【第44回】九人の翻訳家 囚われのベストセラー
『言葉を持たない“彼ら”の叫び』
また注目の映画監督が出てきました。
【導入】
世界的ベストセラー「ダ・ヴィンチ・コード」をはじめとするダン・ブラウンの小説「ロバート・ラングドン」シリーズの出版秘話――シリーズ4作目「インフェルノ」出版時、違法流出防止のため各国の翻訳家たちを秘密の地下室に隔離し、外部との接触を完全に絶った状態で翻訳を行ったという、実際にあった奇妙な出来事を元に描いたブック・ミステリー映画。
監督/脚本は『タイピスト!』に続いて、これが長編映画二作目となるレジル・ロワンサル。前作はスポコン、今作はミステリーと、順調にジャンル映画で足跡を残していっています。
主演を務めるのは『マトリックス・リローデット』『マトリックス・レボリューション』にて、マトリックス内に存在する最古のプログラム・メロビンジアン役を演じたランベール・ウィルソン。来年公開予定の新作マトリックスにも出演が決まっているとかなんとか。
翻訳家役には『007 慰めの報酬』でボンドガールを演じたオルガ・キュリレンコ、『イミテーション・ゲーム』で天才数学者アラン・チューリングの若かりし頃を演じたアレックス・ロウザー、『ジョン・ウィック:チャプター2』にて、腹いせにジョン・ウィックの自宅を爆破するという自殺行為を働いたサンティーノ・ダントニオ役を演じたリッカルド・スカマルチョ、そしてそして、『インフェルノ』に出演していたシセ・バベット・クヌッセンなど、大スターとは言いにくいけど、結構いい役者さんたちを揃えています。何がいいって、みんな顔がいいのよ(イケメンとか美人とか、そーいう記号的な意味ではない)。いい映画は役者の「顔」がいい。これ鉄則です。
【あらすじ】
デダリュス。
それは、覆面作家オスカル・ブラックが手掛ける世界的なベストセラーを誇るミステリー文学。
デダリュスのシリーズ最終作となる第三部『死にたくなかった男』の出版権を勝ち取ったアングストローム出版の社長、エリック・アングストロームは大々的な広告宣伝を推し進める一方、デダリュス最終作の世界同時出版を実行するにあたって、ある計画を準備していた。
それは、各国の翻訳者を地下にあるシェルターに集め、通信も完全にシャットアウトされた密室で、翻訳作業に取り組んでもらうというもの。出版前の違法流出を防ぐためには、それぐらいのことをしなければならないと、エリックは確信していたのだ。
彼の指示の下、シェルターに集められた翻訳家は九人。
デダリュスのヒロインのコスチュームをすることでデダリュスを深く理解しようとする、ロシア語翻訳担当のカテリーナ・アニシノバ。
若干24歳という若さでデダリュスの翻訳権を勝ち取った俊英、英語翻訳担当のアレックス・グッドマン。
エリックの出版論に心酔する野心家、イタリア語担当のダリオ・ファッレッリ。
常にびくびくした態度を取る子供っぽい中年。スペイン語翻訳担当のハビエル・カサル。
パンクファッションに身を包む短気な性格の、ポルトガル語翻訳担当のテルマ・アルヴェス。
母国の検閲姿勢に辟易としている、中国語翻訳担当のチェン・ヤオ。
家族を養いつつも、小説家になるという夢を捨てきれずにいる、デンマーク語翻訳担当のエレーヌ・トゥクセン。
柔和で温厚な印象を与えながらも、どこか不安定な気質を覗かせる、ドイツ語翻訳担当のイングリット・コルベル。
大学で「デダリュス」の講義をした経験を持ち、厭世的な雰囲気を漂わせる、ギリシャ語翻訳担当のコンスタンティノス・ケドリノス。
国籍も性格もばらばらな九人は、地下シェルターでの翻訳作業という異様な空間に戸惑いながらも友情を育み、デダリュスという稀代の物語についての議論を交わす。
和気藹々とした雰囲気で進む翻訳作業だったが、ある時事件が起きる。エリックの携帯に、何者かから脅迫のメールが届いたのだ。
「『死にたくなかった男』冒頭の10ページをネットに流出させた。これ以上の流出を防ぎたければ、500万ユーロを支払え」
メールの文面を読んだエリックは恐怖し、怒り、焦りに震えた。完璧な違法流出対策をしたはずが、一体どこから本の内容が漏れたというのか?
