【第61回】哀愁しんでれら
『“家族”――それは“幸せになるためのプラットフォーム”』
今年に入ってから観てきた新作の全てをこの映画レビュー集に掲載しているわけではないのですが、実際良い映画と悪い映画の比率で言えば「良い映画」に巡り会えている比率の方が高くて、本来なら喜ぶべきところなんでしょう。
ですが、どーにも自分のハートにグサリと突き刺さる作品に出会えていない……というのが本音だったんですよね。たしかに『燃ゆる女の肖像』も『花束みたいな恋をした』もいい映画、万人受けしそうなドラマではあるんですが、「自分の好きな映画」ではないってところで、妙に熱が冷めてしまうのもまた事実。
ヒットは打ってるんだけどホームランが出ない。ホームランを狙って打席に立っているのに。野球に例えるとそんなところなんです。
しかーし! ついにホームラン級の良作サスペンス映画に出会えたことで私のテンションは爆上がり! ですがですが、ネットでの評判はイマイチ……つーか二分されています。「こんな映画大嫌い!」という人もいれば「こういう映画を待っていたんだ!」という人もいるという、なんともいい形での認知が広まっている映画なのです。
ですがですが、個人的にはかなりメチャクチャ良い意味で衝撃を受けた映画でござんした。ということで、こりゃ全力で応援せねば!と決意を固めた浦切三語、全力全身で褒めちぎりレビューを書いていこうと思います。
この映画の「日本映画史に残ること間違いなしなラストシーン」を劇場で観ずしてどうするんだ!
【導入】
どん底な生活から一転して幸せの絶頂を迎えた、まさに「シンデレラ・ストーリー」な人生を歩む女性が、「家族」という名のトラウマに囚われて転落していく様を描いたサスペンス映画。
監督は、日本が生んだ若き才人・渡部亮平。デビュー作にして自主制作映画『かしこい狗は吠えずに笑う』に引き続き本作が二本目となるわけですが、本格的な商業映画デビューはこれが初。2012年に公開された『かしこい狗~』はたった一週間のミニシアター公開ながら、その日本映画離れしたサスペンスフルな出来栄えと「いまエビ食ってんだよ!」などに代表されるユーモラスな台詞運びが公開直後に口コミで話題になった、いま最も注目すべき若手監督の一人です。
主演は土屋太鳳。普段から邦画を見慣れている方からしてみれば「何をいまさら」って感じなんでしょうが、私の中では『青空エール』の頃で時間がストップしてしまっていたので、最初スクリーンに映っている姿を拝見した時は「めちゃくちゃ美人になっとるやんけ!」と驚愕。今回彼女が演じたのは「家族」という枠組み、その中でも「母親」というポジションに愛憎を抱いている児童相談所職員という非常に難しい役どころなのですが、これを見事に演じ切っています。
そして土屋太鳳の相手役、本作における「白馬の王子様」的ポジションの開業医役を『おっさんずラブ』『スマホを落としただけなのに』の田中圭が演じています。ここのところ、なんか気の抜けたコーラみたいな演技というか役の多かった田中圭ですが、今回の田中圭には「スゴ味」があります。ぜひ劇場でご確認ください。
そして、本作のカギを握っていると言ってもいい存在、田中圭の娘役を新人子役のCOCOという女の子が演じているのですが、この娘の演技がいい塩梅のクソガキ具合で、終始イイ意味でイライラされっぱなしなので最高でした(笑)。
そのほか脇を固めるのは、今や浜辺美波とその人気を二分していると言っても過言ではない山田杏奈、三池崇の傑作ホラー映画『オーディション』で主演を演じた石橋凌など、若手からベテラン勢まで良い具合に配置してます。
さらには、『かしこい狗~』にて展開のミスリードを担っていたあの特徴的な顔つきの仁後亜由美が、市役所の職員役として一コマだけ映っているのもいいですね。前作をご覧になった観客へ対する監督なりのサービス精神という奴です。
