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【第73回】ダーク・アンド・ウィケッド

『時に悪事は起こり、避けられない……それが“厄災”だ』


えー、最初に断っておきますが、これからご紹介する映画はすでに公開が終了しています。でもこれ、私がレビュー書くのが遅れたからというんじゃなくて、そもそも公開館数が少なすぎ&上映期間短すぎ、っていう問題があるんですね。新宿シネマカリテで二週間のみ限定公開ってねぇ。いやまぁ、ほかにもそういう映画って山ほどあって、なにもこれから紹介する作品に限った話ではないんですが、にしたって短すぎるし限定的すぎやしませんか? 


そういうわけで、まぁ配信に期待ってところですよね。あと二、三か月でもしたらアマプラかU-NEXTで配信されるだろうし、レンタルビデオ屋にだって並ぶだろうし、そういう時にちょっとこのレビューを思い出して手に取ってくれたらなと。そんなユルーい感じで進めていこうと思います。


映画の内容は、ユルいどころかガチガチのホラーなんですけどね。





【導入】

テキサス州の片田舎を舞台に、父の最期を看取るため帰郷した姉弟を襲う理不尽な恐怖を描いたホラー映画。


監督は『ストレンジャーズ/戦慄の訪問者』でお馴染み、純然たるホラー映画界の若き旗手、ブライアン・ベルティノ。個人的にはジェームズ・ワンの対極に位置する「ホラー映画の核」を大切にし続けている監督だと感じています。


主演は『最後の追跡』『アイリッシュマン』での好演が記憶に新しいマリン・アイルランドに、A24と「オナラで海上スキー映画」こと『スイス・アーミーマン』のスタッフがタッグが組んだことで知られている、ちょっとシリアスでダークなコメディ映画『ディック・ロングはなぜ死んだのか?』で主演に抜擢されたマイケル・アボット・Jr。さらには『ターミネーター』『ガタカ』などで名バイプレーヤーを演じてきたサンダー・バークレーが死神みたいな顔つきの神父役で出ています。





【あらすじ】

“それ”は「闇」だった。薄暗く、それでいて限りなく深く、地平の果てまで続くような闇の至る所に“それ”は潜み続けていた。迷える子羊の魂を堕落させ、父なる神がおわす天国への梯子を打ち壊すために、“それ”は夜明け前の闇の中に潜み、機を伺っていた。


それと気づかず、小屋のなかで椅子に腰かけた老婆は、ひとり寂しく歌い出す。主たるイエスに捧げる讃美歌を。その312番目の歌を口ずさみながら編み物を編んでいる最中のことだ。小屋の外が妙に騒がしい。厩舎で飼育している牧羊たちが、この時間には珍しくめいめいに鳴き声を上げているのだ。


様子を確認するために、寝たきりの夫に代わって厩舎に向かった老婆は、柔らかな声で牧羊たちをなだめるも、家畜たちの気は収まらない。まるで「見えない何か」に怯えるように、その白灰色の体を互いにすり合わせながら、懼れるようにいななきを上げるばかりだった。


いったい何に怯えているというのか……そのとき、風も吹いていないのに、厩舎の入り口に取り付けた鐘鈴が一斉に鳴り響いた。目に見えて怯える牧羊たち。不思議に思って厩舎の入り口を見つめる老婆。目線の先にあるのは、悪魔の舌先のように広がる果てしない闇。夜明け前の、うら淋しい草原。なんてことはない、見慣れた風景のはずだった。


だが、きっとそのとき老婆は目撃してしまったのだ。この広大な土地の向こうに広がる闇。その中に潜む、得体のしれない“それ”の片鱗を……


アメリカ合衆国はテキサス州の片田舎。そこに立つ古ぼけた一軒家を中年の域にある姉弟が訪れたのは、さる月曜日のことだった。彼らの訪問の背景には、育ててくれた両親への感謝のほかに、罪滅ぼしの意味も込められていたのかもしれない。姉のルイーズに弟のマイケルは、どちらも仕事や自分たちの新しい家庭のことで手一杯で、自分たちを生み育ててくれた両親の面倒を見ることなく、ここまできてしまったのだ。


