させることで、続くシーンへの期待感であったり緊張感を持たせるような手法が取られている。しかし、やはり注目すべきは「偶然」の作用性であり、それと同じくらいの強度で描かれている「言語」に対するフェティシズムである。
映画の中盤、教授の瀬川にハニトラを仕掛けようと、スマホの録音アプリを起動した状態で大学の研究室を訪れた奈緒は、だが扉を閉めようとした際に「開けたままにしてください」と瀬川に断りを入れられる。奈緒としては、密室の方がなにかと事を運びやすいので、どうにかこうにか扉を閉めようとするのだが、そのたびに瀬川に指摘されては扉を開けたり閉めたりする。
この第二話は、前述した扉の開け閉めに始まり、会話のやり取りにおいてもどこかユーモラスな空気が流れていて、おそらくだがこの作品で一番「緊張と緩和」のバランスが取れた「笑える」話であると思う。と同時に、奈緒と瀬川のやり取りで交わされる言葉は、誰がどう聞いても棒読みそのものであり、台詞というより「音」という印象を与えるのだが、そこにこそ濱口監督の意図が仕込まれているのは言うまでもない。
いま現在話題になっている『ドライブ・マイ・カー』というか濱口監督のほとんどすべての作品において、この「棒読み台詞」は方法論のひとつとして組み込まれている。『ドライブ・マイ・カー』では演劇がひとつの舞台になっているのだが、そこでは本読みのレベルにおいて、各役者たちが西島秀俊演じる演出家の指導の下、徹底して感情を排した棒読み台詞を繰り返し繰り返し口に出すというシーンがある。『ドライブ・マイ・カー』では「演技指導」という「閉じられた空間」において感情を排した棒読み台詞を繰り返し役者に喋らせることで空間内に「音」としての「台詞」を「反射」させ、その役者自身を「肉体」ではなく「音を発する器」として映し出す。それにより、感情を排した言葉であるからこそ、逆説的にそこには何かしらの含意が込められているのではないかと観客に「想像」させる構造となっており、同様のことは、このお話にも当てはまる。奈緒と瀬川の両者の日常会話は最初から「音」としての会話であり「感情」が排斥されているのだが、そのシーンの途中で、奈緒は瀬川の書いた小説の一節である濡れ場を朗読するシーンが挿入される。
学校の授業を思い出そう。「朗読」で感情を込めるような読み方を、私たちは教育されていない。朗読する際に出す「声」の調子は、いつだって「日常会話」のそれと異なり、無機質で平板ではなかったか。つまり、この第二話では「日常会話」のトーンを「朗読」のトーンと同質のものとすることで「等価」とし、「日常会話」に含まれる当事者の「感情」を排斥することで「朗読」という行為そのものの「価値」を高めている。「文字としてのテクスト」を「死んだ言葉です」と断じる瀬川にとって、「朗読」という手段を借りて「音」として反復されるかたちで世界に立ち現れるテクストは「再生した言葉」として描かれる。そして、そんな「再生した言葉」を媒介にしたコミュニケーションによって、今度は傷ついた奈緒の魂が「再生」の兆しを見せていくという、「瀬川という人物そのもの」ではなく、むしろ「テクスト」という概念を媒介にした「魂の再生」が中盤では描かれることになる。
そしてここでは、コミュニケーションによる自意識の更新を描くにあたり、「テクスト」のほかに「完全な他者」の存在をも媒介として配置している。このお話における棒読み台詞のシーンは『ドライブ・マイ・カー』での、室内でのシーンとは異なり、そこは「閉じられた空間」ではない。ずっと開けっ放しのドアをちらりちらりと意識しながら奈緒が話す平板な調子の言葉には、次第にではあるが本来の意図とは異なる言葉、「奈緒」が「奈緒」であるがゆえの本音が引きずり出されていく。この間、ドアの前を有象無象の学生たちがお喋りしながら時折横切っていき、そのお喋りが一つの環境音として機能しているのだが、ここでは「ドアの前を横切っていく学生たち」という「完全な他者」の「存在」を媒介に、教授との対話の中で奈緒の「自意識」が棒読みの言葉にはっきりと含まれる形で機能する。
どうやら『ドライブ・マイ・カー』の時と同じく、濱口監督は「一対一の対話」だけでは人間の自意識は完全には引きずり出せず、更新もされず、それを成すには何かしらのかたちで「対話する他者」とは別の「他者」の存在がなければならないと考えているようだ。「言葉」という不完全なツールを不均衡な場において使用することで、かえってそこに含まれる当人の意図であったり本音であったりが露呈しやすくなるというこのシーンは、映像を「完璧に説明/補填する役割」を無理矢理に背負わされてきた「映画の中の言葉」たちに対する鎮魂としてあり、そんな風に「映画の中の言葉」を無節操に使い倒してきた創作者たちへの、ある種の「反抗」としても見てとれる。