【あらすじ】
児童相談所に勤める二十六歳の福浦小春は、サイクルショップを営む父と高齢の祖父、大学受験を控える妹の四人で一つ屋根の下で暮らしている。十歳の頃に実母が家を飛び出して行って以降、小春は家族の晩御飯を毎日作るなど、母不在の家庭において「仮初の母」としての役割を押し付けられていた。
そんなある日の夜、祖父が脳梗塞を患い、風呂場で倒れてしまう。大慌てで祖父を乗せた救急車に同乗して病院へ向かう一家だったが、その道中、救急無線から実家のサイクルショップが「火災」に見舞われているという情報が流れてくる。嫌な予感を覚えた小春は家族を救急車内に残して一人急いで家へと戻るが、そこで彼女が目にしたのは、炎に包まれた我が家だった。原因は家を留守にした際の火の不始末。不幸中の幸いにして人的被害は無かったものの、消防士たちの懸命の消火活動もむなしく、店舗だった一階部分は全焼してしまう。途方に暮れた小春は、悲しみを紛らわせるために長年付き合っている彼氏の家へ転がりこもうとするが、職場の先輩と彼氏がベッドの上で愛し合っている様を偶然にも目撃してしまう。
修羅場から逃げ出した小春は、あてもなく夜の街をさ迷い続けた。一夜にして全てを喪った彼女がぼんやりと踏切の前に立った時、ひどく泥酔した様子の男が、踏切を乗り越えて線路へ倒れ込むのを彼女は見た。信号機が機械的に鳴り響く中、小春は正義心に駆られて男性を救出すると近くの公園へ連れていき、一夜を通して男性を介抱する。
ようやく酔いから覚めた男性は自分のしたことを小春に詫びると「あなたは僕の命の恩人だ。困ったことがあったら何でも相談してほしい」と告げ、一枚の名刺を差し出し、タクシーに乗って去っていった。男の名は泉澤大吾。泉澤病院の院長を務める開業医だったのだ。
その数日後、踏切の件のお礼と称して大吾は小春を高級ブティックへ連れて行くと、目玉が飛び出るほどの高価なドレスと靴をさらりとポケットマネーで買い与えてしまう。大吾の庶民感覚からかけ離れた行動に驚き遠慮する小春だったが、彼が数年前に妻を交通事故で亡くし、今は八歳になる娘のヒカリを男手ひとつで育てているという話を聞いて好感を持つ。
大吾は仕事を失くした小春の父に納棺師の仕事を斡旋するだけでなく、脳梗塞で入院した祖父を大したサービスもしない市民病院から、自分の師匠筋に当たる病院長が経営する病院へ移転させるなど、小春への恩返しを続けていく。大学受験を控えた妹にも無償で勉強を教える大吾の姿を見るにつけ、小春の中で大吾への想いはますます大きくなっていった。それは大吾も同じだったようで、ある日、海辺に小春を連れ出した彼は、想い切ってプロポーズする。「ヒカリには母親が必要なんだ」という、どこか一風変わった告白の台詞を。
家族の後押しもあって、小春はヒカリの誕生日に大吾のプロポーズを受け入れる。大吾は喜びに沸き、娘のヒカリもすっかり小春になついた様子だった。華やかな結婚式の当日。友人や家族からの心温まる祝福を受け、どん底から一転して幸せの絶頂を迎えた小春の姿は、まるで「おとぎ話」のヒロインそのものだった。
そして、家族三人での新しい生活が始まる。幼い頃に母親に捨てられたことがトラウマになり、児童相談所に勤めているという仕事柄、子育てを放棄した無責任な親たちを数多く見てきた小春は、彼女らを反面教師に、ヒカリにとっての「完璧な母親」になることを目指すのだったが……そんな固い決意が後に、社会を震撼させる凶悪事件の「引き金」になろうとは、この時は誰も知る由もなかったのである。
【レビュー】
