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【第54回】鬼滅の刃-無限列車編-

『豪華絢爛にして空虚な玉座を、延々と二時間見せつけられた気分』


エゲつない。


何がって、興行収入の伸び具合が。


ツイッターのトレンドにも上がってましたが、公開日数と興行収入のグラフにおける『鬼滅の刃-無限列車編-』の傾きが、かなりエゲつない急勾配を描いています。


なんですか、公開十日目で興行収入百億円突破って。どういうこと? シンジラレナーイ!……と言いたいところですが、まぁね、そりゃ当然でしょうよ。こんだけ節操なく公開スクリーン数を拡大すりゃあ、回転率なんて滅茶苦茶高くなって当然。比例して興行収入が爆増するというカラクリですな。


もちろん映画ファンとしては映画館に元気になってもらいたいし、これをきっかけに映画館側の収入も増えて従業員の待遇も良くなって賃金も上がって、結果的に「じゃあ鑑賞料金、ちょっと安くしようか」な流れになると、だいぶ嬉しいことこの上ないのですが。


そんな「映画館に元気になってほしい」と願うのと同時「あまりにも品が無さすぎやしないか?」という反発心があるのも、正直否めませんな。はっきり言って今の状況は、朝、昼、晩と、ずーっとおんなじジャンクフードを食って食って食い続けているような状況で、不健康極まりない。それでも「経済効果」という「安心を無条件で担保してくれるような錯覚しがちワード」に陶酔する人たちからしてみれば、諸手を上げて喜ぶ状況なんでしょう。


でも……なんかねぇ。この公開スクリーン数の多さは、必死すぎてちょっと引くというか。品がないというか。うん、文化的に健康じゃありませんよね、どう見ても。


当たり前な話かもしれないけど、お客さんが沢山入るからといって「映画的に」良い映画であるとは限らない。観客動員数が物語るのは、それが商業性に特化して成功した作品であるということだけだ。観客動員数やら興行収入やら、そういう目に見えてわかる数字というのは「評判」の指標にこそなるが、映画の「評価」とはほとんど関係ない。


客入りが続くのはいいことだ。それは間違いないし、異論の挟みようもない。けれど、右を向いても左を向いても同じ図柄の映画ポスターが入り口に貼られている様は、やっぱりちょっと不健康を通り越して異様に見える。なんだか『1984』の世界みたいだ。ufotableはビッグ・ブラザーですか?


しかし、こういう問題は映画を仕掛けている企画屋たちの映画に対するリテラシー、文化的モラルの話なので、映画作品それ自体を悪し様に貶める際の論理としては不適格であるってことを、忘れちゃあいけませんね。


って、それはいいんだ。それはいいとして、俺は今、すんごい筆が重い。めちゃくちゃ重い。だって、この映画のレビューを書くことの意義を見つけられていないから。


このレビュー集の序文にも書いてあるとおり、『MAD CINEMAX』は、俺の拙い文章を必死こいて読んで下さる方々を映画館へ誘導したいという一念で書かれている。すなわち、今現時点で爆発的な人気の映画、自動的に大盛況な映画について語る必然性がこれと言って見当たらないのだ。すでに映画館へ足が向けられているのなら、それについてとやかく口にする必要性はどこにもない。


それでも、こうして重い重いと口にしながらもキーボードをカタカタ叩いているということは、それなりに映画を愛している人間として、一言どうしてもこの映画に言いたいことがあるからに他ならない。


このレビュー集本来の目的からは逸れてしまうけど、走り出した汽車が目的地に到着するまで停まらないのと同じで、こうなったら俺も行くところで行っちまおうか。そう思っている次第です。




