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【第64回】Arc アーク

『それは、あなたの感じた"つまらなさ"ではない』


どうもお久しぶりです。およそ四ヶ月ぶりの投稿になりますね。皆さん、お元気にしてましたでしょうか。


まあこれだけ前回のレビューから間が空いたのには理由があるんすよ。主には小説の執筆に集中……ってのがメインだったんですが、途中でウマ娘にハマったり、ウマ娘にハマったり、ウマ娘にハマったり……うん、そんな感じです。あとはね、映画は観るには観てましたが、単純に紹介したいなと思える作品があんまりなかったってのもデカいかも。こういう状況だから、しゃーなしっちゃしゃーなしですが、延期に次ぐ延期に、緊急事態宣言でシネコンが閉まっちゃったらどうしようもねーです。


とはいえ、小説『プロメテウスに炎を捧げよ』は区切りの良いところまで書き終わり、緊急事態宣言も取り敢えずは明けましたので、また新たな気持ちで再開していこうと思います。よろしーく。


んで、再開一発目に選んだのが邦画SF。タイトルは『Arc アーク』ときた。そんで言ってしまうとこの映画、はじまって最初の一時間はまあまあ面白く、後半は退屈な映画です。しかしながらその「退屈」にはちゃんと作劇上の理由があるので、そういう意味では貴重な作品なのかもしれません。




【導入】

人に言えない秘密を抱えて放浪生活を送っていた女性が、死後の肉体を保存する「ボディ=ワークス」という職業に就き、ある運命的な出会いがきっかけで世界初の「不老不死人間」になる、というお話。


原作は二十一世紀を代表する叙情のSF作家、ケン・リュウの短編集『もののあわれ』に収録されている『円弧』。このケン・リュウというストⅡ好きが食いつきそうな名前の作家は、ハーラン・エリスンよりはずっと穏やかで、グレッグ・イーガンよりも難しくなく、またバリントン・J・ベイリーほどぶっ飛んではいない、比較的とっつきやすいSFネタを使う人なので「どーせ小難しいことをさも壮大なアイデアのように語ってるだけの詐欺小説だろ?」とSFに苦手意識を感じている方におすすめの作家です。また、作家以外にも翻訳者や編者としても活躍していて、異星コンタクトもの小説の新たな基軸となる『三体』の第一部と第三部の英訳を担当したり、個人的におすすめな中国SFアンソロジー『折りたたみ北京』の編集もやったりしています。


監督は『愚行録』『蜂蜜と遠雷』の石川慶。私は『愚行録』しか観てないんですけどねーいやーこれがなかなか、イイんです。あの特殊な(と言っても小説界隈ではそんなに珍しくもないが、あんまり小説を読まない人からは奇異に写るであろう)構成の原作を、見事に映画にしてしまっていましたからね。ポーランドで映画制作の勉強をした方らしく、邦画なんだけど監督の中での映画の風景は日本じゃないんだろうなというのが分かるね。そういうわけで、今回も撮影監督にはポーランド時代の友人であるピオトル・ニエミイスキを選んでます。


主演の不老不死人間になる女性役には『累』で土屋太鳳とのダブル主演で話題になった芳根京子。主人公と良い仲になる天才若手研究員には『実写ジョジョ』でなかなかサマになる形兆兄貴を演じた岡田将生。主人公にとってボディ=ワークスの師匠になる女性役には、個人的に『ヴァイブレータ』や『赤目四十八瀧心中未遂』、そして『キャタピラー』の演技が印象的な寺島しのぶ。その他に小林薫や風吹ジュンなどベテランを配置してます。




【あらすじ】

"彼女"は十七歳で子供を産み、そして十七歳で我が子を捨てた。


出産……だが、そこに感動はなく、"彼女"にとって特別なものには感じられなかった。ただ、なにかに失敗したという後悔だけがあって、だから"彼女"は子供を捨て、放浪の旅に出た。


それから二年後のことだった。"彼女"がエマと出会ったのは。


偶然の出会いで渡された名刺。そこに書かれてあった住所を"彼女"は訪ねた。ある化粧品会社の住所だった。社名をエタニティというその会社において、チーフ・アーティスト・デザイナーとして働いていたのが、黒田永真……つまりはエマだった。


