表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
53/110

【第47回】Fukushima50

『設計/制御された現実の社会を認識するということ』


まず前置きとしてこういうことを言っておかないと、色々と面倒くさい人たちに絡まれるご時世なので明言しときますが、私は右寄りでも左寄りの人間でもありません。なので、この映画を政治的スタンスで良い悪いとレビューすることは絶対にいたしません。


さて、世の中には、映画に込められたテーマや表層に漂うイデオロギー「だけ」を抽出して単純化し、それが自身の政治主義に沿うものなら「良い映画」だと手放しで褒める人がいます。そういう人にとって、この映画は非常にとっつきやすい「魅力的な材料」であるのでしょう。


ですが私に言わせれば、そんなことで満足しているのは、ただのお馬鹿さんです。感性が死んでいるからそんな鑑賞しかできないんです。その映画が面白いか面白くないか、完成度が高いか低いか、ドキュメンタリーであるかフィクションであるかに関係なく、映画を「映画として」楽しむ姿勢を頭から放棄しているから、物語を物語として楽しむ基本的な教養が身についていないから、そんな一面的な見方しかできないんです。そういう人(特に映画評論家)を見ると、憤りを通り越して可哀想だなと思えてきます。


ということで、福島県出身、3.11で実際に被災した映画好きの視点から、政治的なスタンスを全て抜いて、この映画をレビューしていきたいと思います。


それと、この映画は3.11の出来事をそのまんま書いているので、ネタバレも何もないです。みんな知ってることだし。え? 原発の詳しい仕組みが知りたい? なら今すぐに『天空の蜂』を読むがよろし。





【導入】

2011年3月11日に日本を襲った未曽有の大震災「東日本大震災」でメルトダウンの危機を迎えた福島第一原子力発電所。電源が喪失し、闇に包まれた巨大なプラントの中で、最後まで現場に残り作業を続けた50人の原発作業員の姿を描くというコンセプトで作られたのがこの映画。


監督は若松節朗。テレビドラマの演出を経て映画監督になった人。有名どころは『ホワイトアウト』とか『沈まぬ太陽』なんでしょう。特に『ホワイトアウト』はよく金ローでやっていたので、見た人もいるかもしれません。まぁ、あれ言っちゃうと劣化ダイハードなんですがね。若松は原作小説や漫画の映画化ばっかり手掛けているので、作家性は皆無と言っていいでしょう。よってこの映画も彼の作家性は皆無です。


主演は、顔の皺が親父さんに似てきた佐藤浩市、今度はどのハリウッド作品に出るのか気になる渡辺謙。その他に昭和の色男こと火野正平、ゴジラオタクこと佐野史郎、コトー先生こと吉岡秀隆が出ております。あとは福島民友の記者役で「ダンカンこのやろう(ビートたけし風)」が出ています。一番インパクトあったのは避難住民役の泉谷しげるでしたけどね。





【あらすじ】

2011年3月11日。マグニチュード9.0、最大震度7という観測史上最大の大地震が、宮城県沖で発生した。


福島県浜通りに基地を置く福島第一原子力発電所も地震の影響を受けるが、すぐに予備電源を作動させて原子炉内へ全制御棒を挿入し、事態の復旧に当たろうとする。


だが、大地震の発生から数分後、高さ10メートルを超える津波が発生。防波堤を乗り越えて雪崩れ込んでくる濁流によって発電所地下に設置されていた予備電源は流されてしまい、プラント内はステーション・ブラック・アウト――全電源喪失に陥ってしまう。


計器類の全てが自動操作不能となったことで、日本政府は史上初となる原子力緊急事態宣言を発令。発電所の所長である吉田昌郎は、原発一号機・二号機の当直長である伊崎利夫と密に連絡を取り合い、今後の対応についてシビアな判断を下さざるを得ないことを余儀なくされる。


全電源が喪失した状態を放置していては、原子炉内を冷やすための冷却水が蒸発し、いずれ炉内は空焚きの状態となる。そうなれば、剥き出しとなった超高温の核燃料はたちまちのうちに炉を溶かし、メルトダウンを引き起こす。


チェルノブイリの二の舞になることだけは、なんとしても避けなければならない。だが事態の収拾に務める作業員の生命の安全も考慮しなければならない。


手をこまねている間に、制御を外れた格納容器内の圧力は設定耐圧値を遥かに上回るレベルまで達していた。このままでは上昇する圧力に耐えきれずに容器が破裂し、一気にメルトダウンが進む危険性がある。


