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【第52回】思い、思われ、ふり、ふられ

『神話無き時代に、それでも少年少女たちは、“真のトゥモローランド”を求める』


十代の頃、ふとした拍子に、未来を想像して、とくに理由もなく怖くなったことがある。


自分は本当に齢を取って二十歳を迎えるのか。それがどうしても信じられなかった。私の周囲の世界は、たしかに時を刻んでいるはずなのに、それなのに、世界が歩いていく音を、私は意識的に耳にしようとはしてこなかった。今思うと、本当に鈍感な生活を送っていたと思う。


二つの飛行機がビルに突っ込んでも、私の小さな世界は何も変わらなかった。大津波が見慣れた海岸線を襲っても、何も変わらなかった。残ったのは、痛々しいほどの爪痕だけだ。世界が劇的に変化するなんてことはなく、緩慢として日常は過ぎ去っていき、私は二十歳を超えて、おっさんとなった。


爪痕が呼び起こしてくれたのは、強烈な現実感だけだった。世界は変わらなかったけど、それだけは確かだった。ビルが噴煙のような粉塵に覆われて倒壊する映像。真っ黒な水に街が飲み込まれていく映像。それが毅然と付きつけてきたのは、これが私の生きる現実「いま、ここ」の片隅で起こっているという、まったく当たり前の事実だけだった。


私たちは、「いま、ここ」で生きている。むしろ、「いま、ここ」でしか生きていけない。ここではないどこかを求めることが、トゥモローランドを求めることが、悪い事だとは言わない。むしろそれを求めようとする文化的な営みは、創世記の頃から連綿と続く、人類の精神的な飢餓の顕れなのではないか。カッコつけた風に言うのなら、神の手で楽園を追われた我々は、忘却の彼方に捨てたはずの「地上の楽園」に懐かしさを求めて、今日も孤独にさまよう巡礼者であるのかもしれない。


それを念頭に置いたうえで、しかし「いま、ここ」でしか生きる術がないのなら、地獄のような現実で生きていく運命を背負っているのなら、「いま、ここ」の状況を変えるための行動を起こさなくてはならない。そんな当たり前の、しかしひどく勇気のいる「世界への姿勢」を史上最強の娯楽性と共に示してくれた『マッドマックス 怒りのデス・ロード』が、私の心に突き刺さらないはずがなかった。


だが、私たちは本当に「いま、ここ」でしか生きられないのか。「ここではないどこか」は、月の裏側のように、私たちのすぐ身近にありながら、発見されていないだけではないのか。否、それは強力な実存性を伴った「場所」である必要はない。現代におけるエデンの園は「概念」であり「壮大な夢」であり「欲望」であり、それでいて「新たなる自分」をこの地上に産み落とす為のトリガーでもある。


そのトリガーを若者たちは本能的に求め、ゆえに「新たな可能性」という香具師めいた文句に引き寄せられる。当人でも気づかない、無限の可能性を獲得するための「自己の精神的な脱皮」に至るチャンスが、どこかにポンと転がっているんじゃないのか……大した根拠もなく、無心にそう信じたくなってしまうのが、青い春に身を焦がす、十代の若者だけに許された特権なのではないだろうか。


そんな特権の是非について語る映画が、この令和の時代に生まれたことは、決して偶然ではないはずだと思いたい。





【導入】

『アオハライド』『ストロボ・エッジ』に続く青春三部作最終章の同名漫画の映画化作品。


監督は『アオハライド』の他に青春ド直球の『青空エール』なんかも手掛けた三木孝浩。いい年こいたオッサンにそんな枕詞つけるのもどーなんだって感じなんですが、廣木隆一、新城毅彦と並んで『胸キュン巨匠』と呼ばれているらしい。こうして書くだけでも物凄くバカっぽく聞こえてしまいますが。


しかーし! 個人的には好きな監督ですよ。「すごく」と言えないところが個人的には辛いところですが(笑)、浦切的には「のん」の主演でおなじみ『ホットロード』がベストといったところか。90年代がとっくの昔に過ぎ去り、もうフィクションの世界でしか生きられないヤンキー・暴走族たちを「カッコ良く・儚く」撮ってくれているので、こいつぁなかなか良い作品です。広角レンズの使い方と自然光を活かしたライティングが邦画監督の中では上手い部類に入るんじゃないかな。はい? 『フォルトゥナの瞳』? 知らない子ですね。てかあれ、原作小説からしてつまらんかったからねー。素材が悪かったら腕前のいい職人でも手を焼くってもんでしょう。


