【第46回】★劇場版 SHIROBAKO
『ファンタジーとリアルの狭間で、彼女らは戦い続ける』
よーやく来ました。俺ちゃんめっちゃ楽しみにしていたのよ水島監督!
【導入】
アニメ制作業界に飛び込んだ若者たちの奮闘を等身大に描いたことで話題になった、2014年にテレビ放映されたアニメ『SHIROBAKO』の劇場版。
制作は『花咲くいろは』『凪のあすから』を手掛けたP.A.WORKS。
監督はテレビシリーズに引き続き水島努。ガルパンこと『ガールズ&パンツァー』が一番有名なんでしょうけど、私見てません。むしろ水島努と聞くと『撲殺天使ドクロちゃん』『大魔法峠』『ケメコデラックス!』『映画クレヨンしんちゃん 栄光のヤキニクロード』『じょしらく』が浮かぶ始末。つまりギャグ、ブラックユーモアですな。この人は音響監督とか作詞もやっちゃう人で、そっちでもブラックなネタをたんまり盛り込んでくるので面白い。『ケメコデラックス!』のエンディング曲の三番の歌詞があまりにも反米すぎて放送できなかったという逸話の持ち主。あと『大魔法峠』のオープニングで金閣寺とか法隆寺とか、国の重要文化財燃やしてます。ロックです。
水島監督は『おおきく振りかぶって』とか『Another』とか、ギャグ以外も手掛けているんですけど、でも『Another』も死に方がギャグと言えばギャグだし、『BLOOD+C』も各所で言われているように、シリアスな癖にストーリー展開が茶番めいたギャグと見れないこともない。やりすぎると興ざめなんだけど、塩梅がいいとけっこう面白いアニメを作ってくれるという印象。
脚本とシリーズ構成は伊藤和典の一番弟子・横手美智子。『機動警察パトレイバー』で太田がお見合いをする話で脚本家デビューした人。あの話めっちゃ好きなんよなぁ。
声優はテレビシリーズと同じ布陣。そこに佐倉綾音が新キャラ役として配置されています。『プロメア』もそうでしたけど、すでに枠が組み上がっている声優陣にポッと佐倉綾音を放り込んでくるスタイルが流行なんでしょうか。アニメほとんど観ないから知らんけど。
【あらすじ】
空中強襲揚陸艦SIVA
そんなタイトルが書かれた一枚の企画書を、武蔵野アニメーションの制作デスク・宮森あおいへ手渡すと、社長の渡辺隼は試すような口ぶりで、静かに問い質した。
「例えば、もし、万が一、今のムサニの状況で劇場をやるとしたら、どうする?」
今の武蔵野アニメーションで、劇場アニメを制作する――その意味を深く噛み締める宮森の心に湧き上がるのは、高揚感ではなく、辛く苦しい悲壮感であった。
話は2015年。今から四年前に遡る。
七年ぶりの元請け作品『えくそだすっ!』を万策尽きずに完成させ、制作トラブル続きだった『第三飛行少女隊』のアニメ化を、変な話、なんとか無事に成功へ導いたアニメスタジオ、武蔵野アニメーションこと通称・ムサニは、その後も『ツーピース』『限界集落過疎娘』などコンスタントにテレビアニメを作り続け、業界内での評判も徐々に向上していった。
そしてついに迎えた大勝負。ムサニ初のオリジナルテレビアニメ『タイムヒポポタマス』の制作に乗り出す。今までにない最良のスケジュールの下で製作は順調に進行していたが、そんなある日のこと、ムサニの社長を務める丸川正人が苦渋の表情を浮かべ、衝撃的な事実を皆に告げた。
「本日をもって、タイムヒポポタマスの制作は中止となりました」
青天の霹靂だった。延期ではなく中止という事実に、動揺と驚きを隠せないムサニメンバー。原因は、出資してくれていたスポンサー企業が事前にオリジナルアニメの企画を社内で通していなかったせいで、スポンサーのトップ直々の命令で、資金が打ち切られたせいだった。今から他のスポンサーを探そうにも、キャラクターデザインの権利の関係上、それも難しい。
メーカーがお金を出してくれなければ、スタジオはアニメを作れない。契約金が振り込まれる前に内示で制作を開始したムサニ側に落ち度がなかったとは言い切れないものの、これは宮森たちにとって、あまりにも辛すぎる事件だった。
