【第56回】ウルフウォーカー
『アイルランド版もののけ姫=面白いが確約されてる』
どうも。
先日の鬼滅のレビューを叩かれ、挙句の果てにSNSにて人格攻撃のようなものも受けて意気消沈していましたが、まぁ誹謗中傷なんてものは気にせずやっていこうかと、およそ一か月前に気分を切り替えた浦切です。このレビュー集の「あらすじ」にもはっきりと書いてますが、私は「にわか映画オタク」ですので、頓珍漢な感想を書くこともあるかと思いますが、ライトかディープかに関係なく、すべてのオタクたちが、世間一般的に「正しい」とされる娯楽的社会認識を抵抗感なく共有するのを、さも当たり前の事象として処理する風潮なんてクソだと思ってますし、「オタクたるもの、その道における一般通過儀礼を経験しておくべき」なんてルールも、この世のどこにも存在しないわけであります。そういう「任意のオタク界にて半ば常識とされている知識や経験」の枠組みからはみ出した、取るに足らない雑多な感想や、思わず悪態を突きたくなる低俗な意見の集積で、現実というのは構成されているのであり、それらの猥雑で雑多な意見をも、まるっと受け入れてくれるのが、SNSや投稿サイトの何よりの強みなのであり、正調な知識や正調な理屈でのみ書かれた感想や記事しか好まないという方は、どうぞその手の代物をしこたま読んでください。こんな上辺だけのレビュー集をわざわざお気に入り登録する必要なんてありません。さっさとブラウザバックしてください。
さて、言いたいことは言ったので、気持ちも新たに。
今回レビューするのは『ウルフウォーカー』というアニメです。またしても懲りずにアニメです。『鬼滅の刃-無限列車編-』『日本沈没2020 劇場版』に続いてのアニメです。あ、『日本沈没』についてもいろいろと言いたいことがあるので、それもまた後で掲載します。今回はとりあえず『ウルフウォーカー』っちゅーわけで、これアイルランドのアニメなんですけど、観に行った理由はカートゥーン・サルーンの新作だというのと、「予告編の劇伴がメチャ良かったから」という至極単純な理由から。
しかしですね、良い劇伴には良い物語がつきものという鉄則(?)が働いたのかどうか知りませんが、これ傑作です。ちょっと、かなり好き。10月末公開の作品のため、もうちょっとしたら終わっちゃうかもしれません。てか、こんなに素晴らしいのに、なんで東京、神奈川、長野、熊本でしかやってないの? おかしいでしょ。鬼滅もいいけど、こっちも推してくださいよ。
【導入】
『ブレンダンとケルズの秘密』『ソング・オブ・ザ・シー 海の歌』など、アイルランドのケルト民族文化に着想を得て制作された「ケルト・サーガ三部作」の最終作。『ソング・オブ・ザ・シー 海の歌』は未見なのですが、『ブレンダンとケルズの秘密』は昔に観たことがあって、これがねー、今思い出しても「いい映画だよ」と断言できるくらいにはいい作品なんですわ。ストーリーラインはシンプルで「土着のアイルランド人vs外界からの侵略者たるバイキング」といったものなんですが、これが鑑賞していくうちに「物語vs現実」のメタファーとして機能するようになり、そのうえで「物語を捨てた人へ、再び物語を捧げる」という、まさに「物語を信奉する人」にしか作れない作品だったので、個人的にめちゃ刺さった。たぶん、なろうで小説書いてる人たちにも刺さるんじゃないかしら。
制作は、これまで三度、アカデミー長編アニメ賞にノミネートされた実績を持つ、アイルランド生まれのアニメスタジオ、カートゥーン・サルーン。世界のアニメ作画がバリバリの3DCGをメイン活用しているなか、2Dの作画にこだわりを持つ異色のアニメーター集団。ジブリの影響をかなり強烈に受けているスタジオですが、単なる真似事や懐古主義的な作風になっていないところが素晴らしいです。
監督は、『ブレンダンとケルズの秘密』『ソング・オブ・ザ・シー 海の歌』に続いてのロス・スチュアートにトム・ムーア。特にトム・ムーア監督は『もののけ姫』の大ファンらしく、なんだか親近感が沸いてしまう。千と千尋もいいけど、私もどちらかというと『もののけ姫』が超絶大好きなので。
そしてそして、この映画は作画も凄いけど音楽も凄い! 『ブレンダンとケルズの秘密』でも音楽を担当したKiLAが名を連ね、彼らの奏でる民俗学的なミュージックもさることながら、予告編でも使われている若干十九歳の歌姫AURORAの「running with the wolves」が、まぁエモい(笑)。挿入歌として本編でも採用されているんですが、めちゃめちゃスタイリッシュでクールでカッコよくて、それでいてとてつもない清廉さと気高さに満ちた曲で、古の時代から生き続けるウルフウォーカーたちの伝説を表現するのに、これ以上にないってくらい素晴らしい音楽。さっそくアマゾン・ミュージックでダウンロードして、昨晩からずっとヘビロテしています。何回耳にしても心地よさが消えない名曲です。今ならAURORAのyoutube公式チャンネルで聞けるから、今すぐに聞いて! お願いだから! めんどくさがらずに聞いてほしい!
