【第69回】レミニセンス
「観光業的に、SFの世界観を使う映画」
コロナワクチンの副反応でゼーゼー言ってるなか、足りない頭を絞ってどうにかこうにか書いてます。うおー!倦怠感よ去るが良い!
さあてさてさて、やっていきますか。今回ご紹介する映画は製作に「時間マン」ことクリストファー・ノーランの弟、ジョナサン・ノーランが関わっていて、しかも「記憶」についての物語だというので、多くの方が公開前から『インセプション』のような映画を期待していたと思うのですが。
なにからなにまで『インセプション』とは全然違う物語です。
【導入】
水没した都市を舞台に記憶潜入のエージェントが、突然行方を眩ませた愛する女のケツを追いかけるSF風味のラブロマンス映画。
製作はジョナサン・ノーラン。そして監督/脚本はジョナサンの妻であるリサ・ジョイ。西部劇とアンドロイドを掛け合わせたドラマ『ウエストワールド』を手掛けている方ですね。夫婦共同での映画制作であるためか、なーんかかなりプライベートな匂いを感じてしまいます。
主演は『Xメン』でお馴染みヒュー・ジャックマン。どうでも良いですが、私は『Xメン』を映画で知ったクチなので後に原作を読んだ際に「ウルヴァリン映画より小せぇぞ!?」と驚いたことがあります。(そんでもってサイクロプスがデカイのにも驚いたな)。
ヒロイン役には10月に公開を控えているSF超大作『デューン/砂の惑星』にも出演するレベッカ・ファーガソン。『ミッション・インポッシブル・シリーズ』ファンにはお馴染みですね。相変わらずケツがエロい!
その他、まともなほうの(笑)『クラッシュ』での名演が光ったタンディ・ニュートン、『香港国際警察/NEW POLICE STORY』で、あのジャッキー・チェン率いる警察隊を全滅に追い込んだ強盗団のリーダー役を演じたダニエル・リーなどが出演。
撮影は「夜の男映画」こと『コラテラル』でディオン・ビーブとタッグを組んだポール・ジョナサン。「夜の撮影」が多い本作で彼が抜擢されたのも納得がいきます。
【あらすじ】
その見目麗しい"メイ"と名乗る女は、"バニスター&アソシエイツ"の業務時間が終わりを告げた頃、暗闇に差す一筋の光のように、客として男の前に現れた。その時の女の印象を、男――ニック・バニスターは、はっきりと覚えている。すっとした切れ長の瞳、グリーンのイヤリング、真っ赤なドレスに包まれたゴージャスな肢体、そして惑わすような声のささやき――ニックは一目で、蠱惑的な色気を振り撒くメイの虜になった。
ふたりが客と主の境界を越えて、男と女の関係になるのに、そう長い時間はかからなかった。情熱的に愛を交わすニックとメイに場所は関係ない。ふたりはいま、テラスの屋上に設えた天蓋付きのベッドの上で生まれたままの姿で横たわり、愛を囁き合っている。彼らの眼下に広がるのは、海と一体化したマイアミの都市。現実離れした世界は、そう、まるで「夢」のようであり、そして、いや、だからこそ、ニックの「夢」は外の世界からの刺激で唐突な終わりを迎えた。
気がつけば、ニックが横たわっていたのは、澄んだ水の入れられた楕円形タンクの中。なにが起こったか把握した彼は勢い良くタンクの中から身を起こすと、うわごとを口にしながら、強制的に外された記憶潜入装置の一式を助手のエミリー・“ワッツ”・サンダースから奪い取ろうとするも、彼女の叱咤に阻まれてしまう。
「あの女は半年も前に姿を消してるのよ。いつまで過去にしがみついているの!?」
時ははるか未来。地球温暖化に伴う急激な海面上昇と、それをきっかけに勃発した戦争がようやく終結を迎えた時代。住んでいた土地や職を失くした者たちは、未来に希望を見い出すことが出来ずにいた。絶望を心に抱く彼らの唯一の楽しみは、記憶潜入装置を利用して「過去の再体験」に浸ることだった。
ニックは、彼らが彼ら自身の「過去の記憶」を正確に再体験できるように誘導する「記憶潜入エージェント」であり、そしていま、彼は内心で哀れんでいた客たちと同じく、自身の記憶を貪り尽くすことにしか興味がなかった。メイとの燃えるような愛の日々を。そのメイは半年前、ニックに別れも告げずに、忽然と彼の目の前から消えてしまったのだ。