以前、つってもだいぶ昔になるんですが、伊坂幸太郎の『重力ピエロ』を読んだウチの母親が『親っていうのは子供を産んで親になるんじゃなくて、子供と一緒に成長して親になっていくものなんだよ』というなんだか田舎の専業主婦に似つかわしくない格言めいたことを口にしていたことを、この映画を観終わった後に思い出した。それってどういう意味なんだろうと当時高校生だった私にはよく分からなかったんですが、弱みを子供に見せてこそ本当の親だということを言いたかったんじゃないかな。だから私は母の嫌なところや弱いところや直して欲しいところをめちゃくちゃ列挙できるんだけど、そういう弱みを知っている間柄だからこそまだ「家族」という共同体を形成していられるんだと思う(父親はもうとっくの昔に死んでるからどー思っているのか知らんが)。
ところがこの映画における土屋太鳳も田中圭も、自分の弱さというのを子供には絶対に見せようとしないで、つねに「完璧」であろうとし続けるんですよね。子供にとっての完璧な母親であり父親であろうとする。演じるんではなく「心の底からなろうとする」からこそ暴走に歯止めがかからず心がぶっ壊れていくというね、そういう映画なんです(どーいう映画だ)。
なんかのっけから独身男が分かったような気になっている文章を書いてしまってごめんなさい。まぁそういう難し気な話はとりあえず脇に置いとくとして、純粋に「ジャンル映画」として面白いか面白くないかという点から話していこうかと思うのですが、まぁ当たり前っちゃあ当たり前かもしれませんが、フツーに、いや、かなり面白い映画で、個人的には大満足でした。
めちゃくちゃサスペンスフルでユーモアがあってね。少なくともダークファンタジーやりたいんだかホラーやりたいんだかよく分からない中途半端な『樹海村』や、クソダサ爆破シーンの向こうに監督のドヤ顔が透けて見える『サイレント・トーキョー』など直近のシネコン邦画と比較したら、そらぁもうめちゃくちゃ真面目に真正面から「ジャンル映画」に取り組んで「サスペンス」としての佇まいを獲得しているので、面白くないわけがないんですよ。『花束みたいな恋をした』は全然私に刺さらない映画だったけど、これはめちゃくちゃ刺さった。なんなら「家族」という誰もがその所属因子に違いない原始的コミュニティを描いている分、こっちの作品の方が沢山の共感を集めてしかるべきではないかと思うのですが、どうもSNS上では賛否両論別れているようでちょっとねー、個人的にはおかしいんじゃないの? と思うんです。だから全力で擁護して褒め称えるレビューを書こうと思って、こうしてキーボードをカタカタ叩いているわけですが。
渡部監督の前作にしてデビュー作『かしこい狗は吠えずに笑う』と基本的なお話の構造は同じなんですよね。『かしこい狗~』の前半部分は百合風味の青春映画っぽいルックで進んでいくんですが、ところどころで不穏なニュアンスを含んでいて、その含みが後半へ至るとドドドドドドッ!と爆発して映画のルックをガラリとサスペンスに変えて観客を翻弄させて、最後には観客の意識をさらりとスイッチングさせるという構成だったんですが、この『哀愁しんでれら』も同じなんですよね。前半はそれこそ『しんでれら』と名のつく通りまさにシンデレラストーリー。母親代わりとして養っていた家族に様々なトラブルが舞い込んできて家は火の不始末で燃えて10年付き合っていた彼氏は職場の先輩と不倫して、何もかもを喪ったどん底の状態で「白馬に乗った王子様」に拾われて一発逆転な玉の輿に乗る。この前半部分は非常にテンポ感が良くてサクサク進んで、それでいて後半の物語をドライブさせるための不穏な「含み」はしっかりと押さえた演出になっているので、興味の持続が途切れません。
そこから先、つまり後半はもう、作品のルックは「おとぎ話調」の前半からガラリと変化してサスペンスに次ぐサスペンスです。このサスペンスの駆動に一役買っているのが『おっさんずラブ』や『スマホを落としただけなのに』など、最近どーも温めな演技ばかりやっているなという印象の田中圭演じる異様さを秘めた旦那とその旦那の連れ子なんですが、この連れ子の憎たらしさといったら! 子役特有のオーバー気味な演技の連続なんですけども、それがマイナスに働いていないんです。カメラワークや演出周りが「異様さ」を上手いこと煽り立ててくるので、子役のオーバーな演技が浮いて見えない。それどころかオーバーな演技をすればするほど、作品の不穏な空気を生み出すのに上手く作用しているんですよね。ここらへん、内田英二監督の『グレイトフルデッド』や『獣道』に出てくる「頭オカシイ系幼女」を彷彿とさせます。