極めてスリリングなのは、こうした自らの方法論によって確立したコミュニケーションの在り方を描いておきながら、それによって更新された意識を「健全な」ものとして肯定するのではなく、「偶然」という作用の力で、徹底的に破壊するラストシーンにある。この映画のラストシーンをメタ的に捉えるとするなら、濱口監督自身が、どこかでこうした方法論に対して「限界」を感じているのかもしれないなぁ、なーんて思えたりもして、それはそれでちょっと面白いよなとなる。
③もう一度
ラストの第三話は、今までの話の中で展開されてきた方法論の総仕上げという印象がある。高校の同窓会に参加するため東京から仙台へやってきた「夏子」という妙齢の女性が、駅前のエスカレーターでたまたま高校時代の友人であった「あや」という女性とばったり出くわし、彼女の自宅に夏子がお呼ばれされるという展開の話なのだが、当初は「良い偶然」として描かれていたこの出会いが、実は「偶然」という現象で表現するには似つかわしくない、あまりにも愚かなオカシミに溢れた「事故」であることが、物語の開始からしばらくして明かされる。
そこでは、当然観客たちは爆笑の渦に包まれる。実際に鑑賞した私もあまりの「事故」っぷりに思わず吹き出したが、それは同時にこの二人の決定的な関係性の変化を意味している。その関係性の変化を「リビングを映す」というこれまた「さりげなく」「平凡な」ショット「だけ」で表現しているのだが、だがしかし、そこに現れる効果の凄さといったらない。「偶然の再会」の延長線としてあの「リビング」を映し出した時と、「偶然」ではなく「事故」だったと判明した後に映し出されたあの「リビング」とでは、それが持つ意味合いは全く異なってくる。後者の段において、夏子の視点を介して観客の目に映し出されるあの「リビング」は、真の意味で「全く知らない場所」として機能し、ある種の異世界として存在しうるのである。
さて、このお話は最初にも言ったように、第一話、第二話の総仕上げとして存在する。ここには「不在の中心」も描かれているし、その「不在の中心」に対して観客が「想像」せざるを得ないような作りになっている。また「偶然」が持つ作用性についても、その偶然を「事故」として描くことによって逆説的に強調し、ひいては「誰かが誰かの“いま”を想像する」という行為が「偶然」という名の「事故」を引き起こしたという風にも捉えられることができる構造を有している。
言語、すなわちコミュニケーションを「誤解の総体」として最も象徴的に描いているのもこのお話だったりする。このお話の最中、あることがきっかけで、夏子は「夏子」というキャラクターのうえに、もう一つのキャラクター「女性A」のペルソナを被って「あや」と会話をする。そこで「女性A(夏子)」が「あや」にかける言葉は、「夏子」が「女性A」としてかける「言葉(女性A)」と、「夏子」が「夏子」としてかける「言葉(夏子)」の二種の属性が混じったものとなっており、こと観客はここにおいて、「不在の中心」である「女性A」の「存在」だけでなく、「女性A」の「言葉」「意識」についても「想像」を喚起しなければならなくなり、同じことが「あや」の側にも言えるのである(ま、やってることは完全に大川隆〇の「いま、守護霊が降りてきました」だけどね)。
そして、そのような両者の掛け合い、ペルソナを被り、しかしペルソナを「被っているからこそ」放たれる言葉にこそ「話者の真意が包括される」とする、この「誤解」を前提とした会話劇によって、それぞれの胸の内に秘めた過去へのわだかまりが露呈され、それが「癒されていく」という構造をとっている。
もう一つ、このお話の特徴として挙げられるのが「世界観」である。このお話は冒頭、『スター・ウォーズ』のオープニングクロールのように、「読ませる気あんのか」という早いスピード&大量の文章で世界観が掲示される。それによると、このお話の世界では凶悪なコンピュータウイルスの蔓延によってあらゆる企業・個人の機密情報が流出し、伝達手段としてのIT技術が壊滅に近い状況に追い込まれ、人類は郵便というアナログな手段に後退せざるを得なくなったという。いわば「日常の変化」という背景が設定されている。
言うまでもなく、これはコロナ禍のいまを援用した形での世界観だ。「機密情報の漏洩」とは「本音の漏洩」のメタファーであり、コロナの蔓延によって国家・個人レベルでの「建て前」が崩れ去ったいまとリンクさせるような作りになっている。そういう意味では三話のなかで最も寓話性の高い話となっており、そんな世界にあっても、人は人を理解するのに「剝き出しの自分」を「対話の対象としての他者」の前に晒すのではなく、必ず何かしらのかたちで「対話の対象外としての他者」を介在しなくてはならないとするところに、濱口監督の「対人意識」が現れているような気がしないでもないのだ。
……と、はい!堅苦しい口調おしまい!
