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【第57回】えんとつ町のプペル

『ディズニーに勝ってしまうなんて、さすがですわ西野様』


しつこいかもだけど改めて言わせていただきたい。


この映画レビュー集は、私が実際にリアルタイムで鑑賞してきた映画について「好き・嫌い」の観点をメインに、作品全体の印象について話すというコンセプトでやっている。その一番の目的は、ただでさえ一人当たりの映画鑑賞数が少ないこの日本で、できる限り多くの人を映画館に誘導したいということ、それだけだ。


だから私は基本的に、どんなにヒドイ映画だろうと、何か一つでも良い点があったらレビューを書こうと決意している。大体のケースにおいて、良いと感じた点と悪いと感じた点が5:5ないし6:4か4:6くらいの比率になるよう意識して書いている。もちろん、心の底から感動した映画については、全力且つ手放しで褒めちぎっている。


今回レビューする『えんとつ町のプペル』は、最初に言ってしまうと、良いと感じた点と悪いと感じた点の比率が2:8、ないし1:9くらいの割合になっている。つまり、良い点もあるしそれは素直に認めるけれど、それらをすべて帳消しにしてしまうくらいに悪い点ばかりが目立つ。


良い点が少ないのに、悪い点ばかり目立つ作品なのに、なぜレビューを書くのか。それは私が個人的に、この西野亮廣なる胡散臭いお笑い芸人モドキのビジネスマンが唱える「勝利の方程式」に興味があるからだ。勘違いしてほしくないのだが、あくまで“興味がある”だけで、好意的になんて全然捉えていない。それでも気になるものは気になるのだ。トイレの便座にこびりついたカピカピのちり紙のカスが気になるように。


西野さんは明らかにこの『えんとつ町のプペル』を使って“勝とう”としている。では、何に勝とうとしているのか。何を基準に“勝とう”としているのか。それが気になって映画を観に行ったわけだ。まぁ基本的にファンタジーが好きだからってのもあるし、当り屋根性が刺激されたからという理由もあるのだけれど。


この映画は全体的にダメダメだし、なんなら気持ち悪い映画だ。しかしこの映画を見に行く価値は、たぶん、おそらく、きっと、ほんのわずかでも、あるんだと思う。少なくとも『西野亮廣』という男の生態系を検証したいと思う人にとっては。だから今回のレビューは、そういう人たちに向けてのレビューなのであって、純粋な映画ファンに向けてのレビューじゃないってことを、あらかじめここに記載しておきたいと思う。


私は筒井康隆の『朝のガスパール』や『悪口雑言罵詈讒謗私論』が好きなので、皮肉たっぷりの文章でレビューを書いてやろうかと意地悪な気持ちになったが、そもそも私にそこまでの語彙力がないし、面白く書ける自信もないので、普通にやりたいと思う。


あ、それとどうでもいい話ですが、私、池袋のTOHOシネマズでこの作品を観てきたんですが、同じ上映回に鴨頭嘉人さんが来てました。田原総一朗、ケンドーコバヤシ、羽多野渉の次に生で目撃することになる有名人が鴨頭さんとはね。自分でもびっくらこきました。真っ赤なジャンパーが壮絶に目立ってました。取り巻きと思しき人たちも何人かいました。美女、引き連れてたなぁ、あの人。田原さんもそうだけど、やっぱ金を持っている人には美女が自動的についてくるんでしょうか。そんなオプション、俺の人生にはありませんが。


鴨頭さんの登場には驚いたのですが、まぁ観に来ていても不思議じゃない。というのは、西野さん、鴨頭さんを始め、私の批判がかすり傷でなく致命傷に至ったのか、私のことをツイッターでブロックしている幻冬舎の編集者・箕〇厚介やら、「野菜もちゃんと食ってるよ!」の発言がきっかけで「ベジタブル・キレ芸」という新ジャンルを開発した餃子クレーマーことホリ〇モンやら、映画ファンからの評判がやたらと悪い「原色散りばめてれば、なんとなく画面映えするしイケるっしょ」精神の蜷〇実花やら、なんか最近西野さんにすり寄ってきてるよね?という印象のエヴァ初号機そっくりさんことオリ〇ジの中〇など、「俺たちイケてる感」を出すのに必死なオンラインサロンとその周辺の輩というのは、一つの精神的互助会を形成しつつあるので、まぁそりゃ観に来るんだろうなという感じです。





【導入】

M-1グランプリ2008の決勝ラウンドで壮絶なスベリ具合を見せたお笑いコンビ『キングコング』の片割れにして、芸術家にあこがれる一般人トニオ・クレーゲルめいた自己承認欲求の濃さを全く隠そうともせず、逆に自ら曝け出していくことで共感と評判を得ようとする、ともすれば「小賢しい」の一言で片づけられてしまいそうなやり口が特徴の芸人・西野亮廣の初プロデュース作品。目標は『ディズニーに勝つ』ことだと、各種メディアで公言しています。