私が見たのは字幕版だったのですが、どうも吹替版も上映されているっぽい。それで主役のロビン役の吹替、誰がやってるか調べてビビりました。新津ちせです。井戸端会議風の言い回しをすると「あの新海監督の娘さん」です。ただ、予告編観る限りでは、個人的には字幕版の方が好きかなと思いました。はい。
【あらすじ】
木こりは顔面蒼白となって、迫りくる無数の目と、獰猛な牙を前に恐怖していた。日課である森林伐採に精を出していた時、突如として森の奥から現れた無数のオオカミたちに取り込まれてしまったのだ。
オオカミたちは人間を敵視していた。燃えるような漆黒の体毛は怒りに逆立ち、涎で濡れた爪牙を剥き出しに、目の前で情けない声を上げている木こりの胸元に裂傷を刻み付ける。
もうダメだ――滴る血と痛みに己の最期を確信した木こりだったが、その時、獰猛な唸り声を上げていたオオカミたちが、急に大人しくなったかと思いきや、森の奥から二人の親子が姿を見せた。豊かな茶髪をなびかせ、人ならざるオーラを放つ母と子の親子。呆然とする木こりの下へ母親は近づくと、まるで仲間の非礼を詫びるかのように、彼の胸元の傷口に手を触れた。その途端、不可思議な力が働き、木こりの傷はすっかりと癒えてしまった。
木こりは惧れを抱きながらも一言礼を伝えると、一目散に村へと戻っていた。ふと振り返れば、そこには親子の姿も、ましてや、あれだけいたオオカミの大群も、忽然と姿を消していたのである……
時は1650年。清教徒革命の嵐が吹き荒れ、イングランドから派遣された「護国卿」による宗教的且つ国土的な再制圧を受けたアイルランドのキルケニー地方では、増加しつづけるオオカミが社会問題になっていた。オオカミによる獣害の深刻さが、護国卿の圧政に疲弊する住民たちの心に、強い恐怖と敵愾心を植え付けていったのだ。
護国卿の付き添いという形でアイルランドの大地を踏みしめた、イギリス人のウルフハンターのビル・グッドフェローは、護国卿からの命令を受けてウルフ・ハンティングに精を出す。彼の一人娘であるロビン・グッドフェローは、母親のいない寂しさを紛らわせるためか、あるいは異人としての扱いを受けるアイルランドの風土を嫌ってか、オオカミ狩りの手伝いをしたいと父に申し出る。彼女の願いは、父のような立派なウルフハンターになること。だが、女は家庭に入るものとする父の命令には逆らえず、相棒にしてペットのハヤブサ、マーリンと共に、退屈な日常を送っていた。
そんなある日のこと、我慢ならなくなったロビンは、一人オオカミ狩りに出かけた父の後をこっそり追うことを決意する。オオカミ狩りのためのクロスボウを手に、キルケニーの城壁を守る門兵らの目をかいくぐり、マーリンと共に鬱蒼とした森へと入るロビン。そこで彼女は、オオカミの群れに襲われている羊農家と出くわす。農夫を助けるために、初めての実戦を前に恐怖をこらえて、クロスボウの引き金を引くロビン。だが狙いは誤り、あろうことか上空を旋回していたマーリンの羽を射抜いてしまう。
ショックと混乱に襲われるロビン。だがそんな時、いきり立つオオカミたちが急に大人しくなったかと思うと、森の奥から、茶色の豊かな髪をなびかせる一人の少女が現れた。少女はロビンを威嚇すると、傷ついて地べたに墜落したマーリンを奪い取り、さらに森の奥へと消えていった。
たまたま現場に出くわしたビルに説教され、泣く泣く村へ戻るロビン。落ち込んでいる彼女に声をかけてきたのは、むかしオオカミの大群に囲われながらも、奇跡的な生還を遂げた木こりだった。ロビンの口から森で出くわした奇怪な少女のことを聞いた木こりは、確信を以て口にする。君が出会ったのは「ウルフウォーカー」に違いないと。
ウルフウォーカー。それは古くからキルケニー地方に伝わる伝承。昼間は人間の姿をしていながら、夜になるとオオカミの姿へ変貌する、人でも獣でもない魔術師のことを指す言葉だという。
ウルフウォーカーの事を知ったロビンはマーリンを助けるために、またもや父親の目を盗んで再び森へと足を踏み入れ、件の少女と二度目の邂逅を果たす。自らをメーヴと名乗った少女は、木こりの予想通りウルフウォーカーであり、傷ついたマーリンを魔法の力で癒していたのだ。
