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【第62回】シン・エヴァンゲリオン劇場版:||

『さようなら、オタクだった自分。こんにちわ、オタクである自分』


新世紀ヱヴァンゲリヲン……それは、90年代を生きたオタクたちにとっての、まさしく名前通りの『福音』であると同時に『呪い』だった。


多くのアニメファンが、アニメ評論家が、後続のアニメシリーズが、日本のサブカルチャーが、エヴァという名の呪縛に長いこと囚われた。それは生みの親である庵野秀明も例外ではなかった。


他者のいない世界……他者を拒絶する世界……首を絞めて殺せる程度の他者を描いて終わりにしてしまった旧劇のエヴァ。今見ると、旧劇は庵野秀明という一人の孤独で悩めるオタクの限界点として映る。


「いま、ここ」の世界で「アニメーション」という表現を通して関わっていきたいという、監督の痛烈な想いを汲み取れたエヴァファンが、果たしてどれだけいたのだろうか。作品の謎解きや考察ばかりに夢中になり、その手の本がバンバンと売れていった。そんな表層的で記号的な面ばかり取り上げられていることに、一番うんざりしていたのは、庵野秀明自身なのではないか。


あれから26年。私も含めて、多くのオタクたちは昔と変わらずに同じ地平線に立ち続けている。ネットが発達しようが娯楽が多様化しようが、そんなことはオタクの本質に何一つとして作用しない。あの頃と同じように「自分好みな」虚構の世界に浸り、現実の規範や倫理や道徳にウンザリして、虚構の世界を隠れ蓑にネットの世界で暴れ回るオタクたち。そんな呪われた獣たちに「目を覚ませ、現実を見ろ」と叱咤するのか、「それでも、君たちは生きていていい」と甘やかすのか。


その道標が、ここにある。


これは、呪縛に囚われた表現者が、血を吐く想いで練り上げた「呪い」についての物語だ。





【導入】

ついに来ましたね、アニメの歴史に名を刻んだ最大級作品「エヴァンゲリオン」の「本当の最終作」が。


と意気揚々に言ってみたものの……実は私、エヴァってよく知らないんですよ(笑)。いや、よく知らないは言い過ぎか。一通りTVシリーズは観て、旧劇も二回、新劇『序』『破』『Q』もそれぞれ三回以上は観ているので、基本的な知識は頭にある(と思っています)。ちなみに私は中学生の時に「漫画」(いわゆる「貞本エヴァ」ですな)で初めてエヴァに触れたんですが、そのせいで「エヴァって漫画原作のアニメなんだー」と大学生に入るまでずっと勘違いしていました(メディアミックスあるある:原作がどれか分からない。「とある」も「超電磁砲」が本家だと思ってたし)。しかし貞本エヴァ、貞本エヴァかぁ……中学生当時は、たしか6巻ぐらいまでしか出てなかったんだよね。それで新刊がなかなか出なくて……でも面白かったんだよね。面白かったんだけど、ずいぶん長いこと待たされている間に興味の範疇から逸れてしまったという。というかスキゾとパラノも読んでねぇや。やばいねー、オタクのくせにこれ読んでないとか。


リアルタイムでハマった世代ではないので、一般的なエヴァファンとの温度差がものすごいなーというのはいつも感じるんですよね。だってねー仕方ないですよ。エヴァのTVシリーズが放映されてた時、私まだ小学校に入りたての時だったし、そもそも地元が田舎過ぎて放映されてなかったし。ところが大学時代になったら周りのオタクも非オタクも、みーんなエヴァを観てる。これはヤベェぞとなって私も追っかけたわけですが、なんというかこれって完全にメタファーの物語というか、ここまでやりすぎなくらいの複雑な世界観や用語を掲示されると、異世界を描こうという意識より、現代を異化させるための手法にしか見えないわけで、だからこのレビューもそういう方向で進めていこうと思います。もしかしたら浅い見識に留まってしまうかもしれませんが。


あ、それとこの映画レビューは「ただの感想文」ですので、考察とか解説とかキャラ設定に込められた意味とか、そういうのは一切お話ししないってことをここに名言しておきますね。そういうのが知りたいという方は、もうyoutubeにその手の動画が山ほどありますから、そっちを見てね。てか……エヴァって自己言及的なメタフィクション映画なところがあるから、表層部分の考察とか解説とかあんまり重要ではないと思うんだけど、みんなそっちを知りたがるのね。


