【第42回】フォードVSフェラーリ
『円環から旅立つ者と、円環に留まらざるをえない者』
上野のTOHOシネマズで観てきましたので、軽くレビューしたいと思います。
マンゴールド節全開。というのはつまり、エンディングまで気が抜けないということ。そしてブロマンス映画云々という話以上に、「マンゴールドらしい」終わり方をするということ。
つーか、ベールがやべぇ。クリスチャン・ベールの目を観ているだけでもう満足。
【導入】
1966年のル・マン24時間耐久レースを舞台に、当時モータースポーツ世界において絶対的王者として君臨していたスクーデリア・フェラーリを相手に、アメリカの大量消費/大量生産の権化的存在であるフォード社が闘いを挑むという構図の、実際の出来事をベースにした映画。
監督はジェームズ・マンゴールド。彼のフィルモグラフィーで印象的なのは『フロム・ダスク・ティルドーン』よろしく、前半と後半とでがらりとテイストが変わるサスペンス映画『アイデンティティー』と、アンジェリーナ・ジョリーの名演が輝く『十七歳のカルテ』でしょうか。とくにこの二作は、まだ観ていない人は絶対に見といて損はないと言えますな。マンゴールドはやたらと『3時10分、決断のとき』が推される人なんだけど、私的にはあれ、リメイク元の『決断の3時10分』のほうが物語的遅延が少なくシュッと締まっていて、それと比べるとちょっと微妙かなと感じてしまう。
ジェームズ・マンゴールドはアクションだろうがラブストーリーだろうがサスペンスだろうが、ジャンルに関係なくなんでも撮っちゃう監督で、一言で言えば器用な人です。中には『ウルヴァリン:SAMURAI』なんていうイロモノ映画もありますが、私は結構好きだったりする。なんでって、繰り返しになるけどエンディングまで気が抜けない展開を挟んでくるから(笑)。そしてそれが、いつも決まって監督の一貫した映画的嗜好によって導き出されるものだから。
主演は『ディパーテッド』での演技が浦切的ベストなマット・デイモン。しかしマット・デイモン以上に演技の冴えを見せているのが、『アメリカンサイコ』『マシニスト』そして『ダークナイト・トリロジー』で御馴染みのクリスチャン・ベール。もうこの人が主役。この人の演技を観ているだけで釣りが返ってきます。加齢による肉体の変容という点を抜きにしても『リベリオン』観てからこれ観ると、とても同じ人物が演じているとは思えない。
余談だけどこの映画の企画、もともとは「あの」マイケル・マンが手掛ける予定だったらしい。それはそれで、久々にマン節全開の男泣き映画が観られそうで、面白そうだなとは思う(とは言っても完全に無関係になった訳ではなく、本作では製作総指揮に加わっています)。あと、なぜかベールの役をブラピがやる予定だったらしい。うーん、ブラピが演じる自動車修理工って、なんか色気ありすぎて野暮ったさに欠けるかも。これを観た後だと、ベールが最適解だと思うなぁ。
【あらすじ】
7000rpmの世界。
そこは人知を超えた世界。
死を恐れぬ覚悟と、死に引きずられない魂の強さを獲得した才覚のある者だけが到達できる、光と加速の世界――
1963年。アメリカ合衆国。
大量生産/大量消費の波にのって経営拡大を続けるフォード・モーター・カンパニーは、二代目社長であるヘンリー・フォード二世の貪欲且つ冷徹な経営論に支配されていた。
より多くの客層にフォードの車を宣伝するにはどうすればいいか。ヘンリー二世の飽くなき経営欲望に応えるかのように、若手敏腕販売部長のリー・アイアコッカは、ある提案をする。これから自動車を買うことになるベビーブーマー層へアピールするには、まずなによりも車の機能面を向上させること以上に、車そのものに圧倒的なインパクトを印象付ける必要性があり、そのためにもモータースポーツの世界に参入すべきだというのだ。
従来のフォード社のブランドイメージを一新するかのようなアイアコッカの提案を受け入れたヘンリー二世は、当時、モータースポーツ界、とくに「ル・マン24時間耐久レース」で圧倒的な強さを見せつけていたフェラーリ社のレース部門、スクーデリア・フェラーリに目をつける。フェラーリはフォードとは正反対の職人気質の社風ゆえか、大量消費の波に乗ることができず、経営危機を迎えていたのだ。
この機を逃すまいと、買収の話をつけるためにイタリア・マラネッロにあるフェラーリ本社を訪問するアイアコッカ。応対したのは、フェラーリ社の創業者にして、「オールドマン」と称えられるモータースポーツ界の偉人、エンツォ・フェラーリ。
