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【第41回】パラサイト 半地下の家族

『この世界に、本当に“敵”はいるのか』


上野のTOHOシネマズで鑑賞してきましたので、軽くレビューしようと思います。


その前にまずこの映画ですが、監督ご自身がわざわざパンフレットで「本作をご紹介頂く際、出来る限り兄弟が家庭教師として働き始めるところ以降の展開を語ることは、どうか控えてください(中略)頭を下げて、改めてもう一度みなさんに懇願をします。どうか、ネタバレをしないでください。みなさんのご協力に感謝します」と丁寧な日本語で書かれているので、今回のレビューにおける【あらすじ】は、映画公式パンフレットに載っているあらすじを元に、序盤までの説明とさせていただきます。


それにしても、半地下という住宅があるなんて知らなかった。『バーニング』や『嘆きのピエタ』でも描かれていたように、韓国の貧しい人たちってビニールハウスに住んでいるものとばかり思っていたから。(追記:あとで思い出したけど『チェイサー』に「地下や半地下を探しまわれ」って台詞があったね。イカンイカン、すっかり忘れてた」)





【導入】

第72回カンヌ国際映画祭で最高賞のパルム・ドールを受賞し、『ジョーカー』と共にアカデミー賞の最有力候補(それも国際映画賞ではなく作品賞という枠で、と一部で囁かれているっぽい)と呼ばれ、小島監督や新海誠も大絶賛な本作。


監督/脚本を務めるのは、来ましたぜ我らがポン・ジュノ。個人的にはキム・ギドク、パク・チャヌクと並んで「韓国三大映画監督」と呼ばせて頂いているこの「韓国映画界のエリートコースをひた走る男」は、これまでに『ほえる犬は噛まない』『殺人の追憶』『グエムル-漢江の怪物-』『母なる証明』『スノーピアサー』と、名だたる傑作を生みだしてきた人でございます。


彼の映画の画面的特徴と言ったら、その精緻に設計/コントロールされた画面構成にありますが、その手助けをするのが撮影監督のホン・ギョンヒョ。『母なる証明』と『スノーピアサー』だけでなく、あの傑作『哭声/コクソン』の撮影監督も務めたお方。


そして主演を演じるのは、もう世界的な名優として知られているソン・ガンホ。私は『殺人の追憶』で彼を知り、『シークレット・サンシャイン』で完全に嵌り、『タクシー運転手~約束は海を越えて~』で泣きました。何気に韓国映画のターニングポイント的作品である『シュリ』にも出ているので、現代韓国映画のおもしろさの一翼を担っている人物であることに間違いはありません。それと、今回のソン・ガンホはかなりイイゾー。個人的にかなり刺さる役どころでした。


それ以外だと『新感染:ファイナル・エクスプレス』でゾンビに襲われる高校生カップルの片割れを演じたチェ・ウシクがソン・ガンホ演じる父親の息子役を熱演。更にはまだ若い売り出し中の女優なのに、メイクなしのガチ丸坊主にして『プリースト 悪魔を崇拝する者』に出演したことで話題になったパク・ソダムが娘役で出演しております。





【あらすじ】

ソウルに住むキム一家の住処は、太陽の光がたっぷり届く地上でも、暗闇が広がる地底でもなく、その中間地点である『半地下』と言うしかない貧しい空間に建てられていた。


家賃4万円以下のその半地下住宅は、床よりも下水管のほうが高いという建築の構造上、便所が天井付近に作られた、不衛生さ極まる生活空間だった。ゴキブリやベンジョコオロギが部屋のあちこちを徘徊し、路上に噴霧された殺虫剤を小さな窓を開けて取り込んで消毒しても、壁やテーブルや服に沁みついた底辺の生活臭が消えることはない。1997年にアジア通貨危機が韓国を襲って以来、貧富の差は拡大を続け、キム一家のように『半地下』の家に住む人々は、年々増加の傾向にあった。


キム一家は宅配ピザの箱を組み立てることで生活の糊口を凌いでいるが、それで得られる金などたかが知れている。通信料金も支払えないために隣近所のWi-Fiへ無断接続してスマホを使う始末だ。