原作となった児童向け絵本『えんとつ町のプペル』は五十万部を超える売れ行きだそうな。私も読みましたが、まぁ内容は普通です。これ読むくらいだったら『泣いた赤鬼』読んだほうがぜんぜん泣けますね。興味深いのは『えんとつ町のプペル』の発刊に際して、多人数・分業制作という映画的手法を持ち込んだことですね。大きな市場の原理を小さな市場に持ち込むというやり口。でもこのやり方は、さいとう・たかおや高村薫など、漫画や小説の業界ではすでに導入されているやり口ではあるんで、そんなに目新しくもないかなと。原作絵本は現在ネットで無料公開中なので、興味のある人は検索して調べてみてください。


製作総指揮・脚本も西野さん。脚本はともかくとして、製作総指揮ってたぶん、映画スタッフの役職名の中で一番謎めいた役職だと思うんですが、これは簡単に言うと集客や集金を担当するプロデューサー(制作)をまとめる人たちという意味です。カッコよさげに言うなら“エグゼクティブ・プロデューサー”という奴ですね。エグゼクティブ・プロデューサー自身が集客と集金を担当するケースもあるみたいです。やっぱりよくわからない役職です。


制作は『MEMORIES』や『マインド・ゲーム』や『鉄コン筋クリート』を手掛け、昨年『海獣の子供』から本格的に3DCGの作画に注力しはじめたスタジオ4℃。監督はスタジオ4℃のCGIデザイナーを務めてきた廣田裕介です。これが初監督作品とのこと。


主人公のえんとつ掃除人・ルビッチ役を芦田五段こと芦田愛菜ちゃんが演じてます。デルトロの傑作『パシフィック・リム』ではかなり上手い泣きの演技を披露していましたが、声優演技の経験はまだあまり積んでいません。そのせいか、ちょっと最後までノリきれませんでした。平時の声はいいんですけど、危機的な状況で「叫ぶ」シーンが多くあるこの映画では、その叫びの演技が棒読みに近い感じに聞こえちゃった。叫びの演技ってプロの声優でも難しいのに、ちょっとねぇ、惜しいです。個人的に好きな女優さんではあるんですけど。


一方で、ルビッチの友達になるゴミ山から生まれたゴミ人間・プペルの役を演じている窪田正孝さんは、かなり上手かったです。人外であるがゆえの疎外された寂しさを匂わせつつ、間の抜けたお気楽な感じが上手く声で表現されていたと思います。ルビッチと仲違いしてしまうシーンが途中であるんですが、あの時の「声にならない声」の出し方なんて、めちゃ上手くてビビりました。


それ以外だと、ルビッチの父親であるブルーノ役の立川志の輔や、母親のローラ役を演じた小池栄子も上手い。個人的には炭鉱泥棒のスコップ役を演じたチャラ男芸人・オリラジ藤森のお喋りシーンが好き。ただ、藤森感が前に出過ぎているという意見も、まぁわかる。


ただ……この映画は作画面や劇伴や脚本面でもそうなんですが……上手い人はマジで上手いですが、下手糞な方はマジで下手糞過ぎて萎えます。台詞量が少ないとはいえ、ルビッチの夢を馬鹿にする友人・デニスの役を演じている大平祥生なんて、もう「棒」を通り越すくらいの「棒読み」ですし、ルビッチの上司・ダン役の国村隼なんて、もう演技する気ないだろってくらいに「国村隼」感を出してくるので、違和感しか覚えなかった。もうちょっと演技指導つけてやれよ。大御所だから遠慮したのかね?


続いて劇伴についてですが、ロザリーナの歌うエンディング曲はいいです。しかしこのエンディング曲と比較して、秋山黄色の挿入歌は最悪です。プペルとルビッチが些細なことで仲違いした後のシーンで流れるんですが、場面の悲壮感と比較して、サビの曲調がアップテンポ過ぎて凄い浮いてます。この挿入歌が状況につけられたものなのかキャラの心情に当てられたものなのか知りませんが、どっちにしろミスマッチ過ぎです。