後に『タイマス事変』と業界内で揶揄されることになるこの出来事がきっかけで、丸川は社長を辞任。だけでなく、食い扶持を失くしたムサニメンバーたちは、そのほとんどがスタジオを離れる結果となった。
宮森の後輩で制作進行を務めていた安藤つばきはスタジオカナンへ移籍。『第三飛行少女隊』の完成を経てムサニに居場所を見出していた制作進行の平岡大輔も、同じ制作進行の高梨太郎を連れてフリーランスへ転向してしまった。
更には、宮森の高校時代の友人であるアニメーターの安原絵麻も、後輩の久乃木愛を連れてフリーへ。宮森にとっての頼れる先輩、矢野エリカは父親の看病のために実家へ戻ったまま帰ってこない。
しかも、『タイムヒポポタマス』の監督を務めていた木下誠一はこれがきっかけで半ば引きこもり状態になり、作画監督の遠藤亮介は自暴自棄になった末に、アニメ制作の現場そのものから遠ざかってしまった。
ほとんど壊滅と言っていい状態の武蔵野アニメーション。あれから四年が経過した今、在籍スタッフは当時の半分近くまで減り、下請けの制作ばかりを細々と続ける日々を送っている。
敗戦処理に甘んじるしかないムサニに舞い込んできた、劇場長編アニメーションの制作。それも、ウエスタンエンタテイメントの葛城プロデューサーいわく、元々は別会社が手掛けていたのが、公開一年前になっても絵コンテが上がらず、それでムサニにお鉢が回ってきたという始末だ。
今の状況で、本当にこの仕事を請けていいのか。『タイマス事変』で瀕死に陥ったムサニが元請けで制作を開始したとして、残された制作期間は一年もなく、絵コンテから作り直し。予算だってたかが知れている。軽い気持ちで請けて制作が頓挫してしまったら、今度こそムサニは終わりだ。
渡辺から話を聞いた宮森は、その足で丸川の下を訪れる。社長業を引退した丸川は、趣味の料理を活かしたカレー屋をオープンさせていた。
丸川の振る舞うカレー。それは宮森にとって、とても大事な味だった。『えくそだすっ!』の一話放映時に皆で会議室に集まった時、『第三飛行少女隊』のPV完成を記念したパーティの時、いつも心のゆとりをもたらしてくれた丸川のカレー。
それを口にした宮森の瞳に、涙が浮かぶ。辛く苦しい時を共に乗り越え、アニメ完成の喜びを分かち合ってきた、かつてのムサニメンバーたちの姿が脳裡を過る。あの時、同じ地平を目指して共に走り続けていた彼らは、いま、どこで何をしているのだろう。
「後ろを振り向いていちゃダメだ。君たちは、ただひたすらに、がむしゃらに、前を見て進まなきゃ」
丸川の激励を受けて、宮森は決心する。成功するか失敗するかは、今はまだ分からない。ただ、今の自分に出来るだけのことを、精一杯やるだけなのだ。
アニメを作りたい――またみんなと一緒に。
欠けた月が浮かぶ夜空の下、宮森は『空中強襲揚陸艦SIVA』の仕事を請けることを心の中で誓うと、散り散りになったムサニメンバーを招集することを決意するのだった。
【あらすじ】
知らない人の為に説明しますと、この映画のタイトルである『SHIROBAKO』、つまり「白箱」とは映像業界で使われる白い箱に入ったビデオテープ(今はDVD-R)のことを指すもので、放映前にアニメ制作者が一番最初に手にする成果物の事です。
もう各所でさんざん言及されているので今更ここで言うのもアレですけど、この作品はテレビシリーズ時代から「架空のアニメーションを制作するアニメスタジオのドタバタをアニメで描く」というコンセプトを貫いていて、つまり「フィクションをフィクションで語る」メタフィクションの手法を取っているんですね。