さて、前置きはともかくスタッフ&キャストの紹介……っつても、いまさら口にするのがアホらしいですね。総監督は無論この方、日本のオタク四天王の一角・庵野秀明。「プロフェッショナル~仕事の流儀~」で取り上げられるほか、夏には『シン・ウルトラマン』の公開も控えているとあって、今年は庵野フィーバーな年になるのかしら。


監督はこれまで同様の三人体制。過去に『フリクリ』の監督を務めた鶴巻和哉に、ジョージ・ミラーにもその才能が認められた天才デザイナーにしてアニメーターの前田真宏。そこに『Q』では副監督を務めていた中山勝一が監督として格上げされています。


作画陣も相変わらず豪華です。IG作画三大神の一角である西尾鉄也に、元ガイナックスにして現トリガーの今石洋之にすしおに吉成曜。コヤマさんもいるし平松さんもいるし、当然ながら魔砂雪さんもいる。『グレンラガン』のキャラデザを務めた錦織さんと、『あの花』のキャラデザを務めた田中将賢さんは、今回は総作画監督という豪華布陣。


しかし驚いたのは取材協力・考証に、あの小熊英二がいること。これにはビビりましたね。あとはジブリの鈴木敏夫と、ドワンゴの川上量生が「協力」としてクレジットされているんですが、これはあれですかね、『シン・ゴジラ』の時と同じく、シナリオ初期プロット案への意見者という意味での協力ですかね。アニメ評論家の氷川竜介さんも『シン・ゴジラ』では協力に名を連ねているんですが、今回は宣伝協力のみのクレジット。もしかして『シン・ゴジラ』の初期プロット案への感想を求められた際にボロクソに中身を貶したのが尾を引いているのかなと邪推したり。まぁ、そんなことはどうでもいい。


声優はTVシリーズに引き続きいつもの皆様。


音楽もいつも通りの鷲巣詩郎さんです。





【あらすじ】

「希望は残っているよ、どんな時にもね」


エヴァンゲリオン初号機パイロット・碇シンジの脳裏で、その声は何度となく反響する。まるで、静かに砂浜へと打ち寄せる波のように。穏やかさだけをかたちに残して。


取り返しのつかない過ちを犯した自分に、優しく寄り添ってくれる、それは暖かな声だった。だが、その声の持ち主は、もうこの世にはいない。


特務機関ネルフの司令官・碇ゲンドウの策略によって『第1の使徒』から『第13の使徒』へと堕とされた存在。その名は渚カヲル。シンジの身代わりとなるかたちでDSSチョーカーの犠牲となり、シンジの目の前で命を落とした少年。


いや……違う。彼を殺したのは自分なのだと、碇シンジは己の心に刃を刺し続ける。自分が浅はかな考えでリリスの遺骸からロンギヌスの槍を引き抜いたせいで、フォース・インパクトの初期段階が発生した。カヲルはそれを止めるために、自ら犠牲となったのだ。


「希望は残っているよ、どんな時にもね」


友人であるシンジへ、微笑みを向けながら。


全部、何もかも、ぼくのせいだ……


繰り返される悲劇に疲れ果て、自閉の檻に閉じ籠り、失語症に罹ったシンジ。だが、死の淵から生還した式波・アスカ・ラングレーと、アヤナミ・シリーズの初期ロットとして制作されたうちの一体であるアヤナミ・レイは、そんな彼を放っておかなかった。


意気消沈したままのシンジを無理やり連れて、アスカたちはコア化した赤い大地を歩き続ける。葛城ミサト艦長を指揮官とする反・ネルフ組織「ヴィレ」の主力戦艦であるAAAヴンダーとの合流地点としてアスカたちがひとまず腰を下ろしたのは、「第3村」と仮称された人口千人程度の小さな村だった。その村では、ヴンダーの支援によって村全体を取り囲むように建造されたL結界浄化無効装置のおかげで、土地のコア化を防いでいたのだ。


