【第72回】最後の決闘裁判
『美術、ドラマ、映画が映画であるがゆえの不可逆性について』
世に「傑作」と称される映画は数あれど、「金字塔」と呼ばれる作品となると、その数は圧倒的に限られてくる。
「金字塔」は「エポックメイキング」であるがゆえに、それが初めて表現された場の枠組みを越え、私たちの住んでいる現実の世界へ必然的に「波及」する力を持つ。
「金字塔」が放つ、眩いばかりの煌めきに心を溶かされた人たちの手で、それは語り継がれ、それは模倣され、それは再生産され、いつの時代も歴史の背後で、事物の深層に棲み続け、だからこそ、いまだにその輝きを失わずにいられるのだ。かつて暗黒の夜空を見上げ、瞬く星々の運行に神話を想い馳せた賢者たちが去った後も、現代の物語に神話の息吹がそこかしこに感じられるように。
映画における「金字塔」は「映画」という枠組みを越えて、文化を刷新し、それまで「当たり前」とされていた現実の世界を、明確に変える力を持つ。これは映画ファンの世迷い言でもなければ、幻想でもない。いま私は、現実にあった出来事の話をしているに過ぎない。
金字塔は実在する。私たちは、その黄金のオベリスクに深く刻まれた偉大な作品の名を、確かに知っている。
『エイリアン』と『ブレードランナー』――それは映画の祝福であり、文化の侵略であり、「いま、ここ」にて語られる全世界の物語の背後に大なり小なりの存在感で以て、絶対的な呪縛として君臨する「映画の中の映画」である。
流行こそが最先端と豪語する者たちが、やれ「令和の物語」だの「コロナ禍に通じる物語」だのと威張り散らそうとも、人が過去の影響の下に現在の人格を宿しているように、映画もまた過去の影響から逃れることはできない。
事実、ここ数年のうちに発表された小説や映画を見てみても、私たちを取り巻く「未来の」物語は、いまだに『ブレードランナー』の支配から完璧に脱却しているとは言い難いし、「異星」を舞台にした物語もまた、いまだに『エイリアン』の世界から逃れられてはいない。
物語の中で「未来」を想い描こうとした時、または「いま、ここ」とは違う「異世界」を創ろうとする時、『エイリアン』と『ブレードランナー』を無意識的に反芻するクリエイターは少なくない。これらの「金字塔」は、この世界に産み出された時点で、以後の現実で語られる物語をある一定の場所に縛り続ける恐るべき力を持った。それゆえに、今もなお「金字塔」としての絶対的地位を保有し続けるのである。
そしていま、『エイリアン』と『ブレードランナー』を世界に産み落とし、図らずとも世界の文化を革命した偉大な男の新作が、この「令和の時代」に解き放たれる。
その男の名は、リドリー・スコット。
英国女王より「騎士」の称号を賜りしシネアスト。
【導入】
百年戦争さなかの中世フランスを舞台に、実際に執り行われたフランス史上最後の「決闘裁判」を基にした歴史サスペンス映画。
監督は『エイリアン』『ブレードランナー』以外にも『テルマ&ルイーズ』『ブラック・レイン』『グラディエーター』『キングダム・オブ・ヘブン』『ブラックホーク・ダウン』『悪の法則』『オデッセイ』と、世に名だたる傑作を数多く創り出してきた「映像の魔術師」にして「世界全部創るマン」のサー・リドリー・スコット。今回は中世ヨーロッパが舞台ということで『ロビンフッド』や『キングダム・オブ・ヘブン』を思い出す方もいるかもしれませんが、まさに美術はあんな感じです。ちなみに「決闘」繋がりで監督の初長編映画『デュエリスト/決闘者』との関連を探る方もいるかもしれませんが、内容的にはあんまり関係ありません。
脚本は、マット・デイモンとベン・アフレックの『グッド・ウィル・ハンティング 旅立ち』コンビ。そこに『ある女流作家の罪と罰』で脚本を担当したニコール・ホロフセナーが加わっています。この『ある女流作家~』なんですが、私は未見なので内容は知りませんが、かなり評判の高い映画らしいっす。