【導入】

週刊少年ジャンプで連載されていた同名の漫画を原作としたアニメの続き、ファンの間でも比較的評価の高い「無限列車編」を切り取った映画が本作。


制作は『空の境界』や『Fateシリーズ』を手掛けてきた、3DCGエフェクトバリバリな「きれいな作画」で有名なufotable。監督は外崎春雄という方ですが、正直「ufotable」という集合体で語るべきでしょう。新海誠という例外がいますが、アニメーションってのは基本的に「集団の作業」であります。でもそうは言っても、ここまで作家性を殺した創作集団というのも珍しい。集合としてのパワー、集合としての知恵、集合としての経済効率……という面で語るべきなんでしょうな。


声優さんは、テレビアニメ版の面々と同じ。


音楽はufotableお馴染み。キャラクターの心情にガンガン劇伴をつけるタイプの梶浦由紀さん、椎名豪さんでございます。アニメ愛好家たちには比較的人気な作曲家ですが、ちょっと一言いいたい。キャラクターの心情に合わせた曲をバンバン使ってくるのは別にいいんですが、あまりにも頻度が多すぎるし、なにより音がデカすぎる。要所要所、ピンポイントで流すというより、最初から最後まで、まるで全車一斉砲撃の様相を呈してます。音の砲弾がドカドカ降り注いでくる感覚は最初のころは気持ちいいんですが、後半になってくるとクドさが増してどうにもしかめっ面になりがち。もうちょっと抑えてくれよと言いたくなりました。おかげで俺様大好きな猗窩座殿の術式発声が全然きこえねーっつーの! 




【あらすじ】

今より百年ほど前。闇夜に紛れ、人ならざるモノどもが人を食い、太平の世に暗き影を落としていた、大正の時代。


炭売りを生業とする竈門炭治郎。温厚で優しい少年の何気ない日常の生活は、一家の惨殺をきっかけに一変した。下手人の名は、鬼舞辻無惨。平安の頃より数百年もの長きに渡って生き続ける、人の生き血を啜って生きる鬼の首領であった。


辛うじて一命を取り留め、しかし無惨の血を受けて鬼と化した最愛の妹・禰豆子を人間に戻す方法を探すため、炭治郎は、道中知り合った富岡義勇なる剣士の紹介を経て、人知れず鬼狩りの使命を帯びて活動する政府非公式の特殊治安維持部隊・鬼殺隊への入隊を決意する。


隊士の育成を手掛ける鱗滝左近次の下で厳しい修行を積み、ただ優しかっただけの炭売り少年は、剣士としての面構えと才覚を宿し、そうしてついに最終選別に合格。晴れて、鬼殺隊の一員となる。


無惨の血を受けて鬼となりながら、無惨の「呪縛」から逃れ、鬼を人間に戻す薬の探究を続ける美女・珠代との出会いや、同じ鬼殺隊士でありながら臆病者の我妻善逸、猪頭を被り物とする血気盛んな野生児・嘴平伊之助らとの出会いを通じ、新米の鬼殺隊士として、数々の鬼狩り任務を成功に導いていく炭治郎。


そんな彼の下に、鬼殺隊のトップ、産屋敷から送られてきた次なる任務は、無限列車なる謎めいた列車の調査だった。話によると、その列車では短期間のうちに四十名以上もの乗客が行方不明となる怪事件が発生しているというのだ。


列車の怪事件に鬼が絡んでいると睨んだ炭治郎は、善逸、伊之助と共に真夜中の無限列車へと乗り込む。そこには炭治郎たちのほかに、もう一人の剣士の姿があった。名を煉獄杏寿郎というその快男児は、富岡義勇と同じ、鬼殺隊随一の技量を持つ「柱」の一人であった。


煉獄の独特なテンションに困惑しつつも、心強い味方を得たことに安堵する一行。だが、彼らはまだ知らない。無限列車には、無惨配下の鬼の中でもとりわけ凶悪な《十二鬼月》の一人にして、人々を「悪夢の世界」へ引きずり込む悪鬼が隠れ潜んでいることに……