一分一秒を争う中、吉田所長は苦渋の決断を下した。現場作業員の手による「ベント」を実行するように伊崎へ指示を出したのだ。


ベント。それは、反応容器内に充満した放射性物質を含む蒸気をパイプラインを通じて大気中へ逃がし、容器内の圧力を下げる作業のことを意味する。パイプラインを通す途中で水をフィルター代わりに潜らせるとはいえ、微量の放射性物質を大量に撒き散らすこの緊急手段は、全世界のどの国においても、いまだに実施されたことのない禁じ手の一つだった。


自動操作が効かない現状、パイプライン上に設置された弁を開けてベントを実行するには、人の手を使わなければならない。大量の放射性物質が充満するプラント内へ一歩足を踏み入れたら、最悪どんな目に遭うか、作業員は全員分かっていた。


それでも、誰かがやらねばならない。プラントエンジニアの誇りにかけて、一人、また一人と、プラント内への潜入を希望する作業員たち。伊崎は彼らの覚悟を汲み取ると、希望者の中から六人の作業員を選び三組に分け、闇に閉ざされたプラント内への潜入を開始するのだった。





【レビュー】

震災から半年が経過した頃。長期休暇を利用して実家への帰路についていた私は、子供の頃に良く遊んだ公園の前を通りがかった時、思わず足を止めた。


ろくに補修もされず、錆びついたまま放置されたブランコや滑り台が佇んでいる中、あきらかに遊具とは思えない、茶色い円筒型の装置が設置されていたからだ。


ありゃあいったいなんだろうか。


近づいて観察してみると、円筒型の装置にはモニターが備え付けられていて、そこには赤味あるデジタル色で「0.04μ㏜」と表示されていた。


瞬間的に私は悟った。きっとこれから十年、二十年、三十年と月日が経過しようとも、この装置はいつまでも消えてなくならないのだろうと。


エフイチ(福島第一原子力発電所)から漏れた放射性物質の半減期がどうこうの話ではなかった。あの放射線測定装置は震災を過去のビジョンへ無意識的に変換しようとする住民たちに対して、町が決定的に変容してしまった事実を突きつけるシンボルとしての立場を強く獲得していた。


何が決定的に変容したか。言うまでもなく、それは私たちが暮らす、この「設計/制御された社会」だ。


私たち現代人は、徹底的にアーキテクトされ、コントロールされた社会の中で生きている。人口密度の高い低いの問題ではない。社会や都市は本質的に言って、そこに人が住めるように多くの人の意志によって設計(アーキテクト)された結果誕生した生活空間だ。そしてその生活空間には、本来の意味での自然はほとんど失われていると言ってもいい。


私の実家は、山を切り開いた高台にある。二階の窓から外を見れば、青々と茂った森がすぐ間近にある。それは、そこだけ切り取って見れば豊かな自然そのものに見える。けれども「生活空間のために山を切り開いた」という事実を鑑みれば、あの森は「人の手によって変容を余儀なくされた自然」と言い換えられる。


仙台は「杜の都」と言われるほど自然が豊かであるとされているが、そこにあるのは本当の意味での自然なのか、いま一度考える必要がある。それは地球が誕生して日本列島が形成された数億年も昔から、変わらないままでいる自然なのだろうか。


当然違う。街路樹のアーキテクト、護岸のアーキテクト、花壇のアーキテクト、埋立地のアーキテクト……人が生活する上で景観的に、または社会的に必要だったからこそ、人の目に「優しい状態」へアーキテクトされた自然に過ぎない。そしてそれは、繰り返しになるけど本当の意味での自然ではない。


それじゃあ田んぼはどうなるのか。それこそ農耕技術を学んだ日本人の手によるアーキテクトの代表格だ。土を耕し、水田を作り、農業用水を設計する。そうして出来上がった田んぼを、多数の人は「緑がある」という点だけで「自然の景観」であると勘違いしがちだが、人が生活していく上で変容していった自然の成れの果てと言えるだろう。


もうわかったことでしょう。私たちの住んでいるこの現実社会に、アーキテクトされた都市空間に、真の意味での自然など存在しない。


なぜなら真の自然とは、人の手が介入することすら不可能な「予測不可能で流動的な事象」を指すからだ。それは人の手でコントロールできるものではない。天気予報が外れるのはなぜか。地震の予測研究が遅々として進まないのはなぜか。台風の進路予測が毎回微妙にズレるのはなぜか。それは自然災害が「降って湧いた災難」であり、決してアーキテクトの余地を残した事象ではないから、手をこまねているに過ぎないのだ。