主人公にして、ノルマンディー地方・アルジャンタンの騎士(物語開始時点では従騎士)ジャン・ド・カルージュ四世役は、マット・デイモン。言わずもがな凄い俳優ですが、あんまり日本じゃそんなに人気があるって聞かないですね、この人。それとは反対に、『スターウォーズ続三部作』で女性ファンからの人気を不動のものにした(by浦切リサーチ)アダム・ドライバーが、ジャンの友人にして決闘相手の従騎士、ジャック・ル・グリを演じています。
そして、この物語の回転軸の中心。ジャン・ド・カルージュの妻、マルグリット・ド・カルージュを演じるのが『フリー・ガイ』のジョディ・カマー。何気に『スカイウォーカーの夜明け』にも出ていたんですよね。
ジャンとジャックが仕えているヴァロワ=アランソン家の三代目当主、アランソン伯ピエール二世には、ベン・アフレック。淫蕩なゲスい貴族役が様になってます。そのピエール二世の従兄弟にして時のフランス国王、シャルル六世役には『9人の翻訳家 囚われたベストセラー』で、見事な「騙し」の演技を見せてくれたアレックス・ロウザー。シャルル六世と言えば、精神を患ってしまってからの狂気的エピソードで有名な国王ですが、まだこの時代は理性的。しかしながら、決闘シーンで血飛沫が舞う度にウッキウキした表情を見せるなど、「狂王」の片鱗を覗かせるようなシーンが盛り沢山で、かなり個人的に好きなキャラでした。
【あらすじ】
あと三日で新年を迎えようという冬の季節。フランス王国の首都、パリの郊外にそびえ立つ決闘場は、民衆の異様で静かな熱気に包まれていた。粉雪がちらつき、国王陛下らが見守る中、今日ここで、二人の騎士が名誉と身の潔白を賭けた「決闘裁判」に臨もうとしている。
鎖帷子を着込み、兜と甲冑を身に纏う二人の騎士。陛下の御前で厳かに向かい合った両者は、重厚な馬鎧を装着した馬に跨がると、長大な槍と、誇りある家名の紋章が刻まれし盾を構えた。
そして鳴らされる決闘の合図。二頭の馬が嘶き、主を乗せたまま一直線に駆け走る。群衆が固唾を呑んで見守るなか、怒り、憎しみ、誇りの全てを腕に込め、真正面から相手の急所目掛け、猛然と槍を繰り出す二人の騎士。
大気の震え。衝突の刹那を見守る無数の眼差し。その中には、此度の決闘裁判の渦中に佇む貴婦人の、物憂げな視線も在った……
1370年。ヴァロワ王朝が支配するフランス王国は、内外に問題を孕んでいた。わずか11歳という幼さで王位に就いたシャルル六世治世下のフランスは、領土と王位継承権をめぐるイングランドとの長年に渡る戦争に明け暮れ、さらには疫病の流行による農夫の人手不足で作物の収穫は乏しく、領主に支払わなければならない税を滞納する騎士たちで溢れていた。
フランス北西部はノルマンディー地方、アルジャンタンを治める領主、アランソン伯ピエール二世に仕える従騎士の
ジャン・ド・カルージュ四世は、ピエール二世の命を受けてリモージュの河川に警備態勢を敷いていた。しかし、河を挟んで対峙するイングランド軍の残虐な挑発に我を忘れ、血気盛んに先陣を切り、戦いに雪崩れ込んでしまう。
結果は惨敗……味方側に多数の損害を出し、領主の不興を買ったことに肩を落とすジャンだったが、そんな彼を慰める男がいた。ジャック・ル・グリ。貴族階級のジャンと比較すれば家柄は大したことないが、持ち前のユーモアセンスとラテン語をよくする教養の高さから、ピエール二世の覚えめでたい従騎士。彼は、今は亡きジャンの長男の名付け親でもあった。家の格式を越えて、二人は篤い友情で結ばれている……少なくとも、ジャンはそう信じていた。
