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【第67回】竜とそばかすの姫

『エモい空気に乗れるかどうかは、あなた次第です』


というわけで、夏!といえばこの人の映画を思い浮かべる映画ファンもいるんじゃないでしょうか。ご存知、細田守の最新作『竜とそばかすの姫』をレビューしていこうと思うんですがね~……いやーちょっと困りましたね。


なんたって自分、細田作品あんまり好きじゃないというか、刺さらない経験の方が多かったですからね。特に『サマーウォーズ』はSF描写のいいかげんさと、あの大家族の醸し出す空気がまんま正月やお盆休みの時期に私が体験していた&体験している大家族親族あるあるな感じで、新鮮味をまるで感じなかった。


でも、二回、三回と繰り返し観ていくうちに、段々と印象が変わっていったというか……つまり「これはそういうもんだ」と飲み込んだ上で脚本に整合性を求めず、そこで取り上げられているテーマの描き方にあんまり固執しないで「ノリと勢い」に任せて鑑賞すると、なかなか気持ちよく観れるもんですね。なんたって音楽のパワーが凄いし。


ようは、細田作品を楽しむには、クラブで踊る若者たちみたいに「ノリノリで行こう!」な精神が大事ってことです。





【導入】

仮想世界に自分の居場所を見つけた孤独な少女と、仮想世界の秩序を乱す"竜"と呼ばれる謎の存在との心の交流を描いたSFアニメーション映画。


監督と脚本は細田守。『おおかみこどもの雨と雪』以外の作品は全部観ていますが、正直に言うと『サマーウォーズ』以降、観るのを止めていた時期がありました。好きな方には申し訳ないけど、なんかもう、肌感覚が全く合わないなと思って。でもそれじゃいかんなあと思い直して、つい最近観直しました。『おおかみこどもの雨と雪』以外(笑)


主役の声を演じるのは中村佳穂。はっきり言ってこの映画は、この中村さんの歌声で成立しているようなものです。澄んでいながらもパワフルな彼女の歌声は、劇場の大音響で聞く価値ありですぜ。


主人公がひそかに想いを寄せるイケメソ男子高校生「しのぶくん」に声を当てるのが、これまたイケメソの成田凌。暑苦しい主人公のクラスメイト男子「かみやん」の声を『実写版デビルマン』における最後の良心、染谷将太。その他有名どころだと佐藤健、役所広司、島本須美、津田健次郎、宮野守、玉城ティナが出てます。





【あらすじ】

大規模仮想世界"U"。そこは"もうひとつの現実"。現実世界で辛い挫折を経験し、居場所を失くした者たちが"人生をやり直す"ために集う再起の世界。


ユーザーは自身の精神および肉体情報をイヤホン型の端末を介して生成した"As"と呼ばれるアバターを"U"に投影することで、現実から離れた永遠の夢を貪り続けていた。匿名(アノニマス)の仮面を被り、誰も知らないもう一人の自分を演じ続けるユーザーの数はついに50億人を越え、"U"はたしかに"もうひとつの現実"という形で、辛く苦しい現実のすぐ近くに横たわり続けた。


そんな仮想世界"U"をここのところ賑わせている最新のトレンドが何かと言えば、誰もが口を揃えて彼女の名を真っ先に上げるに違いない。その名は"ベル"。ある日突然"U"の一画に現れたその少女型アバターは、まさに名前通りの凛とした"鈴の音"のような澄んだ歌唱力で仮想世界の人々を魅力しはじめた。最初のうちこそ嫉妬や嘲笑といった反発を招いたが、多くのファンを獲得し、いまやだれもが、この"そばかす顔の歌姫"に夢中になっていた。


当然のごとく始まる"ベルのユーザー"探し。その正体(オリジン)は新進気鋭のミュージシャンか、はたまたミリオンセールスを記録する某国の歌姫か……しかし、それら全てが的はずれ。まさか奇跡のような歌声を持つベルの正体が、日本の高知県の県立高校に通う17歳の女子高生だと気づける者はひとりもいない。


その女子高生……内藤鈴は、"U"での活躍とは裏腹に、心に抱えた癒えぬ傷を隠すようにしてひっそりと毎日を送っていた。子供の頃、大雨の日に中洲に取り残された他人の子供を母親が自らの命を犠牲にして救ったあの日から、鈴の時間は止まり続けていた。


