【第66回】★100日間生きたワニ
どうも。
えっと、今回はちょっとスタイルを変えてレビューしていきたいと思います。
いつもなら、まず【導入】で監督を初めとするスタッフたちを紹介し、【あらすじ】で自分なりのストーリープロットを書いてから【レビュー】を書いてるんですが、ちょっとこの作品は私の個人的な気分としていきなり【レビュー】から始めていきたいと思います。
あぁ、ちなみにガンガンネタバレしていくので、そこのところを先に伝えておきますね。なぁに、ご安心ください。ネタバレしたところで、初鑑賞時の魅力が損なわれるような作品ではありませんから。
まず結論から言いますと、私は今回ご紹介する『100日間生きたワニ(以下、100ワニ)』という映画作品を支持する立場にいます。
映画としてまともですよこれ。手抜きアニメだなんてとんでもない。傑作だとはさすがに言いませんが、個人的には普通に鑑賞に耐えられるだけの佳作・良作映画だと思います。
はい、もうね、いいです。なんとでも言ってください。どんな目で見られようが構いません。
Twitterで「100ワニ映画、内容良かったよ」的なツイートを流したらプチバズり、まあ叩かれて叩かれて……否定的なリプライに対してこの映画の良さを伝えようとしても全然伝わらないし、もう私は疲れました。
……疲れましたが、しかし曲がりなりにもアマチュアとはいえ小説を書いている人間として「伝える」という行為を諦めちゃならん。そう思ったので、私にとっての主戦場たるこの「小説家になろう」で、100ワニのどこが良いかを語っていきたいと思った次第なのであります。
知らない人のために簡単に説明しますと、この100ワニなるアニメ映画は、漫画家のきくちゆうきさんがTwitterで連載していた動物擬人化キャラの日常系四コマ漫画『100日後に死ぬワニ』を原作としています。テレビでも大々的に取り上げられたりしていたので、ご存知の方もいるかもしれません。
映画では『100日間生きたワニ』とタイトルを変えて「上映時間63分」という短尺のつくりで現在公開されているのですが、原作が最終回を迎えてタイトル通りにワニを死なせた直後に、大手広告代理店の電通が様々なメディアミックス商法を展開したのがケチのつけ初めでした。
フィクションとはいえ、キャラクターの「死」を「儲け話」の一環であるかのように回収する電通のポンコツ&無機質なやり口に多くのファンが反発を覚え、あっという間にネットのおもちゃとしてサンドバッグ扱いされたという経緯があるため、この映画に関しても「鑑賞せずに作品の出来映えを馬鹿にする風潮」が一般的なものになりつつあります。
また実際に鑑賞された方からも「虚無しかない」「紙芝居映画」「令和のチャー研」「令和の実写版デビルマン」などなど、各種SNSでも散々な言われようです。
しかしながら、私は実際に原作のラストシーン以外なにも知らない状態で鑑賞してきた身ですが、素直に感動した側の人間です。たしかに低予算アニメではありますが、むしろ低予算だからこその工夫が見える映画であり、決して手抜きであったり中身が何もない虚無映画ではありません。
さて、この映画が「作品として」批判される要因のひとつに「動きが全くない紙芝居映画だ。こんなものに金を払えるか!」という意見をよく見かけますが、「紙芝居」というのはかなり誇張された悪意ある表現じゃないでしょうか。
間違っても「紙芝居」というプリミティブな形式そのままの、つまり、あるカットの頭とお尻の原画、合わせて二枚の原画をただ繋げてスライドさせているアニメじゃありません。しっかり動画撮影の工程を踏んで中割を生成しているので、ちゃんと動いています。これは事実です。
そして、一見動かないように見える場面(特にネズミくんとワニくんがタンデムして坂道を下っていくシーン)でも、実は背景を動かす「背景動画」と呼ばれる基本的な技法を使っていたりと、ちゃんとアニメーションしてるんです。
では、ちゃんと動くのに、なぜ実際に鑑賞された方の多くが口をそろえて「紙芝居映画」と揶揄するのかと言えば、それはこのアニメのアクション(動的な仕草)が、昨今のリッチなアニメ映画と比較しても、ミジンコレベルでほんのわずかなものだからです。