【レビュー】

古くからアニメーションを鑑賞するうえで基準とされたり、善し悪しの判断材料として取り上げられやすいのが「作画」です。作画の良いアニメは、(その内容の出来不出来に関係なく)それだけで賞賛される傾向にあり、作画がイマイチor崩壊しかかっているアニメは、ネット住民のおもちゃとして強制的に黒歴史として弄ばれ、デジタル・タトゥー化される傾向があります。


作画がきれい……確かにそれはアニメーションを鑑賞するうえで重要な要素の一つです。しかしここで考えたいのは、はたして「きれい」とはどういうことを指すのか?ってことです。


キャラクターの顔が崩れない。主線がカッチリとしている。中割りが滑らか。背景がリアル。エフェクトが派手……アニメーション映画を「映画」ではなく「アニメ」として語りがちな方々が用いる「きれい」という言葉には、これらの、実に様々な種類の「きれい」が内包されています。


しかしながら、彼らが「きれい」と口にする言葉に、「質感」という要素はほとんどの場合において含まれません。


質感。それはすなわち「映画の手触り」を指します。こう表現すると、アナログな作画方式や3DCGのような作画手法のことを直接的に指しているように聞こえるかもしれませんが、違います。そういう技術の話ではなく、感覚、センスの問題なのです。


質感とはすなわち、空気感と言い換えることができるかもしれません。私たちが住んでいる「いま、ここ」の現実世界、あるいは、誰もまだ観たことがない「異世界」を映像で表現するにあたり、その世界で「生きる人々」の息遣い、皺の深さ、涙、何気ない仕草、習慣、風習、存在感、生理的な肉体反応……それら諸々をまとめて「映像の質感」と定義するのであれば、それに目を向けて「いかに物語を描き出すか」に注力することこそが、映画的創造力のたくましさに直結するのです。これは、実写だろうがアニメーションだろうが同じことであり、なまじ紙の上になんでも描けてしまう(自由にコントロール出来過ぎてしまう)アニメの方が、映画の質感を表現するという点において、撮影時に制限を受けやすい実写より困難であると言えるのです。


イマドキの深夜アニメ……安直に萌えの記号を当てはめただけの可愛らしい(または着エロめいた装飾の)キャラがわちゃわちゃする日常系アニメや、剣や魔法で満たされた異世界アニメは、この映像的質感という概念から遠くの地平にあると言えるでしょう。なぜなら、どんなに設定がユニークで斬新であろうと、あの手の世界や風景を見ることが、消費者として完全に「慣れっこ」になってしまった以上、しょせんこれらの作品が描き出すのは、消費者間で徹底して共有化された末に陳腐化してしまった画一的風景でしかないのです。ああいうアニメが大好きな人の多くは、世界観や、そこで生きる人々の息遣いや仕草を注視しているのではなく、萌えの効果を狙ったキャラデザが内包する「記号的属性」を、自らの性癖リストに照らし合わせて、しゃぶりつくしているだけに過ぎない。


ここで言っておきたいのは、そういう行為が駄目だとか、オタクとして失格とか、そういうことを言いたいんじゃないってことです。性癖に照らしてアニメを消費する、結構なことじゃないですか。そんなの、俺だってやりますよ。ですがね、そういう「映像の質感」に全く注意を払わない、払おうとしない、あるいは質感という概念に気づけない作品に、あまりにも大勢の人々が群がるのを見るにつけ、こっちはすごくいたたまれない気分になるってだけの話なんですよ。


しかしながら、この世の中にはProduction.I.Gの『人狼 JIN-ROH』や、スタジオジブリの種々の作品など、「映像の質感」を巧みに描き出した傑作も、当然存在します。「架空の昭和」という異世界を設計し、その異世界で生きる男と女の質感を、日常的な、何気ない仕草を丹念に描くことで立脚させてみせた『人狼 JIN-ROH』。呪いを背負った少年、タタラ場で生きる女、シシ神の森で生きる少女らの生理的な反応、戦に臨む彼らの仕草の細やかさに、アニメーターにしてレイアウトマンたる宮崎駿の妄執と情念をぶつけて昇華させた『もののけ姫』など、質感が豊かな映画は、常に観る側の心を強烈に刺激してくれます。


