表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
62/110

【第55回】★スパイの妻

『“映画の現実”に捧げられた映画。現実を“選び取る”我々に対する挑戦』


「日本のアニメ凄い!それに比べて実写映画はクソばっかり!」と、鬼滅のヒットを受けてそんなことを言う人たちを最近よくネット上で目にするようになりました。


ま、たしかに一理あるし、言いたいことも理解できる。というか、「アニメはいいけど実写はクソ」という論調は、20年くらい前からオタク界隈に蔓延している、ある種の言い分だ。


けれど「クソばっかり」という極端な結論を持ち出してしまいがちなのは、他ならぬ「あなた自身の問題だ」と言うこともできる。


日常生活を送る上で、我々が何気なく触れてしまっている、メディアやブログやらの呟き。日々洪水のように(しかし洪水のように、と認識できないくらい自然に、滑らかに)浴びているそれら有象無象の情報が日本映画を悪し様に嗤う意図を匂わせていたら、人の感性や思考は大なり小なり影響を受けるだろう。


しかし、ネガティブな情報を浴びた責任は、あなた自身にこそある。なぜなら、そういう情報を発信するメディアを「選んだ」のは、他ならぬあなた自身だからだ。


スマホに入れたニュースアプリや、フォローしたユーザーの呟きを漁り、共通の価値観や共感できる記事を探しては悦に入る。それが「現実を選択し続ける」われわれ人間の(サガ)という奴だ。「見たいものしか見ない」「聞きたいことしか聞かない」。そういう選択を日常的にしているのは、私であり、あなた自身だ。


つまりこういうことを私は言いたいのだ。日本の実写がクソと言い張っている人は「日本の実写はクソ」というニュアンスを潜ませたニュースなりブログ記事なり呟きなり動画なりを、意識的に、あるいは無意識的に浴び続けた結果、思考が極論を出すように汚染されてしまっているに過ぎないと。


地球上の全メディアが発信する情報を無視し、日本の実写映画を精緻に分析して論理立てて思考した結果「クソ」と罵るのなら構わないが、そんなことができる奴は一人としていないのは、言うまでもない。


私は「日本映画」という大きな括りで実写を「クソ」と断じたりはしないし、そんな気も起らない。なぜなら、黒沢清という存在が、まだ日本の実写映画界に存在し続けているからだ。


「実写はクソ」と口にしている人は、まず「黒沢清」の名をそもそも知らないか、それとも知っていて、それでもこの「ジャンルを跨ぎ続けるシネアスト」の根底にある「映画への奉仕者」としての姿を、見つけ出せていないだけなのだ。


映画の話題で「クロサワ」と耳にすれば、おそらく映画をほとんど観たことがない方でも、かの「クロサワ・アキラ」の名を脳裏に思い浮かべるだろう。それぐらい、かの映画大人が大衆へ及ぼす影響力は凄まじかった。だが、ダイナミクスとヒューマニズムをビッグバジェットで包み込み、アメリカ映画のリズムで映画を撮り続けてきた黒澤明と違い、黒沢清の映画は、アメリカ映画的ではあるんだけど、とても静かだ。あまりにも静かであるから、時に難解として捉えられることもある。


しかしだ。果たしてこの監督の撮る映画は、本当に俗に言うところの「難解」であるのだろうか。答えは、俺の中ではノーである。なぜなら彼は、黒沢清は常に「ジャンル」の人だからだ。ホラーだろうと、サスペンスであろうと、ミステリーであろうと、ラブロマンスであろうと、SFであろうと、黒沢清は常に己が選択したジャンルの地平に真摯に立って、ジャンルへの愛を失わずに映画を撮り続ける人だ。


クリント・イーストウッドが、何を撮っても「イーストウッドの映画」という「一つのジャンル」へ自動的に収まるのとは、また違う。黒沢清自身が「クロサワ・キヨシ」というジャンルに収まることはない。なぜなら彼は、己が培ってきた、あるいは洗練させてきた撮影哲学をそっくりそのまま映画のジャンルへ捧げようとする、まさに最初に申し上げた通りの「映画への奉仕者」であるからだ。


さて、そんな黒沢清の新作がこの度公開され、世界三大映画祭の一つであるヴェネチア国際映画祭にて、北野武以来十七年ぶりに監督賞を獲ったことは、記憶に新しいことだろう。


タイトルは『スパイの妻』ときた。スパイの妻。どういう映画だろうか。スパイ、と名がついていることは、スパイ・アクションなのだろうか? そんなわけはない。では「妻」という代名詞を挿入しているからには、夫婦の絆を描いた感動作なのだろうか? たしかに夫婦の絆は描かれているが、感動作からは程遠い。