だが、父が人工呼吸器をつけて寝たきりの状態になったと聞いては、さすがに帰省を先延ばしにするわけにはいかない。ヘルパーをひとり雇っているとはいえ、年老いた母が父の身の回りの世話をするのは、肉体的にも精神的にも相当な負担になる。


母の手伝いをするために帰省してきたルイーズとマイケル。だが、そんな二人に対して、母はどこか冷たい態度で突き放す。「来るなと言ったのに」――陰鬱な表情で拒絶の言葉をことあるごとに口にするだけでなく、食事の最中に明後日の方向を見て大声を出すなどの奇行も見られた。


変わり果てた母の姿に愕然とするルイーズと、認知症か何かに罹ったんだろうと、どことなく他人事な態度のマイケル。


そして翌日の火曜日。事態は二人の予想を超えて、最悪の方向へと転がっていった。母が突然自殺したのだ。早朝に姉弟が異常に気付いた時には、すでに母は厩舎の天井から垂らしたロープに首をかけ、事切れた後だった。それも、左手の指が根本からざっくりと「切断」された状態で……なぜか母は死の直前、台所で自らの左手指を包丁ですべて切り落とし、それを細切れにしていたのだ。


そのまた翌日の水曜日。警察の検死によって、寝たきりになった夫の介護疲れからくる「自殺」として処理された母の死だったが、どうしてもわからないことがあった。母の身長からして、厩舎の天井からロープを垂らすことなんて出来るはずがない。警察は、厩舎にあった桶を踏み台にしたのだろうと結論づけたが、ルイーズたちが発見したとき、母の足元に桶は転がってはいなかった。


その日以来、ルイーズとマイケルの姉弟は、家の中で不気味な怪現象に出くわしてしまう。寝たきりのはずの父が、シャワールームの前に立ち、白目を剥いて震える姿。真夜中に窓の外を覗いてみれば、不気味な笑顔をたたえて浮遊する、生前の母の幽霊を目撃してしまう。受話器から聞こえてくるのは、この世のものとは思えないほど濁った母の声。そして、風も吹いていないのにひとりでに鳴り出す厩舎の鐘鈴……


母の死をきっかけに多発したこれらの異常現象は、ただの幻覚なのだろうか。それとも、この世ならざる“なにか”の仕業なのか。


手掛かりになるのは、マイケルが父の寝室で偶然見つけた母の日記。そこに記されていた、不可解にして身の毛もよだつ記述に、姉弟は戦慄するのだった……





【レビュー】

いやぁ、怖かった(笑)。忙しい合間を縫って二回観てきましたが、二回目の鑑賞でもむちゃくちゃ怖かったですこの映画。テイスト的には家族ものホラーの代表作として名高い『ヘレディタリー/継承』に連なるものであり、その手の家族ものホラーの「はしり」となった『ヴィジット』を彷彿とさせる作りになっているのですが、はっきり申し上げて「恐怖の強度」で言えば、こちらの方が勝っているかもしれないなと個人的に感じた次第です。


まぁね、「ホラー」と一概に言っても、色々ありますからね。人怖だったり心霊だったり異世界だったりモンスターだったり。そういった括りで説明するなら、この映画は「悪魔系ホラー」ということになります。こういうと『エクソシスト』や『死霊館』のような作品、つまり悪魔が人間に憑依して暴れまわるような作品をイメージする方も多いと思いますが、これらとは全く異なるルックの作品であると言っておきましょう。


この『ダーク・アンド・ウィケッド』という映画は、近年のハリウッドで多く作られている「家族モノ」に連なるホラーでありながら、そこに70年代以降のオカルト・悪霊系の要素を取り入れています。こういうと、先ほど「似ている」と取り上げた『ヘレディタリー/継承』とそっくりな作品に思えますが、『ヘレディタリー/継承』と決定的に異なるのは、『ダーク・アンド・ウィケッド』は、劇中で起こっている怪奇現象の数々が本当に「悪魔の仕業」によるものなのかすら「疑わしい」ことにある点です。