なぜ母は私を置いてきぼりにして、見ず知らずの他人の子供のために命を捨てるような行動に出たのか。答えの見つからない問いを自問しているうちに、現実世界に息苦しさを覚えるようになった鈴は、かつては得意だった歌を人前で歌えなくなり、幼馴染みたちの気遣う声からも逃げるようになっていた。


そんな鬱屈した毎日を送っていた鈴にとって、数少ない女友達のヒロから招待された"U"は、まさしく"理想の現実"だった。アバターという仮面を被り続けていれば、自分の正体や秘密が知られることは決してない。自分が過去にどんなトラウマを負っているか、誰にも知られなくて済む。自分の弱みや悩みが決して露見することのない"U"の世界でのみ、鈴は現実の世界を忘れて、目一杯に歌を披露することができるのだ。


そうして、ベルの人気がうなぎ登りを続けていたある日、ヒロの考案した大規模コンサートの場に、鈴は"ベル"として立つことを決める。何億人というAsたちが、今か今かとコンサートの開幕を待ち望んでいたその時、轟音と共にドーム会場へと乱入する獣顔人身のアバターの姿がベルの目に飛び込んできた。


"竜"だーー誰かがそう口にした通り、それはたしかに竜を擬人化させたような風体をしていた。鋭い爪牙に、大きな口、背中を覆う無数の傷。現実はおろか仮想の世界に対してまで並々ならぬ憎悪を抱いた瞳をしたそのアバターは、数ヵ月前に"U"の武道場に現れ、ラフなファイトスタイルで多くのAsを機能停止になるまで叩きのめしていたことから「迷惑ユーザー」扱いされていた。今この時も、"U"の治安維持活動を務める自警団"ジャスティス"の追撃から逃れようとして、コンサート会場に乱入してきたのだ。


ベルのコンサートが台無しになったことで、怒りの声を上げる何億ものAsたち。だが"竜"は全く意に介さない様子で、襲いかかる"ジャスティス"のメンバーたちに反撃を叩き込んで行動不能に追い込むと、ベルに意味深な視線を投げ掛けて、その場を去っていった。


この一件がきっかけで、"竜"を"U"の世界から排除すべきだとの声が、世界中で高まっていった。匿名であるのを良いことに、竜への誹謗中傷は一向に止むことを知らず、そんな世論の声に迂闊にも応える形で、"ジャスティス"は竜の捜索に躍起になっていた。


だが、コンサートを台無しにされた当人、ベル=鈴の心境は、また違ったものだった。みんな、現実に対して何かしら思うところがあるから、"U"にやってくる。現実の辛さを忘れさせてくれるはずの仮想世界で、なぜ"竜"は、仮想世界を激しく憎むような行動を取るのだろうか。


なにか自分に近しい、だが決定的に異なる何かを"竜"に感じた鈴は、親友のヒロと共に、"竜"の正体(オリジン)に接触して話を聞こうと試みるのだった……





【レビュー】

もしもアニメ映画監督の枠に「なんかよくわかんねぇ枠」なるものが存在するとしたら、俺の中ではまず間違いなく細田守がその枠に入る。つまり村上春樹風に言うなら"ぼくは細田守映画の良い観客ではない"ってことになるんだろうし、それは自覚してるんですよ。


なんで俺がこんなに細田守を苦手にしているかと言うと、脚本がどうとかそういうんじゃなくて、いやそれもあるにはあるんだが実はそんなのは俺にとっては些細な話で、まずこの人、イデオロギーを映像から感じられないんですよ。イデオロギーで映画を作ってないんじゃないかと疑いたくなる。(それが良い悪いの話ではなくて)


宮崎駿や高畑勲、それに押井守あたりの作品に関しては、ガチガチのイデオロギーが、つまり"映画を成立させるための核"となる、何かしら個人のなかで体系化された思想や欲望を、映像を通じて感じる人が多いと思うんですよ。庵野秀明にも富野ガンダムにも、それは感じるじゃないですか。そういう意見が一般的だと思うんですよ。今敏や湯浅正明、原恵一だってそうですわな。


