【第63回】騙し絵の牙
『面白き、こともなき世を面白く』
大泉洋ですよ。そして吉田大八ですよ。吉田大八はともかく、私はあんまり大泉洋って知らなくて。オールナイトニッポンでナイナイ岡村と喧嘩コントやってる人って印象しかない。いや嘘。水曜どうでしょうで人気に火がついて爆発した人なんだってことは知ってるけど、芸人なのかタレントなのか俳優なのかよくわからん。
えーしかしですねこの大泉洋さんという方、実は映画初出演作があの『ガメラ2 レギオン襲来』なんですよね。小型レギオンに襲われて逃げ惑う地下鉄の客の一人として登場したらしいんですが、見返してもどこにいるんだかよくわかりません。
たぶん主演作品としては『探偵はBARにいる』が一番有名なのかしら。観てないからなんとも言えないけど。それ以外だと『実写版ハガレン』でショウ・タッカーの役をやったとか。マジか。そういうのを聞くとますますどういう気質の人なんだか、解像度が一向に上がらなくて困ってます。
そういう、キャラ性の解像度が不透明な人物が、うさんくさーい役を演じるとどうなるんでしょう。少なくともこの映画の主人公は大泉さんを良く知る人からすると「大泉さんっぽくない」んだとか。逆に、大泉さんを良く知らない私からしてみると「原作小説より大泉さんっぽいキャラだな」と思いました。大泉さんのことを良く知らないのに「っぽいキャラ」なんて言うのもおかしいんですが。
まぁ、とにかく面白かった。
【導入】
不況に陥る大手出版社を舞台に、カルチャー雑誌編集部の編集長が、社内の権力闘争や大物作家を相手取り、二転三転する仕掛けを駆使して己の野望を叶えんとするサスペンス映画。
原作は『盤上のアルファ』や『罪の声』で知られる塩田武士の同名小説。
監督/脚本は青春映画の手堅い傑作『桐島、部活やめるってよ』や、日本版テルマ&ルイーズ的な疾走感のある横領サスペンス『紙の月』に、三島由紀夫の怪作を原作にしたSF映画『美しい星』の監督で知られる実力派、吉田大八。私は『桐島』で知って以来のファンですが、基本的にこの人の作品はほとんど観てます。巷では評判の悪い『羊の木』なんか、かなり私好みで良かったしね。あれは「刑務所」という彼岸に渡った異邦人が現実の世界に戻ってこれるか再び彼岸へ渡ってしまうのかを、静かに、それでいてサスペンスフルに描いた作品だと思うんですが、分かり易い犯罪ドラマを期待していた人には評判が悪いみたい……うーん、納得がいかん。
それはそうと、吉田監督は原作を忠実に再現するのではなく、原作のエッセンスを抽出して「自分の映画」を撮れる人。原作を映画へ「変換」するのではなく原作を映画へ「創造」してみせるという、押井守と同様の姿勢を持つシネアスト。ゆえに、原作物を借りてこさせたらこの人の右に出る人はいないと思っているんですが、今回も吉田演出が冴えに冴え渡った作品となっていて、これは吉田ファンは大満足な出来ではないでしょうか。
主演は胡散臭い演技がバツグンにハマっている大泉洋。『桐島~』以来の吉田監督作出演となる松岡茉優。日本映画界最後の「役者らしい役者世代」のひとり、佐藤浩市、少なくとも『サイレント・トーキョー』より良い演技してます。その佐藤浩市と対立する役どころを演じるのがゴジラオタクの佐野史郎。他にも、西村寿行ばりに女性観の古臭い大衆作品を書き続けている大物作家役に国村隼。文芸部の女番長的編集者役に木村佳乃。さらにはお笑いコンビ「我が家」の坪倉とか、リリー・フランキーとか、小林聡美とか、『シン・ウルトラマン』の主役を演じる斉藤工とか、池田エライザとか……とにかくそうそうたるメンツがそろい踏みでございます。
【あらすじ】
歴史ある大手出版会社の薫風社は、初代社長にして創業者の伊庭喜之助の急逝に伴う次期社長を巡る権力闘争の渦に飲み込まれていた。伊庭氏の息子である伊庭惟高を次期社長の座に収めようとする常務の宮藤だったが、そこへ専務の東松龍司が待ったをかける。文芸畑出身で、長年にわたって薫風社の看板を背負ってきた文芸雑誌「小説薫風」を社内における聖域たらしめてきた宮藤と、昨今の出版不景気を鑑みて痛みを伴う構造改革を断行せんとする東松。伝統か革新か。対立の末、社内闘争に敗れた惟高はアメリカ留学というかたちで事実上会社から追放され、空白の社長椅子には東松が座ることになった。