初号機の覚醒によって引き起こされた「ニア・サード・インパクト」後の世界で、第3村の住民たちは、たくましく今を生き抜いていた。いつ終わりを迎えるかわからない世界の片隅で、手作業で稲を植え、子育てをし、仕事で疲れたら熱い湯に浸かって一日を終える。無味乾燥とは対極の土地。生き物の「匂い」で包まれたその土地に、これまで人工的で無機質な空間での生活しかしてこなかったアヤナミ・レイは大きな刺激を受け、村民との交流を続けるうちに「モノ」ではなく「ヒト」としての自我が芽生え始める。


だが、そんな彼女とは対照的に、シンジの心は一向に回復の兆しをみせずにいた。たまりかねたアスカが力任せに発破をかけても、効果はなかった。だが、シンジの心にはたしかに届いていたのだ。アスカの、アヤナミ・レイの、そして、こんな自分を暖かく迎えてくれた第三村の住民たちの声が。


「全部ぼくのせいだ。ぼくのせいで沢山の人が死んでしまった。ぼくは取り返しのつかないことをしてしまったんだ。ぼくなんて、この世界からいなくなってしまえばいいんだ。誰にも許しちゃもらえないことをしてしまったんだ。それなのに、どうして、みんな」


――僕に優しいんだろう。


一方その頃、冬月コウゾウと行動を共にする碇ゲンドウは、自身の願いのために、ゼーレの目的とする『人類補完計画』とは別の補完計画を実行に移すための最終段階に取り掛かっていた。


「黒い月」と化したリリスと、手中に収めた4体の「アダムスの器」。かつてのネルフ・メンバーにして二重スパイの加地リョウジを通じて手に入れた「ネブカドネザルの鍵」。そして「フォース・インパクト」のトリガーとなり、今は機能を停止したままのエヴァンゲリオン初号機の“対の機体”として建造された「第十三号機」を揃えて、全ての始まりの場所……十四年前の「セカンド・インパクト」の爆心地である旧南極へと、移動先を定めていた。


そんなネルフ側の動きに同調するような形で、ミサトもまた、学生時代からの友人にしてヴィレ専属技術者である赤木リツコの手を借りて、ネルフの野望を阻止するための「エヴァ新2号機α」および「エヴァ改8号機」開発に着手していた。L結界浄化無効装置によってコア化から回復したパリ旧市街地のネルフ・ユーロ支部の一角で、8号機のパイロットである真希波・マリ・イラストリアスは静かに誓う。今度こそ、碇シンジを助けてみせると。


シンジ、アスカ、レイ、そしてマリ。機械仕掛けの神によって運命を仕組まれたチルドレンたちの物語は、全人類の存亡を懸けた「ファイナル・インパクト」へと集約されていくのだった……





【レビュー】

第三作目『Q』の公開が間近に迫ったある日、ツイッター上でエヴァファンの一人が「終映後に観客みんなで立ち上がって『残酷な天使のテーゼ』を歌おうぜw」という痛いオタクまる出しのツイートをして顰蹙を買った……という事件?があったのを、未だに覚えている。なぜかというと、そのツイートに対して、碇シンジ役の声優・緒方恵美が怒りと屈辱に満ちた忠告めいたツイートを書き込むかたちで反応し、付け加える形で「そんな余裕はきっとないと思う」という意味深長な書き込みを行い、ファンたちをざわつかせたからだ。


果たして、彼女の指摘は的を得ていた。『Q』の公開を劇場で見届けた者たちの表情からは余韻を味わう余裕さえ消え、その反応は全て似通っていた(友人談)。呆けた顔で、眉間に皺を寄せて、不安げな顔つきで劇場を後にするエヴァオタクたち。「これでどうやって次回作に繋がるんだ」「破までのストーリーが台無しだ」「庵野は自分の手でエヴァを壊した」と、賛否両論、主に否の意見が目立ち、瞬く間にネットを賑わせた。


なにがなんだか分からない――『Q』の物語を一言で言い表すとするなら、まさにそれだ。「インフィニティ―」「アダムスの器」「カシウスの槍」などの意味ありげな専門用語などに始まる「情報過多な状況」の演出。それらの用語について登場人物の誰かが説明することもなければ、暗示するようなセリフもほとんどない。元々、人類補完計画が何なのか監督自身も良く分かっていないうちに始まったTVシリーズを起源に持つエヴァなのだから、観客の「認識の錯誤」を誘発させるような用語説明の放り投げ自体は珍しい話ではない。だがそれにしても説明しなさすぎである。映像が派手であればあるほど、演出が行き届けば行き届くほど、その感覚はますます強くなった。完全に客の方を向いていない作品として、開き直ってしまっている。自然と、観客の意識は14年の眠りから目覚めたシンジの意識と完全にシンクロせざるを得なくなり、薄暗い劇場の一席で「なにがなんだか分からないお話」を90分近く見せつけられる結果となった。