【ログライン風あらすじ】

えんとつ掃除人の少年が、ゴミ山から生まれたゴミ人間と友人になり、まだ誰も見たことのない、天上に輝く「星」を見つけようとするお話。





【レビュー】

とりあえず、先に良いところから話していこうと思います。


えー、まず冒頭ですね。空から神秘的なオーラを放つ心臓がえんとつ町のゴミ山に落下してきて、超常的なパワーを使って周囲のゴミというゴミをパッチワークのように心臓へ張り付けていき、ゴミ人間こと「プペル」が爆誕するシーン。このシーンはアングルの選択や、赤くおどろおどろしく輝くプペルの瞳、えんとつ町に向かって胸を張るように吠える勇ましい姿も相まって、プペルの「異形感」「人外」という部分が良く表現されています。この映画は「ハロウィン」、すなわち「悪霊などの、この世ならざる者たちが幽世から現世へ舞い降りてくる時期」を舞台としていますから、ハロウィンそのものと言ってもいい立ち位置のプペルの「人外っぷり」「異形感」を描くことは、物語を豊かにする演出として絶対に欠かせない部分です。それを制作側も分かっていて、ああいう演出をしたんでしょう。見事にハマっています。


正直、映像的に一番燃えたのはここです。ここから先、映像的に惹かれるところは、サハラ砂漠のど真ん中に放り出されたかのごとく何もありません。サイバーパンクっぽいビジュアルだから浦切さん好きそうなのに、という意見をSNSでいただきましたが、うん、残念なことに違うんですよね。


たしかに、この作品世界の「えんとつ町」は、そのビジュアルの特徴性・稠密性から「サイバーパンク」っぽい世界に見えがちですが、「コンピューターなどの電子技術を用いて何かをやる」という描写が皆無なのと「高度な電子科学文明によって変容した人の肉体や認識能力が、どのような価値観を生み、ドラマを展開させていくか」ということは全く語らない(というか、そもそもそんなことを最初から描こうなんてしていない)ので、私に言わせれば、サイバーパンクなんかじゃないのです。もちろんスチームパンクでもありません。「ハロウィン」というスピリチュアル・イメージを想起させるワードが出てきますが、残念ながらオカルトパンクでもありません。ゴミ人間という「異形」は登場しても「生命の神秘」や「生命力学」に着目しているわけではないので、バイオパンクでもありません。


おそらくこれが「サイバーパンク」または「スチームパンク」っぽく見えるのは「あちこちに点在する煙突から煤煙が立ち上っているポスター・ビジュアル」が「いかにもブレードランナー以降の、閉塞感に溢れた未来世界」を想起させるからだと思うのですが、よーく映画を観てみると、「なぜえんとつ町はえんとつだらけなのか?」という状況を支える理論のどこにも、科学工学的な理由付けがされていないんですな。えんとつ町の秘密には「金融工学的」な理論づけがなされていて、だからこの作品は、サイバーパンクというよりも「マネーパンク」と言った方が適切なのかもしれません。


しかし「マネーパンク」などというニッチすぎる表現を使わなくても、もっと簡単に本作のジャンルを伝えることはできます。平たく言えば、この作品はファンタジーですね。とは言っても剣や魔法が出てくる種類のファンタジーじゃありません。そもそも、剣や魔法や勇者や魔王が出てくるのだけがファンタジーではないんです。その部分に気づけていない人が、意外と多いのでけっこう驚く。


ファンタジー、つまり「異世界」とは「日常に流れ込んでくる非日常」を描いたものです。我々の住んでいる現実に、見慣れない風景や事物を持ち込んだり、私たちが普段暮らしている中で忘れてしまいがちなものに焦点を当て、ちょっと違った切り口で掲示してみせる。それが「異世界」の、「ファンタジー」の醍醐味なのです。


この「日常に流れ込んでくる非日常」という前提に立ったうえで、映像的に異世界を演出する方法は大きく分けて二つあると私は思っているんです。


まず一つ目が「我々の住んでいる現実世界の文化や風俗を参考に、いちから新しい別の世界を創造する」というやり方。例を挙げるとするなら『王立宇宙軍 オネアミスの翼』であり『パンズ・ラビリンス』であり、現代ファンタジーの祖たる『指輪物語』です。


二つ目が「お話の舞台となる土地や国に、まったく違う風土を持つ他国の文化や装飾を大量に持ち込んできて、画面上における“見慣れない情報量”を爆上げする」というやり方。こちらも例を挙げると、西洋の土地に東洋的ビジュアルを持ち込んできた『ブレードランナー』や、日本を舞台にしながら東南アジア的景観を挿入してきた『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』、架空のスラングを持ち込んで未来世界を描いた『時計仕掛けのオレンジ』などが代表格でしょう。実はSF映画というのは、その映像的手法においてはファンタジーと同等の手段をとっているものもあるんです。「画面上における“見慣れない情報量”を爆上げする」という点だけに注目すれば『ワイルド・ワイルド・ウエスト』や『落下の王国』や『リベリオン』だって、れっきとしたファンタジー映画としての側面を有しているのです。