では、現在絶賛爆売れ中である本作『鬼滅の刃-無限列車編-』はどうかというと、残念ながらこの「質感」の描写がてんでダメダメです。


ufotableと言えば「作画がきれい」の代表格ですが、ここで描かれている作画は、極めて経済効率を高めた代物ばかりです。すなわち、ゼロから作画を始めるのではなく、3DCGでモックを作り、それを元に作画を進行していくことで、カロリーの高い(作画が難しい)カットにおけるコストを下げる。そういう徹底的に品質管理されたシステム下で進めることでクオリティを高めているわけですが、それは必ずしも「空気感」や「手触り」に目を向ける時間を設けるため、ということではないようです。


久々にユーフォの作品を観たので忘れていましたが、昨日、昔に録画しておいた『Fate/UBW』の序盤を観て思い出しました。夜の校舎でのランサーとアーチャーの対決。あのシーンでは極めてスピーディな戦いが繰り広げられていますが、何度耳にしてもランサーの振るう神代の魔槍が鍔競り合いの際に響く音は「木槍のような音」ですし、空中から槍を振り下ろす際に、現実的にはありえない腰の動きをしています。つまり、アクションの質感=重みの描写が決定的に欠けているんですな。


腰の動き、足捌き、関節の稼働領域をほとんど無視した、現実の息遣いや仕草なんかには全く目のくれない、ただただ、派手派手しさに重点を置いた戦闘の数々。「だって、ただの人じゃないもん。神話の英雄が戦ってるんだもん」というのは、言い訳になりません。映画は「モノを映す」という点で他の媒体と比較しても絶対的な優位に立っているのですから、画面の中に映し出されるキャラクターたちに「モノ」としての確かな存在感を演出するのにうってつけなのです。そしてキャラクターの存在感とは、ことアクション・シーンにおいて「重み」の要素なくして成立しえないのです。


『UBW』を始めとしたユーフォ印の作品が「きれいな作画」と評されるのは、ひとえに、ユーフォが「作画および動画における快楽原則」を体系的に熟知しているから。それに尽きます。すなわち、バトルシーンにおいてビュンビュンビュンビュンとスピード感を演出するのに特化し、急速なズームアップからのカメラ回り込みを主軸とした、観客が「気持ちいい」と感じる瞬間瞬間の動画のみを切り取って繋ぎ合わせる「技術(いわゆる「音ハメ」もそのひとつ)」に長けているがゆえの評判なのです。しかしてその「快楽」というのは、先ほど申し上げた映像の質感を体感することで得られる快楽とは、また別物なのです。自分はこういった「安直な快楽原則」に忠実なだけの作画を「プロモ作画」と勝手に読んでいます。基本的にPVの構成は快楽原則に則ったかたちで仕上げられるのが常であり、ユーフォの作画と動画は、このPVで流れるイメージ映像と、本質的な部分では同じなのです。


「プロモ作画」が得意な会社が手掛けたアニメーションですから、『無限列車編』においても、キャラクターの動きの質感、重心移動の質感、というのはどうしても後回しにされがちです。列車、という横に長い映画的に映える空間を、直線的に超スピードで移動しつつ鬼を斬り殺していく様は、確かにエフェクトの派手さや劇伴の盛り上がりもあって「きれいな作画」という印象を与えますし、まさしく「動画の快楽原則」に則ったシークエンスですし、私も安直な性格をしているので、正直「気持ちいいな」と感じましたよ。んが、どれだけ気持ちの良い動画を見せられたって、そこには「刀をわが身のように扱う」という「操刀術」を質感的に表現しようという意識は、ほとんど感じられません。