翻って言えば、一作目の『序』も二作目の『破』も、その物語の筋道、ストーリーテリングは極めて分かり易くて丁寧だった。特に『破』の演出面においてそれが顕著に表れている。「匂い」というキーワードをばらまいて自己と他者の境界を意識させ、来る悲劇に向けて丁寧に伏線を張り続ける。そして少年は「自分がどうなってもいい」「世界がどうなってもかまわない」と言い放ち、自分に優しく寄り添ってくれている少女「だけ」を救う道を選択し、そんな彼に対して「行きなさい!シンジ君!」と後押しする「大人の女」を描いた。そこから立ち現れてくるのは、世界よりも少女を選び取ろうとする少年の自我が「悲劇の中の幸福」に浸っている光景であり、社会に立ち向かおうとする覚悟の著しい欠如を私に印象付けた。


シンジ君はTV版の時よりも男になった――『破』が公開された直後、エヴァオタクな大学の友人がそんなことを言っていた。たしかに『破』の表層だけを観れば、シンジ君は「自分にとっての大切な女の子」を意識的に救おうとする「物語の主人公」として目覚め、自分の身を投げ打つ覚悟の下で選択をしたように映る。その一方で、彼がそうまでして綾波レイを助けようとする行動には「形を変えた世界からの逃亡」という側面があり、私はこっちの方を強く意識した。なにせシンジ君は綾波を助ける際に初号機を意図せず覚醒させて「自分がどうなってもいい」「世界がどうなっても構わない」と口にしているのだから。自分を傷つける世界が嫌いだ。自分の大切な人を傷つける世界が嫌いだ。そんなグロテスクで理不尽な世界にいる自分もやっぱり嫌いだ。そんな世界に背を向けるように、自己肯定感の著しく低い少年が選んだなりふり構わない道の先に待つのは、自我を無条件に受け入れてくれる二次元やエロゲーキャラたちの世界を嗜むオタク的思考に近似した、とても予定調和な結末だった。シンジ君があの場でやろうとしていたことは「自分に優しくしてくれる少女の心の中に、卑小な自分の存在を刻み付けようとする」精神的な自慰行為に他ならない。行動の表層がド派手なエフェクトと綺麗な歌声をバックに、どれだけ美化されたヒロイックで自己犠牲的な装いで飾られていたとしても、根底にある醜い感情は誤魔化しが効かない。そういう意味で、『破』のラストはオタク的な予定調和に落ち着く、理解の範疇に収まる終わり方だった。そこには何の驚きも感動もなかった。


まるで、そんな予定調和な前作に対する、ある種のカウンターのように『Q』は機能する。そこでシンジ君と観客を待ち受けていたのは「自分に優しくしてくれる女の子」も「自我を無条件に受け入れてくれる安易な他者」も「背中を後押ししてくれる大人」もいない、正真正銘の「剥き出しの社会」「自己責任を追及される世界」だった。ニア・サード・インパクト……略して「ニアサー」後の世界。そこは、変わり果てた世界に対して各々の立場でコミットしていこうと自覚的である者たちが口にする膨大な言葉で溢れており、独りよがりな少年の叫びが入り込む余地などどこにもない。顔も知らないヴンダーの搭乗員、人が変わったような態度のミサトにアスカ、ゲンドウの命令のみに忠実で初期ロットの仕様から逸脱しまいとするアヤナミ・レイ。立場は違えども、彼らは変容した世界を把握するためにルールを設け、そのルールに批准した言葉で自らを武装し、世界にコミットしようとする。それは、唯一シンジに寄り添ってくれているように見える渚カヲルも例外ではない。なにせ彼は、根拠や理屈を持ち出すことなく、いきなり「槍が二本揃えば世界を救えるよ」という抽象的なマルチ勧誘紛いの台詞だけで、シンジ君をその気にさせてしまうのだから。我々の住んでいる社会の表層が常に「他者との関係性」に始まる人間力学の作用に覆われ、その下層に横たわっているであろう根拠や理屈に考えが及ばないような仕組みになっているのと同じで。