エマが何を芸術(アート)し、何を設計装飾(デザイン)するのかと言ったら、それは凍りついた肉体で、つまりは人間の死体そのものだった。


エタニティ社は、疾病その他の要因で死亡した死者の肉体を遺族との契約書類手続きを経て合法的に「所有」し、そこに防腐処理と体液置換による死体保存技術--プラスティネーションを施すことで肉体を完璧な状態に保存してから、遺族の要望で様々なポージングを取らせて芸術彫刻を生み出すサービスを展開していた。そのポージング技術はボディ=ワークスと呼ばれており、エマはその世界の第一人者だった。


「完璧な肉体」と化した死者の体の、各関節部分に吊るされた大量の操り糸を自在に操り、死者の声なき声を汲み取るようにボディ=ワークスに従事するエマの仕事ぶりに惹かれた"彼女"は、自ら進んでエマの下で働きはじめる。


"彼女"には才能があった。プラスティネーションの才能が。空間や形状、重さや陰影を感覚的に掴み、手を汚しても気にならず、死体に触れるのを忌避しなかった。それは恐れない心を持つがゆえではなく、彼女に「命を受け止めるだけの力」がないことの証拠だった。


だからこそ、"彼女"の身の上を聞いたエマは、かけるべき言葉をかけた。あなたは赤ん坊を所有していないし、赤ん坊もあなたを所有していない。目には見えない愛情が、重力のようにいつもそばにあると思い込んではならない。そうでなけれは、あなたはきっと「罠にかかって」しまうだろうから気を付けなさいと……それから数日後、エマは会社を辞めた。


エマが会社を辞めてから十一年の歳月が経過した頃、エマの薫陶を仰いだ"彼女"は、エタニティ社のチーフ・アーティスト・デザイナーに就き、昔よりも大勢の社員を率いていた。


変わったのは"彼女"だけではなかった。エタニティ社のトップには、先代社長の息子で、エマの弟でもある若手天才研究者の天音がその座に就いていたのだ。


天音には野望があった。先代社長である彼の父がなぜプラスティネーション技術に固執していたかと言えば、それは「恐怖」を乗り越えるためだ。死から遠くはなれた現代人が死を恐れないよう、死者の肉体を物質のように扱い、その凍りついた肉体をいつも手元に置いておくことで、死を恐れずに客観視しようとした……そんな父の功績に一定の理解を示しつつも、だが天音はさらに先を見ていた。腐敗を止めるのではなく、老齢と死の完全な克服……すなわち「不老不死」の実現である。


そんな彼の遠大な目標に最初は戸惑いつつも、しかし徐々に理解を示していく"彼女"。いつしか二人は互いを深く愛し合うようになり、エマの忠告も聞かず、不老不死実現のための研究に協力して精を出していくのだった……





【レビュー】

先日発売された週刊プ○イボーイ誌上で、とある映画評論家が本作を鑑賞した感想をこんな風に書いてます。「生と死の問題は詩的な領域にとどまるものではない」と。その感想を読んだ瞬間、言うまでもなく私は苦笑いを浮かべてしまいました。あーこの人、『円弧』に叙事を求めちゃってんのかと。


つまりですね、この方のように「不老不死を題材にしたSF映画」というコピーや宣伝文句に囚われすぎた結果、そこで描かれるべきは不老不死社会を前提とした未来のシミュレーション、すなわち社会的な背景を丹念に盛り込んだ叙事でなければならないという姿勢で鑑賞すると、この映画は楽しめません(そもそも原作自体が、そういう社会背景をほとんど描いていないんだから)。なぜかというと、この「円弧」に限らず、ケン・リュウは押しも押されぬ当代随一の「叙情」のSF作家であるからです。アシモフやイーガンのように「論理(ロジック)」で語るのではなく、ベイリーやベスターのように「観念(アイデア)」をぶちこみまくるでもなく、ケン・リュウは「文体(スタイル)」でSFを魅せる。もちろん誤解しないでいただきたいのですが、彼が書いているのはSF小説でありますから、そこには当然、SF的なロジックもアイデアもあり、時にそれを主体とした作品だってあります。しかし、それでも私は言いたい。一度でも彼の作品を読んだことがある方なら分かると思います。ケン・リュウの最大の魅力はその「文体(スタイル)」にあると。水墨画を描くようにSFを描く彼のスタイルを映画にするに当たり、石川監督もまた「絵作り(スタイル)」という手法でそれを立脚してみせたのは明らかです。だからどうやってもこれが叙事になりえるわけがないし、監督自身にその気があるとは全く思えません。ここで選択されているフレーミングは限りなく叙情的なのです。突き放してるカメラワークなんて全然ないからね。