あの東日本大震災が発生する前、この国で地震の未来予測に関するニュースで一番多かったのが(今もそうだけど)南海トラフ地震だった。東海地方を大地震が襲えばこれだけの被害が出ますよーだから皆さん備えておきましょうねー。ニュースではそればっかりだった。


ところが蓋を開けてみれば、実際に大地震が発生し、津波が襲い掛かり、数万人の死者を出した大惨事の舞台と化したのは、東海地方からずっと離れている宮城県沖だった。


自然災害は決して設計も支配もできない。一方で私たちは設計された社会で生きている。消費とサービスの結びつきが緩やかに浸透した社会で、無意識にコントロールされながら生きている。そして我々人類は、計算可能な未来、予想可能な世界については積極的で建設的な議論ができる一方で、先の予想がつかない事象が引き起こす問題に対しては、アーキテクトのための材料が乏しいのを良いことに、あれこれ適当な理由をつけて先送りにする。実は計算可能な問題よりも、計算不可能な問題の方が深刻であると、直感で分かっているのにだ。


現代人は、計算され、制御された無機的な温室でしか生きられない。だから都市は、生活空間をアーキテクトしコントロールすることで、人間の目をアンコントロールな自然災害の脅威から間接的に逸らすように、意図的に建設されたのだ。


設計され、制御された都市。その限定的な、しかし広大な社会では「人工的なアクシデントしか起こらない(と認識されがちである)」。つまり田舎であるか都会であるかに関係なく、私たちは人工的に作り出された生活空間で生きているのだから、人工的に予想・計算可能な事故や事件(交通事故や自殺など)に対して、どうしても鈍感な態度を取ってしまいがちになる。それは現代人として、至極真っ当な反応だってことだ。


なぜ人は殺人を犯すと裁判にかけられるのか。それは、人の行動がコントロール出来ている現在でも、未だに人の「心」はコントロールできない「予測不可能な心理の変遷」ゆえに発生する事象だからだ。長きにわたる人類史において、アンコントロールできない人の「心」を、都市や社会は常に恐れてきた。だから社会は、アンコントロールな行動に走った者を「裁判」というシステム化された手続きによって「コントロール」しようとするのだ。


人の心がアーキテクトできないように、自然災害もまたアーキテクトできないものだ。エフイチを襲った未曽有の大惨事は、まさにこの「予測不可能且つ突発的な」自然災害が、極大のかたちとなって襲い掛かってきたものだ。


原子力という、人の手には余るプロメテウスの火を取り扱う原発作業員たちの姿は、本来ならアーキテクトできない、コントロールできない「はずの」核反応を制御しようとする人の無謀さの極致とも言えるかもしれない。


原子力は社会を豊かにする。そう信じて生活の為に核燃料のアーキテクトに取り組んできたプラントエンジニアたちを襲うのは、アンコントロールな津波であり、それによって二次的に発生するトラブルの数々だ。それらは偶然(トラブル)という名の通り、良い意味でも悪い意味でも作業員たちを翻弄する。なぜ設計圧力の二倍にまで膨れ上がった二号機の反応容器内の圧力が、突然下がり始めたのか。その仮説は大量に唱えられたが、いまだに「これだ」と言える決定的な論拠はないことがその証拠だ。


よく、あの原発事故を「人災」という一言でまとめようとする人がいるけれど、そもそも最初から制御可能な代物だったのかってことだ。アンコントロールな自然の到来によって、それがまやかしだったことが露見し、かと言って主体性を持たぬ自然に怒りの矛先をぶつけるわけにもいかないから、「人災」という単純化された一語で全てを片付けようとしているようにしか私には聞こえない。


3.11が明らかにしたもの。それは「設計/制御された現実社会」を圧倒する自然災害の正体が、私たちの日常にある「生活のために変容を余儀なくされた優しい自然(・・・・・)」とは丸きり別物(・・)であるということだ。我々の身近にある自然が、ある日突然牙を剥くから恐ろしいのではない。自然の持つ二面性が人類を脅かす云々の話でもない。「完全に制御された人類社会」の外側から、特にこれといった悪意もなく、突発的に、タチの悪い壮大なドッキリのように「見たこともない“本物の”自然」が到来してくることの恐怖なのだ。