ニックに業務パートナー以上の感情を寄せるワッツの小言も、いまのニックには届かない。自分は彼女を愛していた。彼女も自分を愛していたはずだった。それなのに、なぜ……愛しい人に去られた深い絶望の毎日を送るニックだったが、そんなある日、検察庁のエイヴリー・カスティッロから彼の元にある依頼が舞い込んできた。なんでも、麻薬密輸を主としたギャング組織内での抗争から逃げてきたとある男を保護したので、その男の記憶に潜入し、組織の麻薬に関する情報を探ってほしいというのだ。
ワッツと共に検察庁を訪れたニックは、エイヴリーの立ち会いの下、さっそく男の記憶潜入を開始する。マイクを通じた音声指示に従って、外部モニターに投影される男の記憶。調べを進めていくうちに、彼は、戦後急速に力をつけた麻薬王、セント・ジョーの部下だったことが判明する。ジョーと男の過去のやり取りを洗いざらいモニターに写していくニックだったが、モニターにある人物の姿が写った時、ニックは目の色を変えた。
メイ。かつて愛を語り合った女。彼女が以前勤めていたバーにジョーは顔を出しており、それがきっかけでメイはジョーの情婦になっていたのだ。消えた彼女を過去の記憶の中に見つけたことに驚き、しかし他の男の手に堕ちていた事実に激しく嫉妬するニックは、エイヴリーやワッツの忠告も聞かずに、水没都市マイアミへ飛び込み、彼女の捜索を開始したのだった。
【レビュー】
これはあくまでも個人的な意見ですが、世のSF映画には、「正調なSF映画」と、「そうではないSF映画」の二種類があると考えています。
「正調なSF映画」とはなにか? それは「SFの王道」を指し、まず第一に「世界観」の重要性があげられます。ある特殊な状況を想定して架空の世界観を設計し、設計された世界の下に、どのような技術が社会に普及し、どのような文化が醸成され、そこでどんな価値観を持つキャラクターたちがドラマを繰り広げるか……多くの「正調なSF映画」は「語るべき物語を支える下地としての世界観」を重要視していると言ってもいいでしょう。
さて、それでは本作『レミニセンス』の「世界観」はどうか。かいつまんで説明するならこうです。「海面上昇をきっかけに世界中の都市が水没し、それに伴い発生した戦争が終結した時代。人々は生きる希望を失くして後ろ向きな人生を送り始め、記憶潜入装置を使って、過去の幸せだった頃の記憶を再体験することに熱中しだした……」というもの。
ふんふんなるほど、生きる希望を失くして閉塞感に満ちた世の中にうんざりして、だから記憶潜入装置を使った「過去の再体験」がブームになる時代というのは、たしかにここだけ切り取れば特におかしな点はありません。現実にも「あの頃は、良かったよなあ」と居酒屋でくだを巻く冴えない中年がわんさかいますから、観客から一定の理解を得られる設定だと言えるでしょう。
しかしながら、ここでよく考えてみましょう。「生きる希望を失くした反動で記憶潜入装置を使い、過去の幸せだった頃の記憶を再体験する」状況を描くのに、果たして本当に「水没都市」という大それた世界観を持ってくることが正解なのか……このことを演出や撮影の狙いを抜きにして、純粋に「物語のレベル」で合理的に説明できるひとがいるとは、私には思えません。「閉塞感」というのであれば、まさにいま、この新型コロナ蔓延によって自粛を余儀なくされている現代の状況にも当てはまる話ではありませんか。
「語るべき物語に、作劇上での説得力を持たせるに相応しい土台として、ある世界観を用意する」というのは、SFに限らず多くの映画が選択してきた「定石」です。現代劇である『ロブスター』に『メランコリア』、この映画に登場するいくつかのガジェットのモチーフになったとおぼしき『マイノリティ・リポート』に、SF映画の金字塔『ブレードランナー』、さらには『レミニセンス』と同じ「水没映画」にして大規模バジェットをかけた甲斐もなく大爆死(笑)してしまった「海洋版マッドマックス」こと『ウォーターワールド』もそうなのです。