主演はキミスイ、HELLO WORLDコンビ再びの浜辺美波と北村匠海なんですが、お二方ともいい演技してます。特に浜辺美波。今回の彼女は凄いです。目線の演技が怖エロい。なんなら首元に浮かぶ鎖骨の陰影すらエロい。もうここまできたら鎖骨の窪みに酒を注いで飲み干したい……という願望が一瞬脳裡を掠める程度には、なんだかアダルティな雰囲気に満ち満ちている。これで19歳って嘘でしょ? 貫禄的には25歳と言われてもおかしくない。北村匠海も、前半と後半とで、あえて目線や表情に微妙な違いを出しているし、着実に上手くなっているなぁってのが感じられます。


脇に控えるのは売り出し中の新人女優、福本莉子と、仮面ライダービルドに出演した赤楚衛二。このお話は浜辺&北村を含めた、以上四人の俳優演じる十代の少年少女の群像劇なんですが、観ていて個人的に感じたのは、赤楚君演じる乾が、この物語の中心的な人物であるように思う。福本莉子も初々しさの中に芯を感じさせるものがあって、二時間という長丁場の中で、とても観やすい演技をしている。バランスの良い配役だと思います。





【あらすじ】

高校一年生の市原由奈は、恋愛に消極的で、いつも自分に自信がない、ちょっと内気な女の子。そんな彼女がある日、同じクラスで同じマンションに住む山本朱里に恋愛相談を持ち掛けてきた。どうやら話によると、子供のころに読んだ絵本に登場する「王子様」とそっくりの男子をたまたま見かけ、一目惚れをしてしまったというのだ。明るく社交的な朱里は「告白しちゃいなよ」と親友の背中を後押ししようとするが、自分に自信が持てない由奈の態度は煮え切らないものだった。


ある日、朱里の自宅へ招かれた由奈は、思いがけない人物と出会う。その人物とは、先日たまたまマンションで見かけた「王子様」そっくりの男子高校生だった。その王子様そっくりの男子は、朱里の同い年の弟・山本理央だったのである。


事情を察知した朱里の計らいもあって、理央と二人きりの状況になった由奈。端正な顔立ちで女子から人気のある理央を前に緊張を隠しきれない。そうしているうちに、話は自然と恋の話題へ移る。どうやら理央に好きな人がいるらしいことを察知した由奈だったが、理央は頑なに、想い人の名を口にしようとはしない。「秩序が乱れるから」――それが、彼が告白しない理由だった。


由奈の幼馴染・乾和臣は、映画部に所属している男子高校生。いつものようにレンタルビデオ屋に寄ってDVDを借りた帰り道、たまたま同じマンションに住む理央と、マンションのエレベーター前でばったり出くわす。好きな映画の話で盛り上がった理央は、そのまま和臣の家にお邪魔すると、自身の秘密を思い切って打ち明ける。


実は理央と朱里は、血の繋がった兄弟ではなく、親同士の再婚によって義兄弟になった仲だった。そのことを知るクラスメイトの一部からは奇異な目を向けられ、あらぬ噂を立てられるのが常だったが、和臣はまったく気にすることなく、むしろ噂を立てるクラスメイトに対して憤りを口にする。この一件がきっかけとなって、理央と和臣は交流を深めていく。


しかし、理央にはまだ秘密があった。彼の想い人とは、何を隠そう朱里だったのである。彼女に告白することを決意したその日に、親同士が再婚して義兄弟となったことで、彼は行き場を失くした想いを胸に秘め、悶々とした日々を過ごすしかなかった。


意を決して告白した由奈の想いも、理央には届かない。そしてある日の午後、図書館で朱里と勉強を終えたその帰り道。雨が降りしきる中、思いがけず相合傘になった時、理央は衝動的に朱里へ口づけをしてしまって……