では、この映画はなんなのか。あえて例えて言うなら、こうだ。


『スパイの妻』は、「映画の中の現実」に捧げられた「映画」なのだ





【導入】

太平洋戦争の開戦前夜。満州への旅行をきっかけに、関東軍がひた隠しにしている重要機密事項を偶然入手してしまった貿易商の男と、男にひたすら献身的に尽くす妻との、歪な夫婦愛を描いたメロドラマ映画。元々はNHKで放送されていた同名のドラマを、映画用に再編集したんだとか。


監督は『CURE』『回路』『カリスマ』『叫』と、ホラー・サイコサスペンス分野における超傑作映画を撮ってきた黒沢清。ヴェネチアでデカい賞を獲ったことでその存在が広く世間に認知されたようですが、私からすれば「遅すぎるわ!」という感覚でいっぱいです(笑)。


この方の映画はほとんど観ていますが、個人的には、やっぱり『CURE』がベストですね。いまだにこれを超えるサイコ・サスペンスに出会えていません。伊藤計劃が『虐殺器官』を執筆する際の下地にしたというのも頷ける、壮絶な出来栄えの作品なので、未見の方はぜひ観てほしい。


主演は、南海キャンディーズの山ちゃんとの電撃結婚を発表し、日本中の独身男性諸君(つーか俺)に慚愧の涙を流させた罪深い女優、蒼井優です。前々からカワイイ人だなと思っていたけど、結婚してからさらにカワイくなったような気がする……チクショー! うらやまし過ぎるぞ山ちゃん! これでもし浮気なんかしたらテメー地獄行きだ!


えー、さて、この方は『鉄コン筋クリート』や『ペンギン・ハイウェイ』などにおけるアニメ声優演技も様になってるし、実力は相当のものです。しかもこの作品では「昭和の大女優が出てくる白黒フィルム」によくある「妙に芝居がかった、ちょっと早回し気味のリズム」で終始喋り倒すという、地味ながらもとんでもない演技をしています。それは相手役の高橋一生も同様なのですが、この方も非常にうまい。『シン・ゴジラ』での演技が躍進のきっかけになったこの方、ツイッターで少し話題になってましたが、『耳をすませば』のスーパー・イケメンこと聖司君の声をやっていたんですねぇ。今年の暮れにはNHKで『岸辺露伴は動かない』の露伴役をやるとのことですが……うーん、どうなるんでしょうね。てかこのお二人、今書いていて気づきましたが『ロマンスドール』コンビなんですね。


脇役では、不倫騒動で話題(?)を呼んだ東出昌大が出演。巷ではこの方「演技が下手」とか「台詞が棒読み」とか、散々な言われようですけど、そんなに言うほどひどいですかね? デビュー作の『桐島、部活辞めるってよ』での演技もいい感じでしたし、個人的には『聖の青春』における20代前半の羽生善治役が、身振り手振りから全て、まんま羽生さんでびっくらこきました。将棋ファン必見ですぜこの演技は。


たぶん東出さんは、ある強烈な個性を発揮する役柄を与えられると、バチッといい演技をする傾向にあるんじゃないかしら。そういうわけで、憲兵隊の分隊長という「強烈な役柄」を与えられた本作の東出さんは、かなり、いい演技しています。





【あらすじ】

1940年という時代を、後の世の人々は次のように評するだろう。それは、砲撃と轟音と慟哭の予感を孕んだ「軍靴の時代」であったと。


その評価は正鵠を得ていた。1940年当時、すでに常任理事国という立場を放棄して国際連盟を脱退した日出国(ひいずるくに)は、世界において後戻り不可能な、決定的な孤立を迎えていたからだ。その反動であるかのように、満州における関東軍の横暴凄まじく、イタリアやドイツといったファシズム第一主義の独裁国家と同盟関係を結んだ大日本帝国は、対日経済制裁をかけてABCD包囲網を固めるアメリカとの、決定的な政治的対立を迎えつつあった。


アメリカとの対立関係が如実に影響を及ぼしたのが、貿易であった。特に、日本で買い付けを行うイギリス人やアメリカ人の貿易商らは証拠不十分なまま帝国軍憲兵隊にスパイの容疑をかけられて連行され、凄惨な拷問を受けるというケースが多発していたのだ。


その仕事上、海外に多くの友人を持つ神戸の貿易商店「福原物産」の社長を務める福原優作は、このことに心を痛めていた。彼は日本人でありながら、分け隔てない友愛と博愛をモットーとする世界主義者コスモポリタンとしての精神を尊重する男であったから、決して安くはないポケットマネーを支払い、軍に囚われた外国の友人たちを助け出していた。そのうえで、外国を相手取る商売ゆえに世間から白い眼で見られがちな貿易商という仕事に、誇りをもって日々を邁進していた。