機関車トーマスになぞらえて「機関車東松」とあだ名される新社長が振るう猛烈な改革のメスに翻弄される薫風社の社員たちとその関係者。わけても、薫風社で長年連載を続けてきた大御所ミステリー作家の二階堂大作は、東松が事業刷新のために「小説薫風」を月刊誌から季刊誌へ移行すると耳にして大激怒。一方の東松は、取次店を介する既存の出版物流に代わる「新たな物流形態の基盤システム」を出版業界へたたきつける一大事業……その名も「プロジェクトKIBA」の完遂へ向けて、着々と準備を整えていた。
新体制に揺れる薫風社。そんななか、ある一人の男が動き出す。彼の名は速水輝。人を食ったような飄々とした態度で社内でも有名なこの男は、これまで数々の雑誌編集社を渡り歩いてきた名うての編集者。カラーの違う小説薫風編集部から蛇蝎の如く毛嫌いされているカルチャー雑誌「トリニティ」の編集長を務めている彼の下にも、東松直々の「廃刊宣告」が通達された。
トリニティの廃刊を免れるためには、何か圧倒的に「面白い企画」を生み出して雑誌の売り上げ部数を伸ばすしか道はない。従来通りの「雑誌のカラー」を気にして安牌を選んでいる場合ではないと踏んだ速水は、その歯に衣を着せぬ物言いが災いして上司の不興を買い、所属していた小説薫風編集部から暇を出された新人編集者・高野に目をつける。口八丁手八丁で高野をトリニティ編集部へ引き抜いた速水は、彼女を使って堅物の二階堂をどうにか口説き落とすことに成功。さらには、過去の経験で培った人脈をフルに活かして、ガンアクション小説を密かに文芸雑誌へ投稿した過去を持つ人気モデルの城島咲や、謎のイケメン新人作家・八代聖と繋がりを持つようになり、従来のカルチャー雑誌にはない新機軸の連載企画を立ち上げていくのだった……その笑顔の仮面の奥に「鋭い牙」を潜ませながら。
【レビュー】
正直ぶっちゃけますと、去年の春ごろだったかな。この映画の予告編を観たとき、なんか妙な不安感に襲われたんですよね。具体的にどういうところがって、どーにも予告編の雰囲気が『イソップの思うツボ』と似たつくりだったんですよ。前半部分はいかにも「感動作ですよ」的な風に見せて中盤から「実はそういう映画じゃないんですよ」とドヤ顔をかましてくる流れとか、【あなたはすでに騙されている!】だの【登場人物全員、ウソをついている!】だの【騙し合いバトルの幕が上がる!】だの、もうウンザリするくらいコンゲームもので耳にしてきたキャッチコピーをばらまいてくるあたりとか、蛍光色を使ったデカデカフォントとか、予告編を観てると『イソップの思うツボ』がフラッシュバックして仕方なかったの。でも吉田大八監督だからね。あの『桐島~』や『紙の月』を撮った人が、まさか『イソップの思うツボ』みたいな、どうしようもないよわよわサスペンスを撮るわけないよな……と信じていたんですが、でも本当に『イソップの思うツボ』みたいな予告だったので、正直かなり不安な心地で劇場へ向かったのです。
んが、映画が始まってすぐのカットで私は「疑ってごめんなさい!」と心の中でジャンピング土下座をかましました。というのはこの映画、まずファーストカットで何を映すかといったら、散歩中の犬の横顔をフォローで映すんです。犬種は分りませんが精悍な顔つきの犬で、その犬の横顔と仕事に熱を入れて打ち込んでいる松岡演じる新人編集者の顔をカットバックで映すのです。
やられました。さすが吉田監督。「騙し合いサスペンス」の幕開けとしては一風変わった、それでいながら、この映画における松岡茉優のキャラクターを台詞を使わず映像のみで完璧に示してみせたカットと言えるでしょう。鼻息荒く飼い主の手綱を振り切って駆ける犬の横顔と仕事中の松岡茉優の姿をカットバックで映すことで、松岡茉優演じる編集者が作品の良し悪しを的確に「嗅ぎ分ける」ことが出来て、「これだ」と見定めたら一直線に走る人物であるという印象を観客に植え付ける。その印象を観客側が忘れずにいれば、この映画の終盤の展開を「ご都合主義だ」と批判することはまずないでしょう。あの展開を「ご都合主義」だと批判する方がもしいるのだとしたら、このファーストカットに込められた意味を今一度考えていただきたいです。この映画のラスト15分における展開はファーストカットから導き出せる、ある種の必然性を伴った展開なのです。