アニメ業界の「いま」をアニメで描く。アニメに詳しくない人が聞いたら「画期的なアイデアだな」と思うかもしれませんが、意外とネタ的にはそんなに目新しくもない。その手の代物だとOVA『アニメーション制作進行くろみちゃん』が有名でしょうか。ちょっと変化球ですが「業界人が業界を描く」という視点だと、庵野がいた頃のガイナックスが手掛けた『おたくのビデオ』とかもありますね。マイナー所だと『ドージンワーク』とか。小説でも、ラノベ業界を描いた青春小説『妹さえいればいい。』などがあって、この手のネタは娯楽の土壌を問わず、とにかく色々あるわけです。
しかしですね、これらの作品と見比べてみても、『SHIROBAKO』のメタフィクションっぶりって、いま思い返すと中々力が入っていたんだよなぁ。ファンの人は知っているだろうけど、テレビシリーズ放映時に、劇中に出てくる架空のアニメスタジオ「武蔵野アニメーション」の公式HPを立ち上げて、そこに書かれた電話番号にかけると「はい! ムサニの宮森あおいです!」って、キャラクターが週毎に色々なことを喋ってくれたりしたんですが、ここまでメタに振り切るかと、当時は感心したものです
それにしても、本当に『SHIROBAKO』はキャラが多い。ミキサー助手なんていう、ほとんどモブに近い役割のキャラまでちゃんと名前があるくらいですから、徹底していると言えるでしょう。ひとつの画面の中で大勢の名有りキャラが集合している描写ってのは、たとえそんなに目立った動きがなくとも、見ていて不思議と幸せな気持ちになります。凄いのは、あれだけの名有りキャラを用意しておきながら「誰だっけこの人」とならない。SFでも異世界でもない現代劇なのに、それも顔に特徴の出にくい日本人のデフォルメで(萌え絵に近いと言っても)、これだけ大量のキャラをしっかり書き分けられている作品って、ちょっと私の知る限りありません。実在の人物をモデルにしてるってところが大きいんでしょうか。
先に上げた『アニメーション制作進行くろみちゃん』や『おたくのビデオ』のように、「わたし/俺、オタクです」という、いかにも壮烈な雰囲気を身にまとったキワい人が『SHIROBAKO』には誰一人としていない点も、当時は目を引きました。なんならこの作品、キャラクターの服装デザインや色彩設計に「一般ウケするような気配り」がとことん為されています。派手過ぎず地味過ぎず、オタク臭さを限りなく脱臭させ、キッチュからも遠く離れた「現実的な服装」をキャラに着せています。
そういう一般的な味付けをされた作品ですから、アニメーション現場を「アニメ」というフィルターを通して描きつつも、そこには、アニメに興味のない一般の人が「アニメ愛好家」へ向けがちな、極端な偏見要素は一つもありません。アニメスタジオで働いているのは、我々に近しいごく普通の人たちであるとする『SHIROBAKO』は、デザイン面ではとてもリアル寄り。しかし演出の数々が、水島監督独特のシュールな笑いの感性で装飾されているので、妙にファンタジック。このアンバランスさが『SHIROBAKO』の面白さの要であるのです。
「みんな!ドーナツ持った?」宮森あおいが仲間たちとの結束を確認する「ドーナツの誓い」の際に発する、この珍妙なフレーズに始まる、ファンの間ではおなじみの「危険ドーナツ現象(危険ドラッグやったみたいに、なぜかドーナツを食べると幻覚めいたイメージが飛び出すという演出)」に始まり、えまたそのエンジェル体操、興津さんの華麗過ぎるドライビングテクニックといった視覚的に分かりやすい演出にはじまり、絵コンテが中々上がらない監督をスタジオ地下の座敷牢に閉じ込めるという、水島監督お得意のちょっとブラックなユーモアが、テレビシリーズではいい塩梅に詰め込まれていました。この事から、『SHIROBAKO』は、たとえ風景や小物の類はリアルでも、キャラクター造形や演出は極めてファンタジー(非日常)な領域に留まっていることがわかります。