例外として、新海誠は「日常世界を緻密に細かく描くことで、日常そのものを異界化する」という、新海誠当人の美術的センスや撮影技量に偏重した手段で、映像的なファンタジーを確立しています。また小説で言うなら、前述した二つの方法に加え「ジャーゴン(造語)を文中に大量にばらまくことで異世界を演出する」という、創り手側からするとめちゃくちゃ楽なやり方でファンタジーを生み出す、なんてのもあります。


では『えんとつ町のプペル』における「異世界ファンタジーの描き方」は、どうなっているのかと言えば……これが微妙なところで、作中における「お金」や「ビジネス」にまつわる部分だけは(まぁ、微妙に暗号資産っぽい気がするけども)前者、つまり西野さんオリジナルの現実から乖離した設定なんだけど、映像的な方向性は明らかに後者、「画面上における“見慣れない情報量”を爆上げする」という選択をしているわけなんですよ。


まずこの「えんとつ町」なんですが、プペルやルビッチ、ブルーノといった「いかにも西洋風な雰囲気の名前」を持つキャラクターが出てくるにも関わらず、店の看板や広告には英語や日本語が並び、我々が現代でよく目にする字体のロゴばかりが散見されます。ハロウィンなのに軒先にはなぜか赤提灯が並び、町の外観はレトロでありながら、通行人たちの服装はモダン。かと思いきや、主人公の父親はハッピを着て紙芝居興行をやる。つまり言語や文化の統一を図っていない。あえて多国籍な言語や文化をばらまくことで画面上の情報量を上げてお客さんの目を引き付けようとしているのですが……それにしても、見ていてとても退屈です。多国籍と言っても英語と日本語の二言語だけだし、極めて退屈です(曲がりなりにも「ファンタジー好き」を公言するなら、言語・文字文化に関しての知識やフェティシズムを備えていないと、ニワカだと言われても仕方ないですよ、西野さん)。


ワクワク感を備えてくれるはずの建物の街並みは平面的すぎて立体感に欠け、配管の連なりからはフェティシズムが匂わず、路地裏のゴミゴミじめじめとした雰囲気など皆無であり、九龍城ばりに違法増築建造されたアパートやマンションも、一見それらしくみえるだけで、ただ「きれい」に描いてればいいだろという「怠惰な空気」しか感じません。その怠惰な空気を演出してしまっているのが、他ならぬ「怠惰なカメラワーク」です。


怠惰なカメラワーク、それはお話の序盤における「ハロウィン・パーティ」のダンスシーンで、もうすでに明らかになっています。馬鹿正直に真正面か右・左斜め上からのバストショットかフルショットばかり。ライティングも甘く、カメラの回り込みなんてやりもしない。ufotableを見習えという話です。というか、この単調なアングルの数々はなんでしょうか。多様なアングルを活用したダンスアニメなんて腐るほどあるのに、撮影班は何やってんでしょうか。ラブライブや他のアイドルアニメを見習わなかったの? そんなツッコミが出てきてしまう程度にはつまらない映像が延々と流れてしまうせいで、プペル爆誕のシーンで上昇していた私のテンションは、開始五分が経過したあたりで急降下せざるを得ませんでした。本当にこのダンスシーンは近年稀に見る酷さです。キレがないし無駄に間延びしてます。あまりにも長すぎる。


ダンスシーンの後に続く焼却場でのハプニングシーン、その直後に続くトロッコでのジェットコースターシーンもそうなんですが、西野さん「自分はこれが好きなんだ!」と主張するのは別にいいし、そういう要素をシーンとしてもってくるのは全然構わないんですが、もうちょっと「潔さ」ってものを学んでください。だらだらと同じようなシーンが繰り返し繰り返し続くせいで、画面が弛緩しっぱなしです。そういうことに気づかないんでしょうか? 意外と気づかないんですよねこれが。私も小説を書いているからわかりますが、書き手側は自作に対して盲目になりやすい傾向がある。こういうときにこそ周囲の助言が必要なんですが、監督はもちろん、誰も西野さんに遠慮して口出ししなかったんだろうなというのが、目に見えてわかります。


えんとつ町の設定も、はっきり言って甘いです。空があれだけの煤煙に覆われているのに、マスクをしている人が一人もいないのはどういうことでしょうか。外界と隔絶されているなら街の生産活動はどうなっているのかが、少しも語られません。陽光が差さないのになぜ帽子を被る人がいるのか? その理由は? ルビッチやブルーノという西洋のネームドキャラと、トシアキという日本語ネームのキャラとで、顔のつくりに違いがないのはなぜでしょうか。答えは、西野さんがそこまで気を回していないからです。『設定に拘っている』と公言しているわりには、箱庭世界の作り込みが甘いのに加えて、「画面の情報量を上げる」という映像的なイデオロギーに街の設定自体がついていけていないので、お話が進むにつれて街のハリボテ感が露になってきてしまいます。これはファンタジー映画としては致命的です。なんで誰も指摘しないんでしょうか?


