【第58回】サイレント・トーキョー
『渋谷大爆発――そして空虚な動機だけが残った』
新年、明けましておめでとうございます。これを書いている現在は2021年1月1日の午前9時でございまして、朝風呂に浸かってスッキリしたところでございます。
それで新年早々レビューする映画が「戦争」の映画なんだから、とても物騒なことです。
しかしご安心ください。この映画、グロい描写は出てきますが、人によってはそのグロ描写にスカッとするかもしれません。実際、私もそれを目当てに行ったわけですが、まぁ明け透け(笑)な描き方がされています。正直申し上げると、残念な出来栄えです。いいところもあるんだけど、それらが上手く結びつかないでグダグダエンディングを迎えてしまった感じ。
それでも「戦争を知らない現代日本人が語る戦争」という点では、興味深い映画であるかもしれません。
【導入】
クリスマス・イブの東京を舞台に、突如勃発した連続爆破テロ事件に巻き込まれていくさまざまな人々の姿を映し出す群像劇型のクライム・サスペンス映画
原作小説『And so this is Xmas』を執筆したのは『アンフェア』などのテレビドラマ脚本を手掛ける秦建日子。『秦』に『建日』って、こらまたスゲーペンネームですね。
監督は“踊る”の本広克行の下で助監督としての経験を積み、ドラマ『SP』の監督を務めた波多野貴文。まぁ演出のやり方とか、かなり本広監督に似ているし、作品のルックも劇場版“踊る”だし“交渉人”っぽくもあるよね。
出演は佐藤浩市に西島秀俊。脇を固めるのが石田ゆり子に最近映画出まくりの中村倫也なんですが、まぁ石田ゆり子、五十路とは思えませんな。それこそ「石仮面でも被った?」ってくらいに若々しくてカワイイのでオッケー。問題は中村倫也。『アオイホノオ』の赤井役が好きな私は、最近のスカし気味の彼の演技がそんなに好きじゃありません。今回もそんな感じなので「またそれか」となりました。
あと、地味に野間口徹さんが出てます。この方もほんと最近よく名前を聞きますね。『プペル』では声優としても出演されていたので、幅広いんだなー。
【あらすじ】
12月24日。クリスマスに賑わうその日の午後、警視庁渋谷署は騒然とした雰囲気に包まれていた。今日の午前、恵比寿のショッピングモールで爆破事件があったのだ。犯行は事前に民放局のKXテレビへ予告されており、現場に出向いたディレクターが爆破の洗礼を浴びる羽目に。だが死傷者はゼロだった。現場に設置されていた爆弾は光と轟音のみを放つ、スタングレネードに酷似した手製の非殺傷爆弾だったのである。
たちの悪い悪戯なのか? しかし爆弾の性能からいって、犯人は本物の爆弾も仕掛けられる高度な爆弾作製技術を有していると、事件対策本部の指揮を執る捜査一課管理官の鈴木は各署員へ告げる。
するとそこに、恵比寿の爆破事件の犯人が、ネットに犯行声明動画をアップロードしたという情報が入った。問題の動画に映し出された犯人と思しき青年は、素面のまま「今日の夜六時に渋谷のハチ公前に仕掛けた“本物の”爆弾を爆破する。爆弾を解除して欲しければ内閣総理大臣と一対一の対話をさせろ」と口にする。この手のテロ事件につきものの金銭の要求を一切しないまま、ネットの中の犯人は姿を消した。
「これは、戦争だ」という言葉を残して。
「決して卑劣なテロには屈しない」。それが時の首相、磯山総理大臣の結論だった。総理がテロリストとの対話を拒否したということは、渋谷が大規模な爆破テロに巻き込まれる確率が上がることを意味する。渋谷署刑事の世田は危機感を抱き、相棒の若手刑事・泉と共に渋谷駅へ直行する。
二人が到着したころ、渋谷駅は異様な熱狂に包まれていた。折りしも今日がクリスマス・イブというのに加え、犯行予告動画をネットで見た若者たちが大量にスクランブル交差点へと押し寄せていたのだ。DJポリスも出動してバカ騒ぎする通行人たちを必死に避難させながら、現場では警察犬も導入しての渋谷駅構内とハチ公前の一斉捜査が行われたが、爆弾の所在は依然として掴めない。