1380年。ノルマンディー地方に上陸してきたイングランド軍を打ち破ったジャンは、戦果を讃える祝いの席で、ひとりの貴婦人を紹介される。彼女の名前はマルグリット・ド・ティボヴィル。かつて、フランス王国を裏切ってイングランド軍に寝返った過去を持つロバート・ド・ティボヴィルの娘だった。
ロバートの狙いをジャンは見透かしていた。恩赦を出されて祖国に帰還したものの、裏切り者の汚名を灌ぐのは難しく、ティボヴィルの家名は地に落ちている。ゆえに、由緒正しいジャンの家に娘を嫁がせることで、貴族として復権しようというのだろう。だが、これはジャンにとっても朗報だった。妻を亡くし、子を亡くした自分にとって、世継ぎを残すのは騎士としての火急の務めでもあったからだ。
こうして、マルグリットとの婚姻を済ませたジャン。だが、ひとつの問題が生じた。婚姻に際してティボヴィル家がカルージュ家に差し出す持参金に含まれていたはずの肥沃な土地、「オヌー・ル・フォコン」が、領主ピエール二世の手によって没収されてしまったというのだ。ティボヴィル家もまた、フランス国内の諸侯たちと同様、領主に治める税を滞納しており、その税金代わりという口実で取り上げられたのだが、実のところは、リモージュにおける一件と、ジャンの向こう見ずで頑固な性格に嫌気が差していたピエール二世による、嫌がらせに近いものがあった。
いくら領主とはいえ、そんな無茶苦茶なやり方が許されていいのか……我慢ならなくなったジャンはこの一件を国王・シャルル六世に直訴し、オヌー・ル・フォコンの正当な所有権は自分にあると主張する。だが、シャルル六世はピエール二世の従兄弟。当然訴えが受理されることはなく、棄却されてしまう。
領主に逆らっての国王への直訴。それは誰がどうみても、騎士道精神にあるまじき反逆行為そのものだった。怒りのピエール二世は意趣返しとして、ジャンの父親が亡くなって空位になっていたベレム城塞の長官に、寵愛するジャック・ル・グリを就かせてしまう。
まさかの仕打ちに呆然とするジャン。ベレム城塞の長官の座は、カルージュ家の父祖の代が務めてきた重要な役職。父が亡くなった後は、自分がその役職に就くはずだった。それなのに、あろうことか別の人物を、それも、「あの」ジャック・ル・グリを任命するとは……
このことが決定打となり、ジャンとジャックの両者の間には、決定的な溝が生じてしまう。旧友の息子の誕生を祝うパーティーでばったり顔を合わせ、表面上は和解したように見えても、ジャンの心のしこりは肥大する一方だった。
そして1386年。ついに決定的な事件が起きる。スコットランドへの遠征中に、晴れて騎士の叙勲を受けたジャンは、本国へ帰還して早々にパリへ給金を受け取りに馬を走らせると、金貨三百枚を手に帰路に着いた。1月18日の早朝のことだ。
これで、少しは家計の足しになる。きっとマルグリットも喜んでくれるだろう………しかし、意気揚々と家に着いたジャンを待っていたのは、物憂げに涙を流す、愛する妻の姿だった。
いったい何があったのか。訳を問いただすと、マルグリットは重い口を開き、にわかには信じられないことを口走った。ジャンがパリへ給金を受け取りに行っている隙に、ジャック・ル・グリが従者を連れて家に押し入り、その場で力ずくで凌辱されたというのだ。
親友と思っていた男の、まさかの裏切りに愕然とするジャン。だが、愛する妻が嘘をついているようには見えない。そもそも、マルグリットがジャックと顔を合わせたのは、旧友の息子の誕生パーティーでの場、ただ一回きりだ。恋多き色男で知られるジャックのことだ。恐らく彼はあの時、マルグリットに一目惚れし、虎視眈々と妻の肢体を狙っていたのだ……いつかは、この由緒正しいカルージュ家の後継ぎを産むはずの大事な体を、あの男は貪欲な浅ましさで傷つけたのだ! ジャン・ド・カルージュの名において、絶対に許してなるものか!