なんでそんな風に私が感じたかと言えば、「悪魔系ホラー」と謳っているくせに、この作品には悪魔の存在を「直接的に描写したシーン」なんて、たったのワンシーンも存在しないからです。人間に悪魔が憑依して暴れたり、ポルターガイストのような現象が起こって、食器や椅子が飛び交うシーンもないし、照明が割れるシーンも存在しない。そういった「絵的な分かりやすさ」を極力排した作品であり、そして、だからこそ、この映画は「めちゃくちゃ怖い」のです。


もちろん私は日本人であるし、カトリック系の幼稚園に通っていた過去があるとはいえ、アメリカ人やヨーロッパの方々が理解するように「悪魔の存在」を理解できるなんてことは当然ないんですが、だとしてもかなり意味が分かりません。本当に悪魔の仕業なのかな? と首を傾げたくなってしまうくらい、悪魔の直接的な存在が希薄な映画なんです。


悪魔が人間を堕落させるのはなぜか? それは死後、人間の魂が天国に行けないようにするためだというのが一般的とされています。だからこそ、この映画におけるキャラクターの「死」は、そのほとんどが「自殺」というかたちで描かれています。知っている方も多くいるかと思いますが、キリスト教では自殺した人間の魂は天国へ行けないとされているからです。首をナイフで切って死ぬ。ロープで首を吊って死ぬ。ショットガンで頭部をぶち抜いて死ぬ……たくさんの「自死」が登場するこの作品。被害者たちは姿かたちの見えない「悪魔」とやらの手練手管に掛かって自死を選択していくわけなんですが、しかし物語がどれだけ進んでも、スクリーンに悪魔の存在が直接的に描かれることはありません。


その存在を間接的に描いているとしたら、『ダーク・アンド・ウィケッド』というタイトルのとおり「闇」こそがこの映画の「悪魔の代弁者」であると言えるでしょう。この映画は、夜はもちろんのこと、昼のシーンですらもどこかぼんやりと暗く、逆光で役者の顔が真っ暗になってもお構いなしにカメラを回します。映像のほとんどが「闇」に覆われているため、キャラクターの表情や仕草を丹念に観ようとしたら、かなり目を凝らす必要があります。それくらい濃度のある「闇」の演出が全編を覆っており、陰鬱でダウナーな雰囲気が映画冒頭から感じられる、なんとも「心地よくもイヤ~な感覚」に陥ってしまう作品です。


劇中、主人公の母親と親交のあった神父さん(この神父さんの佇まいが、まあ不気味なんですわ)が「この家には悪魔が棲んでいる(要約)」と口にする場面がありますが、じゃあその悪魔って具体的にどんな存在なの? なんの因果があって、この家族に災いを振りまいているの? 当然のこと、観客はそういった疑念を頭の隅に置いて鑑賞を続けるわけですが、その点に関しては最後の最後まで「なにひとつ説明されない」というのが、本作がそれまでの「家族×悪魔系ホラー」と決定的に異なる部分でしょう。


スクリーンの向こうで不可解且つ身の毛もよだつような、恐ろしい出来事が頻発しているというのに「なぜそんなことが起こったのか」は具体的に描こうとしない。すなわち、この映画には「結果と原因の因果関係が存在しない」のです……さて、こうなってくると本当に恐ろしい。ジェームズ・ワンの『死霊館シリーズ』や『インシディアス・シリーズ』を観ても、一ミリも恐怖しない私からしてみれば、こういった類の話がいちばん恐ろしく思えてしまいます。


ジェームズ・ワンの映画って、本当に怖くない。これは何も強がりでそう言っているんじゃなくて、かなりマジな意見です。今年公開された『死霊館 悪魔のせいなら、無罪』も『マリグナント 狂暴な悪夢』も、どちらも「面白くて楽しい映画」ではありましたが「怖いか?」と聞かれたら、私は「いや、全然」と答えます。なぜなら、それらの作品で描かれる恐怖の背景には、ドラマツルギーに則った「理屈」が存在するからです。「この怪奇現象の裏では、こうこうこういう目的でこういう人物が暗躍しているんですよ」とか「あなたが恐ろしい目に遭っているのは、過去にこうこうこういう出来事があったからで」……という風に、怪奇現象と、その怪奇現象の原因を結び付けていると、観客は「恐怖」よりも先に「ああ、だからか」と「納得」を覚えてしまいます。これはもう、ホラーではなく「ミステリー」や「サスペンス」の作りに等しい。すなわち、ジェームズ・ワンの一連のホラー映画は、ホラー映画に「ミステリー」や「サスペンス」の要素を導入して、分かりやすいエンターテイメント作品として仕上がっているのです(いまさら言うまでもないことですが)。


