表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
82/110

【第74回】大怪獣のあとしまつ

『“真面目にふざける”のではなく、ただ“ふざけている”だけ』


予告編の時点から、怪しい匂いはプンプン漂っていました。そういう映画です。





【導入】

「怪獣の死体処理」というニッチなお題をメインフレームに据えた「特撮コメディ映画」


監督は『時効警察』の三木聡。もうね、時効警察って時点で作風が分かりますよね。『インスタント沼』でも『音量を上げろタコ!~』でもいいけど、まぁああいった「脱力コメディ映画」なので、そこんところを念頭に置いて鑑賞してくださいな。


主演は山田涼介。『探偵学園Q』に出ていた頃が懐かしいっすね~。にしてもこの人、本当に出演作に恵まれんよな。『グラスホッパー』の蝉のナイフアクションなんてひどかったし、『ハガレン』は言わずもがな。『燃えよ剣』は観てないけど、どうだったんでしょうか。


ヒロインには土屋太鳳。うーん、やっぱり美人だ。この人は多芸な方ではあるんだが、この作品では終始浮いてしまってるように見えて仕方なかったな。


そして、濱田岳。濱田岳もねぇ。この人の代表作ってなんなんだろう。一時期、伊坂幸太郎原作の映画にめちゃくちゃ出ていたんですが、それ以降は『偉大なるしゅららぼん』だの『本能寺ホテル』だの、やっぱひいき目に見てもパッとしない作品にばかり出てませんか? 好きな役者さんではあるんですけど。


まぁ、一番笑ったのは嶋田久作がね、外務大臣で出演しているんですがね。やっぱり関東を恐怖に陥れた「魔人・加藤」の姿がちらつきますよね笑。この外務大臣が遁甲だの風水だのを駆使して怪獣をあとしまつしてくれるような映画だったら、俺の好みだったかもしれません(冗談)





【あらすじ】

怪獣――そのあまりにも非現実的な存在は、ある日突然首都圏に上陸した。怪獣は逃げ惑う人々を踏みつけ、ビルというビルをなぎ倒し、日本を恐怖のどん底に叩きつけた。


だがしかし、人知を超えた力を誇示する怪獣の終わりは、ある日突然やってきた。


軍の通常兵器すらも効かぬ尋常ならないその黒々とした外皮を照らす、まばゆい青白い光。はるか天空から降ってきたその一筋の光が怪獣へ直撃した刹那、凄まじい衝撃波とともに、怪獣の命は潰え、後には巨大な死骸だけが残った。


デウス・エクス・マキナ……収拾のつかなくなった物語を突如として終わらせる「機械仕掛けの神」。謎の青白い光は、まさにそんな存在だった。世界各国の科学者がその光の正体を探ろうと暗躍するなか、世界唯一の「怪獣被害国」となった日本では、ある一つの問題が立ち上がっていた。


そう、怪獣の死骸である。これをどうするかが、目下最大の悩みの種であった。


死んだとはいえ、東京の街々を圧倒的な力で破壊し尽くした怪獣である。現状において放射線の漏洩は観測されておらず、死後にメタンガスが溜まるだけの巨大な肉の塊とは言っても、処分の仕方を間違えれば、国民感情を逆撫でるのにつながり、現政権の立場も危うくなるのは自明だった。


しかしながら、ただ手をこまねているわけにもいかない。今こうしている間も、怪獣の死骸は体温上昇による腐敗ガスをその体内にため込み、ガス爆発の危険性を孕んでいるのだ。


首相の西大立目完と閣僚たちは喧々諤々の論争を繰り広げるも、一向に結論が出ない。困り果てた首相に対し、秘書官の雨音正彦は進言する――怪獣の処理については「特務隊」に一任すべきであると。


特務隊。それは、怪獣の出現を契機に新設された公的機関であり、首相直属の戦闘部隊。怪獣の死後、無用の長物と化した特務隊に対し、最後の花道を作ろうというのだろうか。だが、元特務隊という特異な出自を持つ雨音秘書官が古巣の部隊を指名したのには、ある重大な理由があった。