【レビュー】

この手の映画ってあらすじ書くの本当に疲れる(笑)。最後の方はもう適当です。ごめんなさい。


さてさて、この妙に上から目線な超主観的映画レビュー集も、つい先日ようやく50回の節目を超えたわけですが、ここにきて初の、ド直球な恋愛映画、キラキラ映画。サスペンスやらホラーやらアクションやら実験映画を取り上げているこんなレビュー集には、似つかわしくないほど眩しいジャンル。眩し過ぎて全身火傷しちゃう。本レビュー集をお読みになられている物好きな読者の方々にしてみると、私がこんな少女漫画原作の映画を取り上げたことに、ちょっとした驚きがあったんじゃないでしょうか。


そりゃあ、ね。陰キャ巨デブオタクな私にとって「甘酸っぱい恋愛映画」というジャンルは、遠い遠い地平の彼方にあるわけですから、驚くのも当然かと思います。いや、それでもなんだかんだと言って中学・高校時代はそれなりにその手の作品を観てたかもなぁ。決定的に変わってしまったのは、『レボリューショナリー・ロード』やら『ゴーン・ガール』やらの非婚啓蒙作品を大学時代に観てからですかね。あれを観て以来、ちょっとしたアレルギーが発症してしまったというか。劇中でキャッキャウフフしているラブラブカップルを観ていると『でもどうせ、この二人、散々口喧嘩した挙句に別れるんだろうなぁ……未来なんて決まってないしなぁ……』って、映像が描かない陰鬱ストーリーを勝手に妄想し出して、物憂げな心情になりがちなんですよ。


『月がきれい』は、そんな私の暗い妄想を木っ端みじんに打ち砕くくらい、きっちり最後の最後までファンタジーな恋愛を貫き通していたので、妄想を挟み込む余地なんてどこにもなかった。一方で、恋人たちの「結ばれたその後」を描かなかった映画で、私が斜に構える態度にならなかった作品って、思うと『君に届け』ぐらいのもんだったかなぁ。多くのキラキラ映画が「イケメンにだけ許されたカッコつけ台詞を当然顔で吐くイケメン」を厚顔無恥にもポンポン出してくるのに、風早くんは三浦春馬の佇まいもあって「まっとうに」イケメンでしたからね。『アオハライド』や『ストロボ・エッジ』のイケメンたちと違って、こいつなら信頼できるっていう安心感がある。キラキラ映画界きってのイケメン青少年は風早くんだけだよ! と私は声を大にして言いたい。


これはちょっと邪道な鑑賞方法だと思うんですが、恋愛映画って「誤解の積み重ね」が面白いのであって、観ようによってはサスペンスなんですよ。いやね、別に誰と誰が劇中でくっつこーが、ヒロインと彼氏が喧嘩して無事に仲直りできんのかとか、そんなの分かり切った結末しか待ってねぇじゃんと思うがしかし、その過程がドキドキする作品もあれば、全然ドキドキしない作品も結構あったりで、うん、あれですね。恋愛映画をサスペンスとして観るのはちょっと危険ですかね。これを書きながらそう思った。


だってさ、正直俺にとっては本当にどうでもいいんですよ。美少女と美男子が無事に結ばれようが喧嘩しようが仲直りしようが初々しいキスしようが、そのまま親の目を盗んでベッドにダイブしてアンアン叫ぼうが、勝手にやってろよという気分なんです。その手の映画を氾濫させて、あたかも現実世界における一般消費者の多くが「健全な告白」や「健全な別離」を経験しているという前提をでっちあげ、社会生活を送る上での「恋」の消費具合を節操なく強化していくような風潮に、俺は吐き気を催すほどイラついてるし、そんなの知るかよバーカって感じなの。


じゃあお前、なんでこの映画を観ようと思ったの?って、理由は二つあって、一つは監督が『ホットロード』を手掛けた三木監督だったから。単純に映画を映画として楽しみたかっただけなんすよ。


三木監督は『ホットロード』を撮った時点で、他の青春映画を手掛けた21世紀の監督たちより頭一つ抜けていると思ってます。お話はただの「くっつく・くっつかない」という下らなさに終始していないし、なにより、あの広角レンズで映し出されたパノラマ風景的な湘南の港町が、観ていてめちゃくちゃ気持ちいいんだもん。あれを観た時の感動がもしかしたらこの映画でも得られるかも……という一縷の希望に縋った訳でありますよ。『ぼくは明日、昨日の君とデートする』とか『フォルトゥナの瞳』で裏切られた(と個人的に感じている)だけあって、今度こそはっ……!って気分で臨んだんです。