そんな福原の妻である聡子は、夫を一途に愛する献身的な良妻であった。優作が満州への出張のために家を留守にしている間、幼馴染にして神戸憲兵分隊本部の分隊長を務める津森泰治から、その西洋かぶれの瀟洒な暮らしぶりを遠回しに詰られ、「身の振り方を考えないと、そのうちあらぬ疑いをかけられる」と忠告を受けても、聡子には届かない。なぜなら、彼女は優作を信じていたからだ。優作の見ている「現実」に寄り添い、どこまでもその身を捧げるという、静かでありながら激しい愛情に身を任せ続けることに、絶対の喜びを感じていたのだ。


だが、優作が満州から帰国してきてから、二人の関係は決定的な変容を迎えることになる。


ある日、津森に呼び出された聡子は、優作が満州から帰国してきた折に現地から連れ帰ってきた「草壁弘子」なる女性が変死体で発見されたという報告を受ける。その草壁なる女性は満州からの帰国後、優作が懇意にしている有馬温泉の旅館で、仲居として働いていたのだという。


まさか、愛する夫が草壁殺しに関わっているとでもいうのか。津森から耳にした話に思考を巡らせているうちに、聡子の胸の奥では、どろどろとした疑惑の火が燃え上がり始めた。


信じたくはないが、もしかすると二人は、自分の知らないところで男女の関係を結んでいたのではないか――夫を信じたいと願えば願うほど、相反するように燃え上がる嫉妬の炎。ついに我慢できずに、優作に事の仔細を問いただす聡子だったが、優作の返事は「僕のことを信じてほしい」の一点張りだった。


埒が空かないと判断した聡子は、満州出張時に優作に同行した甥の竹下文雄に話を聞こうと、彼が泊まっている有馬温泉の旅館へと向かう。勤めていた福原物産を満州から帰国してきた直後に退職し、なぜか小説家になることを夢見て旅館にこもりっきりになっていた文雄の表情からは、どうしたことか、生気がすっかり抜け落ちていた。


優作と草壁弘子の間に何があったのか――執拗に追及を続ける聡子に業を煮やして、文雄は、ある一冊の分厚い茶封筒を聡子に手渡す。優作の苦労も苦悩も何も知らず、のほほんと毎日を過ごしている無知なあなたなら、「それ」を渡しても憲兵隊の眼に止まることはない……そんな意味深な言葉と共に。


一体、自分の知らないところで何が起こっているのか。優作は、いったい何を満州で見聞きしてきたのか。馬車馬のように回転する夫への愛情と未知への好奇心に押される形で、聡子はついに封筒の中身を見てしまう。


封筒に入っていたのは、二冊の古ぼけたノートだった。一冊は日本語で書かれたもの。もう一つは英語に訳されたもの。そのどちらの中身にも共通して、人体の解剖図やら医学的な専門用語やらと共に、原因不明の病に侵された患者たちの生態が、克明に記録されていたのである。


その奇怪なノートの中身について聡子が問いただすと、優作は静かに語り始めた。満州への出張時、現地で知り合った軍人の案内で関東軍が管理している細菌研究所を訪問した際に、そこで大量の死体の山々を目撃したのが、すべての始まりだったと……


そう、関東軍は来るべきアメリカとの戦争に備えて、満州にて極秘の人体実験を繰り返し行い、強力な細菌兵器を開発しようとしていたのだ。その恐るべき事実を告発しようとしていた関東軍の軍医は上層部によって消され、軍医の恋人だった草壁弘子と知り合った優作は事情を知るや、彼女を満州から連れ帰り、軍医が密かに隠し持っていた人体実験の記録ノートを彼女から譲り受けたのだ。


あまりの事実に呆然とする聡子に向かって、優作は告げる。この非人道的な記録ノートを英訳するように文雄に頼んだのは自分で、草壁弘子の殺害には一切関わっていないと。そして、その英訳されたノートを手にアメリカへ渡り、日本軍の悪魔のような所業を世界に暴露することで、アメリカと日本を戦争状態へ引き込み、日本を「敗北」させることが、世界主義者(コスモポリタン)である己の正義なのだと説く。


「それでは、あなたは売国奴になってしまうではありませんか!」


自国を他国へ売る……国への絶対的奉仕が国民の義務とされていた当時の道徳理念において、それはひとたび露見すれば、極刑を免れない愚行そのものであった。


愛する聡明な夫が、自ら売国奴という烙印を背負おうとする覚悟を見せつけられたことに、驚愕と困惑を隠しきれない聡子。どうにかしてアメリカへ渡航するのをやめるよう必死になって説得するが、不正義の上に成り立つ幸福を甘受することなど、断じてあり得ないと優作は力強く言い放つ。その眼差しには「自分の理想の世界」ばかりを追い求め、目の前に立ちはだかる残酷な現実を直視しようとしない妻への、明確な侮蔑が込められていた。