お互いに悪態を突きながらも、やがて心を通わせるようになるロビンとメーヴ。キルケニーのオオカミたちの頂点に立つメーヴには、モルという名の母親がいた。彼女もまたウルフウォーカーであり、ある日、街へ出かけると伝言を残したまま、忽然と姿を消してしまったのだという。
母のいない寂しさ。それを知るロビンはメーヴの母親捜索に乗り出すが、そんな彼女に異変が起きる。皆が寝静まった深夜、ふと起きて窓を見ると、オオカミの姿と化した自分の顔が映り込んでいた。驚いてベッドを見ると、そこには死んだように眠った自分の肉体があった。
これは夢かと疑うロビン。だが夢ではなかった。森でメーヴと出会った際に、ひょんなアクシデントで彼女に噛まれたことが原因だった。いま、ロビンの魂は本来の肉体を離れ、オオカミと化して動き回る「ウルフウォーカー」と化してしまったのである……
突然の出来事に狼狽するロビンだったが、そんな彼女の知らないところで、オオカミと人間の対立は深刻さを極めていき、護国卿の魔の手が、着々とキルケニーの森へ忍び寄っていたのである。
【レビュー】
今回は理屈抜きのレビューでいこうと思います。今まで色々と抽象的というか、奥歯に物が詰まったような、面白いんだか面白くないんだか判然としない印象ばかりを与えてきたこのレビュー集ですけど、こいつは久々に本腰入れて純粋に娯楽として語りたくなる作品と巡り会えたって感じです。もう先に言っておきますが、あと一回は観に行きます。今のところ年間ベスト1の作品ですなこれは。
だって、それくらい超絶に俺のツボに嵌りましたからね、この映画。お話や映像はともかくとして、この手の海外産アニメで無条件にキャラ萌え出来る日がくるとは思わなかった。
いやーだって、めっちゃキャラがいいもんこのアニメ。序盤でウルフウォーカーのヒーリングを受けるモブの木こりに至るまで、みんなキャラ立ってるから飽きないっすよね。ロビンちゃん見かけによらずおてんば可愛い~だの、メーヴちゃん野蛮さの中に母想いなところがあってキュンとするわ~だの、ロビンちゃんとメーヴちゃんのケモノ百合百合サイコーだの、ウルフ化したメーヴママかっけーとか、ロビンパパマジで苦労人~とか、護国卿マジでクロムウェル過ぎるほどにオリバー・クロムウェル~だの、鑑賞中はその独特な絵のタッチと合わせて、キャラに対する求愛しか沸いてこなかった。日本産アニメの主流にたまに見られる露骨な媚び媚び萌え要素がない、すごーく簡素な線で描かれた、それこそ日本産アニメより全然作画の情報量が少ない、抽象度が数倍も高いアニメなのに(いや、逆に抽象度が高いからこその)キャラクターひとりひとりの動き、アクションが本当に生き生きとしているから、まぁ飽きませんね。全然飽きないです。精神的にそんなに良いコンディションじゃなかったんですけど、それでもひとたびスクリーンに絵が展開されたら、ソッコーでのめり込みましたからね。
そういう「キャラ萌え」という需要にも応えられるだけのキャラクター性を獲得しつつ、誰がどう見てもはっきりと『もののけ姫』の影響下にある作品だと意識しやすい物語構成をしているので、舞台となる中世アイルランドの社会情勢を知らなくとも、すんなりと物語世界に没入できるのが本作の特徴の一つでしょうね。ただし、という前提がつくのも変な話ですが、昨今の日本アニメに(悪い意味で)慣れ切っている人からしてみると、キャラデザに「違和感」を覚えてしまう可能性大です。その違和感というのは、日本アニメと比較しての、あまりにも抽象的な線で描かれたキャラや、横スクロールアクションゲームにあるような(絵巻物語的と言ってもいい)独特のレイアウトを前にした際に思わず抱いてしまう「見慣れなさゆえの偏見」のせいであると思うんですけど、単に見てくれの奇抜さを狙っただけのアーティスティックな作画であるかというと、そうでもないと思うわけですよ。
