【第49回】アングスト/不安
『実録殺人映画かと思いきや……』
シネマート新宿にて鑑賞してきました。
この映画、上映館数はそんなに多くない(てか少ない)んですけど、軒並み満席御礼だそうで……私も昼過ぎに映画館に行ったんですが、午後三時からの回が全て満席。夜七時からの回にギリギリ滑り込めたという有様でした。おかげで時間潰すのが大変でした。
私が観てきたシネマート新宿に限って言えば、金曜日と土曜日の全ての回が満席で、次の日曜日の回も満席続きだそうで、これは小耳に挟んだ限り、シネマート始まって以来の快挙らしいです。それだけ怖い物見たさの人が多いんでしょうか。たしかに『世界各国で上映禁止になったやばいカルト映画が37年ぶりに日本公開!』なんて宣伝打たれたら、観に行っちゃいますよ。
でもですね。この映画、たしかに不気味で怖いシーンもあるんですが。
意外と愉快に笑える映画です。
【導入】
1980年にオーストリアで実際に発生した、殺人鬼ヴェルナー・クニーセクによる一家惨殺事件を骨子に作り出された映画。
1983年の上映当時、観客が嘔吐したり返金を求めて暴動を起こしたり、様々な話題を呼んだ曰くつきの作品です。
イギリスとドイツ、アメリカ、そして日本でも公開されたんですが、そのあまりの映像的インパクトから、イギリスとドイツでは直ちに発禁処分を受け、アメリカに至ってはXXX指定を受け、作品を買いつけた配給会社がトンズラをこいたとのこと。
一方の我らが日本では『鮮血と絶叫のメロディー/引き裂かれた夜』という邦題をつけられてVHSが発売されましたが、売れ行きは芳しくなく、今では入手が困難になっているとか。なお、邦題に反してこの映画、絶叫なんてほっとんどないし、舞台は夜でなくて昼です。たぶんコピー担当者が予告編だけ観てテキトーにつけたんでしょう。
監督はジェラルド・カーグル。ほとんど自主制作という体でこの作品を撮ったらしいのですが、前述したような状況で興行収入はほとんどなく、結果的に全財産を失くしてしまったらしいです。その後、ジェラルド監督は商業映画の世界を去り、TVCMの監督に転向したとのこと。
主役の殺人鬼ヴェルナー・クニーセク(劇中では『K』という役名が当てられています)には、あの傑作戦争映画『U・ボート』にも出演したアーウィン・レダー。浦切的にはB級アクションの良作『アンダーワールド』における、ライカンスロープの医者役という印象が強いっす。
で、この映画をカルト映画たらしめ、『エンター・ザ・ボイド』のギャスパー・ノエを夢中にさせたのが、その特徴的なカメラワーク。妙なアングルからのショットしかないわけですが、それの意図するところは分かりやすいです。殺人の興奮が高まるシーンではアップを多用し、興奮が冷めてくるとロングショットになる。基本的にはその繰り返しですから。でもなかなか見ごたえがありますよ。撮影を担当したのは、ジョン・レノンの『イマジン』のMVを手掛けたズビグニェフ・リプチンスキと、実はなかなか豪華なスタッフを起用しているんですね。
【あらすじ】
1946年.オーストリアのザルツブルグで生まれた『K』は、私生児という出生ゆえに祖母や母から虐待の数々を受け、愛情を全く知らずに家庭の中で孤立を深めていった。
神学校に通うようになったKは、14歳の時に、当時45歳だった人妻と恋人関係になる。その人妻は苛烈なマゾヒストであり、Kに鞭と革ベルトを持たせ、自分をぶつように、半ば脅迫めいた勢いで要求していた。
人妻との異様な性愛関係を続けていくうちに、自らの中に潜むサディスティックな一面を開花させていったKは、次第に動物殺しに手を染めるようになる。それにも飽き足らなくなると、彼の狂気の矛先は実の母親へ向けられた。
1963年.16歳になったKは母親を包丁でメッタ刺しにし、ドイツへ逃亡。母親は奇跡的に一命をとりとめ、Kは殺人未遂で逮捕され、2年の拘禁を処された。
拘禁が解かれたKは、全く反省することなく、数々の犯罪に手を染めていった。何件かの強盗を積み重ねていった末に、1973年、Kは、たまたま訪れた家で73歳の老婆を持っていた拳銃で撃ち殺し、逮捕される。
Kは自らの幼少期に受けた虐待や、人妻との関係で性格に歪みが生じたことを裁判所へ告白し、精神に異常があることを訴える。しかし裁判所はKの訴えを却下。精神鑑定の結果、異常は認められないとの判断を下し、懲役8年半の判決を下した。
そして、1980年、懲役満了まであと一年と迫った中、Kは就職活動のために3日間だけの仮釈放を認められる。
人生の半分近くを刑務所で過ごしたKだったが、彼の中に潜む野蛮な殺人衝動は一向に収まる傾向を見せずにいた。おぞましい強迫観念に駆られ、自分でもよく分からないうちに「人を殺したい」と焦るKは、たまたま立ち寄ったカフェでターゲットを物色しはじめる。