でも、なんでだか細田守の作品にはイデオロギーを感じない。だから俺が思うにこの人は、実はそんなにSFやファンタジーには向かない監督だと思ってる。なぜなら、架空とはいえ異世界を構築しようとするとき、そこに必ず存在すると言って良い"異世界ゆえの異質な文化"¨を画面のなかで成熟させるのには、作り手側のイデオロギーが少なからず必要になるはずだからだ。


原作付きでない細田オリジナル作品における"インターネット文化"に横たわるルールや空気感というのは、我々の現実にあるインターネット文化をそのまま引いてきているだけで、そこには、インターネットが人間活動の場として利用された結果として独自進化を遂げて"局所的な新文化"が生み出されていくような描写は存在しない。細田作品の描くインターネットは、しょせんは映画の中で描かれる現代日本のシュミラークルでしかない。なので個人的に『サマーウォーズ』は「サイバースペース」というSFの王道を扱いながらも、SFという地図のはしっこに位置していると俺は考える。


イデオロギーを感じない。それと同じような傾向を持つ作家として新海誠が上げられると思うけど、細田守は新海誠とも妙に違うと俺は感じる。どちらも作家自身の身近な場所や生活からアイデアを取ってくる、近視眼的な作家だと思うんだけど、新海誠の方が映像に宿る同時代性ってのは高いと思うんですよ。


対してネット空間という現代ツールの代表格をこれまで扱ってきた割には、なんか細田守の映画って時代的な空気感をあんまり感じない。悪く言えば古くさいというか、奇妙というのかなあ。


別に「家族」という普遍的なテーマを取り上げてきたから古くさいって訳じゃないですよ。「家族」というコミュニティの形態を新しく描いてきた映画なんて山ほどありますからね。


しかしそれを差し引いても、俺にとっての細田映画には、とかく"なんか奇妙"というイメージがついて回った。なんでだろうなと考えながら『サマーウォーズ』を観て以来止まっていた俺の中の細田作品遍歴をアップデートするために二ヶ月ほどかけて『おおかみこども』以外の全作品を観てみたんですけど、それで強烈に分からせられたのは、細田映画(特にオリジナル作品)には、イデオロギーはおろか「ロジック」すら存在しないということですね。


ロジックが存在しない……一般的には"脚本に粗がある"ということになるんでしょうけど、粗があるというより筋書きが妙にぎこちないし、キャラクターの動きもすごく単純で、よく言えば分かりやすく、悪く言えば厚みがないって感じがします。この傾向、個人的には奥寺脚本を使っていた時から感じていたので、よく言われる「脚本を他の人に任せれば細田作品は面白くなる」という提案に関しては、俺は疑問に思っているんです。


もっと言ってしまえば、作劇がスムーズでないということ。作品のほとんどにおいて作劇上のはっきりとした混乱を起こしているのは間違いない。そこに、細田監督最大の武器とも言われている凝った演出が合わさることで、鑑賞中に妙な居心地の悪さに襲われた回数は数えきれないほどあると言っても良い。しかもその居心地の悪さというのは映画的な引っ掛かりじゃない、単純な「この演出が映画をどう豊かにしようとしているか全くわからんぞ、困ったな(汗)」という焦りと疑念がない交ぜになったような居心地の悪さだった。


と、ここまで散々細田作品が俺に合わない理由を書いてきてしまったわけなんですが、ただひとつ好きな作品があって、それがなにかと言うと『時をかける少女』なんですわ。


まあ、あの映画も相当にロジックが破綻してますよね。絵を見にきたはずなのになんで高校生活送ってんだよ。BSアニメ夜話で筒井康隆も言ってたけど、タイムリープが出来ることに気づいたら、まず自転車を修理するだろと。そんなふうにツッコミだらけなんですけど、それでも俺がこの映画が好きなのは、そんなロジックの破綻がなんだとばかりに「エモい演出」が詰め込まれているから(あのアニメーション躍動感を生み出す急勾配の坂がね、そして坂から見下ろした時の街並みがね、最高ですわ)。それだけなんですけど、でもそれのおかげで好きな作品になってるんです。


脚本の整合性や題材の選び方は細田作品においてはそれほど重要視されていない。そこで優先的に描かれるのは、状況に立たされたキャラクターのエモーショナルな爆発であり、演出はそのためだけに存在する。作劇の流れをドラマチックに、あるいはスマートに表現するのではなく、キャラクターの内的アクションを高めるためだけに、細田作品の演出は存在を許されている。


