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【第45話】ミッドサマー

『コントロール不可能という恐怖。コントロール可能という開放感』


ウィッカーマン的ミステリー? たしかに似てるけど、根本的なところでは全く異なります。


どういう映画かと聞かれたら「バレンタインデーのチョコレートに陰毛と経血を混ぜて喜々として食わせるような映画」としか言いようがない。





【導入】

北欧スウェーデンで90年に一度開催されるペイガニズム満載の祭りに参加した若者たちが、奇妙で恐ろしい体験に見舞われるというテイストの『失恋系ホラー映画』


監督/脚本は、このレビュー集の第19回でも取り上げた『ヘレディタリー/継承』を製作し、世界中に強力な呪いの種子をばら巻いた映像世界の呪術師、アリ・アスター。巨匠マーティン・スコセッシにも認められた若き才能が持つ映像ディテールへのこだわりを、みなさんどうか堪能してくれ。と言いたいが、『ミッドサマー』はともかくとして、『ヘレディタリー/継承』は家族関係に対して繊細な人は観ない方がいい。トラウマになっても私はなんの責任も負えないので。


主演はフローレンス・ピュー。若干23歳の若手女優ですが、『ストーリー・オブ・マイ・ライフ 私の若草物語』で四女エイミー役を演じ、今年のアカデミー賞助演女優賞にノミネートされるなど、今注目の実力派女優でございます。そしてカワイイ。


脇を固めるのは『ナチス第三の男』にて、ラインハルト・ハイドリヒ暗殺の片棒を担いだ軍人役を演じたジャック・レイナー。『メイズ・ランナー』で主人公と敵対するギャリー役を演じたウィル・ポールター。このウィル・ポールターという俳優、私好きなんですよねぇ。傲慢で軽薄で無知な若者役を演じさせたらピカイチよ。だって顔がすんごい軽薄さに満ちてるもん。なかなかいないよこの顔は。


でも一番驚いたのは『ベニスに死す』の超絶美少年役を演じたビョルン・アンドレセンが出てるってところだよなぁ~。ジジイになってもあの目の輝きは依然として残っていましたから、これだけでも映画ファンは観に行く価値がありまっせ。


そして『ヘレディタリー/継承』もそうでしたが、本作でも音響に関するこだわりは凄まじいものがあります。担当するのはダークで陰湿なメロディから荘厳な虚無的メロディを得意とするボビー・カーリックことザ・ハクソン・クローク。あんまり映画音楽手掛けていないんですが、それでもこの人がプロデュースする音はたまらんものがあります。





【あらすじ】

ぼくとダニーの関係性は、破綻寸前を迎えていると言ってもいいだろう。


ダニーとは付き合い始めて……そうだなぁ。たぶん三年くらいになるけれど、正直言って、彼女へ向ける愛情は風前の灯と言ってもいいくらいだ。


どうしてこうなったか、ぼくもさっぱり分からない……いや、ごめん。本当はなんとなく分かってる。


なんて言うか、彼女、重いんだよね。


ダニーには精神病を患っている妹がいるんだけど、その妹のことでいつもぼくを頼ってくるんだ。でも、残念だけどぼくにはどうすることもできない。


そんなの当たり前だよ。だってぼくはアメリカに住んでいるただの大学生で、卒業論文の制作で頭がいっぱいだっていうのに、なんで付き合っている彼女の妹のことで相談を受けなくちゃいけないんだ?


それに精神病……ダニーは双極性障害って言うけれど、ぼくからしてみれば、彼女の妹はただ構ってほしいだけなんじゃないか? わざと自傷行為をしたり、不安を煽るようなメッセージを送ったりして、君の気を引こうとしているんだよ――そう言ってやり過ごそうとしても、ダニーは全く聞く耳を持ってくれない。