真っ黒なサングラスの奥で、老獪なる歴戦の経営者はアイアコッカに問い質す。もし君達の言う通りフェラーリをフォードへ売り渡したとして、スクーデリア・フェラーリの直接的な支配権は、我々の手元に残るのだろうか、と。
逡巡の後、アイアコッカは答えた。買収に応じた場合、レーシング部門は完全にフォード・モーター・カンパニーの支配下に置かれること。フォードがレース参加を拒否した場合、その決定はレーシング部門にも反映されることを。
これが、エンツォの逆鱗に触れた。彼はイタリア語でアイアコッカたちを侮辱すると、嘲るように、こう言い残した。
「君たちのトップは、所詮は二世。創業者の祖父には遠く及ばないようだな」
売り言葉に買い言葉。エンツォの明らかな挑発ととれる文句をアイアコッカを通じて耳にしたヘンリー二世はこれに激怒し、フォード・モーターのプライドと意地をかけて、ル・マンの舞台でフェラーリを打倒することを決意。自社の優秀なエンジニアたちを総結集させ、絶対王者スクーデリア・フェラーリに勝てるマシンの開発を絶対命令として下す。
アイアコッカは心当たりのある人物をフォードに引き込もうと、ビジネス上で繋がりのある一人の男の下を訪ねる。
その男の名は、キャロル・シェルビー。1959年のル・マンでイギリス・アストンマーティンの所属ドライバーとして優勝した経験を持ちながらも、人の極限を越えたレースの世界に恐れをなしてレーサーを引退。今は自動車メーカー、シェルビー・アメリカンを設立し、自動車の開発に携わっていた。
当初はフォード社の引き込みに乗り気ではなかったシェルビーだったが、フェラーリに勝つマシンを開発してほしいというアイアコッカの熱意に感じ入り、協力を承諾。
そのシェルビーが信頼できるドライバーとして声をかけたのが、何度かレースで顔を合わせた事があるレーシング・ドライバーのケン・マイルズだった。業界では破天荒でワガママな性格で知られるマイルズだったが、そのドライビング・テクニックには誰もが一目置き、なによりシェルビー自身のレース感覚と一致していたことが大きかった。
フェラーリ打倒の新型マシン。そのテストドライバーを担当してほしいというシェルビーに対し、マイルズは「たった90日で絶対王者に勝つマシンなんて造れるはずがない」と断言する。
だが、シェルビーに連れてこられたフォードの自動車工場で、実際に彼らが成し得ようとしていることの重大さと、その野心的なプロジェクトの持つ可能性に大いに惹かれたマイルズは、レーサーとして、そして一人の家族を持つ男として、シェルビーと共にフェラーリを打倒することを誓う。
キャロル・シェルビーとケン・マイルズ。性格は真反対ながらレース感覚はピタリと一致する二人の苦難と栄光の歴史が、この時はじまったのである。
【レビュー】
結論から申しますと、もしもこれを当初の予定通りマイケル・マンが監督していたら、きっとこんな独特の味わいを残す映画にはならなかったと思うのです。
マイケル・マンは『ヒート』や『インサイダー』や『コラテラル』に代表されるように、男の孤独感や悲壮感を社会に生きる者の逃れられない性として描きつつも、ヒーローめいた強さへ変換し、ある種のナルシズムにも似た情感を付与させて映像化することに定評があります。『マイアミ:バイス』以降、そういった傾向は少なくなってきたけれど、しかしこんなブロマンスに適した題材を現実に彼が映画化していたら、ホモソーシャルたっぷりの作品に仕上がっていたことでしょう。
これは乱暴な意見だと捉えられるかもしれませんが、マット・デイモン演じるシェルビーと、クリスチャン・ベール演じるマイルズの間には、確かにブロマンスの香りがするけれど、そのホモソーシャル濃度はマイケル・マンほど高くはないのです。なぜなら、マイケル・マンのみならず、これまでに多くの映画監督が作ってきた「男泣き映画」と比較しても、彼らには悲壮感や孤独感が圧倒的に足りないからです。
シェルビーは独身だからともかくとして、マイルズには自分を慕ってくれる息子もいれば、モータースポーツに理解があって仕事場にまで顔を出してくる奥さんに支えられているし、レースのチームメンバーの中で彼の陰口を叩く者はいません。会社の上層部に破天荒な振る舞いを疎まれようとも、彼は家庭と仲間に恵まれているんです。ぜんぜん孤立感/悲壮感がありません。