「カヲル君が何を言っているのか、わからないよ!」というシンジの嘆きにも近い台詞は、渚カヲル個人が持つ特殊な死生観のみを指摘しているのではなく、そのバックグラウンド、この変容しきってしまった社会(つまり我々の住んでいる社会)から突き放されたことに対する怒りや哀しみ、やり場のなさをぶつけた表現であるように思う。変容した社会の中心にいるべき当事者でありながら、しかし社会の形態やルールを正確に把握できないことのもどかしさ。それは不可解な「他者」に囲まれて生きる者たち、つまるところ現代に生きる我々が日常的に抱いている半ば無意識な違和感そのものである。つまり『Q』におけるシンジは社会に生きる観客の代弁者として機能しているだけなのだ。『Q』が『破』と比較して特異なのは、ただ「機能している」だけで、そこから何かしらの結論を導き出そうとする気が画面から全く伝わってこないことだ。ただただ決定的に変容したグロテスクな社会と、その社会に翻弄され続ける少年の姿のみを描いた物語なのだから、伏線なんて入れようもないし、先の展開を容易に予想できるような演出など入れなくて当たり前である。実社会には「伏線」も「演出」も存在しないのである。


ドラマティックな結節点の存在しない『Q』の物語が引いているのは、常に「予測不可能な」出来事で満ち溢れている「なにがなんだか分からない世界」である。「なにがなんだか分からない世界」とは具体的にどんな世界か? それは私たちの住んでいる、この、ネットやSNSの発展によって「あらゆる情報が洪水のように雪崩れ込んでくる情報過多な状況」にありながら、かえってそれが「現実認識の錯誤」を生みやすくしている現代社会そのものの暗喩である。それゆえに『Q』を語ることは、現実を丸ごと語ることと同義であり、過去を引用する相対的な手法でしか現実が語られていないように、『Q』はそれ単体で中身について語ることが極めて難しく、『破』に対するカウンター映画という相対的基準を与えることで、初めて中身を語れる仕掛けになっている。その仕掛けがシリーズ物としての特徴や強みを生かしているように見えて、なんだか面白いなと個人的に感じているので、私は断然『破』より『Q』派なわけであります。や、もちろん『破』にも燃えるシーンがあって……特に第8の使徒を地上で迎え撃つシーンで初号機の移動ルートを補助するかたちで防壁がガンガンせり上がったり、足場がドンドン形成される場面なんかは「ウヒョー!」となったものですが。


エヴァンゲリオン……それは旧TVシリーズから新劇に至るまで「肉体と精神」にまつわる心身二元論を取り扱い、「神経的な痛み」をしつこいくらいに描いた物語だった。エントリープラグで「魂の座」に乗せられ「神経接続」によってエヴァと繋がりながら、しかしエヴァそのものは徹底して「外装としての肉体」「演出に留まる肉体」以上の機能を果たすことはなかった。それは決して闘争や相互理解といったコミュニケーションのための道具ではなく、むしろ「拒絶の象徴としての肉体」という側面が強調されていた。庵野秀明の当初の興味は心身二元論の一方、すなわち「心」の問題に拘泥することにあったのかもしれない。いや……辛辣な言い方をすれば「拘泥せざるを得なかった」という可能性もある。彼が度を越したオタクであることを考えれば、そういう推論だって立てられる。いや、庵野だけに限らず、大部分のオタクとはそういう生き物だ。排他的思考の殻に籠り、しかし肥大化し続ける自我で「世界や他人を拒絶し支配してやる」「他者には理解できない世界に浸る孤独な自己優悦こそが至高」と臆面なく口にする……自分の好きなモノだけに囲まれ続けているオタクの自意識は、時として「現実と虚構との境目を曖昧にする」のだ。しかし曖昧になればなるほど、むしろ、自己中心的で自意識過剰な、腐臭を放つ昏い欲望の存在がはっきりしてきてしまう。それはオタクがオタクであるがゆえの、逃れられない呪縛である。その呪縛に最も苦しんだのが、他ならぬ庵野秀明であることは、数々のインタビューや著作を読めば明らかだ。その呪縛に飲み込まれてしまったのが、TVシリーズの最終話であり、その変奏曲にすぎない旧劇である。