この映画はルビッチとプペルが「空」を目指すお話なので、地上に置き去りにされる町の造形は手抜きでいいやと思っているんでしょうか。箱庭世界の一番の楽しみともいえる、空間的な奥行きを見せつけるワクワク感はありません。物語に全く絡んでこないガジェットにまで気を配ることが映像的な豊かさに繋がることを、映画スタッフたちは気づいていないようです。全部そうしろとは言いませんが、少なくともどこかしらのポイントでそういう場面を見せるべきでしょう。


どれもこれもどこかで見たような……ぶっちゃけて言えば『鉄コン筋クリート』のセルフオマージュのようなデザインばかりが続くので、心底がっかりしました。これだったら、都市を階層構造にして立体感を演出しようとした拙作『プロメテウスに炎を捧げよ』のほうが、まだ異世界としての体裁を保っています(唐突な宣伝)。


撮影や作画的なことを言えば、この作品は本当に不満なところがありまくりです。そもそもスタジオ4℃といえば、3DCGに本格的に手を出すのが遅くて知られているスタジオなのですが、この会社は昔からCGIの処理がそこまで上手くないという印象があります。子供の頃に再上映されていた『MEMORIES』や『スプリガン』を観たとき、ところどこにおかしなノイズ?というか色ムラがあったりしたのを未だに覚えています。いま思えば、オプチカル処理に慣れていなかったのか、72dpi以下の画像をそのまま拡大したかのようなノイズが散見されたんですよね。


さすがにあれから20年近く経過しているので、本作に色ムラなどの目立つ違和感はありませんでした。んが、その代わり動きが妙にカクつくところがあったのが気になる。ラスト付近の、気球を打ち上げようとするルビッチたちへ一斉に襲い掛かる異端審問官(えんとつ町を支配する連中)のところなんて、レンダリング中の動画を見せられているのか?と錯覚しかけるほど、僅かですけれども、動きが妙にカクついています。かと思えば、異端審問官に抵抗するルビッチのお母さんが、右腕を超高速で上下にバタバタ動かすシーンなんか、そのシュールな動きに思わず笑いそうになりました。ほんの一瞬の動きですが、ああいうのを見せられると萎えますね。


しかしいくらビジュアルが退屈だろうと、CGI処理に違和感を覚えようとも、お話が面白ければそれでいいじゃんと思う方もおるかもしれません。ですが、この作品は恐ろしいほどに脚本が平坦で起伏に富んでいません。


このお話では、ルビッチとプペルの星見作戦を阻止するために、えんとつ町を支配する異端審問官なる連中が妨害工作を仕掛け、それによりルビッチとプペルが徐々に追い詰められていくという「現在の危難」と、ルビッチの父・ブルーノの「星はあるんだ!」という主張を妄言と断じて相手にしない町の人々から、幼い頃のルビッチが迫害を受ける様を描いた「過去の危難」が交互に描かれるわけですが、どちらも危難の描き方が極めて手ぬるい。そのせいで物語終盤の最大の見せ場に至っても、全くカタルシスというものが生まれません。


いや、そもそも「危難の描写が手ぬるい」のもそうなんですが、ルビッチを追い詰めよう、追い詰めようとする意識ばかりが先行したためか、ルビッチを追い詰める・痛めつけるという状況を生み出すこと「のみ」に注意を払うようになり、結果として追い詰めるまでの過程の部分、シーンとシーンの繋ぎ目が極めて不自然で有機的に繋がっておらず、散漫とした印象が拭えません。私はご都合主義なお話はぜんぜんイケる口なんですが、あるシーンから別のシーンへのカットが物語的に淀んでいると、もうその時点でイライラしてしまう人間なんです。


たとえばこんなシーンがあります。物語の中で、ブルーノが紙芝居を通じて空に浮かぶ星の話をしているところ、通りかかった町の人たちは口々に「星なんかあるわけないだろ」と非難するわけです。まぁここはいいでしょう。しかしやがてヒートアップしていき、「現実を見ろ!」だの「なにが星だ!」だの「諦めろ!」だの「ろくなヤツになんねぇぞ!」と微妙にピントのずれた罵倒を繰り返し、挙句の果てにはブルーノではなく、ただ紙芝居を見ていただけのルビッチの手を引っ張って、無理やりその場から引き離そうとする奴が現れる始末なんです。


おかしくないですか? 紙芝居ですよ? ブルーノが語っているのは(それが世界の真実であろうと、この時点では)ただのフィクションですよ? フィクションを語る奴にムキになって罵倒を繰り返し、おまけにそいつの息子に「ろくなヤツになんねぇぞ!」と罵声を浴びせて乱暴な行為を働くなんて、人間ってそんな行動とりますかね? 