こういう狙った演出を頭から入れていることからも分かるように、あの妙に人情臭かった原作小説をバラバラに砕いてキャラクター設定を一部変えたうえで緻密な編集と演出でサスペンスに特化させているので、まぁ面白い。頭からケツまで計算ずくの構成になっているんだが、その構成力を振りかざして「ドヤ顔」を浮かべたりしないからこそ、吉田監督は信頼できる。はいここ伏線ですよ~!いまここでタネ明かししましたよ~!実は裏でこんなことが起こってたんですよ~!……と、客の観察眼を馬鹿にしたような、わざとらしい演出とわざとらしい演技で物語の謎を明かしていく安いテレビドラマ的な展開じゃないので、健康的に良い作品となっています。
それに加えて、「出版業界」という「言葉」と「文字」に溢れた職場を舞台にしているからか、本作ではとにかく休む間もなく台詞の雨が膨大に降り注いでくるわけです。かなり台詞量が多い映画なんですが、見どころは台詞それ自体がわりかしいい加減で薄っぺらくて、その薄っぺらさにどれだけの信憑性があるかってことで、つまり端的に言うと誰も彼もが腹の奥にイチモツ抱えた状態でいるんですね。この辺、よくある騙し合いサスペンスにありがちな手法だと思うんですが、出来の悪い騙し合いサスペンスって会話応酬形式の騙し合いの末にキャラの底が割れて干上がって、その干上がった状態で話が進むので結果として映画自体が軽くなることがあるじゃないですか。ありませんか?
しかしですねー、この『騙し絵の牙』は、そうはならない。なぜなら大泉洋演じる速水という男がいるからですよ。この男、妙に軽くてうさんくさくて人を食ったような人たらし的な印象に塗れた台詞の応酬をずっと繰り広げるので、物語が進行しても一向に速水というキャラの底が見えてこない。窮地に追い込まされてキャラの底っぽいものを露出したけれども実は底じゃなかったんですよ的な「大どんでん返しサスペンス」ともちょっと違う。仕事に対する姿勢や対人関係を掘り下げてはいるし、ちゃんと窮地に立たされてはいるんだけど、そうやって掘り下げれば掘り下げるほど、その意外な深さに驚きこそすれ、人格の底は一向に見えてこない。このあたり、原作小説とは対照的なつくりです。原作では言葉を駆使することで主人公・速水の人間性の底を最後に暴くという展開だったのに対し、この映画では大泉洋らしからぬ芝居をする大泉洋が終盤近くまで、その人間性の底を決して割らないまま狂騒曲の回転軸を担っているのが、原作との一番大きな違いじゃないでしょうか。逆に言えば、終盤になってようやく彼の人間性の底が「ほんの少しだけ」「しかしはっきりとしたアクションで」表現されるんですが、このシーンを観た時の快感ときたら、最高です。やっぱねー、ああいうショットをドヤ顔せずに自然と無理なく挿入してくるから、本当に吉田監督は信頼できるんだよな。下手な監督が撮ったら絶対スローモーションかけるか役者の顔面をもっとクローズアップで撮ったりするはず。
今の出版業界を取り巻く窮状。消費者側の娯楽選択が増えた結果、文学はもちろん大衆小説まで読まれなくなった(しかしラノベ市場だけは案外好調な)現代において、それでも作品の質のみにこだわるのか、新しい形態の物語を発掘する方向に舵を切るのか。大御所作家の安定感を捨ててでも新人作家の粗削りな勢いを後押ししてやるべきなのか。そもそも、良いものをクリエイティブすれば半自動的に売れるという時代がとっくに終わった今、では新たな物流体制や自社EC通販の基盤を整えれば出版業界には活気が戻るのかとか、未だ根強い電子書籍への拒否反応であったり、格式にこだわるのか自由な変革を求めるのかという出版社内部の権力闘争におけるカードの切り方に、保守的価値観とリベラルな多様性の対立を見るなどのポストモダン的な要素が散りばめられているので、極めて現代的な視座で楽しむこともできます。しかしながら個人的には、映画を映画として、つまりこの作品の場合、吉田監督自身の自己言及的なメタファーという視点で観た方が、この映画の楽しさを率直に感じられるんじゃないかなと思うんです。つまり「それが面白ければいいじゃん」という、身も蓋もない理念というか欲望がそこらじゅうで渦巻いているのがこの映画の特徴であり、その「おもしろければいいじゃん渦」を生み出しているのが、他ならぬ大泉洋であり、先に結論を言ってしまうと劇中で彼がやっているのは「映画監督」に似ているんです。