まるで「自我が全てだ」とでも言い切るかのように「表現としての身体など知ったことか」な演出を続け、「ぼく」や「わたし」といった「自我」の押し付け合い、泥仕合を描いたTVシリーズおよび旧劇のエヴァ。世界観を広く見せるような設定を配置しておきながら、しかし最終的には個人の内面世界の描写へと没入していき、限りなく「小さな個人の話」として妥協せざるを得なかった作劇は、90年代末当時の庵野秀明の、ある種の限界や行き詰まりとして映る。それは「行き過ぎたオタクであることに迷い苦しむ者」としての限界や行き詰まりでもある。


徹底して「表現としての肉体」を削いだ物語を彼が作ったことに、彼自身のクリエイター&個人的な嗜好(人よりメカを描くのが得意だったり、肉や魚といった「生命」を身体的に受け付けない気質)が関係しているかは知らん。けれども「ぼく」や「わたし」の内的宇宙の描写を掘り下げていった果ての到達点として他者を取り込むことが可能で、他人と向き合う世界が見えてくるのかと言われたら、私は「ない」と断言できる。だって、そこには最初から最後まで「自分」しかいないからだ。もし見い出したとしても、それは(『花束みたいな恋をした』で描かれているような)自己の中で合同化・様式化された疑似的な他者、頭の中で良いようにこねくり回した他者に過ぎず、本来の意味での不可解で奇妙な存在としての他者ではない。それゆえに、首を絞めた相手から「気持ち悪い」とそしりを受けたことで「他者を描いた」と主張しても、不可解であるからこそ向けるべき「他者への敬意」や「尊重」を欠いて「理解しよう」とする努力すら放棄している以上、旧劇の結末については、もう何も言うことはない。


では、シンジが向かい合うべき他者とは誰か。この『シン・エヴァンゲリオン』には、様々な他者がいる。それはアスカでもなければレイでもない。それはミサトであり、鈴原サクラであり、北山某とかいう飲尿ピンク髪の女だったりするが、最大の他者として君臨するのは、何を隠そうシンジの実の父親である「碇ゲンドウ」その人だ。


『アメリカン・ビューティー』や『普通の人々』や『ジョジョリオン』を持ち出すまでもなく、家族とは最も身近な「血が繋がっているだけの他者」である。家族だからこそ分からない。父親だからこそ、なにを考えているのか分からない。息子の近似としての父、父の近似としての息子。それは決して、安易な合同化など絶対的に不可解な、疑似的な自己として折り合いをつけることすらおぞましい「他者」だ。(事実、今回の碇ゲンドウはガチのマジで「不可解な」「肉体ある他者」としてシンジの前に立ちはだかるんです)


他者の肉体だけでなく、自己の肉体について自覚的であるかどうか。『シン・エヴァンゲリオン』ではそこも描く。少なくとも今作に携わったスタッフたちは、旧劇に登場した全裸の巨大な綾波を「アホらしい」とゲラゲラ笑い飛ばせるくらいには、社会に在って、他人との適切な距離によって立ち現れる自分の肉体について自覚的であったんじゃないかと思う。その自覚的な態度は、決して客の期待に追い詰められたが末の苦し紛れな開き直りなどではないと感じる。エヴァの呪縛に囚われて「14歳の肉体から成長しない」という枷をつけられたシンジが、「14年分の年を取った世界」に、どうやって折り合いをつけていくのか。成長してしまった世界に「14歳の肉体のまま」留まるのか。それとも「14歳の肉体」を言い訳にして、「置いていってしまった世界」に馴染めないとふさぎ込んでしまうのか。それとも「14歳の肉体」に恐れず、誰かと適切な抱擁を交わすのか……と、ここまで明らかに「肉体と社会」の関わり合いを描いているのだから、旧劇の頃とはずいぶんと様変わりしている。飾りとしての、作り物としてのエヴァを、文字通り「飾りとして、作り物として」赤裸々に、それこそ「ミニチュアセットにおけるフィギュアのように」「つたない子供の特撮撮影を真似たお遊び」として、ものっそい動きのリアリティラインを下げて「適当に」いじくり回すことで、逆説的に「肉体」について「気付きを与える」というのも、私はなかなか面喰いました。まー、あれは誰でも面喰うと思うわ。