一家が先行き不透明な生活を送る中、長男のギウの友人であるミニョクが訪ねてくる。何度も何度も大学受験に失敗し続けているギウに対して、名門大学生のミニョクはあるお願いごとをする。そのお願い事とは、自分が海外留学している間、家庭教師のアルバイトで面倒を見ていた金持ち一家の娘の相手をしてやってほしいというものだった。


思いもよらない形で家庭教師のアルバイトという仕事が転がり込んできたギウは、美大を目指して勉強中である妹ギジョンの手を借りて大学入学の証明書を偽造すると、それを手にソウルの高級住宅街に住む金持ち一家を訪ねる。


その高級住宅街の一角に住んでいたのは、IT企業を立ち上げて成功を収めた新興富裕層のパク・ドンイクと、若くて美しい妻ヨンギョ、娘のダヘに息子のダソン、そして家族の面倒を長い事世話してきた家政婦のムングァンだった。


ミニョクに対して絶対の信頼を寄せていたヨンギョは、当初こそギウの指導力に対して疑念を持っていたが、受験勉強を長い事続けてきたギウが娘に対して的確な指導をする様を目の当たりにすると、感嘆に掌を返し、アルバイトを続けて欲しいことを伝える。


そんなヨンギョには、娘の受験勉強以外に、もう一つの悩みがあった。それは息子のダソンについて。小学五年生にもなるというのに落ち着きがなく、その一方で天才的な絵画の力を発揮するのだ。


どこかに息子の長所を伸ばして、精神的な成長を促してくれるようないい先生はいないかしら……そうぼやくヨンギョに対して、ギウはある提案をする。


「同じ学科の先輩の従妹に、美術セラピーをしている人がいるんです。すごく人気がある先生なんですが、ご紹介しますよ」


その翌日、ヨンギョの下へギウが連れてきたのは、なんと妹のギジョンだった。彼女はギウとの兄妹関係を隠匿したまま豪邸へ上がり込むと、ネットで搔き集めた絵画療法に基づく心理セラピーの知識を披露してヨンギョを唸らせ、あれほど彼女が手をこまねいていたダソンをあっさりと手懐けてしまう。


家長であるドンイクの信頼も勝ち取った中、ついにギジョンはある作戦をパク一家に仕掛ける。それこそ、自分達貧しい家族が、普通の平凡な暮らしを得るために必要な作戦だった。





【レビュー】

ポン・ジュノがキム・ギドクやパク・チャヌクと比べて優れている点を一つ挙げるとしたら、やはり特徴的なカメラワークそのものにあると思います。


彼の作品はその悉くが、きっかりと計算されたカメラワークによって支えられています。テレビ屋出身の邦画監督にありがちな「なんとなくこんな画でいいっしょ」という甘えは一切ありません。


印象的なシーンの撮影も抜群に上手いのですが、観客が観ている中で「ん?」と感じる微妙なカットも、実は後々の謎解きに繋がる伏線であったりと、とにかく暗喩的な「魅せる画」を撮ることに余念がない。その傾向は『殺人の追憶』あたりから感じられたことですが、『母なる証明』でホン・ギョンヒョと組んでから、一層その傾向が強まっていると感じます。


だから、退屈しないのです。いい映画というのは脚本が面白いとか役者の演技が上手いとかもありますが、それ以上に一枚の絵として切り取った時に美しいかどうか・面白いかどうかという基準でまずは語られるべきなのです(だって『映画』なんだから)。


その点で言うなら、独学で撮影技術を学んでしまったせいか、ときおり脈絡のないカットやズームをしてしまうキム・ギドクや、あまりにも倒錯性な画作りに傾倒しがちなパク・チャヌクと比較して、ポン・ジュノの作る映画の「画」は非常にスマートで、どこかうら寂しく時に凄惨でありながらも、そこにグロテスクを通り越した虚無に近い美しさがあるのです。


