【第48回】アナ
『ニキータを観た人にとっては、新鮮なエンディング』
先日、あんな事言いまくっていたけれど、結局観に行っちゃいました。どうしてか。映画好きとはそういうものなのです。
そういうわけで、まぁ軽くレビューしていこうと思います。と言っても、あんまり語ることはないのだけど。
【導入】
ソ連諜報機関KGBのスパイとして雇われたごく普通の女の子が殺伐とした任務をこなしながらも、組織の軛から逃れて自由を求めようとする中で、西側最大の諜報組織CIAも絡んだ、ある騒動に巻き込まれていく……という映画です。
監督はリュック・ベッソン。彼の作品で最も有名なのは、やっぱ『レオン』と『ニキータ』の二強。特に『レオン』は日本で爆発的にヒットした影響か、マイフェイバリット・ムービーの一つに数える人も多いはず。
ただ、それも今は昔の話。最近のベッソンは本当に元気がない。『ヴァレリアン』の出来の悪さったらもうひどいというか、がっかりしちゃいましたよ私。『フィフス・エレメント』の甘ったるいデザインセンスを見せつけられた時から、そもそもこの人はSF映画向いてないんじゃないのか? ってのはなんとなく分かっていたんですが、それがもう決定的になってしまった感じ。
加えて#Me Too運動の槍玉に上げられてプライベートの方も色々大変みたいです。そんな中で原点回帰とでもいうべき『スパイ映画』を撮ったわけですが、さて、その出来やいかに。
主演は新人女優にしてこれが長編スクリーンデビュー作となるサッシャ・ルス。いかにもベッソンが好みそうな顔をしている女の子です。ですが……醜悪な容貌の私にこういう事を言う権利が無いのは重々承知の上で言わせて頂きますが……そんなにカワイイかな? と首を傾げたくなっちゃいます。横顔は美しいんですけど、その、正面から見た時に、妙に目と目の間隔が離れすぎているのが気になるし、化粧をするとそれがより強調されるので、「ちょいブス」な感じに映っているような……あ! ごめんなさい! 石投げないで!
えー、では気を取り直しまして……アナの上司にしてKGBの女幹部・オルガ役に『クイーン』でエリザベス女王役を演じたヘレン・ミレン。アナをKGBへ誘い、後に男女の関係になるKGB職員役にルーク・エヴァンス。アナに接近するCIA諜報員役に『バットマン・ビギンズ』のスケアクロウ役で御馴染み、キリアン・マーフィーが抜擢されています。
【あらすじ】
1990年、モスクワ。
露店でマトリョーシカ人形を売っていた大学生のアナは、パリのモデル事務所のスカウトマンに声をかけられデビューし、ファッションモデル界の売れっ子となる。
事務所の共同経営者のオレグと付き合い始めて2ヵ月、毎夜パーティにディナーと華やかな暮らしを送っていた。ある時、オレグからホテルのスイートルームに呼ばれたアナは、貿易商だと自称する彼に「本業は何なの?」と問い詰める。
オレグから武器商人という裏の顔を打ち明けられたアナは、トイレに隠していた銃で、容赦なくオレグの頭を撃ち抜くのだった――
アナ・ボリアトワ。海軍大尉を父に持つ彼女の正体は、ソ連の諜報機関KGBに所属するスパイにして暗殺者。敬愛していた父の亡き後、彼女は陸軍士官学校を退学し、ホームレス同然の生活を送り、恋人とドラッグ漬けの生活を送っていたのだが、士官学校時代の優秀さに目をつけたKGB職員のアレクセイにスカウトされ、堕落した生活から抜け出すために、非道な諜報の道をひた走ることを決意したのだった。
一年間の軍事訓練と四年間の実地訓練を経た彼女は、KGB幹部にして女上司・オルガの宣告する過酷な最終テストにも合格すると、KGB長官ワシリエフの訓示を受け、無事に女スパイとしてのキャリアをスタートさせる。
類まれな美貌とスタイルでファッションモデル界のスターダムを駆け上がる表の顔と、非情な暗殺者としての裏の顔を使い倒して、組織が下す標的を次々に暗殺していくアナだったが、そんな彼女に目をつける者がいた。
その男の名はレナード・ミラー。西側諸国の雄・アメリカ合衆国が誇る諜報組織CIAの捜査官。オレグ暗殺事件の取り調べのためにアナに面会したレナードは、彼女の美しさに魅了される一方、彼女がただのファッションモデルでないことを見抜いていたのだった。
【レビュー】