そうこうしているうちに、犯人の「戦争開始」の時刻が――爆弾の起動時刻が、刻一刻と迫っていた。
【レビュー】
東宝が製作したこの映画ですが、ジャンルはクライム・サスペンスでございます。クライム・サスペンスと耳にして、東宝映画でまず真っ先に思い浮かぶのが『新幹線大爆破』なあなたは、もしかするとこの映画を観ると怒り狂うかもしれません。
というはこの映画、明らかに『新幹線大爆破』の影響を受けているんですが、だとしてもあんまりな出来栄えです。群像劇の描き方は甘っちょろいし、あるキャラの精神的な変遷が描かれて面白くなってきたぞと思いきや、特にこれといった活躍もなくフェードアウトしてしまうし……とにかくキャラ数が多いぶん、人物描写のリソースをそんなに割けない。群像劇なのにモブがただのモブで終わるってのがね、キツいですよね。
うーん。上映時間が100分と短いのもどうなんでしょうか。長くすりゃいいってものじゃないけど、ちょっとこれは短すぎ。「締まった」物語を目指したんでしょうが、せめて120分にすべきでしょう。語るべき物語にどれだけの時間を割くべきか……作り手側の「映画を成立させる」感覚の乏しさが浮き上がっているように感じてしまいました。
過去の大きな事件を背景にして現在の小さな事件が連続していく展開や、意味ありげな登場人物たちの振る舞いは、謎を展開させて観客の「興味の持続」を維持するのに貢献しているようで、なんか、やっぱり謎の展開の仕方がそんなに上手くないから、物語への貢献度が低く感じてしまいます。
謎の展開の仕方が微妙。そう感じてしまう最たる要因は、脚本が稚拙ということもあるけれど、なにより「クライム・サスペンス」なのに、警察が捜査している風景がほとんどないってのがデカイと思います。この物語で警察がやっていることと言えば、爆破予告された渋谷ハチ公前に群がる人だかりを整理するためにテープを張ったり、DJポリスを出動させたり、「押さないでください!押さないでください!」と野次馬どもを押し返すシーンばかり。「予告事件を未然に防ごうとする」描写が過剰である一方、犯人逮捕のための「捜査」に割かれるシーン数が少ないので、アンバランスに見えてしまう。人から人へ、モノからモノへ犯人の痕跡を辿っていくという流れのはずが、その「流れ」の映し方が下手だしざっくりカットし過ぎです。そのため、特になーんにも調査しないうちに犯人逮捕の直接的なきっかけとなる証拠が、勝手に警察の方へ転がってくる……という「間抜けか!」とツッコミを入れたくなる展開になっています。こういうのは「ご都合主義」とも言えない、ただの「雑さ」を観る側に意識させてしまいます。
ただ、この「雑な捜査」とは対照的に「予告事件を未然に防ごう」と警察が躍起になるシーンは、先ほど述べたように、とても過剰に盛り込まれています。それは、後に起こる「渋谷駅大爆破」のシーンを際立たせるための伏線的演出であり、ここが一番お客さんに見せたいシーンなんだなってのは痛いくらいに伝わってくるわけです。
渋谷ハチ公前に爆弾を仕掛けた……という犯人からのメッセージがニュースで流れても、閑散とするどころか、再生数目的のyoutuberやその取り巻きで満ち溢れ、警察の規制もなんのそのとばかりに、頭パーリナイな陽キャラどもが動物園のサルめいて騒ぎまくる光景を、これでもかとたんまり映してきます。こういう「愚衆」のあからさまな描き方は、監督が本広さんの弟子というのも関係しているのか、極めて“踊る”の劇場版と通じる部分があります。徹底して明け透けに「セックスと金とメシのことしか頭にない。何も考えてないサル並みのバカども」という風に若者らを侮蔑的に描き、そんな彼らが渋谷駅の大爆発で木っ端みじんに吹き飛ぶさまを見て、溜飲を下げる観客もいるにはいるでしょう。