この『竜とそばかすの姫』には、そういったキャラクターの「エモい演出」が『時かけ』以来久々に爆発しているなという感じを受けたし、そういうエモい演出にお客さんに乗ってもらうための導線というか、水先案内人的な要素が随所に見られるつくりになっています。仮想世界とか歌とかミュージカルとか青春映画っぽい男女の恋愛模様だとか、トラウマを抱えた者同士が互いのペルソナを剥いで真心を通わせる展開がそれなわけです。


特に導線として良く機能しているのは、やっぱり"歌"と、そして仮想世界"U"の映画的な世界観ですね。正直言って『サマーウォーズ』の"オズ"がショボくみえてしまうくらいの情報量の過密さよ。平面的で幾何学的なオブジェクトを連ねて生み出される規則性のある世界観が、ある一定の規則を持つコードで成立しているインターネットの世界にピッタリとマッチしてますし、奥行きもあって気持ち良い。これは細田監督のアイデアというより、エリック・ウォンの仮想都市デザイン力があってこそでしょう。


そんな"U"の治安を維持するのが"ジャスティス"という、いかにもな臭い名前の組織なんですが、こいつらは簡単に言うと自警団のような存在で、"U"という共同体の権利を守るための民兵組織なんです。興味深いのは、このジャスティスなる自警団の活動を金銭的に援助しているのが作中における名だたる大企業。ジャスティスが初登場した時に、彼らの背後におびただしい数の企業ロゴがずらーっと並ぶんですが、ようは『タイガー&バニー』よろしく、スポンサー支援を受けて治安維持活動するヒーロー組織なんです。


だからまあ、一種の公的に保証された権力機構ですよね言ってしまえば。しかも"U"には立法機関が存在しないのか、"権力"を制限する法律が制定されていないみたいで、わりかしやりたい放題だし、ジャスティスの連中も自分たちが企業権力に飼われている存在なんだという意識が希薄で、権力機構として正常に機能しているとは言いがたい。


加えて、現実の世界にも少しだけ権力機構というか行政機関が出てきて、主人公グループがやり取りする場面が出てくるんですけども、そちらでもやっぱり行政が正常に機能しているとは思えない描写をしてきています。


だから、画面における情報量の密度で仮想と現実の差を出していようとも、"U"の世界に蔓延っている社会的力学は、現実のそれと極めて似かよっていて、ここでも仮想世界は、まさしく劇中で語られている「Uは、もうひとつの現実」という台詞に代表されるように、現実世界のシュミラークルとして存在しているんです。


こういう並列関係が社会という器だけでなく、その器を満たす道徳的な中身にまで言及されているのが、本作と『サマーウォーズ』との一番の違いかなと感じます。


匿名(アノニマス)を隠れ蓑にして、心ない誹謗中傷による暴力が仮想世界に蔓延しているのと同じレベルで、現実世界における「言葉の暴力」や「肉体的な暴力」も描いているのがこの作品(細田作品にしては珍しいほどの暴力の描きっぷり)なんですが、しかし一方では仮想世界の良い面も、現実世界の良い面も同じレベルで描いているので「世界の存在価値」という点で見ると、どちらも等価に並列化されているのです。


「日本の映画監督の中で唯一、最初からネットを肯定的に描いているのは私だけ」とは監督の言葉です。「嘘つけ! だってこの映画には至るところでネットの暗黒面が描かれているじゃないかよ!」と鑑賞済みの方の中にはご立腹している人もいるかと思いますが、おそらくそれはちょっと違うと思うんです。


たしかにこの作品では『ぼくらのウォーゲーム』や『サマーウォーズ』の頃には感じられなかった"ネットの負の側面"が描かれてますけど、でも"ネットの存在そのものを否定してはいない"んです。この"否定しない"という"消極的な肯定の姿勢"で以て描かれているのが『竜とそばかすの姫』の特徴であるのかなと思うんですわ。