エリックは翻訳家たちへ疑念の目を向ける。この中に流出させた犯人がいるはずだと。
苛烈な態度で翻訳家たちを責め立てるエリックの姿勢に感化されたのか、やがて翻訳家たちの間でも不信感が満ち始める。
混迷に包まれるシェルター。そして二通目の脅迫メールが、エリックの下へ届くのだった。
【レビュー】
いま、純粋なミステリー映画を撮ることは極めて難しくなっています。
純粋なミステリー映画とはすなわち、謎解き要素一本に絞って二時間近く観客を画面の中へ釘付けにさせることを指しますが、クリスティやコナン・ドイルといった偉大な推理作家たちが築き上げてきた実績を念頭に置けば、現代で「謎解き」のみにフォーカスした作品を撮ろうとすると、それは下手を打つと「退屈でつまらない」作品が出来上がることを意味しています。
なぜなら、ミステリー好きな観客たちは物語を「反芻する」という行為により、トリックの傾向や物語の展開、キャラクターの性格付けといったものを自然と取り込み、物語に対して「身構える姿勢」を体得してしまっているからです。
SFやサスペンスやホラーと違い、ミステリーほど定式化されているジャンルもないと私は思います。そういう前提の下に考えてみると、長い歴史の中で定式化してしまったストーリー(つまりお約束的な展開)をいかに脱臼させ、新鮮味を付与できるか。ミステリーを撮ろうとする映画監督はそのことに余念がないのです。
付与される要素は様々です。スリラー要素であったり、サスペンス要素であったり、ヒューマニズムであったり、アクションやカーチェイスを加えるなど、その工夫は多岐にわたります。ミステリーが生まれた当初は「謎解きに偏重し過ぎていて人を描けていない」という点が槍玉に上げられていたけれど、すでにその時代は終わったのです。
本作『九人の翻訳家 囚われのベストセラー』もその例に洩れません。「翻訳家」という出版業界の陰に生きる職人たちを、高圧的な出版経営者と対立させ、極めつけは「人質」ならぬ「物質」としての本を登場させるなど、従来のミステリー作品とは大きくその様相を異にしています。広大な屋敷の地下に集められて、外部との通信手段が絶たれた状態で事件が起きるという構図は、ミステリーの定番たる「クローズド・サークル」そのものですが、従来のミステリーっぽい部分はそこだけです。
さらには、ミステリーの根源的な三原則「フー・ダニット(誰が殺したか?)」「ハウ・ダニット(どうやって殺したか?)」「ホワイ・ダニット(なぜ殺したか?)」すらも、流出してしまう未発表の本を主軸に置くことで、「誰が流出させたか?」「どうやって流出させたか?」「なぜ流出させたのか?」と、血生臭さを脱臭させつつも、ミステリーとしての面白さを維持するかたちへ変換することに成功しています。
映画の構造としては『レザボア・ドッグス』に代表されるような、時系列を入れ替えた戦略を取っています。翻訳家たちが地下に集められ、出版社長アングストロームの指示の下で翻訳を進めるシーンの後に場面が変わり、アングストロームが拘置所の一室で犯人と思しき人物と対峙し「なぜ流出させたのか、理由を話してもらおうか」と問い詰めるシーンが挿入されます。
事件発生までの過程、事件発生後の流れ、翻訳家としてスカウトされたきっかけ……これらのバラバラな出来事の断片を、あえて時系列をずらして組み立てるというやり口は、観客の「興味の持続」を維持させるだけでなく、「誰が流出させたか?」「どうやって流出させたか?」「なぜ流出させたのか?」という三つの謎を的確なタイミングでバラしていくのに、かなりうまく機能しているのです。