スパイ映画。
かの伊藤計劃も著書で言っているけれど、今の時代におけるスパイ映画の立ち位置というのは、非常に独特なものになっています。つまり、昔ほど「分かりやすい」「単純明快な」構図ではないということ。なぜか? 答えは至極簡単。我々の住む現実の世界から、米ソ冷戦が「消え去った」からですな。
かつての昔、スパイ映画と言えば、それはほとんどがKGBとCIAの戦いを描いたものが一般的でした。でもその時代は終わったのです。ドイツを東西に分断していた壁は崩落し、地図上から「ソ連」の名称は、とうの昔に消え去ったんです。
そこで映画監督たちは考えたわけです。次に描くべき『21世紀のスパイ映画』はどういう立ち位置であるべきか。その「答え」とも言うべき作品が、市場に溢れ出してから久しい時間が流れています。
ある特定の国を『仮想敵』と見定めて公然と批難することに(表面的には)ナーバスになっている現代にあって、新たな時代のスパイ映画がとった「様式」には、どこか似通っている部分があると言えます。つまり、外ではなく内に敵を見出す。その筆頭格とでもいうべき『ボーン・アイデンティティー』を思い出しましょう。あのハリウッド映画で主人公と対決するのは、ソ連や東側の人間ではなく、CIA諜報員でした。
一方で、シリアス路線へ転向したダニエル・クレイグ版『007シリーズ』の最終的な敵は「外側」にありますが、それは東側にも西側にも属していない超巨大組織「SPECTOR(対敵情報活動・テロ・復讐・強要のための特別機関)」でした。
では古き良き『007』のテイストを残した『キングスマン』では誰を敵としたか? これといった政治思想も持たない、ただのIT富豪だったのは記憶に新しいですね。続編の『キングスマン:ゴールデンサークル』の敵は? タイトルにも冠されている麻薬組織「ゴールデンサークル」でしたね。
つまり、ある特定の国の中枢そのものを「悪」と定めず、何らかの政治思想を信条として行動したり、俗物的な目的の為に悪事に手を染めようとする反社会的集団や個人との対決を描くのが「現代の」スパイ映画のトレンドであると言えるのかもしれません。
それは「北朝鮮」という強烈な存在感を放つ独裁国家と、三十八度線を境に相対している韓国の映画業界でも変わらないんですね。『ベルリンファイル』や、近年の韓国スパイ映画の傑作たる『工作 黒金星と呼ばれた男』を見れば一目瞭然。韓国映画のほとんどのスパイ映画は、「北朝鮮」という存在を「背景化」しており、どちらかというと組織に身を置く者のジレンマに焦点を当てたものが多いと感じます。
そんな時代にあって、いまさらKGBとCIAの二大諜報組織を描く。そんなことしていったい何を撮ろうとする気なんだリュック・ベッソン! と頭を抱えつつも映画館へ向かった私ですが。
結果的に言えば、そもこれを「スパイ映画」として見ようとした私が間違っていたのです。
たしかにKGBとCIAという二つの組織がアナという一人の女諜報員に振り回されるという構図は、一見すると人材を巡る「スパイ映画」のそれですが、その描き方に権謀術数的な興奮は全くなく、よって「スパイ映画としての楽しみ方」が全く通用しないというおかしな映画になっています。
味方であるはずの組織に忠誠心を「試される」スリリングさや、人格が変わるほどの別人への変貌を遂げて敵組織へ取り入るといったハラハラ感も、機転を働かせて窮地を乗り越えるという展開も、味方の裏切りや、潜入先の組織の人物から疑惑の目を向けられるというドキドキ感も、おバカなメカや小道具がわらわら出て来る楽しさも、この映画には全く存在しません。
いやそもそも、厳しい実地訓練を積んできたはずのアナが、スパイとしてはどーしようもないほどお間抜けなので、溜息が漏れちゃいます。この映画の前に『工作 黒金星と呼ばれた男』を観たせいか、そのお間抜けぶりが凄く目についてしまいました。
どれくらいお間抜けかというと、標的を殺す大事な拳銃のチェックを怠り窮地に立つという展開を「二回も」やってしまっています。一回目はマガジンの確認忘れ。二回目はジャムってます。「この娘、全然学ばないなぁ」と、欠伸が出てしまうほどです。