ここには、歩いたり座ったりといった日常的な動作ばかり(追記:その一方で、少ない線と単調なデザインで馬の全身作画を普通にやるという、地味ながら凄いアニメーションもしている)であるのに加えて、原作のタッチを再現した「線の数がとても少ない作画」しかありません。さらにはキャラの塗りも、単色の絵の具でただ塗りつぶしたようなシンプルな色味で、映画の画面は統一されています。
それだけシンプルな作画、シンプルなカラーで、動作の大半が地味な(それでいてアニメ的に省略された)日常的仕草に終始していている。ストーリー漫画と比較して簡易的なコマ割を持つ四コマ漫画の空気感を、そのまま画面に落とし込んだようなシンプルな演出の映画。だからこそ、昨今人気を博している派手な動きのアニメに「慣れ過ぎた」お客さんたちほど、100ワニに対して「動かないアニメーション」という誤解の印象を抱いてしまいがちなんだと思います。
シンプルな作画、シンプルな色使い。デジタルの硬質さを捨てたアナログ感のありすぎる風景。あまりにもカリカチュアされ過ぎたワニくんやネズミくんの顔のパーツ。そこから導き出せるのは、この映画が「画面に写し出される情報量の圧倒的に低い映画」だってことです。
画面情報量の少ないアニメーション映画。それが、昨今のテレビアニメやアニメ映画の主流……すなわち「画面を行き渡る情報量を爆上げしたアニメーション」の対岸に位置しているのはあきらかです。『Fate』や『鬼滅の刃 無限列車編』や『シンエヴァ』や『劇場版レヴュースタァライト』や『閃光のハサウェイ』などの、去年から今年にかけて公開された作品を今さら挙げるまでもなく、デジタルを駆使したたくさんの線やたくさんの色、たくさんの特殊効果で画面をリッチに仕上げ、それにより、キャラクターの立体感や奥行きを獲得する流れは、現代アニメーション世界の不文律としてあります。
そして、そんな豪華な見映えの良いアニメたちの存在が「当たり前に」我々の日常にあるからこそ、100ワニのシンプル過ぎるルックは観客の目に「異物な映画」として映る。
予告編を見たとき、私も結構困惑しました。こんなにシンプルなアニメが、この2021年に存在していいのだろうかと。『すみっコぐらし』よりシンプル過ぎるじゃねーかと。だがしかし、いやだからこそ、この「当たり前でないルックの映画」は「映画館」でかかる意義を力強く獲得しているのは間違いないのだ。
このレビュー集のどこかの回でちょろっと話しましたが、映画館という空間はこの現代にあって、貴重な「異世界」としての面を獲得していると私は考えています。意識的または無意識的に常時インターネットやSNSと繋がっている我々の状態は、しかし一度映画館に足を踏み入れた途端に、鑑賞マナーという名の見えざる力で切断されます。友人や家族と観に行っても鑑賞中のお喋りは禁じられた状態で、真っ暗闇のなか、正面に位置する馬鹿でかいスクリーンに向かい合って画面に集中するその「行為」は、まずもって日常生活では……学校や会社や自宅ではなかなか実践することの難しい、そして味わいのある行為です。
日常から切り離され、日常的な行為ではない行為を半ば強制される。そんな場所を「異界」と呼ばずしてなんと言うのでしょうか。そして、そんな「日常から切り離された異界」で、「当たり前に我々の日常にある豪華な見映えの映画」から遠く離れた「異物なルックの映画」を鑑賞するという行為には、まず間違いなく価値があるのです。だからこそ、この映画は映画館で見るべきなんです。少なくとも私はそう確信しています。映画館ってのはね、アトラクションじゃないんですよ本質的に。
しかして、そんな「異界」で目撃する「異物なルックの映画」の内容が、異物からはかけ離れた、日常的な生活の一コマを切り取ったような内容ばかりというのも、私は妙に気に入りました。そうした日常の描写と共に描かれているのが「喪失と再生」であるというのも、まあオーソドックスではありますが、それがなんだって言うんでしょう。
100ワニに限らない話ですが、いるんですよねーこの世には。映画の「テーマ」や「メッセージ」だけを抽出して、「この映画は高尚なテーマを描いているから素晴らしい」とか「この映画はメッセージが陳腐だから駄作だ」とか、ふざけんじゃねぇぞって話なんですわ。お前が映画から拾ってきているのは、んなことだけなのかよって。ロバート・ロドリゲスに謝れってんだ。