そこで、殺しにピッタリな女性を二人ほど見繕ったKだったが、直ぐには手を出さず、今度はたまたま拾ったタクシーの女運転手に狙いを定める。が、乗客を装ってタクシーに乗り込み、靴ひもを使って絞殺しようとした刹那、異変を感じ取った女運転手の激しい抵抗を受け、Kはタクシーから脱出。息を切らして森の中を全力疾走する。
殺人の失敗。その事実がますますKを焦らせる。心の中で牙を剥き始める不安感を鎮めようと森の中を歩き続けたKは、たまたま、周囲から隔絶したかのように佇む、ある一軒家を発見する。
「ここは、俺が殺人をするのにぴったりのハウスじゃないか」
興奮で息が詰まるほどの衝動を覚えたKは丹念に家の周囲を調査し、家主が留守であるのを確認すると、窓を割って侵入。来るべき殺人の儀式を完遂させるために、家主の帰りを虎視眈々と待つのだった。
【レビュー】
殺人っていうのは、言ってしまえば暴力形態の一種です。ナイフを使おうが拳銃を使おうが、はたまたチェーンソーで切り刻もうが、使用する武器の種類に関わらず、相手に危害を加えるという行為は、原始的な祈りでも、崇高な儀式でもなんでもなく、ただただ痛々しい「暴力」という一語で集約されるに過ぎないのではないかと、私は思います。
暴力。それを撮ってきた監督で有名なのは『ワイルドバンチ』や『わらの犬』『戦争のはらわた』でお馴染みのサム・ペキンパーでしょう。日本だと『県警対組織暴力』が浦切的ベストな深作欣二。この両者には、その暴力描写において、どこか情緒的、つまり暴力という行為に感情を乗せているという点が共通していると思います。
反対に、全く暴力描写に感情を乗せない監督もいます。その手の作品で有名なのは、何といっても初期の北野武作品。『その男、凶暴につき』でも『ソナチネ』でも、どこか一歩引いて、冷静に暴力というものを捉えようとしている。個人的には『プライベート・ライアン』を撮ったスピルバーグも、それに近いものを感じます。
ファッションとしての暴力という意味では、ジョン・ウーの二丁拳銃描写、マトリックスのハチャメチャカンフースタイルなど、ここまでいくと暴力というより、様式美としての「アクション」としての側面が濃くなってきます。
本作『アングスト/不安』は、暴力の描き方という観点で言えば、バリバリ感情を乗せているタイプです。いったい誰の感情か。言うまでもなく、主人公のKの感情です。それはどのような感情なのか? タイトルにもある通り、不安。あるいは、不安からくる切迫感でしょう。この映画における字幕は、ほとんどがKのモノローグで占められており、殺人の実行中にもモノローグをする始末ですから、隅から隅までがKの自意識で満たされている作品なのですね。
シリアルキラーの自意識だけで満たされた映画。そう口にするとなんだかおぞましいだけの映画に聞こえますが、結論から言うと、この映画は妙に笑えてくるんです。暴力に感情を乗せているのに。というのも、このKのやることなすことが、極悪極まる殺人鬼の割には、全てお間抜けそのものに見えてきてしまうんです。
なんて言ったらいいんですかね。このレビュー集でも取り上げた『ハウス・ジャック・ビルト』の主人公とは、シリアルキラー、サイコパスという共通点があるのに、殺人時の行動がまるで逆なんですよね。教養のないジャックというべき……なんでしょうかねぇ。
あの映画に出てくるジャックも凶悪な殺人鬼にして強迫性障害を患っている人物で、それがある種の「笑い」を産んでいたのは間違いないんですが、彼には彼なりの哲学があって、行動に一貫性があった。
対してKには、殺人哲学なんてものはありません。行動にも、まるで一貫性がありません。「俺には計画があるんだもん! その通りに実行しなくちゃ気が済まないんだもん!」なんていっちょ前な事を言うんですが、その割には全然、人殺しにスマートさが感じられません。
だいたい、犠牲になる家族が住む家に侵入する時点で、ちょっとおかしいんです。綿密に家の周囲を観察しまくり、人がいないことを確認するわけですが、この時点で彼は、明日の遠足を楽しみにしている小学生のように舞い上がっているんです。「ここは俺が殺人をするのに相応しい舞台」だと。あのー、あなた不動産業者か何かですか? ってなくらい、建物に対する執着が凄いんです。この時点で、もうおかしくておかしくて、私は笑いそうになりました(てか笑いました)。
それで、家の人が留守だと確認した途端、素手で窓ガラスを割ります。一応コートを手に巻いているとはいえ、ほとんど素手に近い状態で窓ガラスを割るんですよ? 普通、近くに転がってる石か何かをぶつけてやるものですが、なんかそういうことに頭が回らないんでしょうね。もうね、おかしくってたまりません。
人を殺す時も妙にもたついているしね。しょっぱなの殺人で包丁をうっかり落とすってどういうことよ。『テッド・バンディ』とか『ヘンリー』みたいな、スマートさがまるで欠けているんです。このKという男は、確かに狂気に突き動かされる恐ろしい存在には違わないのですが、やたらと大袈裟なモノローグと、行動のチグハグさが妙なギャップを産んでブラックな笑いの演出に一役買っています。