とにもかくにも、怪獣処理という重大ミッションを任せられた特務隊。その指揮を執るのは、隊の若きエースである帯刀アラタ。三年前、怪獣の息の根を止めた青白い光に遭遇し、三年間行方を眩ませていた謎多き男だった。雨音秘書官は、アラタが接触した謎の光の正体を掴むべく、あえて特務隊をこの任務に就かせたのであった。


果たして、怪獣に止めを刺した青白い光の正体とは何なのか? アラタが過去に行方を晦ましたその理由とは? そして、特務隊は無事に怪獣の死体処理に成功するのであろうか。


様々な人物たちの思惑を背に感じながらも、アラタは、元特務隊にして総理秘書官の妻であり、今は環境大臣の秘書官を務めている雨音ユキノや、ユキノの兄にして元特務隊の青島の力を借り、怪獣死体処理のミッションに臨むのであった……





【レビュー】

一部では「令和のデビルマン」と揶揄されている本作ですが、たしかにそんな悪罵が似合ってしまうような作品です。しかしながら、リアルタイムであの日本映画界の虚無爆弾である『実写版デビルマン』を鑑賞した身からすると、ちょっと、いや、だいぶ言いすぎな気がします。


たしかに、CGが初代プレステかプレステ2並みの、合成感がバリバリ出ているあたりはデビルマンと通じる部分がありますけれど、私が基本的にCGの安っぽさをそこまで気にしない(というか、特撮映画においてCGのクオリティ自体は、そこまで重要じゃないと考えている)性格をしているためか、虚無という空疎な尺度を用いてみると、さすがにデビルマンには及びません。いくらなんでも言い過ぎです。まったく、これだからバズり狙いのツイッタラー達はダメなんですよ!バイアスかけすぎ!ぷんぷん!


とは言っても、本作「大怪獣のあとしまつ」が、非常にタチの悪い映画であることに変わりはありませんが。


「怪獣の死体処理で、いっちょ話でも作ろうか」――このアイデア、たしかに一見すると、いままで誰も思いつかなかったかもしれない画期的なアイデアに見えなくもないですが、それを主軸にして描くとなると、かなり難しい、根気のいる物語作りが必要になると思います。『パシフィック・リム』や『オール・ユー・ニード・イズ・キル』、一連のゴジラ作品、さらには漫画の『怪獣8号』など、“怪獣”の死体を危機的状況の打開策としてアイテム的に描いたり、怪獣の死体処理を様々な利益予測や社会的意義の下に事業化した姿を描いたり、そういう描写をした作品は特に21世紀に入って結構増えてきたように思いますが、それらのシーンが持つ意味というのは「作中における“怪獣が存在する世界”の文化や価値観のリアリティを強固にするため」という、世界観補強としてあるのであって、なにも「怪獣の死体処理」そのものが、物語のメインフレームにはなっていないんです。


だからまあ、コイツをメインフレームに据える試みというのは、たしかに今まで誰も思いつかなかったアイデアかもしれません。きっと製作陣は金塊でも掘り当てた気分でいたのでしょうが、しかしながら、世に出ていないだけで、思い付いた人は過去にもいたんじゃないでしょうか。だいたい、思うんだけど「今まで誰も思いつかなかったアイデア」ってのは「思いついたけど、それを描くにあたってのリアリティラインを保つのが難しい」という理由で、表に出ることなく放棄されていったケースが大半なんじゃなかろうか。


そう勘ぐってしまうくらい、素人目の私からしても、描く舞台の時代性に関係なく、思いついたアイデアを「いかに説得力ある形で描くか」という部分において、とてもハードルの高いもののひとつとして「怪獣の死体処理」というアイデアは映ります。なぜなら「怪獣の死体処理を描く」という行為は、我々の現実には存在しない「架空の」存在である怪獣の生態を緻密に詳細に、それでいて「さりげないリアルさ」で分かりやすく描く必要があるからです。これは大変に難しい創作事ですが、大型動物、たとえば鯨の解体なんかは世界中のあちこちで見られる文化的風習ですし、江戸時代の日本にだってそういう文化はありましたから、参考資料が全くないわけではなく、むしろそれら大型動物の解体処理とそれにまつわる文化を紐解いて上手いこと援用すれば、そこそこの作品が出来上がりそうなものです。