クリスチャン、あたし、どうすればいいんだろう――そうはっきりと口には出さないけど、ダニーの言葉の裏には、必ずそんなメッセージが隠れている。


うんざりするよ。彼女は完全に、ぼくに依存してしまっているんだ。そう断言して間違いないだろう。


そんなに頼られても、困るのはこっちなんだよ。


あーあ。こんな重い女だったなんて、付き合う前は知らなかったなぁ。


友人のペレやマーク、ジョシュたちは、ダニーみたいな面倒くさい女はさっさと捨てて、簡単にヤレそうな女を探せよって言ってくる。


もちろんぼくだってそうしたい。でも……これも奇妙な話なんだけど、どうしてもダニーに別れを切り出すことができないんだ。


きっと怖いんだろう。関係性が壊れることそのものがではなく、別れを口にした時にダニーがどんな反応を見せるか。それを直視するのが怖いんだ。情けない話だけどね。


自然消滅を待つべきなのか。それとも勇気を出して別れを切り出すべきなのか。悶々とした毎日を過ごしていた時だよ。非常に恐ろしく、これまでにない厄介なことが起こったんだ。


ダニーの妹が、彼女の両親を巻き込んで無理心中をしてしまったんだ。死因は一酸化中毒だって聞いた。どうも、車の排気口から伸ばしたホースを自分の口に咥えて死んだらしい。


ショックで泣き叫ぶダニーを宥めながら、ぼんやりとぼくは考えた。なんてことだろう。これでますます別れにくくなった、と。全くコントロール不可能な状況へ、ぼくもダニーも放り出されてしまったんだ。


家族の心中からしばらく経過した頃のことだ。ダニーはまだあのショックから完全には回復できずにいるけど、それでも少しずつ元気を取り戻している……ように見える。


夏を迎えても、まだぼくはダニーと別れてはいなかった。もう彼女に対する愛情はすっかり冷めてしまったけど、あんな経験をしたダニーを独りぼっちにしたら、なんだか可哀想じゃないか。ぼくはそこまで、非情な男にはなりきれないんだ。


そんなぼくの鬱屈した気持ちを知ってか知らずか、マークたちは旅行の計画を着々と進めている。実は以前からぼくも含めて、仲間内で決めていたんだ。民俗学を専攻しているジョシュの希望もあって、ペレの生まれ故郷であるスウェーデンのある村で、90年に一度だけ開催される夏至祭に行こうってね。


それはダニーには秘密の計画だったんだけど、あることがきっかけで、彼女が計画のことを知ってしまったんだ。正直彼女には申し訳ないけど、気分が悪くなったよ。


彼女は「旅行の件、なんで私に黙っていたの?」ってしつこく問い詰めてきて、本当にうんざりだよ。ぼくとの関係が破綻寸前だってのをいい加減に察して欲しいよ、まったく。本音を言えば、これ以上依存されるのは御免なんだ。いつまで彼女面する気でいるんだ?


やっぱり早めに別れた方が良かったなぁって後悔しかけたんだけど、ぼくもぼくで、あまり強気に出られなかったから、ここはまぁ、お互い様という奴なのかもしれない。結局は、ぼくも彼女も、この状況を上手くコントロールできずにいるんだ。


結局ダニーの勢いに負けてしまって、ぼくは仲間たちにダニーも旅行についてくるって話をしたんだ。案の定、みんな微妙な顔をしていたよ。特にマークなんて、口には出さないけど露骨に嫌がってたね。ジョシュは何とも言えない顔をしていたな。でも、ペレはそこまで嫌がってはいなかったかな。むしろ、歓迎するってスタンスだった。アイツはイイヤツだ。


そういうこともあって、ぼくとダニーを含めた五人は飛行機に乗って、はるばる北欧の地にまで飛んできたわけだ。通りを歩くスタイルの良いスウェーデン女性を見て、マークは興奮しきりだった。どうしても現地の女性とセックスをしたいらしい。まったく彼らしい。でもほどほどにしておけよ。そのうち痛い目に遭っちまうぞ。


ペレはそんなマークを適当にあしらいつつも、ぼくたちをさっそく夏至祭が開催される村へ案内してくれた。


リュックサックを背負って、ペレの導きに従って鬱蒼とした森を潜り抜けていくと、太陽の形を模したような巨大な木造りの門が目に入った。


門を潜り抜けた先には、集落が存在していた。草木の牧歌的な香りが漂う広場では、花柄模様があしらわれた白い服を着た人たちが集まって、祭りの準備に取り掛かっているところだった。