だが、だがそれでも、聡子の夫への愛は揺るがない。たとえ己の見ている現実の光景が否定されようとも、聡子にとっての「正義」は「夫を愛する」こと、ただそれだけなのだから。


そうして聡子は意を決し、普段の洋装とは異なる和服に身を包んで、津森の下を訪れる。優作の金庫から密かに盗み出してきた、あの記録ノートを携えて……





【レビュー】

黒沢清というシネアストは、冒頭でも述べた通り、常に「ジャンル映画」の世界で勝負してきた人物だ。この方はピンク映画から映画監督の経歴を出発した人だが、それだけを聞くと、やたらと経歴や出自にクリーンさを求める傾向にある一部の人たちは、顔を顰めるかもしれない。ピンク映画=セックスだらけの退屈な映画、というフィルターが掛かっている人からすれば、ピンク映画に抱きがちな「汚い、安っぽい映画」というイメージと、清廉で格式の高い(と、一般的には思われている)国際映画祭での受賞というイメージが、上手く結びつかないのは当然であろう。


だが、ピンク映画を侮ってはいけない。実はピンク映画というのは、その大部分が「濡れ場さえあれば、他に何をやってもいい」という、比較的自由度の高い撮影環境の下で生み出される作品なのだ。男女のまぐわいを撮っていれば、ミステリーだろうと、サスペンスだろうと、アクションだろうと、SFだろうと、どんなジャンルだろうと問わない。大衆にウケるかウケないか、そんなことはハナから念頭にない。


ゆえに「ピンク映画」という土壌は、強烈な作家性を持つ監督が、その作家性を熟成させ、いかんなく発揮するのに適した環境と言えるやもしれない。実際、ピンク映画出身の監督には個性的な方々が多いし、その個性が(時に物珍しく映って)海外でウケる傾向も比較的高い。有名な園子温や周防正行もそうだし、『おくりびと』でアカデミーの外国語映画賞を獲った滝田洋二郎もピンク映画出身であることが、それを強く物語っている。


では、そんなピンク映画出身の黒沢清は、その特異(と世間一般で言われがち)な作家性が評価されて、ヴェネチア国際映画祭にて賞を獲得したのだろうか。それは、確かに賞獲得の理由の一つに挙げられるだろう。なぜなら、この人の作家性、撮影理念というのは、正しく「映画的」であるからだ。


正しく映画的であるとはどういうことか? それは「映像が物語に奉仕しきっていない」ということだ。


物語というのは、それが表現される媒体に関わらず、基本的に「いかように語るか」という点に主眼が置かれる。小説なら、いかような人称と構成にすべきか。漫画なら、いかような構図で絵を描くか。すべての物語はそうして紡がれ、語られゆく。


そのように「作為的に」紡がれた物語には、どんなジャンルであろうと、常に「理屈」ありきのストーリーがつきものである。いや、ストーリーだけではない。キャラクターの感情の動きや、世界観の複雑な構築も、そのすべてに「理屈」という名のコーティングが施されている。小説だろうと漫画だろうと、それが人の手によって作られたものであるなら、「理屈」という概念は、物語を理論立てて解体するのに必要な共通項と言えるのだ。


つまり、世に溢れている創作物の大部分は、「こういう物語を、こういう風に語りたい」という、作り手側の強烈な自意識が発動した「理屈の産物」であると言える。ここでいうところの「物語」とは「テーマ」のことを指す。人は、あるテーマを語りたいがために、理屈付けられた物語を創作するのだ。


作り手側の、作為的な意識によって理屈づけられた物語。それが本質的に指しているのは、ストーリーだったり、アイデアだったり、キャラクターだったり、人称だったりといった、物語を構成する最小単位の群れが、物語を完成させるために、その身を献身的に捧げているという当たり前の事実だ。それらの構成要素は、例えるなら荘厳なるピラミッドを建設するために駆り出される労働者であり、隙間なく積み上げられていく石材そのものだ。物語を完成させるまで、あるいは物語が完成し終わっても決して解放されない、ある種の「呪縛」に囚われた者たちなのだ。


当然、映画もこの呪縛からは逃れられない。というか、映画ほど「物語」を紡ぐ最大の要素が、すなわち「映像」が「物語に縛られている」と圧倒的に感じてしまう創作物もない。文字や絵という二次元の情報量と、実写という三次元の情報量の違いが、そういう感覚の差異を私の中で生み出しているのかはわからない。ただ一つ言えるのは、映画がこの世に生まれてから百年ばかり過ぎた現在、映像や役者や台詞といった、映画を構成する諸要素は、常に「物語に奉仕すべきだ」という、ある種の固定観念に縛られており、私を含む多くの観客が、それを当然のものとして受け入れているということだ。


そんな中にあって黒沢清の映画は、時に特異で奇妙なものとして映りやすい。なぜなら、彼の撮る映像は、それによって語られる作品は、「物語に極力奉仕しない」という映画的イデオロギーを常に取ってきたからだ。