そんでもう一つの理由が、巷でこんな噂を聞いたから。

『どうもこの映画、劇中で「怒りのデス・ロード」を彷彿とさせる場面があるらしい』


いやマジか。マッドマックス・シリーズの最高傑作とキラキラ映画って、水と油というか、天と地くらい離れていると普通の人なら誰だって思うでしょう? 俺だってそー思いましたよ。どーせあれでしょ? ちっぽけな自己顕示欲を満たすためだけに、バズらせるために、ネタ的な意味で面白おかしく極端に揶揄してるだけでしょって、半信半疑でいました。だってそうでしょうに。ごく普通の現代日本を舞台にした作品のどこに、火炎放射を撒き散らす盲目のギタリストや、乳首と乳首をチェーンで繋いだ巨デブや、奥歯に銃弾を仕込んだガンファイターを出してくる余地があるんだよ。そう思ったのですが……観終わった時は「なるほどそういう意味ね」と、噂もあながちバカにしたもんじゃないなと感じたのです。


といっても、別にコーマ・ドーフ・ウォリアーやピープル・イーターやバレット・ファーマーが出るわけじゃあ当然ございません。そういう見てくれや物語的過激さの話ではなく、映像が語る物語の根底部分の問題。この『思い、思われ、ふり、ふられ』という映画は、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』が、物語内でかなり重要な小道具として登場するという、なんだかとっても珍しいタイプのキラキラ映画なのです。


これね、こじつけでもなんでもありません。物語の序盤で、北村君演じる理央と、赤楚君演じる乾の二人がたまたまマンションのエレベーター前でバッタリ出会って、その時に映画の話になるわけです。


北村「(TSUTAYAで)なに借りたの?」

赤楚「マッドマックス」

北村「マッドマックス……の?」

赤楚「の?」

北村&赤楚「「……怒りのデス・ロード!」」

北村「だよな~(ぼそり)」


モロじゃないですか。こんなに露骨なやりとりがありますか? これ、原作にはありませんからね。映画オリジナルの下りなんですよ。こんな台詞を用意してくるなんて、確信犯でしょそんなの。そしてなにより、ここで怒りのデス・ロードではなく、「サンダードーム!」と答えなかった赤楚君の心情が、マジでこの映画の全部を物語っているんですよ。思わずオジサンはこう思いましたよ。「お前なぁ、もうちょっと夢見ていい年頃なのに、なんだってサンダードームじゃなくて、怒りのデス・ロードをチョイスすんのよ」と。いや、傑作だよ? 怒りのデス・ロードは冗談抜きで21世紀を代表する大傑作映画だけど、でもなぜ高校生が? って感じなのよ。もっと子供でいいじゃんよと。無邪気に神話を求めて良いじゃんか! そこはサンダードームでしょ! と。


この赤楚君演じる乾君は映画部に所属していまして、そんな彼に関連して、他にもいろんな映画のDVDが重要な小道具として出てくるわけです。そんで、浜辺美波に「おススメの恋愛映画ある?」って聞かれて「アバウト・タイムかな」って答えちゃう。


いや、アバウト・タイムて……それは30、40超えて、「青春時代」という経験したんだかしてないんだか微妙な黄昏色の過去にノスタルジックを覚えて胸を締め付けられるオジサン・オバサンのチョイスなんじゃないかと思うのだが、乾君はマジ顔で16歳の女の子にアバウト・タイムをおススメしちゃうのだ。いや、『秒速5センチメートル』を勧めるよりは全然いいかもしれないけど、でもなぁ~う~ん、『初恋のきた道』じゃだめなの? 『ブロークバック・マウンテン』とかもあるけど。ほら、ホモが嫌いな女の子なんていません!って、よく言うじゃないですか? ダメ?