家々が点々と距離を取るように建っていて、街の広場にはルーン文字が刻まれた木製のポールが突っ立っていたり、なぜか檻に囚われた熊がそのまま放置されていたりと、なかなか変わった風習の土地だけど、とても美しい自然にあふれた場所だ。


ホルガ――それが、ぼくたちが連れてこられた、奇妙な風習が残る村の名前だった。





【レビュー】

ホラーってなんでしょうか。怖いって、どういうことでしょうか。


しがないアマチュアとは言え、これまでホラー短編小説を4作品執筆してきた私ですが、恐怖という人類最古の感情について考えるたびに、まるで迷路の中に迷い込んだような気分に陥ってしまいます。それぐらい、恐怖というものは奥深いものです。


不気味にCG合成された幽霊を不意打ちのように「わーっ!」と登場させればいいのか? それはもっとも恐怖から遠い地平に存在します。それらの映画における映画的演出では観客の「怖い」という感情が刺激される前に「びっくりした」という反射が先に来るので、実はファンダメンタルな意味での恐怖演出には全然繋がりません。


死そのものを描くこと。それが恐怖に繋がると楽観的に信じている創作者は一定数存在します。おぞましいモンスターや、呪われた館に棲む幽霊や、不条理な殺人鬼に追い回され、必死の形相で逃げようとするも、あえなく捕らえられ、血まみれの凶器で体を切り刻まれる。そんなスプラッタ・シーンこそを最大の恐怖として売り出す作品は、私に言わせてみれば恐怖心を喚起させるには至らず、ホラーというよりもアクション的な要素が強いのです(それはそれで楽しめるんですが、決して「怖く」はない)。


強がりで言っているのではなく、死を直接的に描いた映画は本当に怖くない。おざなりなストーリーの中で人体が破壊されていくシーンの連続が意味するのは、ただの露悪的な趣味の爆発に過ぎず、ただただ不快な気分になるだけの、実に安っぽい映像の産物に過ぎません。人体破壊を描いた映画の中には『ジェノサイバー』のような良作もありますが、あれは浄化される世界と連動するかたちで、人体の脆さや儚さを描くのに注力しており、決して「怖い」という感情を呼び起こす代物ではないのです(あくまでも、私にとっては、ですけど)。


レザーフェイスやブギーマン、ジェイソンやフレディ・クルーガー、ビッグチャップ、貞子……恐怖の体現者として生み出されたこれらのキャラクターたちは、それが製作された時代においては、たしかに「死をもたらす者」の象徴だったのでしょう。しかし時代が経るごとに、この強烈な個性の塊たるキャラクターたちは映像の世界から飛び出し、いつしか観客はこれらの怪人・殺人鬼への不滅性を期待して劇場へ足を運び、彼らのアクションを楽しむようになった。その結果としてホラー要素がどんどん薄まっているのが現状です。だってジェイソンなんて、宇宙にまで進出しちゃいましたからね。貞子は始球式に参加する有様です。こんなのどこが怖いんですかって話です。


そう、死は怖いんじゃない。死は本来、悲しいものなんです。


なぜ古代エジプトで死者をミイラ化する風習が根付いたかを考えてみましょう。彼らは、死者の魂が不滅性を手に入れたミイラの中へ戻り、永遠の命を獲得することを欲した。ミイラ文化の背景には、当時のエジプト人たちが無意識に抱いていた「死ぬことに対する恐怖」があったのでしょう。けれど、もっとも根源的なところにあるのは、悲しみだったのではないかと私は思います。


愛しい人、尊敬する人、大切な人。守りたかった人。いつも当たり前のように隣にいて笑っていた彼らに、もう私たちは決して会うことは出来ない――生者を置き去りにして彼岸へ渡ってしまった者達へ向ける哀切が、ミイラという「腐ることのない、永遠なる魂の家」を作り出す動機ではなかったか。彼/彼女は、死んで腐り果てたのでもなく、魂が彼岸へ渡ったのでもなく、永遠なる存在へ生まれ変わり、いつも私たちの側に寄り添ってくれていると、信じたかったのではないか。