シリアスな場面でもわりかしそんな演出、つまりファンタジーギャグっぽい演出が散見されるので、人によっては「ギャグに逃げてる」と思うかもしれません。でもでも、リアルな業界をただリアルにやるんだったら、それ実写で良くね? となるわけで。「見慣れない世界」を「見慣れた手法」で撮っているだけでは、視聴者は飽きてしまうと思うのですよ。そうならないためにファンタジー的演出をエッセンスとして加えた水島監督の選択が見事にハマって、人気が出たんじゃないかなぁと思うんです。
そんな水島監督のシュールでギャグとも言える突拍子もないファンタジー演出が、本作でもしっかりと挿入されとります。そう、何を隠そう、監督の十八番である「ダンス」です。ミュージカルです。今回はエンジェル体操の比じゃありません。現実の、生っぽい世界で、唐突にアニメキャラを躍らせる。それも、萌えの効果を狙って可愛くデザインされた『SHIROBAKO』のキャラを躍らせるのではなく、劇中で武蔵野アニメーションが生み出してきた、デザイン志向も頭身も線も色彩のコントラストもばらばらなキャラクターたちを一堂に会させてめちゃめちゃに踊らせるあのシーンは、最初かなり面食らいました。すごく思い切ったことやってんなぁと。
でも、このミュージカル・シーン以上に私が感動したのは、物語の中盤で子供たちが宮森たちの手を借りて作った「なめ・なめろう」のアニメーション描写です。フォローもパンもない、フィックスだけの、子供向けとも言えないような非常に簡素なアニメなんですが、子供たちの手で生み出された「なめ・なめろう」の「原始的な動き」に、私は本当に胸を打たれました。へたっぴぃな子供たちの原画を繋ぎ合わせて、動画にしてスクリーンに映しただけなのに、あの動画にはアニメーションの全てが込められています。予定調和な異世界を舞台にした作品や、露骨で安っぽいエロシーンで客を釣ろうとする作品では、決して届き得ない素のアニメーションが見れるのですから貴重です。
素のアニメーション。それはつまり、絵に意志が宿る瞬間を観客に目撃させるということです。この映画における「なめ・なめろう」が動き出すシーンで、観客は思い知らされるはずです。アニメーションの語源が、ラテン語で「霊魂」を意味する「アニマ」であるということを。そこにはアニメの原始の息吹が込められています。映画館のでかいスクリーンでこれが観れたってだけで、もう私は「やった!」という気分。
面白い、というよりかは、妙に幸せな気持ちになれる映画です。台詞の間隔はテレビシリーズよりもかなり詰めていて、ちょっと集中していないと何を言っているのか一瞬困るような場面もあるし、テレビシリーズありきの作品なので映画単体としての出来栄えという観点で見ると、厳しいものがあるかもしれません。しかしそういう点を抜きにしても、不思議と幸せな気分になれる映画。これってアニメ映画にしてはかなり珍しいなと個人的には思うんです。
それはまぁ、私がテレビシリーズの大ファンだからってのもあるんでしょうが、本編全体に漂う「がむしゃらに生きていきましょう」という仕事人の情熱感を、鬱陶しいくらい熱苦しく描いていないからというのが、幸せな映画だなと感じる最たる理由なのかもしれません。
間違っても「熱い」シーンが皆無ということじゃない。むしろこのアニメはテレビシリーズの時から「熱い」シーンに溢れています。けれども、無理矢理そういうシーンをねじ込もうとする恣意的な流れになることはなく、あくまでも作劇の進行上に沿ったレベルでの熱さに終始しているという、品の良い熱さなんです。たしか『キルラキル』だか『プロメア』だかの制作インタビューで、今石洋之が「熱いシーンを書こうと意識すると作劇がそれに帳尻を合わせるようになって、結果的にぎこちないストーリーになる」と言っていましたが、それと同じことを水島監督も考えているのかもしれません。
無理に熱い展開には決してせず、淡々と適度に、観客の望んでいる「ちょうどいい面白さ」を提供するスタイルから見えてくるのは、水島監督自身の「気恥ずかしさ」でしょう。この作品全体にうっすらと漂う「気恥ずかしさ」は、それまでの水島監督作品には見られない要素です。