さらに乾君は、高台にある公園に浜辺美波を連れて行き、遠くに臨むビルの数々を眺めながら、「子供のころ、あそこにいけば何かがあるんじゃないかと思っていた」と若干のセンチメンタルさを匂わせながら口にする。ここではないどこかに行けるんじゃないかと、昔はそう直感していた。でもそんなことはなかった。ビルはただのビルで、街はただの街だった。それは、この窮屈な現実世界の延長線上の風景でしかなかった。ここではないどこか、なんて、どこにもなかった。


怒りのデス・ロードを好み、アバウト・タイムを人に勧める。片思いを成就させて、あるいは将来の夢への足掛かりを見つけて、「いま、ここ」から抜け出したいと切望しながら、「ここではないどこか」なんて、どこにもないと思い込んでいる「トゥモローランドを信じない」少年少女たち。当然だが、彼らは80年代を代表する尾崎豊的世界観に漬かりきった住人ではない。『ホットロード』のように、ここではないどこかへ行きたくて向こう見ずに暴走しちゃうような人は……まぁ序盤の理央君にその傾向が多少なりとも見られるのだが……基本的にいない。それというのは、彼らが大人や社会に対してどこか臆病だったり、壁を作ってしまったり、一歩踏み出す勇気が欠如しているからなのだが、一見すると、それが彼らの「優しさ」から来ているように見えるところが、この映画の物語的に面白いところだ。


本作の四人の少年少女は「片思い」というキーワードで括りつけられているが、その「片思い」が発する熱に浮かれることはない。そんじょそこらのキラキラ映画のイケメンや美少女たちと比較しても、その中身は格段に大人びている。なぜなら、常に自分より他者の幸福を優先するから。行動が利己ではなく利他へ傾くのが常に彼らの傾向としてある。


だが、彼らは自己犠牲にある種の恍惚を見出すような聖人君子ではなく、悩める十代の青少年だ。結果として、彼らの心には摩擦が生じる。その摩擦で心が焦げ付いた結果、誰かに八つ当たりしたり、焦慮のあまり見当違いな方向へ突き進むという「若さゆえの過ち」ということを……しない(笑)。突き進もうとしても、誰かが軌道を修正してくれて、しかもそれは親や先生や年上の兄弟ではなく、自分の同級生だったりする。恋心に翻弄されながらも、それをグッとこらえて、あるいは告白して玉砕しながらも、一歩一歩、少しずつ自分と他人、ひいては世界との関係性を見つめ直そうというのだから、大したもんだ。大人の恋愛映画、とかのたまいながら、やってることはインスタント且つ自己満足的な肉欲剥き出しのゲスい不倫で、しかもそれを「幸福な悲劇」として、ある種、聖域に近い形で描いていた(セカンドなんちゃら、とか、昼なんちゃら、とかの)作品と比べたら、こっちのほうがずっと精神的に大人な恋愛をしているし、現代的だ。


けれども、なにも四人は好き好んで、自ら進んで精神的に大人へなっていったわけじゃない。許されない恋をじっと胸の奥に隠していたり、将来の夢を半ば諦めたりしてしまっているのは、大人たちがそういう空気や土台を作ってしまったからだ。もしも主人公らが80年代の住人なら、自分を縛り付ける大人や社会の象徴へ反抗の姿勢を見せるところだが、彼らは、この令和の時代を生きる現代の若者である。つまり現代の若者らしく、「臆病な優しさ」のために家庭内でのバランスを考え、自分を取り囲む日常の平穏を維持するために、自身の想いの丈をひた隠しにせざるを得なくなっている。特筆して誰が悪いわけでもなく、自ら望んでそうなったわけでもなく、ただ、周囲の機嫌を伺い過ぎるがあまり、自分の想いを吐露できずにいる。


浜辺美波は口にする。誰だって、おとぎ話みたいな結末を望んでいる。けれども、現実の世界はとても理不尽だ。それでも、私はここではないどこかへ行けると信じたい、と。


私にしてみれば「おとぎ話」「神話」こそ理不尽の塊じゃないかと思うのだが、この映画で言う「おとぎ話」とは、神性を失くして大衆化された現代のおとぎ話。つまりは「楽園」であり、サンダードームで言うところのトゥモローランドである。


誰だって、ここではないどこかを、楽園を求めている。多くのキラキラ映画が、その映像的イデオロギーの裏側に「ここではないどこかへ、貴方となら行ける気がする」もしくは、「貴方と一緒に、ここではないどこかへ行きたい」という、おとぎ話の基底音を潜ませている。


自己と他者の関係性を「恋」という甘美な香りのする接着剤で結びつけ、半径五メートル以内の世界が幸せであれば、それでいいじゃないかという、実に甘ったれた、社会の残酷さを知らない若者たちの、文字通りの「青臭い春」。そんな心地いい時代性を伴う空間としてこれまで描かれてきた「青臭い春」の裏側・サイドBとでもいうべき、ヒリヒリとした肌触りを感じさせてくれる何かが、この映画にはある。