この世とあの世。その境目に確かに横たわる、目には見えない決定的な暗い溝の存在……それこそが「死」そのものを指すのではないか。本作『ミッドサマー』で描かれる「死」も、そんな系統の「死」なわけです。つまりこの映画では「死」について語られる時、「怖さ」よりも「悲しみ」の描写が優先されているのです。


ダニーの家族が心中するシーンも、劇伴は無理やり恐怖を煽るような代物ではなく、耳障りなんだけど、どこか悲し気に、やるせない領域に留まっています。ホルガ村で行われる夏至祭。その儀式の最中で、とある人物が死ぬシーンでは、村人全員が悲嘆に暮れて嗚咽を漏らし、韓国映画もかくやと言わんばかりに泣き叫んでばかりいます。


加えて、この映画中盤における「死」の演出は、まるで黒沢清の『カリスマ』を彷彿とさせるような出来栄えです。つまり登場人物に死が訪れる前後において、まったくカットをかけないのです。黒沢が「映画は虚構であるからこそ、見せたいシーンではカットをかけない」のと同じように、アリ・アスターもまたそうなのでしょうか。するとこの監督は「死」を客観的に「そこでたしかに起こった事実」として捉えているんじゃないか。ここから分かるのは、死は、怖いんじゃないってことです。死は、誰にでも訪れる淡々とした当たり前の出来事であり、だからこそやるせないし、悲しいんです。


ではこの映画、死を淡々と描いているから全く怖くないのかというと、それもまた違います。「死」を直接的に描いているシーン以外のシーンが怖いんです。「怖い」という単語を「不気味で、気味が悪い、嫌な気分になる」と解釈するなら、間違いなくこの映画は「怖い」のです。残虐なシーンはほんのわずかで、暴力的なシーンに至っては皆無です。それなのにビビります。


人の死を、恐怖の道具として無遠慮に扱うタイプの映画に辟易としている方々なら、アリ・アスターの仕掛ける、観る側の神経を逆撫でするような、意地悪でいながら非常に端正な画面の数々にクラクラとしてしまうことでしょう。


この映画は、ハリウッドのホラーにありがちなパンの多用や耳障りな劇伴を使う手法ではなく、静寂な空気の中、カメラを極力動かさない長回しの技法を選択している時点で、ホラー映画ではあまり見られない手法を選択していると言えるでしょう。白夜特有の夢幻的な光に常に照らされ、今が夜なのか昼なのかすらも判然としない、完全に時間感覚が麻痺してしまっている村を舞台に、キューブリックのように、じーっくりじーっくり人物や建物へクローズアップしたり、反対にゆっくりゆっくりとロングショットで引いた画面を見せるなど、アート的とも言えるレイアウトが特徴的です。


この映画におけるレイアウトは、明らかに昨今のホラー映画にありがちな作りになっていません。しかしこの撮影手法は、単にこけおどしであるとか、もったいぶっているとか、そんな次元の低い話ではなく、明確な目的意識の下に場面を構成してシーンを切り取っているってことの証明に他ならないのです。


物語の遅延を許さず、かといって加速させたりもしない。ある一定の法則性に従って、作り手の意志で完全に制御/コントロールされているレイアウト――本作品の映像的イデオロギーを語るのに、これ以上の言葉は不必要かもしれません。


千葉や茨城によくあるスプロール団地のように、点々と距離を離して建築された家という家。村の奥に、こじんまりと存在する真っ黄色なピラミッド型の神殿。祭りの儀式で使われるルーン文字を象ったような形状のテーブル。ある法則に従って順番に椅子に着席する人々。気味の悪い風習を暗示するようなタペストリーの連続的ショット……シンメトリックに見えて、どこかヘン、なんだけどもやっぱり端正に計算され尽くした、たしかな意味を持たせた美術セットは、視覚的楽しさに溢れています。


そして、映画をある種のメタファーとして成立させるのに必要な、村人の配置、その目線、仕草、台詞の一つ一つに至るまで、隅から隅まで、この物語の結末を暗示するかのように調整し、完璧に制御することに余念がない。


本作最大の恐怖は、そんな緻密に計算され尽くした美術セット、映画のメタファーとして完璧にコントロールされた台詞の応酬で繰り広げられるストーリーが、キャラクターたち自身の意志でコントロール不可能なほど、どんどん深刻で混迷極まるシロモノへ変容していく、そのアンバランスさに宿る恐怖なのです。