先ほど冒頭で、私は彼のことを「映画への奉仕者」と形容したが、それは「物語への奉仕者」という意味ではない。彼が培ってきたノウハウや技術を捧げる対象となるのは、あくまで映画を区分けする「ジャンル」だけであり、「こういう物語を作りたい」という意識が先行しているのでは決してないのだ。


黒沢清の創作の姿勢は、「こういう物語を、こういう風に語りたい」という一般的な創作の動機に照らし合わせると、「こういう物語を」の部分が抜けていて、常に「こういう風に語りたい(あるいは、撮影したい)」という意識だけが、静かに、しかし情念のように燃え上がっている。だから、彼の作品は真に「映画的」であると言えるのだ。「こういう画をこういう風に映す」という当たり前の、しかし自意識が邪魔して、どうしても「物語を説明する映像=作為的な映像」になってしまうその仕事を、本来の意味の下で確実にこなしているのだから。


カメラに撮った映像を、映像が持つ生々しさを保持したまま、丁寧に丁寧にレイヤーのように積み上げていく。そんな、「こういう物語を作ろう」という意識を働かせないで形成されゆく層の隙間には、当たり前だが「理屈」が腰を下ろすスペースなど存在しない。そのような、極めて作為性の薄い作業を繰り返していく中で出来上がったものを「映画」として世に送り出してきたのが、黒沢清という人間なのだ。


そして真に恐るべきは……これは本当にどう考えても「不思議」としか思えないのだが……そうやって静かに積み上げられた「理屈なき」映像の集積体が、しかし出来事の因果関係を損なうことなく、正しく「物語」として機能している点である。


「こういう風に語りたいと思って撮っていたら、こんな物語が出来上がったんだよね」といわんばかりの彼の作品が、常に、どんなジャンルであっても「他者システムと自己の相克」というテーマへ最終的に行きつくのは、納得がいく。もし作為的に物語を語ろうとするなら、毎回テーマが微妙に違っていて不思議はないのだから。


だから、黒沢清の映画を理解する際に、そのストーリーを追っていく際に、「理屈」を求めてはいけないのだ。理屈で彼の物語を読み解こうとすると、途端に訳が分からなくなる。この人の作品は、感性で観て、感性で噛み締めるものなのだ。その点では、村上春樹の小説を読み解いていくのと、ちょっと似ているかもしれない。ただし、あちらの方は明確なテーマと明確な文体が初めにあるから、やっぱり微妙に違うのかもしれない(どっちやねん)。


感性で映画を観る。こういうことを言うと「それめっちゃ敷居高そう」とか「なに知った風なこと言ってんだ」と、ガミガミ言いたくなるかもしれないが、事実そうなんだから仕方ない。でも、難しく考える必要はなにもない。それは決して、ぼけーっと画面を観ていればいいということではなく、文字通り「感性で」、つまり、画面に掲示される映像を、そのまま、そのまま観ればいいだけなのだ。そして繰り返しになるが、画面が映し出す事象や事物を読み解こうと、理屈を先行させてはいけない。それは、映画館の照明が明るさを取り戻してからでいい。とにかく上映中は、ずーっと画面に「全集中」してもらいたい。


『カリスマ』のラストで、なぜ都市が炎上しているのか? 『アカルイミライ』で、なぜ大量のクラゲが東京の河川を漂っているのか? 『回路』において、なぜ平凡な団地に幽霊を出現させたのか? そこに理屈は存在しない。「それは、そうだから、そうなった」という、当たり前にして理不尽な事実しか、黒沢清の映像は映さない。なぜなら、そういう形態で語られるべき物語としてのみ在るからだ。だからこの映画でも、なぜ主人公が関東軍の極秘資料を発見してしまったのか、その「作劇的理由」は一切語られず、ただの「偶然」として処理される。満州から連れて帰ってきた女と、どのような経緯で知り合ったのか、台詞で一応の説明こそされるが、その具体的な接触のシーンは一切描かれない。なぜなら、「それは、そうだから、そうなった」だけなのだから。


ただ、そんな「理屈なき物語」を作り続けてきた黒沢清ではあるが、ここ数年、彼の作風は変容を遂げようとしている。ファンなら誰しもが感じ取っていることだと思う。『リアル~完全なる首長竜の日』や『クリーピー~偽りの隣人』など、原作ものを借りてきた作品に、特にその傾向が出ている。「原作物」という「理屈ありきの物語」を解体し、理屈なき映像で語ろうという、これまたおっそろしいことをやろうとして制作されたこの二作品は、個人的には失敗作だと感じている。とてつもないスピードで積み上げられていくありきたりな邦画の数々と比較すれば、抜群に面白いのは間違いないし、「黒沢あるある」な演出のオンパレードなのだけど、明らかに黒沢清の作家性が殺されているように見えてしまって、物足りなさを感じたのは否めない。


