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【第59回】燃ゆる女の肖像

『ひたすらに美しく、そして官能的』


同性愛映画は、セクシャルマイノリティたちの声なき声を代弁させた物語を描いている……と一般的に思われがちだけど、実際は違う。同性愛文化を背景としながら、実際に描いているのは先の見えない将来への不安であったり、自らに欠けたなにかを補うような話であったり、人を愛することの大切さだったり、初恋と失恋を描いただけの作品であったり、一概に「セクシャルマイノリティたちの苦境や悲劇だけ」を扱っているのではないことが分かる。


ところで話はちょいと変わるが、映画というのは総合芸術でありながら、キャラクターの「心理」を直接的に描くのに最も不利な手段だと私は考えている。なぜなら、当たり前の話だけど人の心は目に見えないからだ。そしてカメラは、これまた当たり前だけど目に見えないものを映し出せない。


そういう観点で言えば人の心理を描き出すのに一番向いているのは「小説」であり、つまるところ「言葉」であるのやもしれない。もちろん言葉は不完全なものであるし、感情を言葉にすることで表現の肝要な部分が零れ落ちてしまう危険性はある。しかしながら、私たち人間は言葉を使って現実を切り取り、文化を営んできたのであり、それは揺るぎない事実である。言葉はひどく不完全だけど、しかし不完全であるがゆえに、私たちは言葉から思考や感情を汲み取る努力をするものだ。


映像は心理を説明しない。だから映画における台詞は、映像の従属物とならざるを得ない。感情の揺れ動きや複雑な心理の有様を、言葉を使ってキャラクターに喋らせる。そういう安易な選択を取る映画が多いのは、「そうしなければお客さんに理解してもらえない」のではなく、人間が潜在意識の奥で「映像は感情を説明しない」と信じているからだ。


だから私なんかは、映像が映像としての本質を変えないまま、しかしなによりも雄弁な言葉となって機能する作品を観ると、猛烈に感動する。ああ、これって本当に「映画」だと思う。自分はいま、たしかに「映画」を観ているのだと実感する。


今回レビューする『燃ゆる肖像の女』も、まさしくそんな映画だ。そしてこの作品は、ただでさえ映像的に描くのが難しいとされる心理表現のなかにおいても、とりわけ困難とされている「同性愛」の心理を描いた作品なのだ。


これで感動しないわけがない。





【あらすじ】

18世のフランスを舞台に、結婚に消極的な女貴族と、そんな女貴族の見合い用の肖像画を描くことになった女画家との恋愛模様を描いたメロドラマ映画。18世紀フランスを舞台にした同性愛映画ってーと、浦切的にイチオシの女優、レア・セドゥ主演の『マリー・アントワネットに別れを告げて』がありますが、少なくともアレよりかは物語の起承転結がはっきりしているので、フランス映画に慣れていない方でも見やすいかと思います。


鑑賞したのは『プペル』『サイレント・トーキョー』よりも前ですが、すでにリピーターと化しています(笑)。前の二作品がひどい出来栄えだったのもあって、今回は手放しで褒めちぎりますよ。


監督はセリーヌ・シアマ。『水の中のつぼみ』が代表作ってのは知ってましたが、今回初めて観ました。ちょっと他の作品も観てみたくなりましたね。


主演はノエミ・メルラン。『不実な女と官能詩人』でヒロインやってましたが、いやーやっぱ綺麗ですねこの人。『不実な女と官能詩人』に出演していた時はリーゼントヘアがあんまり似合ってない感じしたんですが、今回はよき髪型。そしてよき黒髪のツヤ。でもなによりも、この人の目が大好き。たまらねぇです。


そしてノエミ・メルランと恋に落ちる女貴族役にはアデル・エネルが抜擢されています。この方はあれですね、去年なにかの映画祭で幼児虐待で有罪判決を受けたポランスキーが監督賞を貰った時に「恥を知れ!ペドフリィア野郎!」と叫んで会場を後にした方ですね。





【あらすじ】

女は島を目指していた。男たちに交じって、揺られる小舟の中、遠くを見つめる。視線の先にあるのは、緑と岩々に覆われた、フランス・ブルゴーニュ地方の孤島だった。


女の名前はマリアンヌ。職業は画家。芸術の都・ミラノで画家としての修業を積んだ彼女を島へ呼び出したのは、孤島の館に住む、さる老齢の貴婦人であった。


貴婦人には娘がいた。名をエロイーズ。亡くなった長姉の代わりに、ミラノの貴族のところへ嫁ぐのだという。急ぎ相手方へ花嫁の肖像画を送らねばならないのだが、エロイーズは親同士が勝手に決めた婚約を承服せず、これまで館を訪ねてきた肖像画家たちを次々に追い払っているのだという。