激しい怒りと嫉妬に駆られたジャンは、これまで溜め込んできた不満の全てを爆発させるかのように、猛然と事に取りかかった。マルグリットが強姦された一件を通常の裁判手続きに則って法廷に訴えても、審問は通らないだろう。なぜなら、ジャックの法の後ろ楯には、あのピエール二世が控えているのだ。なんだかんだと理由をつけて、この真摯な訴えを棄却するのは目に見えている。
そこで、ジャンは一計を案じた。妻が強姦された事実を「噂」としてノルマンディー全域に広めるように親交ある諸侯たちの協力をとりつける一方、自らはパリに出向き、国王に「決闘裁判」を開くよう直訴したのだ。
決闘裁判……それは、神の権能の代理人たる国王の御前で、告訴人は主張の正当性を、被告人は身の潔白を証明するために、一対一の決闘に臨むという「力と信仰の裁判」。勝者には多大な名誉が与えられる一方、敗者は神の前で虚偽の告白をした罪を背負わされ、一族もろとも首に枷を嵌められ、縄で吊るされ、生きたまま火炙りにされるという情け容赦ないものだった。
その残酷さゆえに、1386年のフランスにあっても、決闘裁判が行われたのは遠い過去のものとなっていた。だが、身の潔白を主張するジャック・ル・グリは、ジャンの決闘の宣誓に応じる構えを見せる。自分は決して、マルグリットを強姦していない……両者の譲れぬ意思を汲み取ったシャルル六世は、ここに、フランスの歴史上最後となる決闘裁判の開催を決定したのであった……
【レビュー】
ここ最近、よく著名な人物を指して「○○マン」という呼び方をするのが癖になってるんですが、きっかけはなんだったかと言うと、電脳少女シロちゃんが織田信長のことを何かの動画で「謀反マン」と呼んでいたのが(それは明智光秀だろという突っ込みも含めて)個人的にツボにはまったからで、それで言うなら私的にはクリストファー・ノーランは「時間マン」になるし、イーストウッドは「早撮りマン」になるし、リドリー・スコットは「世界全部創るマン」という呼び名に自動的になってしまう。
「近未来のニューヨーク全部創るわ」と言って『ブレードランナー』を作り、「誰も見たこと無い大阪創るわ」と言って『ブラック・レイン』を作り、「古代ローマ帝国全部創るわ」と言って『グラディエーター』を作り、「聖地エルサレム全部創るわ」と言って『キングダム・オブ・ヘブン』を作ったリドリー・スコット。
『テルマ&ルイーズ』などの一部例外を除けば、彼の映画内における美術はとにかく「過剰」の一言に尽きます。フレーム内に余白が生じるのを極端なまでに嫌う癖があるのか、ほとんど病的と言って良いくらい、物語の進行に全く貢献しないようなところまで沢山の小物や装飾で画面を埋め尽くすのが、リドリー映画の最たる特徴のひとつです(その極北と言っても良いのが、世間では「失敗作」の烙印を押されている『レジェンド/光と闇の伝説』だったりします)。
でも、それって潤沢な予算があるから出来るんでしょ? と言う方がいるかもしれませんが、違います。普通の監督は、たとえ潤沢な予算を与えられても、それをどう物語の推進に使うかを考えます。言ってしまえば、物語に直接関わる部分の美術にのみ予算を使おうとしますし、それが「普通」の感覚を持った映画人の、ある種の限界とも言えます。
しかし、リドリー・スコットは違います。『レジェンド/光と闇の伝説』の美術密度のハジケっぷりからもわかるように、彼は物語がいかに凡庸なものになろうとも、「世界観」の装飾には異常なほど拘ります。こと「異世界」「ここではないどこか」を舞台にした映画では、それが顕著です。異常なくらい物語の外側にある「世界」にまで予算をつぎ込み、世界を「分厚く」することに執着します。
そんなところに凝ったところで、ドラマが豊かになるなんてことはないよ? というところまで、徹底して世界を装飾するし、大胆不敵にもそれが出来てしまう。時に彼が物語の整合性よりも「世界観」の美的設計を優先するのは、彼が「異世界」のなんたるかを熟知しているからです。「異世界」という響きが持つ、恐怖と興奮を知っている監督だからです。『ブレードランナー』『レジェンド/光と闇の伝説』『グラディエーター』『キングダム・オブ・ヘブン』のいずれかを観たことがある方なら、それが分かると思います。