とにかく使えるモノや人はどんどん使い倒して、この退屈な世界を面白おかしく「編集」してやる。大泉洋は口八丁手八丁で周囲の人間を転がしまくり、状況を回転し続ける。誰もかれもが大泉を中心とした回転の渦に巻き込まれていく……というわけで「不在の中心」を描いた『桐島~』の別バージョンというか、どちらも回転に吞まれていく人々を描いているのは共通しているんだけど、『騙し絵の牙』ではその中心に立つ人物を積極的に描いており、我々は中心に立つ人物が手を入れていく世界のかたちを目撃することになる。自分の人生そのものにペンを入れていくのではなく、自分のいる「いま、ここ」の世界を面白おかしく作り替えていくために、世界そのものにペンを入れていく大泉洋。しかし、あくまでも彼が興味を持つのは「編集」であり「完成」ではない。だから世界の完成形がどうなろうが、そんなものに興味はない。編集しては壊し、また編集しては壊す。そうやって世間を渡り歩いていく。そんな彼はペテン師でもなければ悪辣を気取るダークヒーローでもなければ、場をかき乱すだけのトリックスターでもない。多くの人の手を借りて世界を様々なかたちに変革する作業に没頭し、その変革の手触りに興奮を覚える人。そう、それは大量のスタッフを動かして「もう一つの世界」をスクリーンに生み出そうとする「映画監督」という存在に近い。「編集」だけが楽しくて「完成」には興味が向かないから、あくまでもマインドが近いってだけ。だからこの映画では、あれだけ猛烈な回転を意識的に生み出しているように見えた大泉洋ですらも「状況を転がす"何者"かであるように振る舞いながら、本当は"何者"かになろうしている途中の"誰か"でしかなく、自らの生み出した状況に転がされているのだ」という衝撃の事実を我々に突き付けることになり、それってつまるところ「面白く世界を編集する」彼の姿勢やパフォーマンスすらも「面白さ」という「状況」の中に、やがては回収されていくに過ぎないことを暗示している。
ドカドカと乗り込んだ先で面白さを作り出そうとする行動に出てみても、その行動それ自体が状況へと還元されていく。だからこそ、この映画は「映画」という枠組みが持つ「良い意味での適当さ・いい加減な奥行きさ」を間接的に意識させる。高尚な理念を説こうが猥雑な欲望を放とうが、オリジナルであろうが原作付きであろうが、シネコンやミニシアターに関係なく一度小屋でかかってしまえば、どんな内容であろうと、それは「映画」という「虚構の状況」へ否応なしに回収される。いかなる素材を用いていようが、いかなるメッセージを伝えようが、いかに面白おかしくストーリーをこねくり回そうが、映画はしょせん映画でしかなく、映画である以上は映画という状況から決して逃れることが出来ない。そして、いやだからこそ、作り手側も鑑賞する側も、その「面白さ」を信じてあげるしかない。
面白い作品を生み出そうとしている行為のはずが、その創作運動自体すらも「面白さ」という概念の中に吸収されていくんじゃないのか。そのような恍惚と不安に対して限りなく意識的な作品なので映画として抜群に面白いのは当たり前として、「クリエイティブ」という行為に自覚的であろうとする一部のなろう民の方々には、刺さる内容になっているんじゃないでしょうか。あるいは「面白さ」を通じて「何者か」になろうと模索している方がいましたら、「面白さ至上主義」を標榜していることに何の自己批評も自己言及もしないで胡坐をかいているような能天気オンラインサロンなんかに入るより、この映画を観た方がずっと役に立つし考えさせられると思いますよ。というかまぁ、そんなの考えなくても全然面白いし、普通にこれお客さん沢山入っていい部類の作品だと思うんですがね。
それと、この映画は個人的にビルの撮り方がカッコイイ。終盤での屋上のシーンは、ビル好き・街好きな方なら刺さるものがあると思います。