オーソドックスなメッセージの何が問題なんでしょうか。「死と再生」というテーマを打ち出すことの、なにが悪いというんでしょうか。我々が普段過ごしている緩慢とした日常にあって、しかし「死」というものは着実に我々の足元で大口開いて待っている。それは人間が血肉の通う生物である以上、決して目を背けることのできない「事実」であり、普遍的な現象です。はからずともコロナ過という状況に囚われた今なら、そのことを実感できるはずです。そしてこの映画では、そんなオーソドックスなテーマを、低予算映画だからこその「工夫」でもって、堅実な作劇の流れに沿って伝えているのです。
その工夫がなにかというと「余白」の存在です。先ほども申し上げた通り、100ワニはとにかく画面の情報量が低すぎる。正確には予算の関係や原作のテイストから「低くせざるを得なかった」んだろうとは思うんですが、それが決して映画的にマイナスにはならず、むしろ情報量が少ないからこそ半自動的に画面に「余白」が生まれ、その余白を「間の演出」によって「意味のある余白」として成立させているので、たしかにこれは「映画」なんですよ。
だから私は、この映画に用いられている「間」を、決して尺稼ぎだとは思わない。「尺稼ぎの間」っていうのは、それこそ『チャー研』や、夜の七時に放送されていた時代の『ドラゴンボールZ』で使われていた間のことを言うんですよ。
「間」(あるいは『ダレ場』)を使った演出というのはアニメや実写でもよくあるものですが、うーん、そうですね。私の好みとするところでは押井守やアンドレイ・タルコフスキー、タル・ベーラあたりでしょうか。最近観たやつだと篠崎誠の『共想』か。
けれども(篠崎監督は別だと思うが)これらの監督たちと100ワニの「間」が持つ意味合いは、微妙に似ていて微妙に異なると個人的に感じています。
似ているというのは、どちらも快楽原則に則った「動画の時間」を止めて、映画という枠、映画という媒体だからこその「映画の時間」を演出するための間……定点観測的な余白または空間の演出をしている「間」という点。
ちょっと違うなと感じるのは、押井守やタルコフスキーには「間」によって強調された画面を印象付けて、観客に持ち帰ってもらおうという意識をどことなく感じるんですが、100ワニにそれはない。むしろ100ワニにおける「間」は、低情報量の画面に生じた空白を"キャラクターの感情の受け皿"として機能させるという側面があり、これはヨーロッパ映画を元風景に持つ押井映画がまずやらない、なんか邦画的な(それこそ最近観た篠崎監督作品みたいな)意味合いを感じるのです。もともとこの映画、最初は実写を想定していたらしいので(声優が日常を意識した生臭い演技をしているのはその名残り)、そういうことを頭に入れて整理すると、やはり邦画実写的な意味合いを持つ「間」であり、"キャラクターの感情の受け皿"としての余白なんですよ。
ここでちょっと「感情心理」と「映画」の話をしましょうか。
『燃ゆる女の肖像』のレビュー回でも話しましたが、基本的に私は映画を「総合芸術」であると考えていますが、キャラクターの「心理」を直接的に描くのに、映画は最も不利な媒体だという捉え方をしています。
なぜなら、当たり前の話ですが「人やキャラクターの心は目で捉えられない」という絶対の原則があるから。映画は「映画」であるから、つまり「画を映す」からこその映画なのです。そしてキャラクターを捉えるカメラは、これまた当たり前ですけど、目に見えないものを映し出せたりなんてしないのです。
映像は心理を説明しない。むしろ心理を……感情の揺れ動きや複雑な心理の有様を語るのに一番適しているのは「小説」であり、つまりは「言葉」である。
だから実写だろうとアニメだろうと、まずほとんどの脚本家や監督は「台詞」でキャラクターの「感情」を語らせることで「映像を説明する」。実は「お客さんにわかってもらえないから」というのは無自覚の建前であり、人間が潜在意識の奥で「映像が人の心理を説明できるわけがない」と無意識のうちに信じ込んでしまっているから、言葉は映像の心理の代弁者として束縛されているんじゃないかと私は思うのです。
けど、果たしてそれは映画なんでしょうか。言葉で説明しつくされた映像を並べて映画と呼ぶなら、映像は(たとえそれ単体がキャラクターの心理を表現するのを不得手としていようが)「映像としての言葉」を持ってはいけないのでしょうか。