しかし……これは私の考えですが、こういう「日常の中における大虐殺シーン」というのは、虐殺手段のスケールもそうですが、虐殺対象となる人たち、つまり「どういう人らが虐殺されるのか」ってのも大事だと思うんです。同じ渋谷を舞台としていながらも、ごくごく普通の仕事帰りのサラリーマンや買い物帰りの主婦、学校帰りの女子高生を次々に映し、そんな日常にいるごくごく普通の人々を遠慮なく虐殺しまくった『ガメラ3 邪神覚醒』が今なお高い評価を得ているのは、あの映画が「虐殺のなんたるか」を理解していたからです。『シン・ゴジラ』の、いわゆる「内閣総辞職ビーム」で官僚・政治家たちが避難用ヘリごと一瞬で焼き払われてしまう描写が恐怖と絶望を生み出すのは、彼らが現実の政治家たちとは比較にならないくらい有能で、国民の為に身を粉にして働いていたシーンを観客全員が観ているからです。
そういうわけで、ぶっちゃけ、サル並みの知性しか持たない(ように描写されてる)薄っぺらな若者たちがどれだけ爆殺されようが、あんまり私は興奮もしないし、映像的な快楽を覚えたりすることもないんですよねー。爆発の映像の魅せ方も、はっきり言ってかなりへたっぴいですからね。何パターンか別角度で撮った爆発ショットを何度も何度もスローモーションで流すという、テレビのドッキリ番組かってくらいのしつこい演出のせいで、実に安っぽい仕上がりになっています。3億円のセットを組んで上がってきた撮影の質がこれかよと嘆息しきりです。監督のインタビューによると「ここは没入感と衝撃を体験してほしくてこういう演出にしました」って話なんですが、映画を「アトラクション」か何かと勘違いしているんでしょうか。してるんでしょうね。だって本広監督の助監督やってたんだもん。
しつこいようですが、この『サイレント・トーキョー』で犠牲になるのは、前述したように「バカな若者たち」であります。もう呆れてしまうくらい若者「だけ」が犠牲になっています。平和な日常を「平和である」と意識することなど決してない、ただお気楽な毎日を過ごしている彼らを虐殺するあのシーンには、監督の偏見に満ちた怒りが込められていると言っていいでしょう。「ったくお前ら! 何を平和ボケしているんだ! 世界ではいまこうしている時もあちこちで戦火がフンガフンガ! それなのに日本の若者ときたらフンガフンガ! こうなったらお灸を据えてやる! くらえ! 渋谷大爆発ー!」と、鼻息荒く唾を飛ばしながらカメラを覗いていたんでしょうか。
ですが、私はこうも思うのです。「戦争を知覚できないのは若者だけに限らず、現代の日本人全てに言えることなんじゃないか」と。老いも若きも関係なく、今の日本人たちは「昔の戦争」はもちろんのこと、「今の戦争」さえも知覚できない。もちろん私も含めて。それは、人々の意識が平和ボケしてしまったからというのではなく、意識できないくらいに複雑かつ自然に、このグローバル化されたSNS社会に「戦争」という非日常的概念が日常的に溶け込んでしまっているからではないかと思うのですよ……
さて、この映画における犯人の目的。それはあらすじのところにも書いたように「日本で戦争を再現する」ことです。
おい! それってYo! 押井守の『劇場版機動警察パトレイバー movie2』じゃねーかよ! と思った方、正解です(笑)。『新幹線大爆破』以上に、こっちの影響がデカイです。さすがにパクリじゃないですけど、犯人の政治的な背景は柘植行人にかなり近しいものがありますし、そもそものテーマからいって『劇場版機動警察パトレイバー movie2』との比較は避けられない。波多野監督の師匠である本広監督が重度のパトレイバーオタで、実写でパトレイバーをやりたくて“踊る”を制作したというのはファンの間でも有名な話。そういう視点で見ると、この作品はパトの影響をかなり受けていると言っていいでしょう。「現代日本で戦争を再現する」ことに唯一成功したと評価されるアニメ作品を手本に、現代日本で、それも実写で「現代日本の戦争」を再現しようとしたんじゃないかと考察するのは、ごくごく自然のことです。