これはあくまで私個人の、それも『ブレンダンとケルズの秘密』しか鑑賞していない、にわか者の推論に過ぎませんが、たぶんカートゥーン・サルーンはアイルランドの(つーかヨーロッパの)歴史的な美術背景と、映像的なイデオロギーの方向性を擦り合わせている節があると思うんですよ。どういうことかと言うと、『ブレンダンとケルズの秘密』で描かれていた時代って、「ケルズの書」という実在する聖書の写本を巡るお話でもあったことから、たぶん六世紀から九世紀頃の時代なんですよ。んで、これは美術方面に明るい人はお分かりかと思いますが、あの時代の美術の主流は「キリスト教画」だったわけですよね。のっぺりとした、平面上の絵画。影をつけることをしなかった時代の絵。なぜ影をつけないかというと「神」や「聖人」は生物としての「ヒト」とは別個の存在であると考えられていたからなのですが、それが『ブレンダン』の作画には、ヒトたるキャラクターに対してまんま反映されているわけですが、『ウルフウォーカー』の時代、つまり十七世紀ぐらいになると、被写体に陰影をつけたゴシックの絵が主流になってくるわけです。
で、『ウルフウォーカー』は『ブレンダン』と比較すると、キャラクターに対する陰影のつけ方がすごいはっきりとしているんですよ。『ブレンダン』と『ウルフウォーカー』の二作品だけを鑑賞したうえでの感想ですが、カートゥーン・サルーンというスタジオは、設定した物語内の時代背景に即した美術作画を選択しているせいか、物語から絵が浮いて見えるとか、背景とキャラの二次元的存在感が釣り合っていないとか、そういう不自然な感じが全くないんですよ。パースを取った絵と平面的な絵の融合なのに、ですよ? これってすごいことだと思うんですよ。
作品の商業性を高めるためにキャラや背景を「きれいに」「リアルに」描こうとしすぎたばかりにキャラの主線が背景から浮いてみえる、なんてのは近年の日本テレビアニメに見られる一つの傾向でありますが、この作品にはそういう商業性を高めようとする意識はほとんど感じられず、作品の(映像的な)整合性を取ろうとする強い意志だけが強く感じて、それが結果として面白いんだから不思議ですね。
いや、そもそも私という人が、ディズニーやピクサー以外の海外産アニメをほっとんど観たことがないにわか映画好きですから、もしかすると『ブレンダン』みたいな作画は、単に海外産アニメの王道なだけかもしれません。また、パンフレットもすでに売り切れてしまっていたので、監督がどんな狙いで今回のような作画を選択したかも知りません。なのでこれは完全に私の妄想にすぎませんが……それでもね、同じスタジオが製作しているのに、ここまではっきりと『ブレンダン』との作画的違いを魅せられると、そんな風に疑りたくもなるわけです。
自国の時代性をかなり意識した作品、つまり「自国を舞台にした昔話」という点で観ると、前述した『もののけ姫』との類似は避けられません。とは言っても、似ているのはあくまで使われているモチーフ(人間、そして自然)であり、ストーリーラインの上澄みであり、なんとなくの印象であり、お話の根幹というか、描きたいことの基底にあるのは、微妙に違うと思うんですよね。
『もののけ姫』が今なお素晴らしいなと思うのは、人間VS自然という二項対立の物語を通じて、神と人の時代が分かたれていなかった「神話の時代」から、シシ神が消滅した「神亡き時代」への移行、神代日本から近代日本への過渡期を見せつけている点なんですよ。サンという、人でも獣でもない、醜い哀れな神獣の子を物語の中心に配置しながら、その結末はサンを始めとしたキャラクターの結末だけに焦点を当てているのではなく、どちらかと言えば「神代日本の消滅」という、時代スケールの結末を描いているというニュアンスが強めに感じるわけです。
一方で『ウルフウォーカー』はどうなのかというと、たしかにラスボス的立ち位置の「護国卿」(つーか、どう見てもオリバー・クロムウェルその人なんだがw)は、『もののけ姫』のエボシよろしく、人の生活圏拡大のためにオオカミの住まう森を焼き払おうとしているわけですが、彼の一番の目的は、劇中でも散々語られているように「アイルランドを再制圧する」ことで、森を焼き払うのは、あくまでも制圧のための手段でしかないわけです。ルックは似ているけど、エボシがシシ神の首を獲ろうとしていたのとは、全く動機が異なるわけですな。