子役の演技がオーバーであればあるほど、田中圭の「一見まともそうに見えるけどやっぱり決定的にいびつなその家族観」が垣間見えてくればくるほど、どんどん良い意味での「異様さ」が際立つサスペンスな展開になっていく。そこで主人公たる土屋太鳳がすることは何かと言うと、新たに手に入れた家族の在り方を是正しようというのではなく、異様な家族観を押し付けてくる田中圭に嫌気が差して家から飛び出そうというのでもなく「しがみつく」んですよね。家族というコミュニティにしがみついて離れないわけです。
おそらく賛否両論が起こる要因はここにあると思うんです。逃げればいいじゃん、そんな家族に付き合う必要ないよ! なんで主人公がこんな行動をするのか全然理解できません! と思う方もいるでしょう。しかし、それは映画をしっかりと能動的に鑑賞していれば全て分かることです。つまり土屋太鳳演じる小春の中には「幸せになるためのプラットフォーム」なるものが最初からあって、それが「完璧な家族」という形態でがっちりと固定されているってことなんですよね。「わたしの考えた理想の幸せのかたち」から逃れられないからこそ、彼女は「家族」という形態にしがみついてしまうんです。
この「幸せになるためのプラットフォーム」というのは実に厄介極まりないものですよ。だってそれは「幸せ」という属性を常に持っていなければならないわけですから、幸せの純度を低下させるような因子というのは徹底的に親の視界から排除されていくんですよね。家族って、子供が外から何かしらの問題を家庭に持ち込んできて、その問題を前に母親なら母親のスタンスで、父親なら父親のスタンスで子供を叱ったりアドバイスを与えたりすることで子供を成長させて「家族」という共同体を成熟させていくのが普通っちゃあ普通なんでしょうけど、土屋太鳳も田中圭もそういうことを一切しない。なぜならこの夫婦にとって「子供が家庭に持ち込む問題」は、それが「問題」という性質を備えて家庭に持ち込まれてしまった時点で「家族=幸せになるためのプラットフォーム」の強度を弱める「不純物」でしかないと信じ切ってしまっているからで、だからねーそこが悲しいですよね。「常に幸せの絶頂であらねばならない」というジョジョのディアボロめいた強迫観念に突き動かされていくところとか、「不完全な家庭環境」「欠落した家庭」(と思い込んでいる生育環境)で育ってしまったからこそ「完璧な家族」を希求するその姿勢は痛いほど伝わるんですが、結局のところは「観測上の完璧」しか知らないという無力感を誤魔化すために、あらゆる問題から目を背け続けるというのがねー……でもそういう行動の裏に「家族の幸せ」という要素を持ってくるというのが、これもうほとんど暴力みたいなものですよ。
「女の子はみんな、漠然とした不安を抱えている。私は幸せになれるのだろうか」
この印象的な土屋太鳳のモノローグから始まる本作は、つまるところ「完璧で幸せな家庭を築くことが、自分が幸せになるためのプラットフォームだ」と信じて疑わない女と男の悲喜劇なのです。では、なぜそこまで家族に固執するのか? それは自らの過去に起因する欠落やトラウマを克服したいという心の働きゆえなのでしょうが、一つ言えるのは「幸せになるためのプラットフォーム」は個々人で異なるってことです。