では、誰に気づきを与えているのか? それは「リアル」と「フィクション」の端境に立つ者……言うまでもなく「現実の世界」にいながら「スクリーンに映る虚構」を楽しむ観客に対してだ。何十、何百とこれまで描かれてきたエヴァという借り物の肉体による闘争を前提とした解決を目指すのではなく、歩みよりによる他者との対峙と価値の交換を経て……情けないほどに生臭い肉体同士のコミュニケーションを描いて『シン・エヴァンゲリオン』は他ならぬ観客ひとりひとりに「表現としての肉体」について問いかけてくる。つまり「社会で生きていくうえでの身体性」について。もっと言えば「オタクの肉体」について語りかけてくる。自らの趣味で満たされた虚構の世界に閉じこもるのもいいけど、肌で感じるコミュニケーションで溢れたこっちの世界も広いし面白いよ? と現実世界への水先案内人としてお伺いを立ててくる。だが思うのは、むしろオタクという生き物は規範や倫理で縛られる現実社会に「どうしようもない狭さ」を感じたからこそ、無限遠に続く広大の代名詞たる虚構を求めたのではないか? そして、仮にその通りだとしても、それはそれでいいのだと、この映画は言っている。


リアルな風景の中に虚構のキャラを配置するような「バランスのある」あからさまな演出を見ても分かるように、この作品は決して上から目線での「はい! 夢を見る時間はおしまい! さぁ現実世界へ強制送還!」な映画じゃないんですよ。つまりは、虚構を「求めてもいい」けど「そこを逃げ場にしちゃうのは"不健康"だよ」と「現実に"虚構”を混ぜた」ラストシーンの提出を以て、我々観客に諭しているんですよ。けどね、他ならぬその"不健康さ"で満ち満ちたTVシリーズを作り上げてオタクの人生を狂わせておきながら(いや、狂ったのはオタクの勝手だとしてもだ)、俺たちを精神的に置いてきぼりにしてずいぶんとご立派なことを口にしますね、と口をひん曲げてそっぽを向くオタクが出てくるのも、まぁわかる。だってオタクとは永遠に子供の世界に閉じこもっていたいものだから! 排他的で自意識過剰で保守的で自己中心的で一見豪胆に見えてその実は羽毛よりも繊細なハートを持ち、映画レビューの中身を非難されたら通常の3倍の文量で反撃してその人が元ツイートを消すまでメタメタに貶し、だが一方で同調する意見を送られてきても「返信がめんどくさい」の一言で一か月以上反応するのを放置してしまう怠惰な完璧主義者。だからこそ「自分の世界を押し付ける」というかたちでしか世界に関われないし、そういう分厚い壁越しの関わり合いで良いと明確に口にしないまでも態度で表すわけです。


でも本当にそうか? とこの映画はいまいちど諦めずに問いかけてくる。そう思っているのは君の「自我」だけなんじゃないかと。「肉体」は決してそうではないんじゃないかと。誰かを傷つけるのと並行して誰かを救えるのが人間なのだとしたら、自分の世界も他人の世界も等しく愛し、誰かと抱擁を交わすことも出来るのではないかと。「ひとつの世界しか選び取れないなんて、そんなの誰が決めたんだ」「極端な罵声と極端な賛辞。極端な拒絶と極端な依存。それ以外のやり方でも人は人と関わり合えるし理解できるはずだ」と、人間賛歌を高らかに謳いあげる『シン・エヴァンゲリオン劇場版』。



「エヴァ以降の一時期、脱オタクを意識したことがあります。アニメマンガファンや業界のあまりの閉塞感に嫌気が差してた時です。当時はものすごい自己嫌悪にも包まれました。(中略)けど、最近は少し変化していると思います。脱オタクとしてそのコアな部分が薄れていくのではなく、非オタク的な要素がプラスされていった感じです」――『監督不行届』(作:安野モヨコ)より抜粋