護国卿……ええい、もうめんどくさいからオリバー・クロムウェルって言っちゃいますけど(笑)、彼は歴史の授業でもおなじみの清教徒革命の中心人物で、キリスト教とケルト文化の融合したアイルランドを、純化したプロテスタンティズムという名の宗教的暴力を以て再制圧する立場にあり、実際にそれを成し遂げたせいで、ものすごくアイルランド人から憎まれているという、とても可哀そう(笑)な人なのであります。
こういう時代背景の下に鑑賞すると、やっぱりこれは人間VS自然の話ではなく、ケルトの自然を媒介に据えた、人間と人間、文化と文化、イギリス風土とアイルランド風土の衝突の物語という風に見えてくるんですよ。そりゃあ『もののけ姫』にも、エボシがシシ神退治の為に森へ出張っている間、たたら場を乗っ取ろうとした大名との小競り合いが描かれてましたけど、あれは文化と文化の衝突じゃないもの。どちらかというと「人間はこんなに業の深い生き物なんだよ」という、人間の業と業のぶつかり合いに近いもので、土着民と入植者の争いとは、まるで別物なんですよね。
面白いのは、ここでオリバー・クロムェルを始めとした入植者側と対立し、アイルランドの憑物文化や原生的自然を文字通り「その身を以て」体験することになるのが、純粋なアイルランド人ではなく、外の世界からやってきたイギリス人の主人公であるという点ですな。それに付随するかたちで描かれるウルフハンターたるパパの描き方も、なんかすごく興味深かったんですよ。なんつーんですかね、ウルフハンターという大層なネーミングの職業なわりに、ロビンのパパさん、中盤過ぎてもあんまりカッコよくないし、本当に苦労人過ぎるんですよ(笑)。いやほんと、これは驚きましたね。最初にイメージしていたキャラクター像と全然違いましたからね。
ウルフハンター。まぁその名の通り『オオカミを狩る』というこの職業は、史実におけるアイルランド再制圧でも、生活圏を広げる&宗教的改革を施すという点で、それなりに重要な役職として機能していたらしい。もともと、アイルランドにおけるオオカミは神の遣い、神聖な動物として畏敬の念を抱かれていた存在だったのが、侵略者たるイギリス人が振りかざすプロテスタントな宗教的価値観によって「邪教の徒・穢れた生命体」であると、信仰上における意味を上書きされてしまったのですな。今よりもキリスト教が権勢を誇っていた時代に「教義的な悪」の烙印を押されたオオカミを狩るわけですから、このウルフハンターという職業は、物凄く宗教的意義の強い責任ある大役であるはずなんだけど、ロビンのお父さん自体は、周りの兵士から全然いい扱いを受けてないんですよ(笑)。尊敬と羨望の眼差しなんて誰からも受けないし、「おら、さっさと来い!」とか言われて下っ端みたいな扱いだし、ウルフウォーカーの扱う魔術を「魔術」ではなく「妖術」と断じるクロムウェルからは、オオカミを早く狩れ狩れとパワハラ上司ばりのプレッシャーを与えられるし、中盤過ぎにはついに役立たずの烙印を押されて首輪までつけられるしで、なんかすごい、ぞんざいな扱いをされてばっかなんですが、こういった「一方的な社会的価値観によって『穢れた命』と定義された動物を処理する人」を、日常的に差別しているかのような描写を見るにつけ、私は日本の「穢多」「非人」「被差別部落民」というワードを想起せずにはいられなかったんですよ。
これはあくまで私の妄想であり、他愛ない戯言に過ぎませんが、もしかるすると史実における「穢れた存在とされたオオカミを狩る」役目を背負わされたウルフハンターたちも、牛馬の死体を処理する穢多と同様、「穢れた命に触れる人」として一般社会から差別されていながら、「オオカミ狩り」という「独自産業」を独占できる「ある種の特権」を有していたのかもしれません。そーいえば、『もののけ姫』にも山師(これも、いわゆる部落民の一種)が山犬狩りに参加していたし、こういう部分でも『もののけ姫』との類似性が見られるのは、なんか、かなり徹底しているなと感じますね。