これらの印象的な画を生み出すのに、監督が良く使う映像手法の一つとして挙げられるのが、インビジブルカットです。センスのある映画監督にしかできない、シーンとシーンとを違和感なく連続的に繋ぎ合わせるカット技法(たとえば『マッドマックス-怒りのデス・ロード-』のラストからエンディングクレジットへの流れなど)が、冴えに冴えわたっているのがポン・ジュノ監督の常であります。


あまりにも違和感がないので、過去回想に使われると一瞬、観客の理解を置いてきぼりにしてしまう。それくらいに自然にインビジブルカットを使いこなしてしまうのですが、本作でもそれがいかんなく発揮されています。


さらに今作では、それまでのポン・ジュノ監督の作品には見られることのなかった「豪邸」を舞台にしているのですが、この豪邸の美術設定が凄いのです。


リビング、庭、キッチン、階段……ありとあらゆる角度から見ても、その全てが印象的な「絵」として成立しているというこの凄まじさ。


鹿のトロフィーをはじめとしたキワい調度品を置いているわけでも、金や銀といった分かりやすい派手な装飾をしているわけではないのに、絶妙な空間的広がりで、そこがまさしく「豪邸」であると、室内を映すだけで分からせる映像の力。


圧巻なのは、パク一家のリビングにある大きな窓。監督のインタビューによると、この窓の比率は縦横で1:2.35になっていて、シネマスコープのアスペクト比とほとんど同じなんですな。そういう物語の外の領域にまで視覚的効果を与えようとする気概に惚れ惚れとしてしまいます。


パク一家の豪邸は建築学の構造から論じると違和感しかない設計なんですけど、そんなもの知るかと言わんばかりに、とにかく「魅せる画」を俺は届けたいんだという監督の熱意を感じます。


さて、この映画は監督ご自身が「ネタバレ厳禁で頼むよ」と公言しているので具体的な内容や、あのシーンが良かった! ということには触れられないのですが、予告編を観た多くの方が察したことでしょう。この作品は現代のトレンド、すなわち「富める者と貧する者」との「分断」を描いた作品であると。


去年私が観ただけでも『アス』『ジョーカー』『存在のない子供たち』『ボーダー 二つの世界』と、世界各国で貧者であるとか、社会にあって孤独な人々を主役に「分断」をテーマとした作品が多く世に送り出されています。


なにか悪い事をしたわけではないのに、気付いたら貧しい暮らしを強いられている。上の世界で暮らす人々は、下の者達の生活など気にも留めない。繋がりを求めたいのに、価値観や文化の違いがそれを許さない。誰がこんな格差を生んだのか……行き場のない怒りを抱え、辛抱し、時に暴力の形として発散する。


これらの映画に共通しているのは、社会格差が生まれてしまった原因を「システム」や「個人的な問題」という、実に分かりやすい(映画として表現しやすい)外的/内的なところに委ねているという点です。


『アス』における恵まれない人々はアメリカ合衆国という「システム」が生み出した結果であり、『ジョーカー』でアーサーが悪の道に堕ちていったのは、都市管理のハンドルを誤った富裕層への怒りと、自身の出生の秘密という「個人的な問題」に絡め取られたせいであり、『ボーダー 二つの世界』では、ダークファンタジーというジャンルを使って「個人的な問題」と社会という名の「システム」の間にどう折り合いをつけるべきか、というのが描かれています。


しかしながら、『パラサイト 半地下の家族』は、そのどれでもありません。確かに半地下住宅が増えたのは韓国が金融危機で受けたダメージから歪なかたちで回復してしまったことの結果であり、そこだけ切り取れば「社会的なシステムが格差を生んだ」ということになります。


でも、この映画で描かれているのはそういうところではない。もっとずっと生命体として根源的な部分、すなわち「人はなぜ人と繋がれないのか」という部分を描くにあたって、最適にして最強の設定を持ち出してきているのです。


すなわち「体臭」です。


近年になって「スメル・ハラスメント」という、あまりにも度を超した造語が生まれてきましたが、人それぞれで違う原始的/動物的な側面にまでいちゃもんをつけたがるこの流れを持ち出されてきたら、互いに歩み寄ることなどできなくなる。