私はオシイストじゃないのでわかりませんが、どうもネットで調べてみる限り、押井監督の熱狂的なファンの中にはあの劇場版二作目のパトレイバーを「リアルな物語」として捉えている方がいるらしい。べつに人の趣味にあーだこーだ文句つける気はないですが、さすがにそれってどうなの? とは思うんですよ。だって県警の勇み足で自衛隊基地司令を基地前で拘束って、現実の日本でそんなことするかね? 緊急事態に乗じての権力拡大を目的にしても、もうちょっと別のやり方があるだろとは思う。まぁ私も『劇場版機動警察パトレイバー movie2』は大好きだし、だから色々と考えるわけですが、結局のところあの作品も「戦争そのもの」を描いているわけじゃないんじゃねーの? とは思うんです。
押井守があの映画でやりたかったことは、自身が抱いている「戦後日本的なるモノ」への愛憎をガソリン代わりに、戦争という「状況」を「空間的」に演出することだったんじゃないかしら。自衛隊の部隊が東京に展開していく場面を定点カメラで切り取ったあの「映像」がその証拠。あの映像では、時間は止まり、ただ空間の異様さだけが強調されていたのを、よっく覚えていますよ。
押井守は、あの作品で「戦争そのもの」を再現しようとしていたんじゃない。だから東京の空爆は「幻」に終わったのだし、鉄橋や通信システムは破壊されこそすれ、人を銃殺したり爆殺するシーンは(そういう人殺し描写をしないという、パトレイバー企画立案時の約束事があったとはいえ)排されたのである。
つまりこうも言い換えることができる。押井守ほどの軍事知識を持ち、かつて左翼運動に身をやつした人と言えども、「戦争そのもの」を「リアル」に知覚することは、極めて難しいことだったんじゃないかと。彼が感じていたのは、終戦直後の戦後日本の「空気」そのもので、それを醸成することと「戦争そのもの」を実際に知覚することは、全くの別物なんだろう。
ところが『サイレント・トーキョー』のスタッフたちは、たぶんきっと、『劇場版機動警察パトレイバー movie2』を「現代日本を舞台にしたリアルな戦争映画」として位置付けている。あくまでも戦争という「状況」を「空間的」に演出したあの作品を「現代におけるリアルな物語」として、彼らは捉えている。プロットがここまで似ているうえに、そのプロットに乗っかったうえではっきりと犯人に「日本で戦争を起こす」と明言させているのだから、この考えはそう的外れなものでもないと思う。そういう思想の下に描かれたこの映画の「戦争」は、実際のところは「テロリズム」としての実体を獲得しているように見える。
戦争とテロとの違いはなにか? アメリカ合衆国連邦法によれば、テロとは「政治的、社会的目的の達成を目指し、政府、市民、他の団体を脅迫、威嚇するための、国民や資産に対する強制、暴力の使用」と定義されている。つまり「政治的背景を持つ暴力形式」というわけだ。では戦争の定義とは何か。クラウセヴィッツの『戦争論』によれば「戦争は、政治的状態から発生し、政治的動因によって惹引される」とある。つまりどちらも「政治的な背景」という点を持ちながら「国家vs国家」が戦争、「非国家vs国家」がテロ、と明確に区別することができる。
だとしたら、政治的な背景を「動因」に持つ本作の犯人が引き起こす爆破事件は、設定の上ではテロということになる。実際、劇中で総理大臣も「我々はテロには屈さない」と口にしているし、フツーに見ていればたしかにやってることは「テロ」そのものに見えなくもない。かなり無理がある展開だと思うし、何も感じるところはないが、とにかく犯人はテロリズムを通じて現代日本に戦争を再現しようとしているのだ。
けれども……この映画における「渋谷駅大爆破」って本当にテロなのか? テロというほどのものなのか?