いや、そんなことはないはずだ。映像の心理を、キャラクターの心理を、言葉の力を借りずに表現した映画はたくさんある。曲がりなりにも「映画人」を自称するのなら、それに習わずしてなんだというのか。
……と、上田監督とふくだ監督が考えていたかどうかは知りませんが(笑)、少なくとも「台詞で映像を説明する」「台詞で心理を説明する」という、映画的な作りの中でも一番簡単でありきたりな道を選択せず、効果的な「間」で画面の「余白」を"キャラクターの感情の受け皿"として映し出した……つまり「無言の間でキャラの心理を説明する」という選択をし、それがちゃんと感動に繋がっているんですから、やっぱりバカにしちゃいけない映画だし、ちゃんと褒めるべき映画なんですよ。
その「無言の間でキャラ心理を説明する」演出を効かせるうえで、60分という短い枠を選択したのは上手いなと思う。なによりも映画の後半30分(原作にはないオリジナル展開)には、不覚にも涙腺がやられました。鑑賞前にタカを括っていた自分が恥ずかしくなるくらい「あれ、俺の涙腺の堤防ってこんなに低かったっけ……?」と戸惑うくらいの大号泣ですよ。
あのね、隣に誰か座ってたらドン引きするんじゃないかってくらい泣きましたよ。ハンカチもってくりゃよかったってなくらいの大泣きでした。マジで。
まあ私もそれなりに映画見てきましたから、感動の押し売り映画だったら泣くわけないんですよ。むしろ不機嫌になります。
ところがこの100ワニ、そういうのが一切ないんですな。前半の30分で原作通りにワニ君とその仲間たちの暮らしを描き、後半の30分ではワニ君亡き後の仲間たちの心が抱える「喪失」と、そこからの「再生」をオリジナル展開で描いているんですが、作劇が無理やりじゃないんで凄くドラマが丁寧なんです。
この後半30分のオリジナル展開で最も重要なキャラというのが、これまたオリジナルキャラの「カエルくん」なんですが、まあこいつがウザいウザい(笑)。たぶんこの映画の評価が低いのはこいつのせいなんじゃないかってくらいのウザさです(笑)。
ワニの友人だったネズミくんやモグラくんの住んでいる街に最近引っ越してきた、このイキった大学生みたいな言動を繰り返すカエルくんは「どうも~どもどもどうも~」という特徴的なムカつく挨拶を皮切りに、馴れ馴れしくネズミくんやモグラくんのパーソナルスペースを潰してくる。
「俺らタメなんだから敬語なんてやめてさぁ、あ! そうだ今度一緒にツーリング行こうぜー! 俺もバイクあるからさ!」とハイテンションでネズミ君に近づき「なんだアイツ……」と煙たがれる始末。モグラくんの店に乗り込み「今度一緒にあそびません!? ゲームやろうぜゲーム!」とずいずい迫って売場を困惑させ、挙げ句の果てにはバイト先のバイトちゃんをしつこくデートに誘って口説き落とそうとする(そして呆気なく撃沈する)。
その無節操で自己本意の過ぎる振る舞いを苦笑いしつつ見届けながら「いつかそのうちネズミくんかモグラくんがぶち切れるんじゃないか」と、変にハラハラしっぱなしです。
しかし、しかしです。ここで考えるべきは「ウザいなコイツ」で終わらせるんじゃなく、なぜそんなウザい振る舞いをカエルくんはしているんだろうと。もしかして「無理をしている」だけなんじゃないかと。じゃあなぜ「無理をして」までイキっているんだろうと、映像では語られないキャラの「余白」へ視点を移すことであり、そうすることで"キャラクターの感情の受け皿"を強烈に意識させる、あのネズミくんが務めているバイク修理店での「間」に繋がるのです。
なにか特別に思い入れがあるのか、"大切な誰か"から譲り受けたのか……カエルくんは、ネズミくんに預けていたバイクの前にしゃがみこみ「こんなに綺麗にしてくれてありがとう、ありがとう、ありがとう……」と、何度も何度も感謝の言葉を口にする。なぜそんなに感謝するのか。そのうちにどうしたことか涙をこぼし、嗚咽を漏らすカエルくん。そんな彼に若干戸惑いつつも、ネズミくんは告げる。
「そのバイク、点検したけど、どこもおかしくなかったですよ。まだそのバイク、走れますよ」
号泣。こんなん号泣ですわ。こんなん泣くやろ! なんだよちくしょう! 思い出すだけで泣けてきたぞ!