「僕たちはどこにもいけない」――その言葉が意味するのは、本作が「絶望的青春」という看板を裏に掲げた作品であるということだ。この手の代物だと、吉田大八の傑作『桐島、部活辞めるってよ』が、まず真っ先に脳裡を過る。そーいえば『桐島~』の主人公、神木隆之介演じる前田も、映画部に所属する高校生だった。しかし彼の場合、ハナから「ここではないどこか」を本気で信じておらず、怒りのデス・ロードの申し子のように「いま、ここで生きる」という選択をしていた。きっと彼は、サンダードームが嫌いなはずだ。


乾君は、映画少年という共通項こそあるものの、目線の先に捉えているのは、前田とは百八十度違うタイプの人種だ。口では「ここではないどこかなんてない」とうそぶいていながらも、「いま、ここ」で自分を肯定的に捉えて生きているだけの度胸も、立ち回りのうまさもない。彼はマックスではない。彼は前田ではない。「ここではないどこかなんて信じられない」んじゃなく、「ここではないどこかが信じられない自分が信じられない」という、絶望的青春のドツボに嵌ってしまっている。そしてそれは、事情は異なるが、他の三人の少年少女も同じなのだ。


これ、多分原作の漫画がとてもいいんでしょうね。「いま」に必死でしがみつくことで自分や周囲とのバランスを保っている気でいたのが、他者、それも恋心を抱えている少女の介入があって、初めて自分の心の底にある、マグマのように煮え立つ衝動を意識して「ここではないどこか」を信じてみようという気になる、というこの展開は、ただの「スキ・キライ」に収まらないスケールの広さがある。


たった四人の青春群像劇ながら、その映画的な世界観は半径五メートルの世界に留まることなく、そのずっと先まで広がっている。そして、そんな映画的な広さを強調するかのように、物語は、高台から見下ろす住宅街と、その先に見えるビル群の全景を見せてエンディングを迎える。別にスケールがデカけりゃいいってもんじゃないし、世界観が狭くても面白けりゃいいってのが私の考えなんですが、それまで「狭い関係性の中で幸福を見つける」のが恋愛映画の定石であったのに対し、そこから一歩も二歩もはみ出た領域を「感覚として」描いているってのが、とても興味深いですね。


原作通りに筋書をなぞっていりゃあ合格ラインでしょと言わんばかりの、思いやりの欠片もない漫画原作映画が氾濫しているなかで、ここまでのものを実写で見せてくれるって、本当にすごい事だと思います。水溜まりに落ちたスマホを水溜まりの側から撮影したり、LINEのチャット画面全部をダラダラ流すのではなく、やりとりの一部だけをクローズアップしてナメるように撮ったり、こだわりを感じさせるアングルが随所に見られたのがグッド。ああいう演出って、この手のシネコンでかかる恋愛作品だとすごーく珍しい。あんまり見たことない演出です。ライティングはいつもの三木作品と比較すると抑え目でしたが、過度に光を取り込まないことで、四人の行き詰った関係性を視覚的によく表現しているなぁと感じます。いつもの三木作品と比較すると、丁寧に作り過ぎて若干モノローグ多めになっている気がしますが、それを差し引いてもいい映画だと思います。なにより恋愛映画のキモである「誤解の積み重ね」をしっかりやってるし、そこにサスペンス映画的な構図も持ち込んだりして、ハラハラできる要素もあるしで、何気なくふらっと観に行ったらびっくりするんじゃないかな。


キラキラ映画というと、イケメンが当然顔でイケメンな台詞を口にするのが定番っちゃ定番ですが、この映画にそういったヘソで茶を沸かしたくなるような描写はありません。北村君も赤楚君も見てくれはカッコイイんだけど、なんかしょぼいというか、ちょっと情けない。その「ちょっと情けない」というのが、十代の若者に特有の「行くべき方向が定まらない感じ」に繋がっていて、だから、ただのよくある恋愛映画じゃないわけですね、これは。静かな、とても静かな映画なんですが、映画を見慣れている方にも、これは結構おススメしちゃいますよ、マジで。


あと、浜辺美波の鎖骨がエロい(笑)。

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