しかしながら『ダーク・アンド・ウィケッド』に「分かりやすい恐怖」は存在しません。家族を襲っている「理不尽な恐怖体験」は「悪魔」によるものだとキャラクターに喋らせておきながら、しかし最後までその存在に積極的に言及することはなく、彼らを襲う悲劇や恐怖を「事実」として淡々と撮っていくので、観ているととてつもない不安に駆られます。そして、その不安の根源がどこにあるのかと言えば――少々おおげさな物言いをしてしまえば――私たち人間が、地球の歴史から見てみればあまりにも短すぎる、しかし人間の視点から見ればあまりにも長い「歴史」の節目節目で猛威を振るい、歴史の地層に堆積されていった数々の「厄災」にこそあるのです。


そもそも、なぜ悪魔や鬼や悪霊といった存在が生まれたのでしょうか。いまよりずっと昔、当時の科学力や文化力では、その正体についてうまく論理的な説明が為されないとされてきた自然現象を「象徴化」するために、それら架空の存在は生み出されたのだと私は考えます。落雷と雷神、日食と天岩戸、ヤマタノオロチと河の氾濫、ナマズと地震……飢饉、疫病、災害といった「理不尽とされる災い」を「分かりやすく象徴化」するために悪魔や鬼が用いられてきた人間の歴史。同時にそれは、目の前で起こったショッキングな出来事を、どうにか自分たちの生活水準に照らし合わせ、理解できるレベルまで「和らげる」効果を発揮してきました。


ですが、それらのどんなに「感情では割り切れない複雑な悲劇」をオカルトな理屈付けで「単純化」しようとも「厄災」は「厄災」としてのみ存在することを、この『ダーク・アンド・ウィケッド』は突き付けてきます。劇中で用いられる「悪魔の仕業」というのは、悪魔の具体的な姿を最後まで描かないことで、その存在の立証の説得力に欠けると同時、また新たな姿を我々に掲示してきます。その新たな姿とはほかでもありません。「悪魔」や「悪霊」といった「分かりやすく象徴化」された恐怖ではない「剥き出しの理不尽」……まさに「厄災」としか言いようのない「絶対的な邪悪」が、圧倒的な強度で我々の頭上に君臨していることの恐怖なのです。


そしてこの映画の最も恐ろしい部分は、そんな「厄災」が我々の日常に襲来してくるのは、日々の何気ない生活のなかで「しこり」のように溜まっていく「負い目」や「引け目」や「申し訳なさ」といったネガティブな感情に起因していると結論付けている点。日々の小さな小さな「絶望」の積み重ねが、やがては大きな「厄災」を呼び寄せることを物語っている点なのです。というわけでこの映画、テキサスの片田舎という「小さな舞台」で、ひとつの家族という「小さな人間関係」のお話ながら、基底の部分ではとてつもなく普遍的な恐怖を描いているので、これはもう、近年のシネコンでかかるようなホラー映画に物足りなさを感じていた自分にとっては、たまらないものがありましたね。「ほぉ~、いいじゃないか。こういうのでいいんだよ、こういうので」といった感じです。終わり方もまた私好みで、最近のホラー映画にある「物語を綺麗にまとめるためのラストシーン」がうざったいなと感じる方には高評価かもしれません。


包丁で指を細切れにするシーン以外、グロいシーンは全くない映画です。一見すると派手さのない、地味な映画に思えますが、しかし誰が何と言おうと間違いなく「過激」な部類の作品です。「分かりやすい理屈」に支えられたホラーエンタメに食傷気味な方、あるいは、人には理解不可能な現象が「理解不能」であるがゆえに持つおぞましさをどっぷりと浴びたい方に、おすすめの映画です。配信された暁には、ぜひともご覧ください。


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