本作『最後の決闘裁判』は、そんな「異世界の恐怖と官能を知る」リドリー・スコットの過剰な空間装飾設計が大爆発しています。現代に生きる私たちからしてみれば異世界も同然な中世ヨーロッパが舞台で、しかも美的大国フランスですからね。これはもう、リドリーの本領発揮といったところでしょう。歴史的に見ても画面映えする時代、それもロココ文化のような「下品」な感じがする時代ではなく、騎士を主役に据えた映画なだけあってか、「男の子」のハートをくすぐるカッコいい美術でいっぱいです。
「中世のコロシアム」然とした決闘場の無機質で厳かなタッチ、その決闘場に群がる大量の人だかり、甲冑を着込む騎士たちの佇まい、鎖帷子の質感、馬鎧の重厚感、馬上で掲げる木製ランスの迫力、家紋が刻まれた盾、はためく旗、パリ高等裁判所の美術、結婚パーティーの豪奢な料理、酒場で飲み踊り歌う人々、催事に集まる貴族や騎士たちの衣装、積まれた金貨、輝く王冠、叙勲の儀、玉璽、そしてレンガ造りの城塞……目に映る美術やエキストラたちのすべてが、シックで上品でカッコ良い。物語のスケール的には『グラディエーター』や『キングダム・オブ・ヘブン』、異世界ドラマの秀作『ゲーム・オブ・スローンズ』には劣りますが、やはり過剰なくらいの美術で「中世ヨーロッパ世界」を余すところなく構築しているため、異世界が好きな方、騎士の世界が好きな方は、まず間違いなく美術の素晴らしさにハマる映画ですし、実際私はそれを目当てにしていました。なので、この「リアリティたっぷりな異世界の美術」が堪能できた時点で、私はもう大満足しちゃったんですな。
そんなわけで、美術はもう最の高。まだ『デューン/砂の惑星』を観てない段階で言っちゃいますが、ここ数年の間に公開された映画の中では、とてつもないカッコいいヨーロッパ美術が山ほどあるので、この時点で私の中では年間ベストに食い込んできます。
とくに好きなシーン。シャルル六世の御前で、決闘の宣誓としてジャン・ド・カルージュが床に置いた黒いガントレットを、ジャック・ル・グリが「受けて立とう」と拾い上げ、黒いマントをさっと優雅に翻して下がるシーン。ここなんか、黒マントのクールで優美な質感はもちろん、アダム・ドライバーの所作が超完璧。彼が本物の中世ヨーロッパの騎士にしかみえないくらい、めちゃくちゃカッコ良くてたまらないものがありました。そしてそのカッコ良さとは、私が大学生の頃に初めて『キングダム・オブ・ヘブン』を観た時に感じた、あの仮面を被ったエルサレム王のカッコよさや、サラディンが捕虜の喉元をかっさばくカッコ良さと同じなのです。
すなわち、フェティッシュな所作の素晴らしさ。キャラクターの何気ない、しかし「その時代に生き・その世界の文化に囲まれて育ったからこそ」の所作。それをたっぷり見せることで、キャラクターに異世界での実在感を与える演出。これぞまっとうな異世界映画におけるキャラ演出です。「ここではないどこか」で生きているキャラクターたちを描くのに当たり、なにより必要なのは「ウケ狙いの奇抜な性格」でもなければ「見てくれの異質さ」でもなく、「その世界の理やルールを知っているからこそ」の立ち振舞いなのです。
そして、この映画には(当たり前っちゃ当たり前だが)現代に住む我々からしてみれば信じられない世迷い言めいた理屈が横行する「異世界の理」、すなわち「中世ヨーロッパの理」に肩まで浸かりきったキャラクターたちが(男だけでなく、女も含めて)わんさか出てきます。
主人公のジャン・ド・カルージュ、名前に「ド」の冠詞がついていることからもおわかりなように、彼は貴族階級の生まれです。そして、父祖の代から守ってきた城塞の存在と騎士としての名誉だけで生きている、虚栄心の塊のような男でもあります。しかし、あの時代の騎士たちにとっては、家名の格や土地の所有に拘るのはごくごく当たり前のこと。家の名声を磐石にするために子供をしつこく求めるのも、騎士としての、貴族としての振る舞いとしては、なにもおかしいところはありません。
というか、むしろ彼の行動は「中世ヨーロッパ的価値観」に照らし合わせてみると、妻のことを大切に考えているように私には見えました。男尊女卑の世界で子供が出来ない責任を負わせられるのは妻の方であり、ジャンは妻に対する不評が立つのを恐れているわけで、だからあれだけしつこく「受胎したかな。受胎したかな。ソワソワ」しているわけです。もちろん妻を彼なりに労る行為が「家名の尊厳を守る」という行為と無関係なわけではありませんが、ジャンの中では合理的な振る舞いなんですな。