また、列車が脱線するシーンでも「列車自体の重み」の表現はイマイチです。そもそも、伊之助が列車の天井部を、まるで鉄板でも突き破るかのような要領で破壊している時点で、この列車というのはあくまで「舞台装置」としての働きしかみせず、列車それ自体が当たり前に持つ「機械であるがゆえの重々しい存在感」は、ハナから描かないのが見て取れます。


映像的なイデオロギー、すなわち「何を描くか」という点に関して「絶対」や「必然」はありません。「絶対に作画はこうしてほしい」とか「演出はこうしてほしい」とか、そういうワガママが許されるのは創作者当人のみです。ですから私も、なにも「質感を必ず出せ」と言いたいのではありません。問題なのは、ユーフォの作画が「安直な快楽原則」に忠実であり過ぎるがあまり、原作の良さを殺してしまっている節があるという点です。


この映画は大正時代が舞台ですが、ぶっちゃけた話、大正的な質感や空気感も、同様に感じられません。SLは登場するし、鬼殺隊の面々はハイカラな服装をしていますが、それらはただのオブジェクトであり、映画的な設定にすぎません。それは原作の漫画においても言えることです。のちに続く遊郭編は違いますが、無限列車編においては、大正を生きる彼らの「何気ない日常的な仕草」はほとんど排除されており、炭治郎を始めとする「かまぼこ隊」の面々は、そのメタ的なギャグ要素も含めて、現代的なリアクションに終始します。


そもそもこの『鬼滅の刃』、連載時から感じていたことですが、キャラクターのデフォルメの仕方から、その言動から、何から何までとても現代的なんですな。その時代を生きている人の空気感、所作、仕草、思想……そういう「時代的な質感」を頭から排除して、我々が住んでいる「現代に近しい感性の持ち主」として描いていると言っていいでしょう。


よく「効率化を優先し、冷笑主義が蔓延するこの現代にあって、彼らの大正的な、いたいけな努力を肯定する価値観が、我々の眼に新鮮に映るからヒットしたのだ」という意見を耳にしますが、まったく見当外れもいいところです。あのね、これは「週刊少年ジャンプ」の作品なんですよ。炭治郎のようなキャラ造形は、ジョナサン・ジョースターと同じ、王道のジャンプ主人公として描かれているのであって、そこに大正的な価値観なんてあるわけないでしょう。


そんな、限りなく現代的に(というかジャンプ的に)デフォルメされたキャラクターたちの紡ぐ物語は、これまた王道も王道です。それも、かなりわかりやすい王道と言っていいでしょう。しかしながら奇妙なことに、鬼滅の刃はジャンプ作品においては珍しく「やるせない展開」の連続です。


ギャグで中和されているとは言っても、本当にジャンプに掲載されているのかと疑うほど、この漫画はやるせない。身内や大切な人を殺された鬼殺隊の面々が鬼とぶつかり合い、勝利を得ても、そこで感じるのは「敵に勝った」というカタルシスよりも、殺すことでしか鬼を、かつてヒトだった「誰か」を救済できないのだという「人間救済の重さ」であり、殺したところで大切な人が戻ってくるわけではないという事実を、涙を堪えて飲み込まざるをえない「悲壮的決意の重さ」なのです。


人は、鬼には勝てないという事実を改めて突き付けられる鬼殺隊の面々。鬼を殺しても、大切な家族が戻ってくるわけではない、という当たり前の事実。近道など存在しない、どこまでもどこまでも、遠い遠い回り道にしか思えない鬼狩りの険しい道のり。その道のりを往く炭治郎の小さな背中は、やるせなく、そして重いのです。