ところが、この映画はそういう地道な組み立てというか調べ事というか考証というか、そういった創作に必要な最低限のことすら中途半端に済またうえで「コメディ」だの「ロマンス」だのをやってるので、だからなんかもうしっくりこないわけ。


“怪獣”という、トリビアルな生物の奇々怪々とした生態について「ウソでもいいから真面目に描く」ということをやっていないので、怪獣がただの舞台背景になってる有り様。怪獣の死体に接近した特務隊員の「熱が凄いですね」という台詞に対し、主人公が「エネルギーが高いんだ」というぼんやりとした一言で流しているので、怪獣の死体に対してどこまで鈍感なんだこの人たち、という感じです。そこは、ウソでもいいからジャーゴンのひとつでもさらっと口にすればいいでしょうに。


各場面における鈍感でしかない台詞や演出を拾い上げていくとわかるのは、ここで描かれている「怪獣の死体」は「怪獣サイズにまで大きくなった」犬や猫の腐乱死体と、なんら変わらない扱いをされているってこと。これってどうなんでしょう。それでもいいっていう人はまぁいるんでしょうが、しかしこの程度のリアリティラインしか保ってない話だったら「突然変異で超巨大化した牛」でも良いでしょうに、わざわざ“怪獣”を持ってきた意味ってなんなの? ってなりませんかね……


この映画、どこに物語のリソースを割いているかというと「大怪獣のあとしまつ」というタイトルのくせして、そこにはあんまり力を入れてない。監督の力が一番入ったであろうシーンは、山田涼介と土屋太鳳と濱田岳の三者が演じるキャラクター同士のロマンスに愛憎劇。そして、怪獣死体の処理責任を巡って右往左往する政府役人たちのコメディな言動であり、カリカチュアされた無能な大臣、私利私欲にまみれた人間たちが巻き起こす狂騒曲にあります。まずそもそもが「怪獣が死んでいる状態からスタートしている」ので、怪獣を取り巻くドラマではなく、これらの人間ドラマに焦点がいくのは必然と言えるでしょう。そのコメディチックな人間ドラマを描くにあたり、必ずしも「怪獣」という異質な存在がこの映画にとって必要だったんでしょうか……最後の「オチ」をやりたかったにしてもですよ、やっぱ首をかしげますよこれは。


致命的なのは、その肝心の狂騒曲っていうか、ドタバタあたふたしているキャラクターたちの描き方や、愛と憎しみのせめぎ合いであったりとか、時折挟み込まれるオフビートなギャグ、演出、それら一切が「どれもこれも滑っている」のがキツすぎます。監督は『時効警察』の三木聡なんですが、一番の失敗は、あの『時効警察』や三木聡の諸作品に代表されるスケールの小さい「脱力系コメディ」のノリが、もともとから大フレームな物語的容量を誇る特撮映画と、致命的に合っていないことにあります。


いや、より正確に言うならばこうでしょう――物語のメインフレームである「怪獣の死体処理」を描くにあたり必要になってくる怪獣の生物的な特徴であったり、怪獣出現によって変わった世界で生きる人々の暮らしだったり、そうした「ちょっと現実とは違う世界の風景」を「ウソでもいいから真面目に描く」という作劇の基礎部分をすっ飛ばし、自分たちがやりたいことだけを優先している……すなわち、物語世界の力学を構築しないくせに、くだらないロマンスや、お約束を微妙に外したギャグシーンに力を入れすぎたせいで、この「当たり前に怪獣の死体がある世界」を観客が信じられなくなっているんですよ。で、物語世界を信じられないということは、そこで生きる人間たちも薄っぺらなものに見えてしまうわけですから、その薄っぺら人間が何か面白いことを言ってもピンとこないし、許されぬ恋をやろうが愛憎のロマンスをやろうが「どうでもいいよ」となってしまうわけですなぁ。