近代文明から遠く離れたホルガ村。夜が訪れない村。常に白夜に晒されて時間の感覚を喪失してしまったオカシな村。そこで長年に渡って紡がれてきた精霊信仰(アミニズム)を想起させる伝統的な土着の因習の数々は、資本主義社会で育ったダニーやクリスチャンたちにとっては理解不能な、ともすれば気持ちの悪い習慣ばかりです。


しかし「郷に入れば郷に従え」という諺が表すように、彼ら外からやってきた来訪者たちは「よそ者」という肩身の狭さもあってか、ただただホルガ村の奇妙な文化伝統に追従し、流されるままでいるしかない。


次々に理解不能な顔を覗かせる村の風習を前に、困惑し、狼狽し、受け入れがたい価値観に翻弄されるダニーたち。


なにかこの村、おかしいんじゃないか? 私たちは、とんでもない世界に迷い込んでしまったのではないか?軽い気持ちで、興味本位で村を訪れた訪問者たちは、村そのものが放つ「目には見えない流れ」に逆らうことができず、どうにかして自身の運命の舵取りをしようにもうまくいきません。


恐るべきは、本来人間が自発的に行うはずの感情表現の舵取りまで、村人が「共感」という手段を使ってうまいこと誘導する場面です。(これは映画を観た方なら分かると思うが、後半の「あはぁああん♡、あはぁああん♡」とか「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ! あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!」のシーンね。ネタバレになるから詳しく言えないけど)


徹底してコントロールされた、一切の甘えがない映像。しかしその中で繰り広げられるは、コントロール不可能な状況へ巻き込まれる人間たちの喜悲劇。映像と物語のせめぎ合いの中でじわりじわりと滲み出る恐怖は、直截的な死を描くホラー映画では及びようのないものです。


思えばアリ・アスターとは、前々からそういう人でした。前作の『ヘレディタリー/継承』では、うまくいかない人生をコントロールしようと精神治療の意味も兼ねてミニチュアハウスの制作に取り組む母親を嘲笑うかのように、悪魔的存在が家族の関係をコントロール不可能な状況へと導くものでしたし、監督が昔製作した短編映画『The Strange Thing About The Johnsons(ジョンソン家についての奇妙な話)』も、『Munchausen(ミュンヒハウゼン)』も「コントロールしきれない家族」を描いた話でした。


※余談ですが、『The Strange Thing About The Johnsons』と『Munchausen』はネットにリークされているので、ちょいと検索すればすぐに観れます。日本では劇場未公開なので字幕はついてないですが、英検準二級程度の私でもニュアンスは聞き取れたので、話が分からないってことはないです。どういう内容かは、ここでは言いません。ちょっと口に出すのもはばかられる内容なので。でもグロ描写は全くないので、そういうのが苦手な人でも大丈夫です。ただ、すごく気味が悪いです。


人生とは決定的にコントロール不可能な悲喜劇である。


「んなわけあるかい」と仰る方は、いま一度ご自身の人生を振り返ってみてください。本当に自分の人生をコントロールできていますか? 学校のテスト、友人関係、仕事との付き合い方、結婚生活。その全てが自分の思い通りのままに進んでいると断言することはできないはずです(逆に断言できる人がいたら、それはそれで怖いけどw)。


ところがこの映画は、コントロール不能な状況に翻弄される恐怖だけを描いているのではありません。劇中のとあるシーン。ある人物が「自らに課せられた宿命」を受け入れた途端、もっともコントロールしたかった人物をコントロールできる立場に就くという、最高のカタルシスが待っているわけですが、ここのシーンがまぁ怖い。本当に怖いので、やっぱりぜひ最後まで観てほしい作品ですね。


た・だ・し……エンディングを御覧になった方々は、ある種の爽快感を抱きつつも、待てよと疑問に思う事でしょう。これで全ては本当に良かったのかと。結局あの人は、ずっとコントロールしたかった人をコントロールした気になっていて、やっぱり村人たちにいいようにコントロールされているに過ぎないのではないかと。