そこにあるのは、もう「自我」に拘泥して独りよがりな決断を下してどこかへ去ってしまうオタクの姿ではない。過去の自分を捨てるのではなく、脱臭するのでもなく、過去の自分にプラスして前を向こうとする「オタク 2.0」とでも言うべき姿を見せつけてくる。現実を知らないオタクと現実を知るオタク。この、一件して相反しそうな二面性の同居は、「剥き出しの社会・グロテスクな社会」という「社会の一側面」のみを強調してきた『Q』に対し、「そうでない社会もあるのだ」と主張し、実際にそういう社会を「第3村」の掲示によって展開する『シン・エヴァンゲリオン』と比較すれば、否応なしに新劇場版シリーズとしての、あるいは作品単体に宿る「バランスの良さ」そのものを意識させる。その証拠に、実際の撮影に入る前にプリヴィズを徹底し、CG描写における画面構成や演出強度の出力調整に余念のない『シン・エヴァンゲリオン』は、今石、すしお、吉成などのケレン味のあるアニメーターの持ち味を発揮しつつ、決してオタク的濃度の高い作画ばかりに傾注しないのである。この「バランスの良さ」に支えられた作画の塩梅は、かつて虚構へ逃げ込むのがガチオタの特権だったのが、今はライトなオタク層にもその傾向が大いに見受けられることを考えると、そういう人たちに対する、ある種の目配せなのかもしれない。いずれにせよ私が思うのは、「バランスの良さ」とは、言い換えるなら振り切ることを止めて「中途半端」であることを良しとする宣言だ。だから、誤解を恐れずに言わせていただくと、この映画に作画的な面でオタクである私が「燃える」要素や「興奮する」要素はなかった。鈴原サクラには興奮したけど、それはキャラ属性であって作画じゃない。『序』における、夕焼けをバックに第三新東京市のビルがにょきにょき生えてくるシーン、『破』における、第8の使徒迎撃作戦時における「いかにも」な作画がもたらしてくれるオタク的興奮は、ここにはなかった。「興奮」よりも「寂しさ」が勝ったのだ。26年の長きを経て、沢山傷つき、沢山の人を救い、沢山の世界と交わってきた人間が、すでに別の、大人としての当たり前なステージに当たり前の顔で立っていることに気づいたことの「寂しさ」。その寂しさが、私の涙腺を刺激してきたのは言うまでもない。


私はエヴァに関しては浅いニワカですけれども、それでもやっぱり胸にくるものはあるんです。26年の歴史の中で、作品ごと庵野監督自身が沈んでもおかしくない、とんでもない屈折を二回もしているわけですからね。その二回の屈折でマイナスからのスタートになったことを考えると、ものすごく常識的で当たり前なことを口にしたラストであるにもかかわらず、自分でもどうしたとセルフツッコミを入れたくなるくらい、心が安らいだのは確かなのよ。それは「オタクであると同時にオタクでない」という「普通の大人としての」人生を選択した庵野監督その人を、スクリーンの向こうに感じたからなんですよ。これがね、ポッと出の作品がやったところで見向きもされないんだろうけど、やっぱエヴァだからでしょ。26年間もあーだこーだ言ってたわりには「世界は美しいんだ」「世界を肯定していいんだ」という、非常に当たり前で凡庸な着地点を選択したわけですよ。でも、この凡庸な選択こそが、エヴァという物語にとっての重要な選択であり、そこから導き出された結末に、我々は世界へ向かい立つ一人のオタクの背中を観るのです。


オタクとして生きる「呪い」を背負ったっていいじゃないか。無理に解呪する必要なんて、どこにもないんだ。たとえ「呪われ」たままだとしても、この新世紀(ネオン・ジェネシス)で、私たちは誰かを愛せるし、誰かに敬意を抱けるし、誰かの世界を守りたいと、真剣に願うことができるのだ。あなたが、あなた自身の、けっして綺麗なままではいられない生臭い肉体と、あなた自身の生臭い感情と向き合い、他者を尊重する心を持ち続ける限りは……そのようなメッセージを告げて、この作品は幕を閉じるのです。


と……いろいろ語ってきましたが、まぁーね。難しい話は言いっこなしです! 結局のところ映画は「救い」でもなければ「罰」でもないわけで。映画はどこまで言ってもただの娯楽だしそうあるべきだと私は思います。その娯楽から「何を持ち帰るか」「何を持ち帰らないか」を選択できるのが観客が行使すべき最大の特権なんだから、何か持ち帰らないと損じゃね?という貧乏性な考えをしている私の独り言でございました。

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[一言] 鈴原サクラのせいで僕のエヴァは終われない。
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