そういう前歴があったせいで、この『スパイの妻』が公開されたとき、私はかなりビビっていた。いくらヴェネチア国際映画祭で賞を獲ったとはいえ、そんなのは「映画の豊かさ」を保証してくれるものではない。「いい映画だから賞を獲った」は分かるが、「賞を獲ったからいい映画」かというと、そうとも限らないのが創作物の常である。


ぶっちゃけ、カンヌだろうとヴェネチアだろうとベルリンだろうと、ああいうヨーロッパ系の映画祭では「物珍しさ」という先入観が、受賞作の選定に多少なりとも作用している気がする。私たち日本人の文化的な営みが生み出す「風景」がごく当たり前なものとして映像に収められていたとしても、それが、ヨーロッパ圏の文化に浸かりきった人たちから見て「見慣れない風景」であると判断されたなら、それは、ヨーロッパの映画祭において特別な価値を有するのだ。映画の出来不出来に関係なく。


だが、私はこの映画を観て、率直に感動した。物語云々ではなく、その「風景」が、ヨーロッパの人たちはおろか、現代に生きる日本人の眼から見ても「見慣れない風景」であったからだ。1940年という、かつてあった昭和の日本。そのディティールが余すところなく再現されているからだ。


正直、私は愚かにも、黒沢さんは美術に対してそこまで関心がない人なんじゃないかと思っていた。なにせ、ごくフツーのスプロールな団地を舞台にした作品ばかり撮ってきた人なのだ。それらの、ごくフツーの団地を奇異な場所として切り取るようなアングルやシーンは「お見事」の一言に尽きるが、それは「異世界を構築する」という理念とは、全く意味合いを異にする。


だが、この『スパイの妻』の舞台は、正しく「異世界」としての品格を獲得している。我々の住む現代と地続きになっている過去でありながら、歴史の地層に埋もれてしまった「かつてあった時代」を「こういう風に撮ろう」という意識だけで、如実に画面へ投影させている。


主人公たちを始めとする、街を行き交う人々の服装。店の看板に「右から左へ横に刻印された」一瞬どう読んでいいのか困惑する漢字やカタカナの存在感。物々しい形相で、機械的な動きで治安警備に当たる憲兵隊らの姿。神戸港の、錆びつつある門扉。そして映写機。その映写機に巻き取られた9.5ミリフィルム。そのフィルムに封じられた白黒の映像が放つ、無味乾燥で、時に懐かしく、時に不気味さを抱かせる「質感」。


プロダクションデザインのすべてが、当時の、1940年の息遣いに満ち溢れている。そのどれ一つとして「過剰でない」ところが、異世界としての品格を保っている最大の理由だろう。いくら主人公が貿易商を営むイケイケドンドンの社長であろうと、彼らが住む邸宅の瀟洒さは、当時の上流階級の生活レベルから逸脱することはない。「このレベルの人たちなら、当然これくらいの調度品はあるだろう」という意識の下で選別された景観で埋め尽くされている。そのバランス感覚の巧さによって、我々日本人の眼にも新鮮に映る「開戦前夜の日本」を立脚させてみせたのが、ヨーロッパの賞を獲得した最たる理由なのかもしれない。


従来の黒沢らしい「理屈なき映像の原理」と、それまでの彼のフィルモグラフィにはなかった「ディティールを費やした風景」の相互作用によって語られる本作の物語は、ヒリヒリ感とドキドキに満たされている。それは、蒼井優と高橋一生という素晴らしい役者の演技もさることながら、黒沢清の映像が「映画」という虚構を語る産物でありながら、限りなく現実的な佇まいを想起させるからだ。


「限りなく現実的な佇まいの映像」とは何か? それは「編集点が少ないシーン」を意味しているに他ならない。


ファンにとってはお馴染みだが、黒沢清はとにかくカットをほとんど割らない監督として知られている。殺人のシーンを、殺人実行の前後のカットを割ることなく、ひとつの「流れ」として収めるのが、ホラーやサスペンスにおける彼のやり口だ。


カットを割らない、つまり編集点をあまり作らない彼の映画が、重苦しい現実感を観客に与えてくるその一番の理由は、我々の人生そのものが、常に「何かを選びとる」という選択の繰り返しによって「編集された現実」そのものだからだ。


「人は、見たいものしか見ない」とは、誰の台詞だったか。「私が我が運命の支配者」とは、誰の台詞だったろうか。ツイッターのタイムラインで、自分の好みの記事を見つけてリツイートするという「選択」をするということは、タイムライン上に同時存在している別の記事を「リツイートしない」という選択と同じだ。このサイト風に言うなら、ある小説をブックマークするということは、ある小説をブックマークしないことを意味し、あるユーザーをお気に入り登録することは、あるユーザーをお気に入り登録しないことを意味する。