マンゴールドの「男」を描いた映画で代表的なのは『3時10分、決断のとき』ですが、あの映画でも、牧場主のダンには自分を心配してくれる奥さん、というオリジナル版の要素に加え、慕ってくれる息子との関係性を深く描いていました。オリジナル版にはなかったこの追加要素は、男を孤独の境地に立たせ、そこに悲哀とやるせなさを見出し、ヒーロー化しようとする従来の「男泣き映画」には、あまり見られない要素です。
マンゴールドは男と女のラブ・ストーリーも多数手がけていますから、彼の興味は通常の情愛関係よりニッチと言える「男と男の関係性」(いわゆるブロマンス)を描き出すことにあるのではなく、もっと別のところにあるようです。
ではその興味の矛先が、この映画のタイトル通り、歴史あるレーシング部門を抱えるフェラーリと、自動車製造のシステマチック化に成功したフォードとのぶつかり合い……企業同士の経済戦争にあるのかというと、それも弱い。
なぜかというと、フェラーリ側の描写がすごく希薄だから。
「オールドマン」ことエンツォ・フェラーリが側近の者と話す際に発するイタリア語には、字幕がまったくつけられていません。いえ、彼のみならず、ピットに入っているスクーデリア・フェラーリ所属のエンジニア同士の会話にすら、字幕はつけられていません。『フォードVSフェラーリ』と題していながら、最初からフェラーリ側の立場なんて深掘りする気がないことの証拠です。フェラーリは主人公たちを取り囲む「状況」としてその場に留まり続け、エンツォ・フェラーリは打倒すべきシンボル以上の役割を果たしません。
では巷の映画評で言われているように、これは外に敵を求める映画ではなく、内に敵を見出す映画、つまり『VSフォード』に着眼点を置いた映画なのかというと、実はそれも、そこまで強調されてはいないのです。
どこに目をつけているんだ、と思うかもしれませんが、少なくとも私はそのように観ました。たしかにフォード副社長であるレオ・ビープは、ことあるごとにマイルズの起用に難色を示し、シェルビーに対して横槍を挟んできますが、たとえば『半沢直樹』や『下町ロケット』に登場する、悪代官めいた敵役、社内政治家に徹しているかというと違います。サラリーマンやっている人なら分かると思うんですが、あのレオという人物は典型的な「目立ちたがり屋」であり、どこの会社にも一定数存在する普通の人。自分をアピールして社長からのポイントを稼がなきゃと躍起になって、どうでもいいアイデアを提案し、周囲の調和を悪気なく引っかき回すタイプの「アホ」です。社内抗争の親玉として描くには、圧倒的にインパクトに欠けています。
さらに言えば、上層部の面々が全員、マイルズに対して敵対心を露わにしているかというとそうではない。商用車販売部門の部長を務めるリー・アイアコッカは、絶対に口には出さないんだけど、シェルビーが社長室に呼び出されてマイルズ起用の是非を問われている際、その目線や仕草の一挙手一投足で、実は彼は内心、マイルズのドライビング技術を信頼しているという描写がなされています。
上層にも理解者がいて、横槍を挟んでくる男は徹底してアホに描かれている。企業の内部抗争や現場VS管理者という構図を打ち出そうとしている訳では決してないのが、このことから良く分かります。
本作が描き出しているもの。マンゴールドの興味の矛先。それは「レース」です。この映画最大の見どころとでもいうべき「レース」。そこがこの映画の焦点であり、レーシングコースという名の「閉じられた円環」を人生に形容し、そこから旅立つ者と、留まらざるを得ない者の圧倒的な隔たりを描く。それがこの映画の肝なのです。
旅立ってしまった者と、その場に留まらざるをえない者。
マンゴールドの映画観を支配する理。彼はいつも、その理を軸にした世界観を映像の中で表現し続けてきました。
『コップランド』は、河を隔ててマンハッタンを見つめ、親玉を失った「警察王国」ことニュージャージー州ギャリソン郡に残ることを決意したシルベスタ・スタローンの姿で終わりを告げます。劇中では明示されていませんが、私は勝手に、あのマンハッタンには警察王国から逃げていった人たちの姿があるのだと思っています。
『十七歳のカルテ』では、精神病院でしか生きられない魂の死んだ少女と、自らの弱さを見つめ直して病院から巣立つ者との関係性が、役者の激しくも繊細な演技で描かれていました。
一見これらの流れとは無関係に見えるサスペンスムービー『アイデンティティー』も、殺人鬼に襲われて「消滅」していく人々と、最後に残る「誰か」を描いています。
『ニューヨークの恋人』は、かつての恋人を見送る元ボーイフレンドと、元ボーイフレンドに見送られて旅立つヒロインの姿を描いています。