疲れる!あーもう疲れる!日記書いている感じでレビュー書いてるのに、こんな大学の提出作品みたいな文章書いてたら疲れるわ!もうこっから先は普段の調子でいくから!硬いの嫌だから!ヤワヤワがええわ!
あのーえっとーそうですねー面白い映画でしたよ少なくとも俺にとっては。というか濱口作品って基本面白いんですよ。やっぱ黒沢清の弟子ってのが関係しているのか、まぁ黒沢監督ほどのジャンル愛はこの人に対して感じないけど、でもなんだろ、ちゃんとお客さんを意識した作品を作ってるんだなというのは感じるので、やっぱいいでしょそういうの。
でもねーなんか「好き」な作品って一個もないんだよねーぶっちゃけると。『寝ても覚めても』も『ドライブ・マイ・カー』も「面白い」作品ではあるんですよ間違いなく、ハイ。『寝ても覚めても』なんて繰り返し見てるし。でも「好き」な作品じゃないんだよ。微妙な表現なんだけどさ。
で、この『偶然と想像』なんですけど、前述した二つの作品と比較すると「好き」の強度は高いですハイ。とくに第一話と第二話ね。これはねーイイですね。とてもイイです。特に第一話はキャラクターの服装も良くって、あの地雷女の服装が可愛いロゴつきの白のフーディといういかにも子供っぽい印象を与える服なのに対し、男の方は椅子に掛けてあるのが革ジャンという男臭さ。でもマチズモ嫌いな濱口監督らしく、女は図々しくて男はナヨナヨ。これはまぁアンチルッキズムともとらえることができるんでしょうがね。こういう「ハズし」は観ていて面白いです。
でもさ、やっぱ肝心の第三話が、好きになれんのよ(笑)。俺って本当にこういうのダメね。なんか、コミュニケーションで「衝突」や「更新」や「葛藤」が生まれるのは全然オッケーだしそういうのは大好物なんだけど「癒し」の象徴としてコミュニケーションが使い倒されるのは凄い嫌い。そういうのは「言葉」ではなくて「行動」や、あるいは「象徴化」という手段でやってほしい。プレゼントを交換するとか、そういうのがいいよね。陳腐だけどさ。陳腐でいいじゃん。『ドライブ・マイ・カー』はさらに輪をかけて「死と向き合う個人を言葉で癒す」という「オメーふざけんなよ!」な展開だったので、あれ一番嫌いなんだよな。でもアカデミー賞は獲ると思うわ。絶対獲ると思うわ。今のうちに予言しておく。
あと、前述したアンチマチズモ、アンチルッキズムとも多少関係してくるのか知らんけど、この人ちょっと女性を神格化し過ぎでは?『寝ても覚めても』を観たときから(つーか、それが俺の濱口作品出発点だけど)感じてたけど、いよいよ第三話で極まったなって感じ。ぶっちゃけLGBTとか多様性とか、そこまで興味ないでしょこの人。なのになんか、そういう表面的な部分だけなぞってるのはどーなの? と思うわ。
アカデミズム仕草だよね~こういうの。いかにも東大出て芸大出てる独身のアカデミックな男性の考える「女性像」だよなと思う。やはり「独身」というのが関係しているんでしょうか。この人が結婚したら絶対に女性像の描き方も変わると思うので、もしかしたらそこでまた新たな濱口竜介が見れるかもしれないので、それはそれで楽しみだ。ということで早く結婚してください。