娘に正体を気取られないように肖像画を描いてくれないかとの貴婦人の申し出を請けたマリアンヌは、館に泊まりに来た客分を装い、エロイーズの散歩に付き合い始める。


互いに言葉を交わし、それぞれの立場の違いを超えて、二人は少しずつ接近していく。ミラノは芸術の都と呼ばれるに相応しく、たくさんの音楽や文化があると、かつて住んでいた街の話を聞かせるマリアンヌ。そんな彼女と触れ合ううちに、閉ざされていたエロイーズの心は、徐々に開き始める。


その間も、マリアンヌは肖像画を完成させるために、エロイーズの姿をそれとなく観察しつづけた。耳の裏の軟骨の形から、膝の上に組まれた彼女の手の艶やかさに至るまで、つぶさに、つぶさに……そうして完成した作品は、たしかにエロイーズそっくりだったが、しかし「何か」が決定的に足りなかった。規律と観念としきたりに支配された絵画のままだった。そこにはエロイーズの「心」までは、描かれていなかった。


ここにきてマリアンヌは己の素性をエロイーズに打ち明ける。「ミラノの話を語ってくれたのは、身分を偽っている罪悪感からですか?」と冷静にマリアンヌを詰るエロイーズ。真実を知った彼女はマリアンヌの作品を否定すると「ちゃんとモデルになるから、もういちど描き直してほしい」と告げる。


これには貴婦人はもとより、マリアンヌも驚きを隠せなかった。あれだけ結婚に対して消極的だったエロイーズが、どうして自ら絵のモデルになると申告してきたのか。それは純粋に、結婚に対する考えが変化したせいなのか、それともマリアンヌの画家としてのプライドをこれ以上傷つけさせないための優しさなのか、あるいは……


残りの期日は五日間。その間に、なんとしても肖像画を完成させなくてはならない。貴婦人が留守の間に、マリアンヌとエロイーズは作業を続ける。


画家とモデル。モデルと画家。観察する者とされる者。真剣な表情で互いを見つめ合ううちに、女の心には、それまで一度たりとて抱いたことのなかった“複雑な愛の形”が、芽生えつつあった……





【レビュー】

ひたすらに美しく、そして官能的。


そんな風に、たった一行で語れてしまう映画です。たった一行で語れる映画と耳にすると「浅い」印象を抱いてしまうかもしれませんが、全く逆です。映像としての濃密な美しさと、許されない恋愛関係が放つ胸が締め付けられるような儚さを、とことん凝縮した物語の帰結として「ひたすらに美しく、そして官能的」という一語に集約される本作は、観客に「深い」感動と映画的な快楽を与えることのできるウェルメイドな作品と言えるでしょう。


本作はレズビアン映画です……と言いたいところですが、実際のところは「百合映画」なのかもしれません。あやふやな言い方ですみません。私自身、最近になって『裏世界ピクニック』を読んで、10年代の百合観やクリシェの老朽化というのを知ったばかりであるため、「百合とレズ」の違いを明確に言語化するのは至難の業(笑)なのです。しかしながら、現代における百合映画ジャンルというのは、登場人物を画面から抜いた「不在の関係性」が成り立つ作品も含まれるため、本作はレズ映画というより百合映画としての側面が強いと思われます。なにより、マリアンヌもエロイーズも「女しか好きになれない」という性的マイノリティの人種として描かれているのではなく、人間として相手を好きになったというような描写がされているので、やはりこれは「百合映画」なのかもしれません。


そうは言っても、やはり人によっては「レズビアンの映画」として本作を観るかもしれません(笑)。そして、この手の同性愛を描いた作品に対して「ドラマが適当なエロいだけの映画でしょ?」「どーせ男サゲのフェミニン満載映画なんでしょ?」という、ありがちな先入観を抱いてしまうかもしれません。


ですが決断的に口にしたいのは、本作が「エロい」だけの映画でもなければ「フェミニズム」そのものを描いた作品でもないということです。特にエロ方面で語るなら、巷にあふれるポルノ映画的な「即物的なエロさ」「節操なく消費されるだけのエロさ」というのは、この作品にはありません。


じゃあどういうエロさがあるかと言えば、それは視線のエロさです。と言いましても「いやらしい目線」「熱病に浮かされたような目線」という言葉に代表されるような、ぐちょぐちょの性的予感を孕んだアクション(動作)のことを言ってんじゃありません。この映画には「視線」という行為そのものに内包される映像的な官能表現がふんだんに盛り込まれているということです。


視線――映画が映画であるがゆえに持つ、決して逃れない宿命的構造の一つであり表現形態でもあるそれを、おそらく最も意識させるのが、レズビアンやゲイの性愛事情を描いた「同性愛映画」の特徴であると私は思います。『君の名前で僕を呼んで』や『ブロークバック・マウンテン』に、レズ映画の傑作として名高い『アデル、ブルーは熱い色』においても、好き合う者同士が互いに視線を交わす描写に比重を置いています。