その肝心の「絵作り(スタイル)」ですが、これがなかなか良い意味で邦画離れしているんで、前半部分は「得したなー」って気分でいました。まあほら、去年公開された『AI崩壊』とか、別にあの映画だけに限った話じゃないですけど、とにかく現代日本を舞台にした邦画SFって風景や美術に「いま、ここと丸きり同じ日本」って感じが出すぎてなんか浮いてるというか、誤解を恐れずに言うならカッコ悪い作品が多いじゃないですか。バジェットの問題とか色々あるんでしょうが、そこはうまいこと誤魔化し誤魔化しやってるなと、この作品を観て思ったんですよね。主なロケ地は香川県の県庁舎らしいんですが、これを観てそこがド田舎香川県の、ましてや県庁舎だと気づくのは地元民くらいでしょう。無機質で硬質な、絵画が外された美術館然とした空間で役者に演技させるに飽き足らず、屋外のシーンでも日本じゃなかなか見ない風車つきの家屋であったり、無表情な壁や柱をバックに撮影したりして、とにかく「現代日本の匂い」を限りなく消すんだという意識が働いています。


まあ、あくまでも匂いを消そうとしているだけで、それが「SFか?」と聞かれたら「うーん、違うね」としか言いようがないのがなんとも……ここではないどこかを美術的に創出するんでなく、既存の美術を切り取ってつくられているので、絵としてのSF力が弱いのは否めませんが、まあとにかく前半はそんな無機質な美術で進行していくんですよ。


ところが、物語が始まって一時間後の後半、すなわち主人公が不老不死手術(つーか不老長命手術)を受けてから一気に六十年余り経過した後の美術設計は、笑っちゃうくらい日本感マシマシなんですわ。それまで一度も画面に映らなかった「日本的」な屋内構造が映し出されて、障子は出てくるし、梅の木っぽいのは出てくるし、瓦屋根の家がずらりと並ぶし、漁船は出てくるしで、屋内・屋外に関わらずどこを切り取っても日本の港町そのものなんです。レトロフューチャーなんて、そんなカッコいいもんじゃありません(笑)。しかもこの後半のシーンは、回想を除けば全部がモノクロという極端なありさまです。


美術面だけじゃなく、役者の演技というかアクション面でも、前半と後半では大きく異なります。前半はグァダニーノ版『サスペリア』まんまなダンスシーン(原作にはない映画オリジナル要素)から始まり、ボディワークスのシーンでは精緻で静謐且つ死者との決定的な断絶を印象づける原作とは異なり、死体に繋がれた紐を全身の円運動で繰って死体のポージングを決めていくという極めて動的な演出を選択しています。そんなアクション多めの前半部に対して、後半はただただ静かな時間が流れていくだけで、そこでは役者さんたちの演技もどこかスローテンポ。生気はあるんだがどっか抜けてる。緩んだ糸のような展開が最後の最後まで続きます。


スローテンポな役者の動き、とってつけたようなドラマ、モノクロの色調、今まで散々他の邦画で観てきた日本的風景の連続……ですので必然的に、後半が始まって十分くらい経過した頃、観客の意識の表層には次のような感想が浮かび上がってくることだと思います。


「なんかつまんねぇな、退屈だな」と。


そう、この映画は前半部分こそ「不老不死は本当に実現するのか?」という興味で観客を引っ張っておきながら、後半に入った途端に全ての作劇がいい加減になり、ドラマとも呼べないようなドラマを引き延ばして引き延ばしていくのです。私も後半のシーンに入った途端、何度退屈さにやられて欠伸したか覚えていません。


しかしながらその「つまらなさ」とは他でもない、終わりのない不老不死の人生を惰眠を貪るように消費していくしかない主人公が経験する「つまらなさ」そのものであり、私がこの映画に求めていた「心地よいつまらなさ」でもありました。


私なりの結論を述べますと、この映画を観たお客さんが感じるであろう「退屈さ、つまらなさ」とは、不老不死の主人公が世界に対して感じる「退屈さ、つまらなさ」そのものなんです。肉体の時間が凍結された主人公の、しかし心は年老いていってしまう現実を、観客は目にしているのです。