そもそもテロがなぜ「恐ろしいもの」として扱われているかと言えば「従来の戦争状況において戦術的に過ぎない破壊工作を以て、戦略級の効果を得る」ことが、9.11で実証されてしまったから恐ろしいんじゃないのか。そのはずなのに、この映画における「テロ」に「恐ろしさ」は感じない。戦略級の被害を日本が被ったような描写など全くされていない。そういった軍事上の効果が乏しいという点だけでなく、政治的な意味でも、これは「テロ」とは言い難い。爆破シーンの後に映し出されるのは、陽キャたちの腕や足がもげ、内臓から血を垂らして泣き叫んでいる「凄惨」な空間だけで、その空間の中だけで事件は消費されておしまい。爆破テロを仕掛けた犯人の訴えや思想が、事件を通じて世間に波及していき、社会問題として提起されるなんてシーンはどこにもない。つまり「政治や思想としてのテロ」でもなんでもない。結果として「戦争」の引き金には到底なりえない。
なにが言いたいのかというと、この映画における「テロ」は「テロ」ではなく「犯罪」としてしか私の目には映らないってこと。それは「凄惨」な「悲劇」に違いはないが、「恐ろしさ」とは別個のものだ。そう受け取ったのは、もしかすると私の感性が愚鈍で「戦争そのもの」を根本的に知覚できないからなのかもしれない。あるいは、無差別爆破事件が生じても、依然として壊れたオモチャのように「我々はテロには屈さない」と繰り返すだけの総理大臣を平気で登場させるという「スタッフ側の戦争知覚の欠如」に起因しているのかもしれない。
いま、現代戦争を知覚することは難しい。現代の戦争は「超限戦」という言葉に代表されるように、『劇場版機動警察パトレイバー movie2』が制作された当時と比べて、形態を多様化させ、複雑さを増している。第二次世界大戦時に見られた「突撃―!玉砕ー!」な戦争は、今はどこにも存在しない。もちろん犠牲者は出る。兵士も血を流す。それは変わらない。その部分だけが変わらないまま、戦争は「物量でとにかく押す」「大量の血を流させたほうが勝ち」というものから、サイバー戦争、貿易戦争、金融戦争という風に、血生臭さを脱臭させ、よりスマートに、コスパ重視で、戦争の当事者を代えて続けられている。そのため、現代の日本人たちにとって「突撃―!玉砕ー!」な戦争は、今ではある種の「異世界」としての機能を獲得し、それと相反するかのように、現代の戦争は「戦争」という非日常的な概念を保ったまま我々の「日常」そのものに溶け込んでいる。
ラスト付近になって、いよいよ犯人の動機が明かされるが、それを劇場で目撃した私はポカンと口を開けてしまった。「そんなことってある?」となってしまった。その内容が稚拙だからというのではない。「日本で戦争を起こす」という大それた目的の割には、犯人の動機がどこまでも乾いた「空虚さ」しか宿していないことにポカンとなったのだ。そんな動機の空虚さが、間接的に本作の制作者に代表される「現代日本人」の「戦争知覚の限界」を痛烈に指摘するかたちになっているのは、皮肉としか言いようがない(スタッフたちがそう観客が感じるように意図して作劇したかどーかは知らん)。この、嘆息がこぼれ落ちるかのようなインパクト無き展開は、テレビやニュース、あるいは人から伝え聞いた情報でしか我々日本人は戦争の実体を「断片的にしか知覚できない」という「揶揄」として機能しており、現代日本人の「戦争を“完全に知覚”することの限界」を物語り、現代を舞台にした「戦争映画」を撮ることが叶わない邦画業界の根本的な原因に直結しているのだ。
犯人がいかにして爆破物の取り扱い方法を学んだか。その場面を回想するシーンに登場するあの自衛官。おそらくは、彼および、彼と寝食を共にした戦地派遣経験済みの自衛官たちだけが、本物の戦争を知っている。
だが、彼らがどのような戦地で、どのような行動をとっていたかは、劇中ではふわっとしか語られない。推測するにPKOとして派遣されたっぽい(そーいえばパト二作目もPKOのシーンから始まってましたね)が、ここの描写は実に具体性に乏しい。しかしながら、この具体性の乏しい戦地映像と、犯人の空虚な動機が、思いのほかマッチしているのは予想外だった。
『劇場版機動警察パトレイバー movie2』のフォロー作品としては完全に失敗しているし、クライム・サスペンスとしても微妙過ぎる出来栄えで、それは間違いない。しかし、制作者側がそう意図したかどうかに関係なく「現代日本人」の「戦争知覚の限界」が描かれた作品としてみると、なかなか面白いので、そういうのに興味がある人にはおススメします。ただし、お話はクソつまらんので注意してください。