なにか、怪獣に対する批評性を宿しているような演出の上でギャグなりロマンスなりをやれば、実写版パトレイバーの『大怪獣現る』のような面白い話になったりしたんでしょうが、どう考えても三木監督にそんなものは備わっていないので、メタ的な面白さを獲得するでもないという、八方塞がりの状況に陥ってしまってます。


映画には東日本大震災に伴う原発事故の処理を巡るグダグダっぷりや、コロナ禍における緊急事態宣言の発令、解除の時期を巡る混乱ぶりを彷彿とさせる描写が、独特のオフビートなノリと共になかなかてんこ盛りなんですけど、そういうバラエティ的な政治批評演出で現実の状況と映画内の状況を結びつけようとしても、そもそも世界観の基本部分がなっていないので、繰り出される風刺ギャグがいちいち寒くて片腹痛い。『パンケーキを毒見する』のアニメパート並みの寒さです。そして、そういう寒いギャグが繰り出されるたびに、脇に置かれている怪獣の死体が、物語的な意味でも完全に死んでしまっているのが強調されて、怪獣好きな自分は悲しくなる一方でした。


死んで動かなくなったとはいえ、「怪獣」という巨大で異質な存在がいるという大状況の中で、『時効警察』のような、人間たちの小状況なドラマやギャグをやりたいのであれば、まずは大状況周りの設定をさりげなく丹念に描くべきなんでしょうが、それをやっていないので、秀逸なコメディ映画のように「真面目にふざけた映画」ではなく「ただふざけている映画」にしか見えてこないんですな。全然しっかり描いてないんですよ、怪獣の死体が「そこにある」世界のリアリティを。怪獣の出現が市井の人たちにどんな影響を与えているかを具体的に描かないどころか、どうでもいいギャグシーンの釣瓶打ち。やんなりますね。


たとえば、メタンガスが怪獣の体内で膨張していって腐乱臭が市内に拡散してしまうという描写があるんですけど、その匂いに毒性があるとかそういうのじゃなくて、ただ「悪臭」がするというだけ。その悪臭の度合いを表現するにあたり、国民感情を考慮して「ウンコのような匂い」とすべきか「ゲロのような匂い」とすべきか、そこで各大臣がアホな論争を繰り広げ、最終的に「銀杏の匂い」に落ち着くんだけど、いざ発表したら「どこが銀杏だ!やっぱりウンコの匂いがするじゃないか!」と暴れまわる国民……アホでしょこんなの。その後に、実はやっぱりその匂いっつーか怪獣の体液には恐るべき毒性があるのが分かって、それを自業自得とはいえ直接浴びてしまった一般人が、まぁなかなかグロテスクな外見になったりもするんですが、そういうヤバイ描写ですら「脱力したノリ」「ふざけたノリ」で簡単に処理されていくという……その徹底ぶりというか、頭からケツまで「ふざけたノリ」を突き通すのはそれでそれで凄いとは思います。てかこの作品、通っているのはノリだけではなくて、物語の筋なんて鼻から無視していた『デビルマン』とは違って、話の筋もちゃんと通っているから、だからタチ悪いですよねホントに。


怪獣死体の描き方がおざなりなんで、怪獣処理の任務に就く特務隊や国防軍のドラマも、いい加減なものにしか見えません。まぁ国防軍は置いとくとしてもですね、特務隊の設立経緯を説明するナレーションで「首相直属の戦闘部隊」なんていう安直な童貞厨二病患者が嬉々として口にしそうな設定を出してきているあたり、熱が冷めますよね。たぶん、こういう安直な設定も監督の得意とする「脱力系」のノリのひとつなんでしょうが、さすがにやりすぎ。物語の外枠の部分までふざけたノリを持ってこられると、こっちはイライラするんですよ。


しかし……私がこの映画を見ていて、腹の奥底でどんよりとした絶望感と諦観に近い不快感を覚えたいちばんの点は、世界描写のいい加減さでも、つまらないギャグの連発でも、「デカイ!」「死んでる!」「動いた!」など、目で見たものの特徴や動作をそのまま口に出すという、お遊戯会レベルの粗悪な手緩い役者たちの演技にあるのでもありません。