とまぁ、なんだか理屈抜きで語るぜ! と息巻いた割には、ずいぶんと理屈だらけの拙いレビューになってしまいましたが、ぶっちゃけ、アイルランドの時代背景を知らずとも、純粋に劇場でかかるアニメーションとして盛大に楽しめちゃうし、今年最高の出来栄えと言っても過言じゃありません。オオカミ化した際の主観視点が嗅覚や聴覚に振り切っていて、そこに「共感覚」を彷彿とさせる描写を追加することで、「オオカミの動物的感覚」と「アニメーション的な面白さ」を両立させているのも素晴らしいし、約束という主題の下で語られる「帰るべき場所を探している人々」の物語としても楽しめるし、何よりやっぱアクションですね。これが最高。この映画には、アクションの「質感」がしっかりとある! メーヴ、メーヴのママ、ロビンがオオカミ化した時のそれぞれのウルフ・アクションが、体格差や四足歩行経験の差を加味したうえでの「重みある」「しかし微妙に動きの異なる」アクションとなっており、ひいては「オオカミという失われた肉体の」アニメーションとしては最高の出来栄えになっているので、作画好きな私は終始ワクワクしっぱなしでした。(長めの余談ですが、私が考えるアニメーションで言うところの「質感」っていうのは、あくまで「映像内に限定された実在感」のことで、実写映画の表現を丸ごとそのまま持ってくるべきという話ではありません。現実の世界に住んでいる私たちが普段見たり、聞いたり、感じたりしているのに、それがあまりにも当たり前すぎるがゆえに意識の外に置かれたり、あるいはテレビやネットというフィルターでろ過されたがために様式化され過ぎてしまった「現象や事実や肉体や所作」を「アニメーション」という抽象的な映像の枠に落とし込んだ時に、それが「映像としての実在感」を失わずにいられるかってところが、アニメーションにおける「質感」の有無に直結するんですよ。この映画で言うなら「オオカミ」という「私たちの日常から忘れられた現象」「失われた動物=肉体」を、どれだけ「映像の中で抽象的に、しかし実在感たっぷりに描いているか」ってところが「質感」の論点になる。「単純な身振り手振りの情報量を底上げすること」がアニメーションにおけるリアル感の獲得に繋がるなんて、そんなこと言った覚えはないし、思ってすらいねーんです。そこを勘違いされて批判を受けるのは、極めて遺憾です)
アニメの、特に「動きの躍動感」が好きという方はもちろん楽しめますでしょうし、抽象化を高めたキャラデザのため、日本産アニメの萌え萌えタッチに忌避感を覚えてしまっている人でも楽しめる、美味しいとこ取りの作品になっています。(鬼滅の陰に隠れてあんまり客入りが良くないってところが悲しいですが)
総合すると『ウルフウォーカー』は傑作ってことです。小説でも映画でも「傑作」という賛美表現を多用することに少々の気後れを覚えてしまう私ですが、それでもこれは傑作です。ストーリーをなぞっていくと、たしかにご都合主義的なところはあるかもしれませんが、基本的に私は「娯楽にご都合主義はつきもの」という立場の人間ですし、シーンとシーンの繋ぎ目が淀みなければ、ぜんぜんオッケーという性格の人間なので。めっちゃ楽しめました。なによりも『ブレンダンとケルズの秘密』の時にも感じられた「物語の訴求力を信じることの大切さ」というメッセージが、本作ではウルフウォーカーの都市伝説(物語)に救われるキャラクターのドラマを描くことで、より強力に機能しているという点が、特筆して素晴らしいんですよ。
というわけで、「質感」あるアニメーション・アクションが好きな方、あるいはディズニーやピクサーとは違うアニメを観たいという方、カートゥーン・サルーンのファンの方、おすすめです。
あと、物語の中盤でメーヴがロビンの荷物を物色するシーンがあるのですが、矢や弓に混じって、「とんでもないもの」がポイッと捨てられています。これには思わず「え!?」となりましたね(笑)。『ブレンダンとケルズの秘密』ファンへのサービス演出なんでしょうが「それを捨てるなんてとんでもない!」と声を上げたくなりました。ケルズ・ファンの方々、ここは必見です。