この"消極的な肯定"って「まあとりあえず何をするのか見守ろうか」という俯瞰の姿勢を映画の中にもたらすから、その結果としてキャラクターの動きに煩雑さが増していく。


すなわち簡単に言うとですね、みんな自分勝手なんですよ(笑)。ベルの正体はどこそこの誰だーとか、竜の正体は実はどこそこのアーティストだとか、大リーグの選手だとか、プロゲーマーだとか、根も葉もない噂を勝手にばらまいて勝手に盛り上がるモブキャラの描写がしつこいくらい盛り込まれてるし、なんなら主人公たちが終盤にとる行動も利他的に見えて、その本質的な部分に目を向けると結構勝手なものに映ったりするんですね。


まあ、一番「勝手だなー」と感じたのは主人公の母親ですよねやっぱり。自分の娘じゃなくて、赤の他人の子供を誰に頼まれたわけでもなく自主的に助けにいって溺死(利他的な(タナトス)は究極のナルシズムです)してるんですから、勝手の極致ですよね。


しかしこれなんかは、細田監督が元からそういう部分を意識的に描いてきた歴史がありますよね。『ぼくらのウォーゲーム』ではネット住民たちの勝手なお節介に苛立つ描写があったし、『サマーウォーズ』はヒロインの勝手な振る舞いからお話がスタートしているし、『時かけ』だって主人公が自分勝手に気持ちよい体験をしたくてタイムリープを使いまくる。『バケモノの子』や『未来のミライ』もそうですよ。そんなキャラばっかり出てくるじゃないですか。


たぶん細田監督って、人間を最初からかなりシニカルな目線で描いてる。だから案外、キャラに対する思い入れとかないんじゃないかな。常に一歩も二歩も引いた目線で、人間なんて勝手な生き物だと突き放してるんじゃないかと思う。


シニカルな目線を持ちつつも、勝手に期待して、勝手に心配して、勝手に絶望して、それでも勝手に希望を持つから人間なんだというオプティミズムな着地をする。そのウルトラCな着地には「勝手」という言葉が意味するようにロジックが介入する余地なんてないから、だから人によっては、細田作品の展開を唐突なものとして感じてしまう。


しかし最初にも話したように、これはロジカルな映画ではなくエモさを優先した映画だから、それでいいんですよそれで! てか細田作品に理屈を求めるのが間違ってんですよ! 人間は自分勝手な生き物だけど、しかしその自分勝手な行動が、時に誰かを勇気づけるし、時に誰かを救う手段になりえるんだ……!というエモさにどっぷり漬かった者勝ちなんですよ。


だから、50億人のユーザー数を誇るのに竜の正体が○○○人ってマジで言ってんの? って感じだし、とにかく最後の展開が雑すぎるし、思い返すと何の根本的解決にもなってないし、主人公の周りの大人たちがほんとろくでもないし、なんだよ結局自己満足じゃん! って意見はもちろん理解できるけど、細田作品って毎回そうじゃんと。なにをムキになる必要があるのかなって思っちゃうんです。


たしか『ねとらぼ』だったかな。作品の倫理的な部分だけに言及して「この作品は間違っている」って評している記事があって、こんなバカな記事を書くプロのライターがこの世にいるんだって、爆笑しちゃったんですよね(笑) 映画に何を求めてるんですかね? 道徳的な正しさを欲しているんなら、文字通り道徳の教科書でも読んでりゃいいんじゃないすか? 映画って"社会的な正義とされる要素"の受け皿として機能することもあるけど、それが全てじゃないんですよね。なにせ映画は"映画という虚構の状況"に過ぎないんだから。


とにかくこの映画に限って言えば、演出におけるエモが(作品内)のリアルを越えればオッケーなんですよ。だからこの映画を楽しめるかどうかは、鑑賞している側が映画の「エモさ」にどれだけ乗れるかがカギになるんじゃないかなあ。俺は単純な性格のおかげか結構乗れたから、『時かけ』以来まともに楽しめたっていうわけよ。


まあ、小難しいことは考えずに「エモさ」に乗ろうや、という映画なのですよこれは。

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― 新着の感想 ―
[一言] 本文拝見しました。 まあ、結局「頭空っぽにして観れば楽しめる」作品なんでしょうね。 ねとらぼさんの言いたい事は、認知度が上がり人気作ともなれば、その影響力も計り知れない。誤ったメッセージを送…
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