この映画では「家族」という共同体の中で献身的に振舞う人たちだけでなく、そこから外れていった人たちについても言及されています。土屋太鳳の母親や田中圭の元妻は、旦那や子供を捨てて家から出ていった。つまりそれは、彼女らの「幸せになるためのプラットフォーム」が家庭にはなかったことを意味します。
ですが、田中圭の師匠筋に当たる病院長の台詞からも明らかなように「母親のくせに」家を捨てて「女性性」を選び取った女は、家庭の中で「父性」の側に立つ者からすれば許し難い裏切り者なのです。病院長に代表される「父性」側の人々は、家庭における母親、つまり「母性の確立」こそが「幸せな家族」を生み出すのに必須だと考えています。つまり、女性に個人であることを捨てて家族を支える記号的属性である「母親」であることを強要することを意味しているんですね。
これがフェミニズムに押される現在のハリウッド映画なら「母性」を捨てて「女性性」であることに価値を見出す映画……つまりこの映画で言うと、田中圭と決定的に対立する土屋太鳳を描くことで女性の自活や自立や「幸せに至る選択肢は家庭だけに限定されない」という結末を描いて女性の「社会的な力強さ」を訴える映画になりそうなものですが、そうはならないってところに、この映画のオリジナリティな部分があると言ってもいいでしょう。
「人生を楽に生きるには無理に幸せを求めないことだよ」という『パラサイト 半地下の家族』の父親めいた言葉を放つ友人に理解を示さず「良い母親であれと言うんだったら、じゃあ頑張っていい母親になります! 血が繋がっていない連れ子でも関係ありません! 頑張って愛します! だって私は幸せになりたいから!」と意固地になり、他人同然であるはずの家族社会の中で自分から女性性を捨てて母性を優先させていく土屋太鳳。そのほとんど投げやりと言ってもいい滅私奉公な姿勢こそが、「母親」という役割を完全遂行することで「幸せになるためのプラットフォーム」がより強固になると信じて疑わない彼女の視野狭窄な信念と精神の崩壊具合を観客に強く印象づける映像となり、結果的にサスペンスを生み出している。制御の効かないジェットコースターのように「どれだけ連れ子がクソな性格をしていようと、良い母親であろう、完璧な母親であろう」というベクトルのみに力を入れていく彼女の姿勢は、自ら進んで「家庭」という名の「迫っ苦しい牢獄」(だがそれは同時に、土屋太鳳にとって「幸せになるためのプラットフォーム」)に収まる姿そのものであるから、極めて悲しいことこの上ないのですが、だからこそ圧倒的にスリリングなのです。
さて、こうなってくると問題なのは男の方です。つまり田中圭ですね。いやーほんとにこの人の演技が良くてね(笑)。こういうマッチョな役も演じられるのか―と感心しました。え? 田中圭ってマッチョなの? と思う方もおるかもしれませんが、いやいや今回の彼は十分にマッチョですよ。軍人上がりの皇帝というオス度満点のモチーフであるナポレオンの格言を引用して「子供にとっての善き母親」であることを強要するのですから、これを「マッチョな男性性」と言わずして何というのか。「育児は全部妻任せ」な姿勢を頑として崩さないのですが、彼もまた家族に対してトラウマを抱いており、土屋太鳳と同じく「幸せな家庭を築くことが、自分が幸せになるためのプラットフォームだ」という考えに縛られている。ですから、あの焼却シーンは至極当然な流れなのです。あの筋肉質なマッチョイズムを彷彿とさせる自画像の焼却は、まごうことなき男性性の放棄と「父性」の獲得を意味しているのです。
つまりこの映画、表向きにはサスペンスとしての「ジャンル映画」なのですが、その裏側で描かれているのは「迫っ苦しい家庭における母性と父性の確立」に他ならないのです。