我々が物事の「好き/嫌いを選ぶ」ということは、膨大な情報量に満ち溢れて複雑極まっている「現実」の、ほんの一部分を断片的に「カットして」拾い上げるか、または捨てるかのどちらかを指している。そんな些細な選択の連続、すなわちカットの連続によって生じた編集点を繋ぎ合わせることで、私の、そしてあなたの世界は形作られている。あなたの目の前に広がる現実の世界は、「あなた自身が選択した情報と、あなた自身が掴んだ運命に満たされた、あなただけの世界」であり、私が見ている現実の世界とは、決定的に違うのだ。(だから、人と人が真に分かり合うことなど、夢物語に過ぎないのだというのが私の主張)


ある料理を嫌う。ある飲み物を飲む。

ある人に触れる。ある山に登る。

あるペットを飼う。あるコンテンツを好む。

ある仕事に就く。ある友人をつくる。

ある人物に投票する。ある人を傷つける。

ある人と結婚する。あるニュースを信じる……そのように際限なく続く選択の連続で現実が編集されていくことで「私/あなたの現実」は成立している。我々は現実を生きているのではなく「現実を選びとる」生き物。自分にとって、比較的居心地のよい現実に繋がり得るだろうと推測したファクターを選び取って、現実を編集する生き物なのである。(追記:この事実は、先日行われたアメリカ大統領選挙にて明らかにされたことだと思う。総獲得票数でも獲得選挙人数でもバイデンがトランプを大きくリードしているのは明らかなのに、それでもトランプの勝利を信じて、陰謀論というエビデンス不明な論拠に縋りつく人々は、「リベラルは悪」という前提に立って、自分たちにとって都合の良い現実を「編集」し「演出」しているだけに過ぎないのだ)


何を「選択」して生きるか?――その選択の基準が人によって異なるからこそ、個々人が認識している現実の姿には、当然の如く差違が生じる。その「認識の差異」から生じる「摩擦」こそが、世に言うところの「価値観の違い」であり「倫理観の違い」であり「嗜好の違い」であり、その人が持つ「可能性の搾りカス」であるのだ。「人には無限の可能性がある」と豪語する言葉は、この世に生まれ落ちた瞬間の、まだ自意識が芽生える前の赤ん坊にだけ当てはまる言葉だ。可能性とは、厳密に言えば「選択の可能性」であり、編集という名のメスが入れられていない、剥き出しのグロテスクな現実を切り取る覚悟を問う言葉なのだ。


だから、カットをほとんど割らないことで編集点を極力排し、長回しに近い時もある黒沢清の映像は、重々しく、生々しく、グロテスクな光を放つ。それは「リアリズム」という言葉が持つ、現実のパロディ感とは意味合いを異にする、剥き出しの現実だ。それゆえに、圧倒的にズシンとのしかかってくる映像の「重み」が、彼の映画にはあるのだ。黒沢清の映画は、それが「映画」という虚構仕掛けの娯楽でありながらも、そこで見せつけられる映像には、我々が生きる「選択の反復作業で編集された現実」とは異なる生理が内包されているのだ。


そういう映像ばかりで構成された物語だから、この映画は猛烈に面白い。さっきから「重い」という言葉を用いているけど、それは決して映画の雰囲気が暗いということではない。繰り返しになるが、ここで私が言う「重い」とは、映像の生理的な「重さ」だ。『ゴーン・ガール』のような、男と女のパワー・ゲームとしての面白さというよりかは、カットをほとんどかけない映像の佇まいが持つ「重く、生々しい、現実感」としての面白さが、この映画にはふんだんに詰め込まれている。静かな画面の連続だけれど、その映像が持つ生々しさ、野性味は、ほとんど暴力的とさえ言っていいだろう。


聡子は優作を一途に愛している。その愛が如何に純粋で健気なものであるかを証明するかのような勢いで、彼女は夫を中心に据えた「現実」にすがり続ける。そんな妻に対し、不正義の上に成り立つ幸福を許せないと口にするコスモポリタニズムの優作は、「アメリカに日本を懲らしめてもらう」という「現実」を実現するための選択をし続けていく。双方がそれぞれの胸の内に抱えている「選び取ったorこれから選び取る現実」の風景は、「夫婦愛」だの「絆」だのという言葉を持ち出せば持ち出すほど、表面的には美しくとも、その内実は白々しさを増していく。その白々しさの根幹にあるのは、これまたストレートなくらいの「価値観の違い」だ。