一方のジャック・ル・グリですが、この男は貴族の出ではなく、冠詞に「ル」がついていることから、恐らくフランス北西部はブルターニュ地方に先祖を持つ平民階級の男である可能性が高いです。
このジャック・ル・グリという男なんですが、彼がピエール伯爵の開いた宴の場で得意気にラテン語で恋愛のなんたるかを諳じ、列席した貴婦人たちが「(ノ゜д゜)ノ!!ステキ!」となるシーンがあります。ラテン語だかなんだか知らないけど、それを話せたくらいで女があんなにコロっと靡くか? 女を甘くみるな! と目くじらを立てる人もいるでしょうが、私なんかは結構感心しました。
というのはこの時代、ラテン語を話せるというのは、それだけでもう教養のステータスとしてはトップクラスなんですよ。フランス人作家、スタンダールの小説『赤と黒』で、ジュリアン・ソレルが聖書をラテン語で読み書きする下りで「まあ素敵な人!」なんて称賛をされてましたが、あれと一緒。『赤と黒』はフランス革命後の、政治の主体が貴族や軍人から国民の手に渡った時代の話ですが、そんな時代でさえ「ラテン語を話せる」というのは凄いことなんですから、まして中世のフランスなら言わずもがなってところです。
今と違って書物が貴族のものだった時代に、ジャックのような家柄も大したことのない男がラテン語をあれだけ話せるというのはかなりのものです。しかも従騎士でありながら下級聖職者の資格も持ってる、才能と努力の塊みたいな奴です。だから、彼とムフフな関係になりたいと密かに願う女たちがあれだけいるのも、「やれやれ、悩める恋を抱えちゃった俺、辛いぜ」的なキザったらしい(笑)自意識を彼が持ってしまうのも、「中世ヨーロッパの理」からしてみれば、物凄く納得のいく話なんです。
他にも劇中では、不妊に悩むマルグリットに対して、カルージュ家お抱えの医者が当時の医学的知識の主流だった「四体液説」を持ち出してきたり、「レ○プで子供が出来ないことは科学で証明されてマース!」「夫とのセックスでオーガズムを感じなければ妊娠しまセーン!」といった、頓珍漢な学説を知識階級たちが平気な顔で持ち出してきたり、とにかくこの映画は当時の美術や風俗だけでなく、中世ヨーロッパに生きる人たちの倫理観や道徳観すらも、徹底して「当時の」価値観に則してリアリティたっぷりに描いているため、キャラクターの心理レベルにおいても「異世界映画」の風格を保っているのです。
そんな「異世界」で生きる「異世界の倫理や知識を疑念に思わない異世界人」たちのなかで、唯一、物語のキーパーソンであるマルグリットだけが、極めて「現代的な」倫理観で動いており、明らかにこの映画内の「世界観」から浮いた存在として描写されています。
それでも、彼女は最初から「現代的な」価値観で動いているわけではありません。自分をまるで家畜同様の「所有物」として扱う夫に辟易とし、姑に子供が出来ないことを詰られようとも、マルグリットは夫の留守を預かり、どうにか「この異世界で」生きていこうと、献身的に尽くしていきます。しかしながら、不条理にも味わった耐え難い屈辱がきっかけで、彼女は「中世ヨーロッパの理」に従うことを止め、「現代的な」価値観で生きていこうとするわけです。
ここで生じる「対立」と「衝突」の構図。この映画は「決闘」という言葉に代表される「男と男の衝突」だけをフューチャーしているのではなく、「現代的な価値観に目覚めてしまった女性」が、自らの住んでいる世界を「理解不能な異世界」としてしか捉えられなくなったが故に生じる「(我々が住んでいる)現代と(ここではないどこかの)異世界の衝突」でもあり、ひいては、現代の常識を作り出してきた「国民」と、現代の常識にそぐわない「貴族」の衝突でもある、三重の衝突が描かれているのです。
これまで数多くの、異なる存在、異なる価値観、異なる文化の「衝突」と「交流」を描いてきたリドリーですが、ここまで自らのテーマを多重的にドラマに盛り込んできたのは、恐らく初めてではないでしょうか。
ドラマ構造のフォーマットに、あからさまなくらい黒澤明の『羅生門』を持ってきたのは、あくまでお客さんの興味を持続させるためのサスペンス的なトリックに過ぎないと私は踏んでいます。なぜなら『羅生門』と同じように、本作も三章仕立てで一つの事件を三者の目線で切り取りながらも、しかし『羅生門』とは違って、この映画には「真実の意外性」などないからです。