とまぁこのように、観終わった後も心の中にしこりのように残る映画体験ができるってのは、映画ファンとしては大変貴重なわけですよ。


だから、ただのオシャレでカッコよさげなホラーなんかじゃない。これはちゃんと、普遍的な面白さを持つ、ファンダメンタルなホラー映画なんです。


さて、その問題のエンディングの解釈なんですが、これが女性と男性とで全く異なってくるんだろーなーってところも面白いですね。というのもこの映画(監督がどう言おうが)私にとっては間違いなくホラーなんですが、一方では失恋映画のテイストがかなり強めなんです。だから、男性目線と女性目線とで、決定的な違いってのが出てくるんじゃないかなと思います。


「この映画はホラーではなく、ごく個人的な体験に基づいた失恋映画なんです」


映画宣伝のために来日したアリ・アスターは、インタビューを受ける度にそう言っていました。公開前にその話を耳にした私は「嘘だろ~?」と半笑い。それって押井守が「イノセンスは恋愛映画なんですよ」と大真面目に語るくらい、ちょっとどうなんだって発言じゃないかと感じたんですが、実際に観てみて驚愕。話の筋だけを拾っていくと、これが完全に失恋映画なの。乱暴に言えば「邪悪なシンデレラ・ストーリー」とでも言いましょうか。


シンデレラ・ストーリー。それが意味するのは、この物語が「おとぎ話」であるということ。それも昔々に人々の間で語られていた、残酷で、不条理で、悪夢のような世界を舞台とする、正真正銘のおとぎ話。


頭の硬い一部の映画評論家は「薄気味悪いカルト映画」と評しますが、それはこの映画の、いたる箇所に絶妙な濃さで配置された暗喩や予言に気づかない、自らの感性の無さを暴露しているようなもの。この映画の本質はカルト的ホラーとしての側面にあるのではなく、真昼の悪夢に満ちた不条理極まるおとぎ話であるってことなんです。


「さぁ、これから悲しくも楽しい物語が始まるよ」と告げるかのような、あの印象的なオープニング。中盤のあるシーンで村人の一人が我々の方を振り向いて意味深にニヤリと笑ってみせるシーン。映像のあちこちに散りばめられたテイストからして、監督はほとんど意図的に「おとぎ話」の世界を生み出そうとしているのです(ちなみに気づいた方もいるかもしれないけど、あのオープニングに出てくるアウトサイダー・アート的なタペストリーには、実はダニーとクリスチャンたちの人生を暗示している意匠が施されているんですな)。


なんでわざわざ自身の失恋経験を題材に、世にも奇妙で恐ろしいおとぎ話を作ったか。それは荒木飛呂彦が言うところの「ホラーは癒しである」に則っているからだと思うんです。ホラーが嫌いな人には理解できないだろうけど、実はホラーって観ているとけっこう心が落ち着くと言うか、安心するんですね。死ぬときはみんな死ぬんだよと、静かに耳元で囁かれているようで。


つまるところ、これは「おとぎ話」であるのと同時に、監督にとってのセラピー映画であるというわけです。アリ・アスター監督は『ヘレディタリー/継承』の時もそうでしたが、非常にプライベートな問題を解決する手段として映画を製作しているフシがある。そう考えると、主人公のダニーには監督の心情が反映されているんですな。それを踏まえた上でこの映画のエンディングを見届けた私は「アリ・アスター監督大丈夫かよ(笑)」と、あまりのマイナス思考ぶりにゾッとしつつ、申し訳ないけど笑ってしまいましたね。


この人、次回作の脚本にはすでに取り掛かっていて、どうもコメディ調子の話になると言っているんですが、うーん、このダークなスタイルでコメディって、ランティモスの『聖なる鹿殺し』みたいな作品が出来上がるんだろうか。それはそれで楽しみですが。


なんにせよ、今年絶対に観るべき映画の一つですね。個人的には『パラサイト』よりも映画的面白さは上です。私はアリ・アスターの大ファンだし、この映画もかなりツボに刺さったので、今週もう一回観てきます。


まだ観てないよって方は、出来ればご夫婦で、あるいはカップルで観るのをおススめします(笑)。

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