つまりこの作品は、いまだ不老不死が実現していないこの現代日本にあって、あたかも「不老不死の力を得た人間が体験する終わりなき退屈な時間感覚」をお客さんに追体験させようとする試みを秘めている。乱暴な言い方をするなら、「不老不死の追体験」にチューニングされた4DX映画なんです。だから「退屈」なのだし、それこそ石川監督の仕掛けた「罠」に他なりません。


いやそれだったらクソ映画をずっとループ再生しときゃ「つまらない」を体験できるしそっちの方がお手軽だしいいだろって言うかもしれないけど、それは全然違う。登場人物が体験している退屈さやつまらなさを観客が追体験できるという点では貴重だし、作劇する上で必要なつまらなさだから、ほとんど監督は意図的にやってんじゃないかと私は思うわけ。『愚行録』の、あの中盤以降ややかったるくなる原作を見事に調理して無国籍臭のする画面を作った石川監督の力量を思うと、あきらかにわざと手を抜いてんじゃないでしょうか。


んで、私はそれを、つまり「心地よい退屈さの追体験」を期待していたんで、まあほとんど満足したんです。期待と違った感動や驚きを与えてくれるのが映画の面白さなのは言うまでもないですが、私は期待していた演出を見ても嬉しい人間なんです。だいたい『円弧』が映画化されるって耳にしたときは「なんで?」って気分でしたからね。だって言っちゃ悪いが、原作は結構地味ーですからね。同じ不老不死モノなら『波』のほうが私は好みだし、『結縄』や『どこか全く別の場所でトナカイの大群が』のほうが映像化したら面白そうだなって思うもん。実際に『良い狩りを』なんかは未視聴だけど映像化されてますからね。ケン・リュウの数ある作品の中でなんでコレを選んだのか知りませんけど、『愚行録』しか観てない前提で話すと、多分監督は『愚行録』でやった「重苦しい映画の時間」の次に、この作品で「停滞した映画の時間」をやろうとしたんじゃないでしょうか。


だからまあ、この映画に対する「つまらない」という感想は至極普通の感想ではあるんだが、「なぜつまらないか」を考える必要のある映画だ。


ネット上なんかだと『1番残念だったのは、肉体は若いままで高齢になった主人公に精神的な成長が見られなかったこと』という壮絶に頭の悪い感想が湧いてますが、前述した『退屈さ』の演出を完全に見逃しているか、あるいは画面から何も感じ取れていないかのどっちかでしょう。そもそもですが、さっきも言ったようにこの映画は「叙事」ではなくて「叙情」の作品なので、物語の「結果」ではなく「過程」、その最終端にして静かな、だが確かなカタルシスを生む「主人公の決断」を観なきゃいけないんです。「結果」そのもの、つまりラストシーンの映像それ自体に大した意味はないんです。


死ぬことと生きることは表裏一体であり同じ次元の話であり、死は生を、生は死を内包しているだけに過ぎず、互いを結んで線分と成すような関係ではないから「一方だけを選び取る」という考え方自体がそもそもナンセンス。不老不死というSF的ギミックは、そのナンセンスさを印象付ける設定にすぎないのです。


だから重要なのは、無限遠な時間の果てに彼女が「なにを選択してどうなったか」という「結果」に注目するんじゃなく「なにを決断したのか」だと思う。選択した「結果」だけに着目し過ぎると、原作小説の良さも映画の良さも分からんまま霧散すると思う。


なので、この映画最大の不満点は私の場合そこをちゃんと描ききれていない部分にあるんです。頭から原作通りにやって欲しかったとか、ちゃんと死体彫刻見たかったとか、「アダムの創造」を観たかったなとか、不老不死人類側の生の肯定をちゃんとやって欲しかったとかあるんですが、一番の不満は「主人公の決断」をさらっと流して「結果」だけを映したことなんですよ。それさえきちんとやってれば、私の中ではかなりの傑作になっていた可能性がありよりのありな映画でございました。


「映画として意味のある退屈さ」を知りたかったり、「不老不死人間が経験する日常の退屈さ」を追体験したい方にはおすすめします。逆に、叙事的なSFを期待している人には全くおすすめできません(笑)

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