「本当の真実」とされるマルグリット視点のドラマだけでなく、その前に描写されたジャン視点、ジャック視点のドラマでも、起こってしまった事実それ自体のレベルに極端な差違はなく、あくまで当事者たちの事件に対する「感覚」のみが異なるという描き方がされていて、「実はこうだったんです!」的な真実の逆転、驚きの展開は何も描かれてません。
つまり、この映画の本質は、マルグリットが経験した真実の残酷さの中にあるのではなく、その真実をきっかけに始まったマルグリットの「自分が住んでいる世界の認識の変異」そのものにある。その「変異」には、私たちがどうやっても、この「退屈な現実」を美術レベル・倫理レベルで「退屈な現実」としてしか認識出来ないことに比べたら、とてつもない恐ろしさと官能が秘められているのです。
リドリーの過去作との類似性を見るなら、この映画は二人の男に挟まれた一人の女の話、つまり対極に在る者同士に挟まれた「中間」に位置する人物が、「中間」に在る者としていかに振る舞うかという『悪の法則』に近い映画でもありながら、「知らなかった世界を知ることの恐怖と興奮」に病み付きになった女たちが、「恐怖」と「興奮」を天秤にかけて「興奮」を選択し、更なる「異世界」を目指してカッ飛んでみせた『テルマ&ルイーズ』の裏面に位置する作品と言えるでしょう。
ある世界で生まれ育った女が、しかし自分が所属する世界を「異世界」として捉え、その理に対してノーを突きつけて対峙する……これだけ聞くとフェミニズム礼賛な強い女性に思えますが、しかしながら、マルグリットはただ強さをクローズアップされているだけのキャラじゃありません。決闘に敗北し、告訴人の証言が「偽証」であると確定した場合は、罰として生きたまま火炙りにされると知った際には、夫に対して「そんなの聞いてない!」と激しく狼狽します。それに、決闘場における彼女の視線には、世間の理を跳ね返し、勇気を出して真実を訴えた者らしい毅然とした態度は見えず、「後戻り出来ない現実」や「自分のなかで決定的に変わってしまった世界の見方」に対する不安と恐れだけが見え隠れしています。
起こったことは取り返しがつかない……映画が映画であるがゆえに持つ不可逆性のスリルを知っているのも、リドリー作品の特徴と言えるでしょう。殺された相棒は帰ってこず(ブラック・レイン)、レ○プ犯を撃った事実は覆らず(テルマ&ルイーズ)、麻薬ビジネスから手を引くことは許されず(悪の法則)、火星に取り残された事実は認めるしかない(オデッセイ)。「それは、そうなってしまったんだから、諦めなさいな」という、決して後戻り出来ない状況に立たされたキャラクターを、ちょっと突き放した冷めた視点で撮り続けることで、これが「始まったら終わるまで止まることはない」という「映画」であることを、観客に容赦なく突きつけるリドリー・スコット。それは大変に恐ろしく、スリリングな行為そのものですが、そんな撮影が出来てしまうのは、彼が「映画」のなんたるかを深く理解しているからなのだと、私は強くそう思うのです。
そんな彼の冷めた目線が発揮され、「まあ、起こったことは起こってしまったんだから、頑張ってね」とでも言うような突き放した感覚の極限とも言えるジャンとジャックの「決闘シーン」は、これはもう圧巻の出来映え。最の高って奴です。大槍、長剣、戦斧といった、当時の騎士たちにとっての三種の神器だけでなく、一時期ある種の小説において「暗器」的な使い方をされていたスティレットまで持ち出してきての、壮絶な殺し合い。アクションの組み立て方も非常に上手く、一瞬のスキが命取りになる「決闘」という戦闘形式の緊迫感を、スピーディー且つスリリングに描いているので、私なんかは観ているあいだじゅう興奮と恐怖に苛まれ、何度も息が詰まりかけました。物凄いです。物凄いアクションです。このアクションを観ないで何を観るの? って感じっす。
リドリーの「過剰な」美術がお好きな方、リドリーの「衝突」と「対立」のドラマが好きな方は、まず間違いなく気に入ると思います。リドリー・スコットの作品をひとつも観たことないという方にもオススメできます。
間違いなく、本年度ナンバーワンの映画です(個人の感想)。こんなに素晴らしい映画なのに「パンフレット作ってません」とか、これはもうリドリー作品のファンに対するテロ行為ですな。うーん、なんとかならないもんだろうか。