例えるなら「宇宙人はいるんです!」と道端でUFO研究家の韮澤さんが演説をして、子供たちがその場に集まっていたとしても、子供たちを無理やりその場から引きはがそうとする奴なんていますかね? いないでしょ。大槻教授だってそんなことしませんよ。せいぜいが白けた目線を送ってスルーするだけでしょう。俺は面白がって子供らと一緒に立ち止まって聴くかもしれんけど。


西野さんはカドカワのインタビューでこう口にしています。『ファンタジーって、嘘であってはいけないんですよね』と。うん、その部分は大いに共感します。ファンタジー=嘘の作り話、という恐ろしくアホな見解を持つ人が一定数いるこの世の中で、西野さんのこの言葉は、正しくファンタジーというものを捉えていると言っていい。


ただ、西野さんは肝要な点を見逃してます。それは、景観や設定だけをリアルにすればいいってもんじゃなく、そこで生きる人々の行動もリアルでなければいけないということです。たかが紙芝居にムキになって罵倒を繰り返してその場を荒らすような奴が現れる。そんな意味不明な行動をする一般人を登場させてしまった時点で、せっかくの没入感が台無しです。その後でブルーノとルビッチのやり取りで感動を誘うようなシーンを映しても、その前のシーンの違和感がハンパないので全然話に集中できねぇ(笑)。


いや、分かるんですよ。なんで西野さんがこういう不自然なシーンを描いたかは。というのは、これって西野さんの個人体験に基づく話なんですよね。絵本作家になると口にしたら「芸人のくせに」とバカにされ、クラウドファンディングに手を出したら「詐欺だ詐欺だ」と騒がれる。何か新しいことに挑戦しようとしたら、周囲の人間から罵声を浴びせられる。そういう、過去に自分が受けた屈辱を物語に投影しようという試みは分るんですが、だったらなおさら、キャラクターの振る舞いを自然に、且つリアルにしないといけませんよ。ルビッチに辛酸を舐めさせることだけが目的化しているせいで、その周囲の人間(かつて西野さんを馬鹿にしていた人たち)を「ルビッチを追い詰めるだけの舞台装置」然として適当に描いたら、リアリティもクソもありません。


こういうキャラクターの安易な描き方も気になるんですが、なにより、物語の推進力であるキャラクターの動機付けが弱いってのが致命的です。これ、原作の絵本を読んでいる時には特に気にならなかったんですが、「星を見る」という行動を映画の話法に落とし込むと、途端に物語的訴求力を喪ってしまうんですよね。単にインパクトが不足しているんですよ。だって、ねぇ、「星」ですよ? そんなもの我々の日常に転がってるし誰でも見たことあるじゃないですか。私、関東圏住まいですけど、晴れた日の夜空を見上げたらフツーに星なんてそこらじゅうに見えますから。「夢を叶える、自己実現する」ことのメタファーとして機能させるには「星を見る」ってのはあまりにも弱すぎるでしょう。


ルビッチは最初から自発的に星を見ようとしていたんじゃなくて、お父さんから「星はある」と聞かされていたから星の実在性を信じてみたくなった……というのもイマイチ。だって主体性がないじゃないですか。人から言われたことをただ信じてるだけじゃないですか。それじゃ絶対にダメですよ。この手の王道ファンタジー映画って、自分から「気づき」を得て行動を起こすのが主人公の鉄則だと思うのですが、人から言われたことを(それがたとえ親だとしても)無心に信じるだけというのが、どうにもついていけません。主人公自身が実際に動いて、何らかの劇的な出会いを通じて「星を見る」という動機が生まれるんであれば、もっと面白くなりそうなのに、勿体ないことしてるんですよね。


だいたいルビッチはね、「僕は星を見るんだ」といっちょ前に口にしている割には、そのための具体的な努力をしているようには全然みえないんですよ。毎日毎日、えんとつ掃除の仕事をして、ただぼけーっと煙に覆われた空の向こうを眺めているだけじゃないですか。自発的な行動を何一つせず、たまたまの運で星を見るチャンスを得ているわけですから、ある意味では地道な努力を否定した作品と見れなくもない。そんな作劇の仕方をしておいて「奇跡が近づいてくる」だなんて、お前奇跡舐めてないか?と。「奇跡を叶えるために、懸命に他勢力を出し抜く怪物たち」のお話を書いている拙作『プロメテウスに炎を捧げよ 第二部』のほうが、まだ努力や人間味ってものを描けていると思いますよ。(すかさず宣伝)