しかしながら本作『燃ゆる女の肖像』は、先に上げた作品の比じゃないくらいに「視線」の描写を丹念に、丁寧に丁寧にレイヤーのごとく積み重ねていきます。物語のオープニングで、美術学校の生徒たちが主人公・マリアンヌをモデルに肖像画を描いている際の「視線の動き」から始まることからも、監督は意識的に「視線」の演出を重要視していると言えます。


マリアンヌがエロイーズの手を眺める描写。エロイーズがマリアンヌのピアノを弾く指先を眺める描写。ちらりちらりと、お互いの横顔を盗み見る描写。そしてマリアンヌがエロイーズの肖像画を描く際の、互いの視線の動きと……ねちっこいくらいに盛り込まれた視線演出と、巧みなライティング、そして、ほとんどすべてのシーンを絵画的なフレームで捉えようとするカメラワークとがシナジーを生み出した結果、非常に新鮮な官能の歓びを観客に与えています。


「同性愛映画」で「官能的」と口にすると、多くの観客は、肉欲的な濃厚接触の描写、激しい性行為描写を想像するかもしれません。しかしこの映画は、肉欲的な描写というのはほっとんどありません。確かに生々しいキスシーンもありますし、おっぱいボロロンなシーンもあります。口移しプレイもあるし、媚薬プレイもあります。ですが『アデル、ブルーは熱い色』のような、動物の交尾を彷彿とさせる激しくインモラルな長尺のまぐわい描写……卑しく言うなら「性的に使えるシーン」としての映像強度は弱めの部類に入ります。『燃ゆる女の肖像』では「絵画」と「神話」という要素が物語の味わいを豊かにするパーツとして登場しているので、『アデル~』からの影響が皆無ってことはないんでしょう。ですが、この映画では『アデル~』のように直接的な性行為は全く描かれません。しかしそれでも官能的であるのです。それは先ほども口にした通り「視線の効果」により呼び起こされる映画的な官能なのです。


この視線という効果ですが、古くから神話の世界や民俗学の世界で「邪眼」「邪視」という表現があるように、誰かを見るという行為は本質的に「支配的」な行為と言えるかもしません。恋愛当事者の性別や心境を抜きしても「好きな人を見る」「好きな人に見られる」という行為は、客観的に言って「支配と被支配」の関係性がそこで成立していると言えるでしょう。実際、『アンダー・ハー・マウス』などは、屋根の上で作業する女大工という設定を持ってきて、恋仲に落ちる女性を上から「見下ろす」という演出を使って「支配と被支配」の関係性を成立させていましたし、恋愛関係というのはある種ゲーム的な関係とも言えるので「どちらが関係性の支配権を握るか?」という部分に焦点がいきがちです。特にそういうシーンが露骨に現れるのが、ベッドシーンですね。たまに行為の最中に「お願いだから首を絞めて」と女が男に訴えるシーンがあったりしますが(あれだよ、愛の流刑地とかw)、あれなんかは視線の効果をアクションに転化させた典型で、支配と被支配の分かり易い例と言えるでしょう。


しかしながら、本作におけるマリアンヌとエロイーズは、絵描きと貴族という職業身分の違いはあれども、身分を前提とした一方的な性愛関係、「支配と被支配」の関係というのは描かれていません。二人の恋愛関係を論じる上では、「優位性」という言葉を持ち出すことが躊躇われてしまいます。それほどまでに、互いを想い合って高まりゆく情愛の濃度が、同一のレベルで描かれています。それは、何度も繰り返すように「視線」のおかげです。絵描きとモデルの関係……それは通常「見る・見られる」という関係にありますが、この常識を逆転させて「モデルが画家を見る」「見ていると思ったら見られていた」という要素を、ツァラトゥストラ風に言うなら「深淵を覗くとき、深淵もまたお前を覗いているのだ」ってな具合に盛り込んでいます。こうすることで恋愛関係の当事者間に生まれる「支配・被支配」という要素が薄まってフラットな状態となり、結果として極めて純化された関係性が構築されています。その純化された二人の関係性は、生々しい愛液の匂いを脱臭させていながらも「嘘臭い同性愛」としてではなく、「視線」の演出があるおかげで、しっかりと地に足のついた人間同士の恋愛として成立しているのです。


カメラワークやライティングも秀逸の一言です。小手先の特殊効果など全く使わない生の映像。冗談抜きで、カットの一つ一つを額縁に収めて飾ってしまいたくなるくらいに、ただ「美しい」としか表現しようのない映像が続きます。「こんな趣のある風景をよく見つけてきたものだなぁ」と感心してしまうくらい、海岸沿いの岩の形や、エロイーズが住む屋敷の外観など、なにからなにまでがフランス古典美術の世界から飛び出して来たかのような、静謐で気品ある迫力を醸し出しています。口に巻くストールのデザインや、遊戯に使うトランプの紙質など、細かいところまで拘りがあり、リアリティを増しています。