そんなマンゴールドの映画的趣向が如実に現れているのが『3時10分、決断のとき』。リメイク版は1957年のオリジナル版とは結末が全く異なります。そしてその結末の違いから立ち現れてくるのは、やはり、旅立っていってしまった者と、後に残されてしまった者の対比なのです。
だからこそ、この映画のエンディングは、あのような結末を迎えるのです。あれは映画的に言って、必然の着地点であるのです。
ケン・マイルズがその後どんな人生を送ったか。それを知らない人にとって、いやあるいは、マンゴールドの映画を初めて観る方は、エンディングを目撃した時、劇薬に近い衝撃を覚えるはずです。なぜそこまで映してしまうのか? 映画を観終えた後、胸を打たれた感動と同じくらいの困惑に襲われ、ある種の怒りを覚えて劇場を去った人もいるかもしれません。
ル・マンのレースが終わったところで場面は暗転を迎え、彼のその後については、白い字幕で淡白に表現した方が、映画的感動の後を引くのではないかと思うし、それが技法的に美しさを演出する定石であることは、これまで多くの映画が証明してきた。そのことを知らないマンゴールド監督ではないはず。
それを重々承知した上で、彼はあのエンディングを選んだ。そこに彼の映画的欲望があるし、それがより強い感動に繋がると信じた。だから、彼は最後の最後まで、決して気を緩めることなく、マイルズとシェルビーの姿を描くのに拘った。
ル・マン24時間耐久レースのラップタイムを塗り替え続け、誰も彼も置いて7000rpmの世界をひた走るマイルズ。カメラは異次元の加速世界に身を投じたマイルズの表情へクローズアップするのを繰り返し、それでいながら、彼がレース中にある重大な決断をした時、カメラは車体が遠ざかる姿をロングショットで捉える。
この映画唯一とも言える、一歩引いたショット。そのシーンは、マイルズの一皮剥けた心境を暗示しているのみならず、彼がすでにシェルビーやほかのエンジニアには理解できない、別次元の領域へ到達してしまったことを表しています。
レーシングコースは閉じられた世界です。ゴールフラッグが振られるまで、ただひたすらにがむしゃらに、同じ風景をフロントガラスの向こうに捉え、決められたコースをひた走り続ける。その閉じられた円環は、死に対して鈍感な我々が送る「終わりの見えない日常」そのものであり、月並み且つ大袈裟な言い方をすれば、レーサーにとっての人生そのものなのです。
マイルズがなぜ、あの場面でギアを落とす選択をしたのか。それは、彼が終わりの見えない日常を振り切って、人生に満足したから。その満足感を得るにあたって、シェルビーや妻だけでなく、この場を用意してくれたフォード社も含め、多くの人々の支えがあったことを彼は思い出し、自らの恵まれた境遇を理解したからこそ、彼は己の我儘を捨てることができた。
ケン・マイルズ。彼こそが本当の意味での人生の勝利者。終わりの見えない日常に燻り続けることなく、そこから飛翔することができた彼にとって、レースの勝ち負けはすでにどうでも良いものになっているのです。
相対的に描かれるシェルビーの凡人感も胸を打ちます。結局バディを汲んでいても、レーサーたるマイルズと、レーサーを引退してサポートに回ったシェルビーとでは、見える風景が違うのです。だからこそ、あのエンディングは必然なのです。
レーサーとしての至福の領域に到達し、人生に満足して旅立っていくマイルズ。ル・マンのレース後もカーデザイナーとしてレースの世界の陰に残り続け、そこで生きざるを得なかったシェルビー。まさにマンゴールドらしい、旅立つ者と残された者の姿を描いた一作。それが『フォードVSフェラーリ』なのです。
さて、私はレース、というか車それ自体にまったく興味がない人間で、実は運転するのも嫌なんですが、さすがにCGなしのマジモンのフェラーリをでかいスクリーンで観たとたん、「カッコイイなぁ」と吐息が漏れてしまいました。なんでしょうか、あの流線形のフォルムに赤の塗装は。佇まいもカッコイイのに、走るとよりカッコイイって。デザインの理想形ではないですか。
でもデザインの秀逸さ以上に目を引くのは役者の肉体、顔立ちです。特に繰り返しになりますが、今回のクリスチャン・ベールは凄すぎです。この人は「いかにも」な演技をすることに定評がありますが、本作では「いかにも」自動車修理工場にいそうな、オイルの匂いと煤にまみれた修理工場のおっさんという役柄が、見事に板についています。オイルとブレンドされた汗の匂いまで伝わってきそうなほどの迫力があって、これはおっさん萌えな方々にはきっとたまらないことでしょう。