しかしながら、この『レミニセンス』では、そのような「語るべき物語に、作劇上での説得力を持たせるに相応しい土台として、ある世界観を用意する」という手続きを踏んだ上で、この「水没都市」を持ち出してきたようには、私には思えませんでした。物語が進むにつれて、「水没都市」を舞台に「記憶潜入装置」を出すというチグハグさは拭えず、まっとうなSF映画を期待して観ると、激しい違和感を覚える方もいると思います。
「水没都市」という、客観的に見ても危機的且つ切羽詰まった状況を想起させる設定を持ってきている割には、主人公やヒロインを含めた人々の生活レベルに、現代とそこまで大きな違いがあるようには見えないのも、「正調なSF映画」という視点から見ると奇妙に映ります。地下鉄も普通に運行してるし、そもそも主人公の勤め先がある道路は「水没」ではなく、ただ「冠水」してるだけですからね、マジで。(さらに言えば、"海面"に浸されているのにビルの外壁に腐食の痕跡が一切ないので、侘しさというのも皆無なのよ)。
都市が水没し、加えて戦争まで起こったのであれば、それに伴う経済の著しい変動、治安の悪化などを考慮した社会システムが組まれ、人々の暮らしも一変してしかるべきですが、そんなものはハナから一切描かないのがこの映画。舞台はアメリカのマイアミ(ちな、撮影はニューオーリンズの廃業遊園地にマイアミそっくりのセットを組んでやったそうな)ですが、まんま現代のアメリカの景観が水浸しになっている「だけ」で、普通に金持ちもいれば、普通に貧乏人も出てくる。昼夜逆転の生活が当たり前とはいえ、住民の暮らしぶりには「水没都市ならでは」の要素が一切欠けているのです。
念のために言っておくと、水上マーケットなるものや、『ウォーターワールド』にもあった洋上家屋なんかも出てはきますが、わりかしあっさりめに流していて、監督の興味が「文化」や「様式」にないのはすぐに分かります。
作劇やアクションの面においても「水没都市ならでは」の要素は驚くほどにありません。水没都市を舞台にしたアクションだからといって、『ミニミニ大作戦』(あれは水没都市映画じゃないけど)の序盤にあった、ボートでの水上チェイスなどを期待すると肩透かしを食らうことでしょう。この映画唯一の「水没アクション」として、物語の後半で主人公が事件のカギを握る重要参考人を死なせないために、水中に飛び込むシーン(予告編でも流れていた、アレね)があるにはあるのですが、別にわざわざ水中というシチュエーションをもってくる必然性はなく、したがって物語の軸に沿って見ると、どこか浮いた演出になっています。
映画をすでにご覧になられた方のなかには、この作品中の社会情勢を「ディストピア」と評する方もいるようですが、それも正確ではありません。「水が"支配"する都市」というわけのわからん宣伝文句に踊らされ過ぎです。
たしかにこの物語には、数少ない陸地を買収する富裕層が絡んできますが、彼らが都市の「管理」や「支配」を徹底している様など少しも描かれていない。よってこの映画、ディストピアじゃありません。むしろ状況を鑑みれば「ポスト・アポカリプス」的と見るべきでしょうが、文明の著しい崩壊描写も皆無なため、ポスト・アポカリプスというのとも違う。つまり「ディストピア」や「ポスト・アポカリプス」という「SFとしてのスタイル」すら、この「水没都市」には与えられていないのです。
さて、監督の狙いが見えてきましたね。つまり、この『レミニセンス』における「水没都市」という「世界観」は、「語るべき物語に説得力を持たせるための世界観」でもなければ、『リベリオン』以降の映画にみられる「SFを成立させる"スタイル"としての世界観」でもないということです。