そんな、人間的悲哀の重さに満ちた『無限列車編』であるのに、作画や動画が、ただただ「快楽原則」に忠実でありつづけ、キャラクターの存在感を映像的に立脚させることをおざなりにして、本当に正解だったのか。鑑賞を終えた道すがら、「よかったねー」「すごい映画だったねー」と口々に連れの者と語り合う人々をぼんやり眺めながら、私は終始、首を傾げていました。おかしい、何かがおかしい。俺のオタク感性が死んでいるのか。それともユーフォの快楽原則に皆が飲み込まれてしまっただけなのか。できれば後者を信じたいところですが……うう、マジョリティには勝てないよ……


それでも、それでも声を大にして言わせていただきますと、まるで、豪華絢爛な空の玉座を、延々と二時間見せつけられた気分です。たしかにそりゃあ、見てくれはきれいで美しいでしょう。でも、玉座に腰を据えるべき「キャラクターの重み」はおろか、「鬼がいる世界の重み」「当然のように救われない人がいる世界の重み」が作画や動画から匂い立つかというと、その濃度は極めて薄いんですよ。もーほんとにどうしてこーなった。


しかしながら、「重み」がゼロかというとそうでもないんですよね。じゃあそれがどこに現れてくるかって言うと、画面ではなく台詞ってところが、いかにも「テレビ」なんですよ。そりゃあもう、膨大な台詞の数々で、縺れる感情や危機的な状況の重みを分かりやすく、こちらが推察する時間など与えない勢いで、めちゃめちゃ拾い上げて説明してくれます。今年、劇場で三十本程度の映画を観てきましたが、ダントツで一番に台詞量が多いのが本作です。台本の分厚さを思わず想像してしまいたくなるほどの多さです。お客さんの思考能力を完全に信じていないのか、それとも映像を補完するための説明的台詞を沢山並べないと映画にならないという壮大な勘違いをしているのか。あまりにも過剰な台詞ですべてを説明し過ぎるので、本来なら重々しいはずの悲劇が「とってつけたような悲劇」にしか感じられず、「軽い重み」でしかなくなっています。


この台詞量の多さは相対的に、本作が映画を映画として成立させるための映像的な引っ掛かりや驚きを、ほとんど無くしてしまっているという事を指しています。心情を分かりやすく口にするだけでもうっとおしいのに、状況をちまちまちまちまと台詞で説明して映像の「間」を完全に潰してきていることから分かるのは、ユーフォには「すごいテレビアニメ」を作れるだけの技術はあっても、「すごい映画」を創造できるだけのセンスが欠けているということです。(「ヨヨとネネ」があるじゃないかというお方。あんなの、見慣れきった異世界風景の典型じゃあございませんか。どこに映画的創造があると?)。


ユーフォのやっていることは、繰り返しになりますが作画作業の徹底した効率化とコスト管理に過ぎず、そこには「映画を作る」という「創造」の意識よりも「原作をいかに見栄え良くするか」という「変換」の意識だけが充満しています。


批判承知で言いますが、ユーフォがこの映画でやっているのは、漫画→映像への変換をスムーズに実行するために編み出した技術の適用であり、物語表現に対する知的創造では決してありません。膨大な台詞量をほとんど削ることなく、映像で「重み」を伝える「質感」を半ば放棄してしまったことが、その証拠です。


結論から言いますと、これは私にとって「映画」ではありません。空の玉座を映しているただの「デカいテレビ」に過ぎず、十日で百億突破したのも、その理屈やカラクリは分りますが、映画を愛する人間として(そして触手愛好家として)は、どうしても納得しかねる部分があります。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 鬼滅の刃って「賛否両論」って言われてますけど「否」の意見ってどんななんだろうって思って読んでみました。なるほどねって思いました。ちなみに僕も「否」です。 [気になる点] 僕はそこまでアニメ…
2021/02/28 15:54 和久井志絆
[良い点] こんにちわ! 情熱の熱い解説で、読む方も熱量がグングン上がっていくレビューですね(笑) 鬼滅の刃の映画を見ようか迷ってますが、こちらのレビューを見て良くも悪くも見てみたくなりました(^…
[一言] ランサーの槍はトネリコの木からできてるので木槍ですよ
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