あのー、もうこれ以上言葉にするのが野暮に感じてしまうくらいなんで、とりあえずもし興味があったら、劇場で見てねとしか言えないのよ。すまんな。映画の感動は、やはり実際に映画を真剣に、真面目に見なけりゃ得られない。すくなくとも作り手が真剣に作品を届けているなら、我々観客だって、その意気に答えてやらなくちゃいけないんじゃないでしょうか。
『カメラを止めるな!』以降、なんかあんまりパッとしない映画を撮り続けてきた上田監督ですが、ここに来て奥様のふくだみゆきさんの力を借りて、久々に映画館で見る意義のある作品が出来上がったことを、嬉しく想いますですよ。
ただ、ここまで書いていてこんなこと言うのも変な話ですが……言っときますが個人的に「すっげー面白い!」と感じた映画じゃありません。どちらかというと「面白い」というより「静かに感動する」タイプの映画であることを明記しておきます。
P.S
私の言葉の全てを理解してほしいとは言いません。異なる論理的意見があっても全然構いません。理性的な言論の場は広く開かれるべきだし、そういう意見がくるかもしれないと信じて、だからここの感想欄もオープンにしてるんです。
しかしながら、私がこれだけの言葉を尽くしたにも関わらず、ワニと比較されるのがそんなに嫌なのか「映画館でかかる意義」の差異を口にしただけなのに「鬼滅批判だ!」「鬼滅バカにすんな!」と喧嘩売ってくる人にはね、なんかもう呆れ返るしかないですね。「もっとたくさんアニメを観た方がいいですよ」と煽る方に対しては「あなたこそ、もっとたくさん映画を観たほうが良いですよ」とこの場で言わせていただきますわ。
ジャンルも制作会社も予算も違うのに、鬼滅と比較して語ること自体が間違ってる! と仰る方もいるようですが、そういう方はきっと「映画館で公開された以上、ジャンルがどーだとか、規模がどーだとか関係なく、映画は映画として語られるしかない」という当たり前の原則が頭から抜けているんですよね。同じ土俵に上がった以上は「映画」として比較されて当然なのに。
こういう考え方が理解できない人って、私の個人的な体験上「映画」を「舞台装置」として、「アニメ」を「役者」として見てる人が多い印象がある。つまり「映画」を「アニメを製作するためのテーブル」ではなくて「アニメを発表するための、ただの場所」「テレビの延長」って認識に囚われすぎてんでしょーな。アニメばっかり観るのはまあ個人の自由だから良いとしても、アニメしか見ない人が映画を語るその内容を耳にするのも、なかなかキツい。
でもね、そういう人たちはまだ全然いいんです。なんやかんやで、観て文句言ってるだけ良心的なんですよ。いや良心的というのも変だけど、金を払って語る権利を得ている分だけマシなんですよ。一番厄介なのはこの映画を鑑賞していないくせに「63分とか短すぎwwそれを通常料金で上映するとか詐欺じゃねww」とバカにする人ですね。
そういう人に言いたいのは、まずレンタルビデオ屋に行って上映時間70分程度の映画作品がいくつあるかカウントして、まずはそれらを借りて観ることからはじめよう。「は?暇じゃねぇんだわwそんな面倒くさいことしたくねーよバーカw」と抜かすなら分かった。その黄ばんだ歯クソまみれの臭い口を今すぐに閉じて今後二度と映画について語らないことだ。いいね?