そもそも、自分達の業界を当事者たちの手でアニメ化するという、自己承認欲求の塊とも取られかねない挑戦に取り掛かるのに、まっとうなプロなら気恥ずかしさを覚えないはずがない。だからと言って、気恥ずかしいままでは自己言及的な要素を取り入れられないし、かと言って開き直って暴走すると、観ている側は白けてしまいます。
『SHIROBAKO』を観ていると、水島監督がかなりバランス感覚に長けている人なのが良く分かります。とても『大魔法峠』やケメコのエンディング曲を作った人とは思えません。暴走したい、もっとブラックなネタを沢山ぶっこみたいという気持ちを抑え、劇中劇のキャラ心情やストーリー展開を、宮森たちムサニメンバーのストーリー展開と暗喩的にリンクさせるという手法で、『SHIROBAKO』を俯瞰的に捉えるようにして「気恥ずかしさ」を中和させ、「水島努」というアニメーターとしての自我が表に出ないよう、必死に努力しているのが伝わってきます。
それがこの劇場版でもしっかり出ているんですね。ラストのアニメーション描写。『空中強襲揚陸艦SIVA』をギリギリのスケジュールの中で納品三週間前に完成させたのに、より作品の完成度を高めるために、ラストシーンにひと手間もふた手間も加えるムサニメンバーたち。その様子を直接的に見せるのではなく、成果物を、すなわち付け足した部分のアニメーションを観客に見せてくるという、ベタなんだけど好みな演出を目にして、私はどこかほほえましい気分になりました。
映画のラストで我々の目に突き刺さる『空中強襲揚陸艦SIVA』のラストシーンは、P.A.WORKSの本気というよりも「武蔵野アニメーションの本気」という感じが良く出ている。カメラの回り込みをしっかりやって、アクションにメリハリをつけている部分は見応えがありますが、P.A.WORKSの底力ならもっとド派手な演出もできるはず。でもそれをしない。キャラクターデザインは擬人化したウサギやクマや、時代遅れなドラム缶型のロボットと、イマドキのアニメには似つかわしくない珍妙さ。ホバリング機能を持つビート板に乗って、しゃもじのような武器で戦うし、敵方が持っている銃のデザインなんて、はっきり言ってダサすぎです。
もっとカッコよくデザインすることなんて、いくらでも出来たはずです。もっとカッコイイキャラやガジェットを配置することだって。でもそうやって完成した作品は確かにイマドキのアニメにはなるかもしれませんが、武蔵野アニメーションらしさは失われます。
アニメーターの情熱が込められた結果、グイグイ動くキャラクターたち。しかしながら、肝心のキャラやガジェットはどこかレトロ調。このちぐはぐさが「武蔵野アニメーションらしさ」に繋がる面白い部分であり、水島監督の「気恥ずかしさ」が端的に現れている部分だと思います。全力を出すことを「カッコ悪い」と思うのではなく、全力を出す自分を眺めているもう一人の自分を意識してしまうのが恥ずかしい。そんな意識を感じさせるあのラストシーンを観て心に浮かんでくるのは、面白い映画を観た!という感想よりも、なんとも妙な幸せな心地でした。
エンドロール後のCパート描写も、幸せになれるポイントです。『空中強襲揚陸艦SIVA』を観終えた帰り道、宮森が一人道を歩いている時、ふと夜空を見上げると、そこに浮かんでいるのは満月でも三日月でもない、中途半端な「普通」の月。彼らの今後を暗示するような月の形は綺麗でも欠けているでもない「半端」なかたち。その「中途半端」さ、「普通さ」が良いんです。
ファンタジーとリアルの狭間を描いた『SHIROBAKO』だからこそ辿り着いた結論。リアルを過剰に盛り込み過ぎる厳しさでもなく、あっけらかんとしたファンタジーのお気楽さでもない、実に地に足のついた「普通の」エンディング。それでいて、宮森たちはこの後も歩き続けるのだという暗示をさせるあのエンディングは、やっぱり私を幸せな気持ちにさせてくれるのです。