ところで、この「星を見る」という動機なんですが、これって映画用語で言うところのマクガフィン(それ自体が他の物と取り換え可能なもの)なんですよね。だからこのお話は、「星を見る」という行為を、「宇宙人に遭遇する」「幽霊を捕獲する」「裏モノAVを探す」という風に置き換えても成立するわけです。なぜなら、ルビッチの“真の欲求”は「星を見ること」にあるのではなく、「実在するかどうか曖昧なものを、ただひたすらに無心で信じ続けた自分や親父を、みんなに認めてもらいたい」という、自己承認欲求まる出しの俗物的なものだからです。だったらなおさら、「星を見る」という設定は弱すぎます。


そもそも、「自分は凄いんだ」「自分はこんなに頑張ったんだ」「自分はこんなに優秀なんだ」と、とにかく自分という存在を世間に認めさせる行動の裏側に「星を見る」という清らかなイメージの動機を配置したり、嫌なことや煩わしいことからは目を背けて「きれいなもの」で世界に蓋をしてしまおうという、我々の住んでいる「いま、ここ」の現実に真正面から向き合おうとしない態度に対しては、なんかもう、ヘソで茶を沸かしたくなるんですよね。


さて、こんな出来栄えの作品で本当に西野さんはディズニーに勝つつもりなんでしょうか。


私は、たぶん西野さんは勝つつもりでいると思います。というか、もうすでに彼は「勝っている」と言えるかもしれません。


西野さんはとかく色々な番組で「ディズニーに勝つ」と鼻息荒く息巻いているわけですが、ここが彼の小賢しいところだなと思うんですが、「何を基準にして勝つか」という話は、私の知る限り一切していないんですね。興行収入で勝つのか、作画の豪華さで勝つのか、それともミッキーに取って代わるようなキャッチーなマスコットを生み出すことで勝とうとしているのか……真相は謎に包まれています。


それで、これは私なりに考えた末の結論なのですが、おそらく西野さんは「映画を観に来たお客さんの満足度」で勝とうとしているんだと思うんですよ。


ディズニー映画、またはディズニーランドに来るお客さんたちよりも、高い満足度を提供することができたら勝ち。するとこの場合、どういうお客さんに向けて発信されているかがキモになるわけですが、これはもう言うまでもなく、西野さんの7万人を越えるオンラインサロン・メンバーへ向けて発信されているんですよ。


決して安くないお金をサロンメンバーに支払わせて映画チラシのポスティングをさせたり、プペル関連のイベントにサロンメンバーを動員したり、とにかく様々なアプローチでサロンメンバーを映画の企画に携わせることにより、「自分もこの映画の企画に参加できているんだ」という認識をメンバーに植え付けてシナジーを生み出し、公開前から映画に対する思い入れを強くさせた状態で鑑賞してもらうことで、お客さん=サロンメンバーの満足度を高める。これが西野さんの「勝利の方程式」ではないかと私は思うのです。


だから、サロンメンバーでもなんでもない私が、こんなネットの深海でいくら喚こうが、西野さんにとっては痛くも痒くもない。なぜなら、鑑賞を終えたサロンメンバーたちが、すでに滂沱の涙を流し、感動の熱に当てられて痙攣している様をyoutubeやSNSにアップし、拍手喝采で「さすおに」ならぬ「さす西」を連呼しているから。当初からターゲットにしているお客さんのみに響いていれば問題ないのであって、それ以外のお客さんのことなんか、ハナから計算には入れてない。


こういう西野さんの「分かる人にだけ分かればいい」というマーケティング戦略は「やむをえない事情から、外界から隔絶された世界で生きているけど、本当はとても優秀な人たちが作った町」という設定の「えんとつ町」と、極めて精神的な構造が似ているのです。


別にそういう映画を作ってもいいでしょう。“仕込み客”を意図的に生み出して映画を評価してもらおうという性根は腐っていると思うし、だいぶ拗らせているなとは思います。ミニシアターでかかる自主製作映画の負の側面を凝縮させたような「高度に発展した内輪ノリ」を彷彿とさせますが、当人が楽しければそれでよしとしましょう。


しかし、曲がりなりにも「映画」を作り、「映画文化」という世界に足を踏み入れたのであれば、せめて最低限のマナーを守るべきだとは思います。どういう意味かというと、すでにSNSで一部取り上げられているのでご存じの方もいると思いますが、西野さんはこの映画の公開前日にブログやyoutubeを使って「エンディングが流れてバァーーーーン!と終わった後に、拍手してもらうと嬉しいです」「映画館で拍手が起こったらイイじゃないですか」「気持ちいいじゃないですか!静かぁ~~に出ていくより」「じゃあ拍手する練習、しておいてください」と、観客に拍手を強要するかのようなコメントを流しているんですね。