「誰が流出させたか?」「どうやって流出させたか?」「なぜ流出させたのか?」。そして本作最大の謎である「デダリュスの著者、オスカル・ブラックとは何者なのか?」。これら四つの謎が順番に明かされる構図は、この物語が垂直式のミステリーであることを意味しています。
まるで水脈を求めて深く深く穴を掘っていくかのように、徐々に解き明かされていく謎。そのうちに、当初は翻訳家たちの中に犯人がいるのでは?と疑念を持つアングストロームと、そのアングストロームを罠に嵌めてやろうとする犯人とのパワー・ゲームという展開であったのが、最後には物悲しい、やるせない人間の姿をスクリーンに映し出します。
フィクションに尊さや畏敬の念を抱く者。フィクションをあくまで金儲けの道具として利用する者。映画の中心に常に「物言わぬ存在」として配置されているベストセラーを巡る両者の対立は、犯人の本当の目的が明らかにされた時、これが人間臭い信条に基づいた「復讐の物語」であることを、大どんでん返しと共に観客へ突き付けてきます。
しかし、果たして「それだけ」なのでしょうか。この映画はただ、大どんでん返しを愉しむことだけにあるのでしょうか。何かが、欠けているような気がします。
この映画では二人の犠牲者が出てきます。つまり二人の人間が死ぬわけです。もちろん、誰が死ぬかはここではバラしません。多くの観客は彼らないし彼女らの死に一抹の寂しさとやるせなさを抱き、犠牲者の想いに寄り添わざるを得ない。この映画は、あえてそのように作られていると感じます。
でも、私は「それでは足りない」と感じました。犠牲になったのは、本当に人だけなのか? 違うと思いますねぇ私は。
つまりこの映画には、私が知る限り、これまでのどのミステリー映画にもなかった「ある存在」を、もう一つの犠牲として描いているのです。
映画の序盤を思い出しましょう。沢山の書棚が並んでいる一室が、突如として燃え盛る炎に呑まれて盛大に崩れ去るシーンが、オープニング・クレジットと共に淡々と描かれていました。最初は「このシーンにどんな意味を持たせているんだろ?」と疑問に思いましたが、物語の終盤になって全く同じシーンが挿入された時、私は直感しました。
この映画は、人の犠牲だけを描いているのではないのだということを。我々の身近にある「物言わぬ存在」、すなわち「本」を第三の犠牲者――いえ、犠牲物として描いているのです。
あなたは、この結末を「誤訳」する。これ、広告代理店がつけたにしては、かなりセンスのいいキャッチコピーだと感じます。
そう、多くの観客は犠牲になった「人」の想いに寄り添いますが、それが他ならぬ「誤訳」なのではないかと感じます。犠牲者の背景に溶け込んでいる「本」の「叫び」には、ほとんどの観客が気づかないのではないでしょうか。それも当然のことです。なぜなら、本は喋れません。本に自己はありません。本は、それを作った作者の言葉によって、あるいは読者の言葉でしか語りえない存在に過ぎないからです。
しかし、この映画で二度挿入される「本棚が轟々と燃え盛るシーン」は、言葉によって編まれながらも、自らを語る言葉を持たない本たちの、切実な、声にならない叫びを映像として残酷なまでに可視化している、まことに稀有なシーンなのです……なんだか書いていて『華氏451度』を思い出しちゃいました。
この映画は、観ようによっては今時のトレンドたる「格差」と「分断」を描いた作品とも取れなくはないですが、そのように今風に凝り固まった観方をしてしまうのは、もったいないように感じます。
出版社の傲慢な利潤追求の道具として選別され、芸術性や神秘性を喪失してしまった本たちの「嘆き」を描いた映画。そういう風に捉えると、この「小説家になろう」で活動している書き手や読み手の方々たちにとって、かなり心を抉られる一作になるかと思います。