その失敗もなんのそのとばかりに、ジョン・ウィックを彷彿とさせるガンフー・アクションで挽回しようとするのですが、まぁこれが強い。メチャ強い……んですが、カメラワークがぐちゃぐちゃで、すごく目が疲れます。チャド・スタエルスキの方が何倍も上手いです。特に中盤のレストランでの大立ち回りのシーンなんて、ところどころに早回しを使っているのと、アングル選びがイマイチで、物凄く目に悪い。ベッソンってこんなにアクション撮るの下手だったかな? と疑問に思うほどです。なので、アクションを愉しむスパイ映画としても、出来栄えはイマイチです。
烈しすぎるのはアクションだけではありません。本作にはアナのセックス・シーンが結構な頻度で挿入されているのですが、そのどれもが烈しいエロスに溢れています。うっかり地上波で流れようものなら、お茶の間フリーズ確定なほどの「濃厚接触」の数々。一部のおっさんには嬉しいサービスかもしれません。
ですが、アナの性的な部分が強調されるのはセックス・シーンではなく、むしろアクション方面にあるってのが、この映画の視覚的な(言ってしまえばベッソンの性癖に直結した)特徴のひとつかもしれません。なぜなら、後半の戦闘では地面に横たわったままガーターベルトに包んだ見目麗しい太ももを晒して、ガニ股に近い恰好で向かってくる敵をキックキック、キックの連続で倒していくという……観方によっては「下品な」アクションを披露するのですから(美女のガニ股に興奮する特殊性癖の方々、必見のシーンです)。
これを書いている時に思ったんですが、ベッソンの映画って、ディテールに対する(性的な意味ではない)フェティシズムに欠けていると思うのですよ。それが画面設計に無意識的に反映されているような気がする。彼が撮りたがっているSF映画にもそういう傾向がある気がするので、意外と淡白な映画人なのかもしれない。
ジャンル映画と創作者のフェティシズムって、切っても切り離せない関係にあると思うんですが、この映画には「スパイモノ」のフェティシズムが全然匂っていないから、それを期待して観に行くとすごい肩透かしを食らってしまうんじゃないかなと思います。
スパイ映画としてのお約束、スパイ映画としてのフェティシズムがないなら、本作における監督の興味はどこにあるのか。それは言うまでもなく、この映画の主役にして新人のサッシャ・ルスですよ。彼女のアクション、彼女のセックス、彼女の太もも、彼女の表情。いかにして彼女の身体を魅力的に撮るか。そこに余念がないというか、そこ「だけ」にリソースを割いていると言ってもいいかもしれません。
つまりこれは、スパイ映画ではなく、サッシャ・ルスという「女」のための映画、彼女が演じるアナという「女」の存在を撮った映画で、KGBとCIAの諜報合戦というのは、背景とも言い難いほどうすーく描かれるに留まっています。
「女」を撮った映画。そういう捉え方をすると、本作は巷で言われているように『ニキータの焼き直し』という観方も出来ると思いますが、この映画の結末は『ニキータ』とは全く別物です。
そして女は、二人の愛する男の前から姿を消した――スパイ映画というジャンルでありながら、フランス映画的な余韻を残した『ニキータ』と本作は、頭から中盤まで全てが似通っています。恋人が犯罪を犯した成り行きで政府機関に捕らえられ、スパイへの道を歩みつつ、それでも本当は自由になりたいというキャラクター性も、ニキータとアナはうり二つです。
しかし、繰り返しになりますが、この映画は終盤で『ニキータ』との決定的な差異を演出しています。
そして女は男の前から姿を消した。その後の行方は誰も知らない……というテイストで終わった『ニキータ』とは全く異なる結末。その結末が示すアナの「成長」ぶりに、私はすっかり騙されたし、驚きました。
それまでどこかお間抜けなスパイっぷりだったアナが、最後に見せた「意地」と「勇気」で披露した狡猾な「やり口」。それは往年のスパイ映画と比較しても、ごくごく普通な「やり口」かもしれませんが、それをアナがやることに意味がある。こんなエンディングを迎えるなんて、全然予想してませんでした。いやーマジでやられました。
よってこの映画、まず『ニキータ』の鑑賞を前提にしておくのがベストでしょう。『ニキータ』を観てから本作を観た方が、エンディングの違いに「新鮮さ」を覚えること間違いなしです。