映画の始まり方は完全な実録殺人鬼モノなのに、気付いたらブラック・コメディになっているという、本当に奇妙な映画です。
一応念を押しますと、この手の「笑い」というのはどぎつい種類の笑いですので、完全に人を選びます。ガチガチのモラルに縛られている人や、映画の中の殺人行為を、それがたとえ事実を元に脚色されたものだとはいえ「しょせんはフィルムに収められたファンタジーである」と割り切れない人には、全く笑えないシロモノですが、そうじゃない人にとっては、ところどころでクスリゲラゲラと笑える要素が盛りだくさんです。
ただ、かといって笑えるだけの映画かと言ったら違います。おぞましい要素もあるんですよ。それが意外なことに、殺人鬼Kの側ではなく、殺されていく一家の側にあるんですなぁ。
Kが家の中を物色している最中に、外出していた家族が戻ってくるんですが、この家族の佇まいが物凄く異様なんです。父と祖母と娘の三人家族なんですが、家族らしい会話を全くしないのです。父親は知的障害を患って車椅子に乗って、あうあうあーな事しか言わないんですが、祖母がそれに全く取り合わない。普通ねぇ、この手の映画だったら家族同士の他愛ない会話なりなんなり入れて来るものですが、それをしない。
この映画では「犠牲者の温度」というのが全く感じられないってのが、大きな特徴かもしれません。
犠牲者の温度が感じられない。それは殺人の実行中にも言えることなんですが、心休まる自宅で急に殺人鬼に襲われたら、まず悲鳴を上げるなり、恐怖に慄くリアクションをアップで撮るものですが、これが全くない。大慌てで包丁を滅茶苦茶に振りかざして喚きながらぶつかってくるKを、ぼけーっと眺めているだけで、あれよあれよとなすがままに殺されていく被害者たち。
一応、叫ぶシーンもあるんですけど、それも恐怖心が臨界点を越え、耐え切れずに叫ぶというよりは「義務感として叫んでいる」ような、無味乾燥な叫びの演出になっています。
そのため、観ている側は、Kが殺人を完遂していくたびに、まるで「人形が殺されていく」ような感覚を覚えてしまうはずです。父親に至っては、すぐ目の前に恐ろしい殺人鬼がいるというのに(いくら知的障害があるとは言っても)殺されそうになっても、全然顔色を変えないのですから。
さきほど、この映画は「暴力描写に感情が乗っている」と言いましたけど、それはKの側にしかないんですね。殺される側、被害者の感情というのは、少しも描かれていません。ここがペキンパーや深作欣二の一連の作品群や、「対話」という手法で自己の殺人行為の正統性を証明しようとしていた『ハウス・ジャック・ビルト』とは大きく異なる部分です。
映画における暴力描写の多くは、暴力を振るう側だけではなく、暴力を振るわれる側のリアクションも収めているものがほとんどで、それは「血生臭いコミュニケーション」という演出に繋がる訳ですが、この映画ではそのコミュニケーションが一方通行になっているから、人によってはかなりの居心地の悪さを感じると思います。
犠牲となる三人は、Kという存在に暴力を振るわれているのに、Kのことを意識していない。ただの「蹂躙されるモノ」としか描かれておらず、涙の一つだって零さないものだから、理不尽な運命の犠牲者、なんて重い演出は全然ないし、ヒトというよりモノとして扱われているニュアンスが強い。それがますます異様なものとして認知されることになる。
多分ですけど、これってKの、つまりヴェルナー・クニーセクの周囲の「歪み」をメタファーとして描いていると思うのです。Kが周囲を正しく認識できずにいる様を、犠牲者の「暴力に対する不感症さ」として描き出しているんじゃないのかなと思いますね。その描き方が、最初こそとても不気味で異様な雰囲気を醸し出しているんですが、観ているうちに段々とシュールな側面が勝ってきていて、やっぱり笑えてきてしまいます。
よってこの映画、総合すると私にとっては実録殺人映画ではなく、あくまでもブラック・コメディ。殺人鬼が自らのアイデンティティに直結する殺人行為を実行しているのに、全然心が満たされず、むしろ不安感を増大させていく描写に「黒い笑い」を見出せる人にとっては、なかなかイイ感じの娯楽映画として映る事でしょう。
間違っても、芸術性の高いアート系映画なんかじゃないと私は思います。アート系ってのは、今公開中の『ペイン・アンド・グローリー』みたいな奴のことを言うんじゃないかなぁ。絶対この映画はアート系なんてもんじゃないよー。だって本当に笑えてきてしょうがないんだもの。
とにもかくにも、満席御礼が続いているので、今年の話題作の一つに挙げられることは間違いないでしょう。ブラックな笑いが好きな方。ちょっと変わった被害者の佇まいを楽しみたい方、今すぐ劇場へ走れ! コロナなんか怖くない!