はい、クッソ長い前置きおしまい。


『Fukushima50』は、原発プラント内に最後まで残り続けてアンコントロールな事象と格闘した50人の作業員の姿を描いた映画だ。いわゆる「名もなき人々を主役にしたよ系映画」に連なるけれど、実際に鑑賞してみると、作業員たちの人となりやキャラクターには、ほとんど焦点を当てていない。


それを象徴するかのごとく、映画は冒頭から地震発生の瞬間を描く。最初のシークエンスでキャラクターの背景を描くというお決まりの展開を放棄して、いきなりディザスター・シーンへ突入する。九年前の現実がそうだったように、この映画でも突然に発生した大地震が、容赦なく福島原発を襲うシーンからスタートするのである。


ろくすっぽキャラクターの背景を描かないまま、映画はどんどん進んでいく。演者は淡々とした台詞運びを嫌うかのごとく、終始キメているかのような躁めいた熱演を繰り広げるので、変な笑いが漏れそうになる。吉田所長はずーっとがなり立ててるし、東電の本店幹部は「いいからやれよ!」と怒号を飛ばし、佐野史郎演じる総理大臣は「なんだ! どうした!? 何が起こっているんだ!?」と真面目顔でオロオロ。放射性物質の濃度が高すぎてベント開放を諦めて帰還してきた作業員が「ずみまぜんでじだぁ!」と伊崎に向かって涙ながらに叫ぶシーンは、壁外調査から手ぶらで帰ってきた調査兵団員を彷彿とさせる。どうやら若松監督は「いかにして現場がトラブルへ対処したか」よりも「どれぐらい現場が混乱していたか」をドキュメンタリチックに描くことにフォーカスを当てているようだ。


映画レビュアーの中にはこの映画を『まるでシン・ゴジラのようだ』と評している人がいるが、全然違うから笑えてくる。『シン・ゴジラ』は、リアルでは考えられないくらい有能な官僚が、システマチックな流れに沿ってトラブルへ対処する様が痛快であり、人によっては白ける展開だったのだ。けれども、この映画に痛快さを求めたり白けたりする余地は全くない。そこには作家性のない若松監督らしい「起こったことを馬鹿正直にそのまま描く」という、社会派映画の中でも「映画的に見て」とてもつまらない画の連続しかない(と言っても、制御棒がドアップで原子炉に挿入されるシーンや、海底の地盤がズレるシーンは結構興奮した)。


そうなるのも考えれば当たり前である。なぜなら若松監督は、この3.11という題材を「おもしろい映画を撮るための素材」として選択してはいないからだ。この映画では、あの大震災を、映画そのものをドキュメンタリー化させるための「手頃な」素材として扱うのに始まっており、だからこそ、序盤では記録映画としての側面が色濃く出ている。


だが奇妙なことに、中盤からの流れはまったくドキュメンタリチックではない。むしろその反対。伊崎らを始めとする原発作業員と、彼らを避難所まで待つ家族の絆が、めちゃくちゃセンチメンタリズムな劇伴と合わせて長々と展開されるので、ドキュメンタリー映画を観る姿勢をずーっと保っていると、この中盤のシーンで盛大にずっこけることになる。


この家族の絆を描くシーン、私は泣かなかったけど、隣に座っていたご婦人やおじさんはハンカチを取り出して目元を拭っていた。そんな彼らを見て「涙腺の堤防が低すぎるだろ」と上から目線で言うつもりはない。なぜなら、そうなるのも仕方ないと言えるだけの作劇が連続して展開されるからだ。


この映画は中盤から「観客の涙をいかに搾り取るか」に注力する映像装置と化す。はっきり言って『アルマゲドン』級に涙を搾り取ってこようとする。この「泣かせ」の演出から透けてみえるのは、監督らの軽薄且つ怠惰な作劇方法だ。伊崎には娘がいる。じゃあその娘との絆を描こう。そのために娘と伊崎の間に確執を持たせよう。それが震災が契機となって氷解するような展開にしよう……そのようなアーキテクトによってつくられたとしか思えないんですな。


キャラクター性を描かずに始まり、ドキュメンタリチックな映像で続いていたのが、中盤で唐突に安直なヒューマニズムをぶっこんでくるという、ある意味鈍器で殴られるような「痛い」衝撃が、この映画には詰まっている(言っておくけど、私はヒューマニズム要素は好きです。ただし、バランスの良い物に限ります)。