いやこんな歪な夫婦のどこに父性や母性を感じろというの!? と言いたい人もいるでしょうがね、しかし「世間にとって毒にも薬にもならない健全な家族であること」を第一主義とする空気や、種々の教育問題を極端に単純化して解決した気になっているこの社会の欺瞞こそが、こういう怪物めいた夫婦を生み出した遠因になっているのではないか? と私は思うんですよ。「子供にとっての善き母親であれ・善き父親であれ」と同調圧力で追い込んでいき、そこから脱落したら親どころか人間失格な空気を生み出してきたのは他ならぬこの現代社会であり、それに対してこの映画は「開き直った母性・父性」を観客に見せつけているのです。たしかにそれは開き直ったことにより、ある種のいびつさや暗澹さを獲得していますが、母性・父性であることには間違いないのです。剥製のウサギはたしかに中身空っぽな剥製ですが、見てくれは完全なウサギです。それとまったく同じなんですよねー。
これまでも、そして今でも社会は「健全な家族」という「上っ面のまともさ」だけを求めているのであって、だったら中身がどれだけ腐っていようと空虚だろうと、見てくれや表向きの行動に子供を思う気持ちが込められている「ように見えさえすれば」、それは「健全な家族」として機能していると言えますよね? 言えないの? という『家族ゲーム』以降ずっと続いている「"健全な家族"という名の"虚構"を求めたがる世間」に一石を投じる作りになっているのです。その一方で、花田優一が親父さんと絶縁した原因を「母親が息子を甘やかしたせいだ」として事情をよく知りもしない外野連中がよそ様の家族の問題を全て母親へ一極集中させる独善的論理がまかり通っているその傍らで、森喜朗の女性蔑視発言に対する批判コメントが溢れ返っているという、このなんとも珍妙でずる賢い当事者意識の欠けたダブルスタンダードな姿勢で満ちる現代社会を痛烈に皮肉った話とも見て取れるので非常にタイムリーなことこの上ないって見方もできるんですよね。
そういうわけで、根底にあるものがどれだけ傲慢で混沌とした腐臭を放とうとも、ここで描かれている「母性」「父性」のルックは、間違いなく「母性」であり「父性」なのです。
そしてそしてラストですよ! もうねぇ、この「幸せのプラットフォームを絶対に崩されてたまるか!」という執念に満ちた「防衛戦」を描いたラストは圧巻という他ありません。「なぜこんなラストに至るのか分からないよ!」とおっしゃる人も中にはいるみたいなんですが、いや普通に観てればわかるじゃないの!(笑)と私は声を大にして言いたい。主役の二人が「何を幸せの基準点にしているか」ちゃんと把握していれば、とても自然な流れのラストとして映るはずです。
にしても本当に凄いラストです。ここまで「凄惨」で「恐ろしい」「地獄そのもの」なシーンは近年の邦画サスペンスにはありませんよ少なくとも私の知る限りでは。うわー……マジでネタバレしてぇ(笑)。マジでここ本当にネタバレしたいっす(笑)。誰かに話したくてしょうがないわ~本当にこんな映像が観れるなんて思ってなかったんでね、本当に良い意味でびっくりしたというか、つーか渡部監督絵作りがガチで上手いんですよね。あの廊下や教室の撮り方とか……いやーこれ以上言うと本当にネタバレになるから控えますけど、とにかくこの「凄惨」「恐怖」「地獄」のラストシーンは、間違いなく邦画の歴史に残る名シーンです。だからホントに、マジで劇場で観てくれよ頼むから! 映画館は20分に一回室内の空気を完全に入れ替えるシステムが搭載されているから、ちゃんと対策していればコロナに罹る確率はめちゃくちゃ低いんだって!
哀しいことにあんまり興行収入が伸びていないのか、公開から一週間しか経過していないのにもう公開数を減らしている劇場もあったりするので、たぶん来週か再来週には終わっちゃうかと思います。大丈夫!ちょっとしたベッドシーンはあるけど全然イヤらしくもなんともないから家族で観ても気まずくありません! もちろんカップルで観てもいいし私みたいな独身にもぜひ観てほしい。とにかくこの圧巻のラストシーンを劇場で観ずして何を観るのか! いますぐ劇場へ走るべき!