私はこう思いました。『レミニセンス』における「水没都市」は――コロナ以前の社会で数多くの観光客で賑わった「現実のヴェネチア」がそうであるように――フレーム内に「男女」がいて初めて絵的に成立する「観光業としての世界観」として機能しているのだと。それが何を意味するかと言えば、目玉設定に「水没都市」という大スケールを持ってきておきながら、物語は「水没都市」という世界観が無くても一切の矛盾無く成立してしまう、「世界観」と「物語」が完全に併置されているという、驚くほどに軽薄な(そして怖いもの知らずな)事実なのです。
この映画には、SF映画にはつきものと言ってもよい「風景としてのカット」よりも、その風景をバックに主人公のニックとヒロインのメイがいちゃつくシーンが印象的に挿入されています。海面からそびえ立つビルやモニュメントをバックに、ボートで肩を寄せ合うニックとメイ。屋上に設えた天蓋付きベッドの上で、水没した風景をバックに睦まじく交わるニックとメイ。二人が直接愛を確かめ合うシーンの各所において、「水没都市」は彼らのラブラブな状況を静かに盛り上げる「観光業的な風景」に徹しており、そこにしか「水没都市」の存在意義はないのです。
つまり、監督はあくまで、ニックとメイの恋愛関係を「物語的に」ではなく「映像的に補強」するために、「水没都市」という世界観を設定した。そうとしか私には思えません。
だってね、ファースト・カットからして、これまでの水没都市映画とは明らかに趣が異なるんですもの。主人公の意味ありげなモノローグをバックに、ものすごく情緒豊かな映像として海面からそびえたつビルを映しているし、しょっぱなから「ガチのSFをやるつもりはありません」と宣言しているようなもの。むしろこの映画はヒッチコックの『めまい』に代表される古典的な恋愛映画、男を虜にする運命の女、"ファムファタール"の物語を現代で語るための「道具立て」として、記憶潜入装置という設定や、水没都市という世界観を用意したと見るべきでしょう。「水没都市」という設定抜きでも成立するお話ですが、言ってしまえば「そのぐらい新鮮さを失くした話」であるから、お話の側が「水没都市」という背景を必要としているのだと言えるかもしれません。
つまり本作は、「語るべき物語に"作劇上での説得力を持たせるに相応しい土台"として、ある世界観を用意する」のではなく、「"語られ過ぎた物語"を"視覚的にリニューアルする"ためだけに、"SF的なルックの世界観"を用意する」方針を取った映画。そういう意味では、「不老不死という語られ過ぎた題材」を用いて、主人公の退屈な時間体験を視覚的に印象付けた『Arc アーク』に近しいのかもしれません。(そういえば、石川監督の好評コメントがこの映画の公式サイトに載ってたな)。
恋愛映画における「観光業的な背景」に、SFの世界で扱われてきた「水没都市」を導入してきたこと自体は、珍しいやり口であるし、なんとも勇気ある方法論だと感心します。「世界観」と「物語」を併置させつつも、しっかりと物語を印象的に彩る効果を世界観が果たしているのは、これは大したものです。
ですが、このような「軽い」SF世界観の扱い方に、困惑と怒りを覚えるSFファンもいると思います。とくに「ノーラン」という共通項を取り出して期待を高めすぎてしまった方には、御愁傷様ですとしか言えませんね。気持ちは分かりますよ。ものすごく古典的な話ですからね。ファムファタール映画を見慣れていない人でも、ある程度は真相に近づけるような話ですから。
だいたい「一目惚れ」という、恋愛映画をやるうえで説得力を持たせるのに極めて難しい設定を持ち出してきたくせに、うまく物語の中で消火されていないので「抱き心地が良かったから忘れられないだけだろ」という下衆な印象しか持てないんですが、この映画を心の底から楽しむ唯一の方法があるとするなら、カップルで観に行くという選択しかないのですよ。
だからこれ、実はデート・ムービーとして結構秀逸なんじゃないでしょうか? 女は自分をメイに重ねて、男は自分をニックに重ねれて鑑賞すれば、その日の夜はベッドシーツがびしょ濡れになること間違いなしでしょうね。
娯楽映画としては、平均点よりちょい上くらい。だからまあ、期待しすぎるとハズす映画ってわけ。