………………


…………


……ダサい。凄まじくダサイ。


率直に言いますと、クッッッッッッソダサイ。もう本当にめちゃくちゃダサい。そういう発言が平気で出来てしまうところに、品性の著しい欠如、常識のなさを感じてしまう。


私の知る限り、映画の上映終了後にお客さんに拍手をするよう誘導したり強要したりする映画監督やプロデューサーって、観たことないんですけど。


なんだろうね。こういうオンラインサロンの主宰者の本、私もいくつか読んだことあるんですが、彼らに共通しているのは「自分勝手」というワードなんだよな。「自分たちの都合が良いように既存の価値観を塗り替えること」を、さも良いことのように喧伝して、それを「アップデート」なんて言って盛り上がっているけれど、基本的に「自分と自分を取り巻く半径五メートルの世界だけが幸福ならそれでいい」という思想でいるから、本気でこの世の中を良くしようとする気がないんですよね。お山の大将でいたいだけなんですよね。


厄介なのは、既存の文化圏の常識をある程度知ったうえで「それがなにか?」なスタンスで、平気で土足で踏みにじってくるのが手に負えない。なぜ、その文化圏ではそういう伝統があるのかってのを、理屈じゃなくて感覚でしか理解しないし、理解しようとしないから、こういう品性のない行動がとれるんだと思うんです。


あのね、別に映画を観終わって拍手すること自体は良いことだと思うんですよ。ただ、プペルがおかしいのは、製作側が「必ず拍手をするように」と明文化せずとも、そういう行動をとるように明確に誘導した点にあるんです。それっておかしくないですかって話なんです。


映画を観終わって「拍手をする」ってのは、感動に打ち震えて自然発生的に生まれるものじゃないか。だからこそ、その行動には何物にも代えがたい価値があるというのに、それを、最初から仕組んでやることになんの価値が、素晴らしさがあるというんだよ!


これによりどういうことが起こったか。私のように、映画を、ファンタジーを楽しみに観に来ている人は、内容にそぐわない拍手の量にげんなりとし、一方でサロンメンバーたちはキラキラした眼差しで、特に何の疑問も持たず拍手をする。


いま、『yahoo!映画』における『えんとつ町のプペル』のレビュー状況が凄いことになってますから、検索してみてください。最高評価と最低評価が拮抗している状態です。間の評価なんてほぼゼロです。こんな「分断」は初めて見ました。


インターネットが家庭に普及した当初、これで世界が一つになると誰もが感じたことでしょう。しかし実際には、同じ価値観を共有する者同士でつるみ、意見の異なる者を排除しようとする動きが高まり、結果として分断が促進されてしまった。映画でも、同じ状況が起こっているんです。それも大統領や政治家の力ではなく、映画製作者自身の手で。私はそれが、なによりも悲しい。


こんなこと、西野さんだって望んでいないはずです。この人、とにかく人を集める力と金を集める力はズバ抜けているんだから、たのむから脚本に関わることなく、製作総指揮だけやっていてほしい。そしてもう二度と、品性のない扇動をしないでほしい。それだけを祈ります。


いま、日本のアニメ映画界で何が起こっているのか。「分断」はついに日本のアニメ映画にまで波及してしまいました。その事実を確認したい人や、西野さんの唱えるビジネス論に興味のある人は、この映画をいますぐに大都市の劇場で観てきてください。

箱庭的な異世界ってのは、こういうのを言うんです。

https://ncode.syosetu.com/n9748fa/


※2021/1/27 追記

そもそも私は黒ウィズのイベント『黄昏メアレス』に感銘を受けた人間なので、「夢を声高に叫んで何が悪い」「夢を見れないなんて可哀想な奴」というニュアンスで満ちた映画に対して好印象を抱けるはずがないんだよなぁ。

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[良い点] 良い点しかない [気になる点] 無い [一言] 心から感動しました。素晴らしい評論を本当にありがとうございます。私が普段から西野亮廣に対して感じている違和感や、映画プペルを観て抱いた憎悪や…
2020/12/27 12:51 てっちゃん
[一言] 返信ありがとうございます。気になってコメントしてしまいました。 個人的にはそのシーンはお酒でも飲んだ帰りで気が大きくなっていたのかなあと楽観的に観ておりました。 私はあまり映画に詳しくない…
[気になる点] ルビッチが街の人から殴りかかられるシーンってありましたでしょうか?※私の記憶違いでしたらすみません…。ルビッチに言葉をかけた街の人に対して、未来を指図するなとブルーノが怒って殴りかかっ…
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