カメラワーク。これがもう、見過ごせないレベルでひどい。


ひどいといっても、それが映画を撮る装置としてのカメラの基本を把握したテクニックに裏打ちされた撮影であるならば、良い意味での「ひどい(笑)」と言えるでしょうが、ここにおける「ひどい」は「下手くそ」という意味での「ひどい」以外の、なにものでもありません。


とにかくカメラがですね、キョロ充並みに挙動不審なんですよ。もうずーっと画面が忙しないし、落ち着きがない!怪獣映画に相応しい、どっしり構えた画なんてひとっっつもありません。意味もなく役者の顔へズームイン・アウトを繰り返したり、ドアの鍵を締めるシーンをアップで撮ったり、しつこいくらい繰り返される謎のスローモーション、バカみたいなドリーショット……思い出すだけで吐き気を催すような下品なショットのオンパレード。本来ならフィックスでやるべきところまで「なにか、印象的な画を撮らなくちゃ」という短絡的な意識が先行しているのがミエミエな付け焼き刃ショットを持ってくるので、唖然呆然愕然です。


これ、完全に撮影監督の責任です。現場を上手く仕切れてなかったのか。素人か、あるいはカメラ触って五年程度の若僧を撮影監督として使ったんでしょうか。どちらにせよ、この映画のカメラワークはかなり頭にくるレベルのものに間違いはありません。話はしっちゃかめっちゃかでもカメラワークさえ良ければ大抵満足してしまう私にとって、この映画のカメラワークは拷問の域にまで到達しています。


しかしながら、これらの滅茶苦茶なカメラワークとは異なり、どれだけ寒いギャグを繰り出そうが、全く感情移入できないキャラクターのロマンスをやろうが、「お話の筋だけ」は最後まできっちりしているのが、なかなか奇妙というか不気味にすら感じます。


おそらく、この映画が一番批判されるポイントは「オチ」の部分にあるんでしょう。それまでの長ったらしい役人たちの喧々諤々とした争いを全き無に返し、四苦八苦しながら怪獣死体の処理にもがく特務隊や国防軍らの努力に対して往復ビンタを食らわすような、ある種「匙を投げた」ともとられかねない「オチ」。ですが、はっきり言って予想外でもなんでもない。むしろ普通に映画を見ていれば気づくレベルのオチであり、筋の通っているオチではあるんです。そしてこのオチというのは、話の風呂敷を広げるだけ広げた挙句に収拾がつかなくなって生まれた末の「苦肉の策としてのオチ」ではなく、最初から「それありきで考え出されたオチ」であるので、そこんところがどうしても突っかかる。なんもかんもこちらの推測通りの混迷ぶりを見せつけた挙句の「予定調和な」オチ。


そこから私が感じ取ったのは、難しい問題を難しい問題として処理することのままならなさであったり、解決を見ない複雑な事情を「複雑な事情として」最後まで描くのではなく、力技でねじ伏せて単純な答えを掲示し、観る者に一時的な快楽を与えるような結末を「最初から選択している」ことの軟弱な創作姿勢に対する腹立たしさであったりします。


自分たちが片付けるべき問題なのはわかっているけど、もうどうしようもないから誰かに肩代わりしてもらおう――そんな人任せな怠惰な精神を持っている人間は、私を含めてこの世界に山ほどいます。だからこそ、物語が現実の側へ容易に擦り寄っていいはずがないと私は思います。物語は「現実」の「はけ口」ではあっても、「現実」の「母親」ではないのです。自分たちの足でこの大地に立ち、自分たちの矮小な力でも解決を見ない難題に、それでも真剣にがむしゃらに取り組む……そういう姿を描いた作品にこそ「光」は宿るのではないでしょうか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] いやはや、これは浦切さんのレビューの方が本作を超えてるのではないかと思わせる総評ですね。 最後に光で落とすところは脱帽です。 目に観えてヤバい作品とはいえ、このレビューで映画がより気に…
[一言] 浦切さんのレビューを見たらネタが思い浮かびました。 >この外務大臣が遁甲だの風水だのを駆使して怪獣をあとしまつしてくれるような映画だったら、俺の好みだったかもしれません(冗談) 私もその…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