その「価値観の違い」が、物語の終盤になって、ある決定的な出来事となって我々の眼前に映し出される。船の甲板に悠然と立ち、我々観客の側へ手を振りながら、白い濃霧の彼方へと消えていく優作の姿がそれだ。妻の「重すぎる愛」から解き放たれた喜びを噛み締めるかのような、ある種のリラックスさを感じさせる仕草を目の当たりにした我々は思わず「お見事!」と口にしたくなる。映画に「観客を映像で騙す」という機能がその創成期から備わっていることを考えれば、我々観客は、この手のサスペンスモノに対して、痛快な騙しの展開を密かに期待していると言えなくもない。


だが、果たしてこれはそれだけの映画なのだろうか。騙しの快感だけを味わうだけの映画なのか? それについて考えることは「優作が聡子を本当はどう思っていたのか」を考えることとイコールなわけだけど、それに対する私の回答は、こうだ。


「そんなの分かるわけねぇだろ」


そうだ。分かるわけがない。黒沢清の、重々しい、グロテスクな現実の光を放つ映像の数々は、現実の生々しさ“だけ”を再現しているのであって、我々の世界でもよくある夫婦間のいざこざの原因を、映画を通じて論理的に説明しているわけでも、解決策を掲示しているわけでも、問題提起をしているわけでもない。スリラーな感覚を観客に与えつつも「それは、そうだから、そうなった」という軽やかさで、夫婦の決定的な別れを描いているだけだ。二人の間にある「目に見えない心理的な領域」にあれこれ想いを馳せるのは観客の自由だが、結局のところ、人が人を完全に理解するのは不可能なように、二人の心の揺れ動きを細緻に論理的に説明することなど、誰にもできない。


分かるのは、優作は聡子を「見届け人」に仕立て上げたということだけだ。なんの見届けか? 文字通り「日本がアメリカに敗れ去る姿」の見届けだ。


空襲で焼け野原と化した神戸の街並み。その地獄のような光景は、アメリカに関東軍の極秘資料を手渡した優作の存在を、間接的に聡子に意識させる。瓦礫の山と化した神戸の街並みを見つめる聡子の眼差しの先にあるのは、海を渡った優作の姿に他ならない。


そんな優作の趣味が何だったか、思い出そう。彼は映画を撮影することに夢中になっていた。映画とは、観客という要素があって初めて成立する娯楽である。つまり優作は聡子の手の届かない世界へ旅立ち、自らの存在を「映画化」することで、聡子を「信頼できる観客」に仕立て上げてしまったとみることができる。あの「白い濃霧の彼方へと消えていく優作の姿」こそ、彼が「映画の住人」と化してしまった事実を物語っているのだ。


それゆえに、「映画の住人」と化してしまった優作の幻影を追い続ける聡子の眼差しは、この『スパイの妻』を鑑賞している観客の眼差しと全く同一のものとなる。観客が映画を観るように、聡子もまた映画を……映画の中へと回収されていった愛しい人を見つめ続ける。


だからこの「映画」は、「映画の中の現実」に捧げられた「映画」であると言えるのだ。


「連続的選択を経て編集された現実」に住む我々の前に、生々しい「編集されきっていない、現実そのもの」な空気感を持つ映像を叩きつける黒沢清。「夫への献身的な愛に生きる」という「選択」をして「自身にとって都合よく編集された現実」を生きる聡子へ、全く価値観の違う「もう一つの現実」の世界をぶつける優作。以上のことを考えれば、黒沢清は聡子にとっての優作その人であり、聡子は黒沢清にとっての観客そのものであると言える。


キャラクターの心情と観客の心情をリンクさせるように働きかける映画は、世の中に掃いて捨てるほど存在している。あるキャラクターを、監督の代理人として登場させた映画だって沢山ある。だが、観客とキャラクターの立ち位置や、「いま、ここ」の世界と、映画の中の虚構の世界を、そっくりそのまま置換可能としてしまう映画は、極めて珍しい。それを可能としているのが、「臨場感」であるとか「圧倒的映像体験」とか「リアリズム」という言葉が子供騙しに聞こえてしまうくらいの「生々しい、編集点の極めて少ない、本物の現実」を写し取ったかのような映像の数々なのだ。


物語の最終盤。映画の世界の住人と化した優作を追って、聡子はアメリカへと渡航した。先ほども口にしたように、聡子とは、この『スパイの妻』を鑑賞したすべての観客である。聡子が追いかける優作。それは、黒沢清を追いかける観客と置き換えることができる。


自分の映画を、今後もたくさんのお客さんに観てほしい――そういう「祈り」が、あのエンドロールに入る前の淡白な字幕に込められている。そしてあの字幕は、「こういう風に語りたいと思って撮っていたら、こんな物語が出来上がったんだけど、この先も私の映画を観てくれますか?」という、監督からの控えめなメッセージでもあり、ちょっとお茶目な愛嬌として受け取ることもできる。


そんな映画愛に満ちたメッセージへの返答として、私は穏やかな笑みを浮かべて、こう答えたい。


当たり前じゃあないですか、と。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