いま思えば、この時点で私はエンディングの行く末を覚悟しておくべきだった。というかこの映画を私が観に行った最大の理由は「終わり方をどうするつもりなのか?」という、その一点にあった。その答えは、もうすでにこの時点で出ていたのだ。


『Fukushima50』……原発内に最後まで残って福島のために、日本のために悪戦苦闘した彼らは、たしかに勇敢なる戦士だった。しかし厳しいことを言わせてもらえば、全てを救って元通りにした「ヒーロー」ではない。間違ってもそれはない。放射性物質は太平洋へ垂れ流され続け、浪江町を始めとする浜通りの一画は、いまだに帰宅困難区域のままなのだから。


この現実だけを見れば、彼らは最悪の事態を回避させるのには成功したが、全てをチャラにしたのではないのだ。つまり「ヒーロー」としては描けない。だから『Fukushima50』の落としどころが難しいことは、公開前から分かっていたことだ。未だに終わらないこの「変容した現実」を前にして、若松監督がどんなアンサーを掲示するのか。その一点だけに興味があった。


そのアンサーは、ラストでこれみよがしに披露される。センチメンタルな流れで吉田所長の葬儀を終えた伊崎が、道路に沿って満開に咲く桜並木を見上げ、その様子をカメラがロングショットで捉えて、この映画は幕を閉じる。


もちろんここで描かれている「桜」は「自然の桜」ではない。それは「植樹」という「人の手によって加工された」桜であり、全く自然の産物ではない。


「見たこともない自然」として映画の冒頭で津波を描き、映画のラストでは「見たことのある加工された自然」として桜を見せる。アンコントロールで始まった映画は、コントロールされた社会へ――「見たこともない自然の到来」から「目を逸らす」ために設計された都市の中へ帰っていく。


この時点で、本作は完全にフィクションの領域に留まり、「震災」という現象を現実世界から完全に切り離していると言える。もし「ドキュメンタリチックなフィクション」として徹頭徹尾描くつもりだったら、ああいう浮足立ったエンディングには至らないはずなのだ。なぜなら3.11は全然過去の題材なんかではなく、それをメインに据えるということは、目を逸らそうにも逸らせるはずのない、「見たこともない自然」によって現在進行形で変容している現実を描くことそのものに直結するからだ。


それなのに、あのような「逃げ」のラストを若松監督は選択した。だから私から言わせれば、この映画はまごうことなき「空想話」であり、作り手たちは圧倒的に現実を「感覚する」のに『怠惰』であるのだ。


「見たこともない自然」が私たちの暮らす現実社会の外側にあるというのに、そのことから目を背け、「かつてこういうことがあった」というかたちで事実を過去のものとして脚色し、現実の世界から切り離し、スクリーンの中で生きる彼らの姿を見て涙を流し、それこそが「今の私たちに出来る事だ」と厚顔無恥にも豪語する姿勢には、苦笑いしか出てこない。


加えてさらに残念なことに、そうやって撮られた映画に映像的なインパクトは何一つとして残っちゃいない。映画の延長線上に現実があるのだということを改めて知らしめてくるような息苦しさもない。ただの、よくある安いお涙頂戴劇でしかない。


この映画を観て「リアルな映画だ! 良く出来てる!」と無遠慮に口に出す人を見るにつけ、私は「何かが決定的に認識されていない」と疑問を感じすにはいられない。リアリティのない映画だ、という意味じゃない。「予測不可能な自然の力」に晒されているのは、いま、この瞬間における現実の世界にも言えることなのに、映画というフィクションの産物を観て無遠慮にも「リアルだ」と口にする。そのちぐはぐさに全く自覚的ではなく、現実を現実として感覚する力が衰えてしまっている人々に対して、私は異様さを覚えずにはいられない。放射線濃度を「観測」するしかない、あの茶色い円筒型の装置のことを脳裡に描くたびに、強くそう思うのです。




※余談

首相の記者会見時に集まった記者たちがラップトップで記事を作成している中、ダンカン演じる福島民友の記者だけがメモ帳にペンを走らせてるんですよ。仮にもスピードを強いられる記者が、ですよ? この「田舎人はアナログ脳描写」は『AI崩壊』でもあったんですが、はっきり言って時代錯誤もいいところだし、演出的に優れているとも言えない。なにより、あんまり田舎を馬鹿にしない方がいい。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