そんなリアリティあるディティール豊かな舞台で描かれるドラマも、これまた秀逸です。前半ではマリアンヌの素性がどのタイミングでエロイーズにバレてしまうのだろうかというサスペンス的な面白さがあり、後半ではお互いを思い合う情愛の速度と濃度が同レベルで高まりゆくので、ハラハラドキドキしっぱなしです。ここで言うところの「ハラハラドキドキ」というのは「早くエロいシーンを見せろ!」という性的欲求から生じるドキドキではなく、ただただ静謐な画面の奥で繰り広げられるマリアンヌとエロイーズの「共犯の関係性」(禁忌に手を染めた罪の共有)が持つ「エモさ」に対するドキドキであることを、ここに明文化しておきましょう。


しかし、本当にこの映画は舞台と設定が素晴らしいです。「結婚を渋る女貴族」の肖像画を描くために「独身の女画家」が海を渡り「本土から遠く離れた孤島」を訪れるという……マイノリティ×マイノリティという限定された要素が「孤島」という隔離された舞台に集うことで自然と秘匿性が高まっていますし、空間的に隔離された舞台を出すことで逆説的に社会常識の重みというものを実感させ、ゆえに禁忌的行為の甘美な魅力が高まり、「見ちゃいけないものを見ている」「好奇な視線」という快楽を観客は抱かざるを得なくなっているので、緊張感の凄まじく高い映画になっています。


この映画の持つ「秘匿性」を高めているのは、なにもキャラクターの設定だけではなく、マリアンヌの描いている肖像画にもそれが現れているってのが面白いです。少なくとも監督は18世紀のフランス美術を再現しようとしているのかもしれませんが、美術に詳しい人が見れば、ここで描かれるエロイーズの肖像画が、ぜんぜん18世紀的でないことは明らかです。


この時代のフランスは、質実剛健な太陽王ことルイ14世の時代がとっくに終わってルイ15世の時代になったことで、服装や装飾に女性的な要素が付与されて華美な装いが流行った時代です。男も礼装の時は女性のようなパッツンパッツンの服を着て、後ろに垂らした髪をリボンで巻くという女性的な髪型が流行しました。そうした華美装飾を反映して生まれたのが「ロココ文化」という奴なのですが、マリアンヌの描く肖像画には全然ロココの感じがしません。かと言って、当時市民階級から絶大な人気のあったグルーズやシャルダンのような風俗画の趣もありません。なんというか、どの時代にも属さない、それこそ「理性と観念としきたりに支配された」タッチの絵を描いていて、それがどことなーく男性性を意識させるつくりになっているんですね。本作ではエロイーズの肖像画を二回描いているのですが、二回ともそんな調子なので、これはワザとそうしているのか、それとも(言葉は悪いが)単に肖像画を担当したエレーヌ・デルメールさんの腕前の問題なのか……全くわかりません。しかしどちらにせよ、この「世間の主流から外れたタッチ」という要素が加わることで、ますますマイノリティ、希少性、秘匿性が高まっているので、とても「いけないものを見ている」という感覚が刺激されてたまらんのです。


ただただ静かに、視線の演出を重ねて重ねて、マリアンヌとエロイーズの許されざる関係性を描き出し、淀みなく語られていく情熱的な恋の物語。やがて近づく終わりの予兆に生木を裂くような痛みを覚えつつも、しかし確実にその時はやってくる。その「終わりの時」を超えた先にある、あのコンサートホールでの長回しシーンが、この映画を傑作たらしめているのは言うまでもないでしょう。おそらく2020年に日本で公開された映画のなかで、あれを超える長回しシーンはなかったはず。ダントツに凄い長回しです。わたしはこの長回しシーンを観るためだけに、すでに3回劇場に足を運んでいますが、何度観ても本当に素晴らしいものです。オルフェウスが夫としてでなく詩人として「妻との思い出」を愛したように、彼女もまた「愛する人との思い出」を永遠に愛そうとするあの映像。そして、それを物語の外から眺めている我々の視線……いやぁマジで素晴らしいですよこのラストシーンは。画一化され、商品化された感動映画にありがちな感動じゃない、本物の「映画的な感動」が詰まっています。


「同性愛映画はちょっとなぁ」と思っている方も、あのラストシーンには間違いなく感動するはずです。号泣するタイプの感動作ではなく、静かに胸を打つ良質なメロドラマとしての感動が詰まっていますので、ぜひ機会がありましたらご覧ください。おススメです。

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