社会的な問題が格差を生んだのだとしたら、それを是正すればいいという可能性がある分だけ、まだマシであると言えるのかもしれません。自分自身の潜在的なトラウマが問題で社会に恨みを持つようになってしまったのなら、他者との結びつきを介してトラウマを克服すれば、もしかすると幸せになれるかもしれません。


でも、そんな「システムの再構築」や「個人問題の克服」ではどうにもならない、本当にどうにもならない(そして映像的に描くことが極めて難しい)「体臭」というエッセンスを持ち出してきてしまった以上、この作品は凄まじいまでの「繋がりの拒絶」を描いてしまっているのです。


なぜなら、体臭とは礼節にまつわる話題であり、礼節とは個人個人の生き方に根差すものだからです。つまり体臭を馬鹿にされたり否定されたりということは、その人個人の生き方や生命の在り方を否定していることに等しいのです。


みんな、体臭を馬鹿にするのは、やめましょう。あれ、傷つくから。私の実体験ですが、本当に言われた本人は傷つきますから。


閑話休題。


この映画に明確な悪人がいるのかと聞かれると、私は首を傾げます。ギウやギジョンが家庭教師として雇われるために身分を偽るところは、たしかに犯罪には違いないのだけど、どうにも責める気になりません。一方で富裕層であるパク一家ですが、成金に特有の鼻持ちならない感じに描かれているわけでもなく、ごくごく「普通の金持ち」として描かれています。


この映画には“敵”などいない。ただ、なぜそうなったのかは分からないけど、とにかく貧者と富豪という二種類の人間たちだけがいる。


世界には確かに格差がある。だけれども、それは「社会が悪い」とか「個人が悪い」とか、そんな短絡的なところに原因を求めていいのか。何か具体的な悪意に満ちた“敵”がいて、そいつを打ち倒せば人は人と繋がり、真に分かり合えるのだろうか。


事態はそんなに単純なはずではないのです。私たちの住んでいる社会は、そんなに解決が容易な問題で溢れているわけではない。


だからこそ、その反動として私たちは映画に単純さを求めがちなのではないでしょうか。


ハリウッド作劇のように分かりやすい、「コイツが悪い!コイツを倒せば全て丸く収まる!」と、この世全ての悪を背負わせた敵を用意し、打ち倒す。あらゆるジャンルで、そのような描き方がされてきました。ホラーだろうとサスペンスだろうと、格差/分断を生み出して状況を悪化させている「何者か」を用意してやれば、たとえそれが現実世界から遠く離れた「映画」というフィクションの世界であろうと、観客は安心してしまうものです。


そういった勧善懲悪的な手法で作られた娯楽映画に毒されてしまっているぶん、私はこの映画を観終わった直後、言葉にならないモヤモヤとした感情が胸中を渦巻き、驚きと虚しさが怒濤の如く押し寄せてきてしまいました。


この感覚はいつものポン・ジュノ監督作品を観終えた直後の感覚……特に『母なる証明』を見終えた時に近いですが、それよりもずっと深度のあるめまいに襲われました。


成り代わろうとする者も、都市の運営を放棄する者も、人間たちに復讐してやろうとする怪物も、この映画にはいません。


そのような“分かりやすい敵”を配置することを嫌い、決してハリウッド色に染まらないポン・ジュノ監督こそが、実はジョーダン・ピールやトッド・フィリップスよりもかなりまっとうな目線で「格差/分断」という問題を設定として配置し、エンターテイメントな作品に仕上げていることに成功しているのではないでしょうか。


水は低きに流れる、という言葉があります。この映画には象徴的な天候として「雨」が描かれますが、その雨の受け取り方ひとつをとっても、富裕層と貧困層とでは全然違うのです。その哀しみたるやたまりません。


半地下に住む人たちにとっての雨と、金持ちにとっての雨。同じ景色を見ているはずなのに、置かれた状況が全く異なるから受け取りかたも違う。その状況/環境の違いからくる孤独や哀しみを真に共有できた時こそ、本当の共生関係(パラサイト)がはじまるのではないでしょうか。


でも私たちは知っています。そんな日はいつまでもやってこない。だって世界はそのように出来ているのだから、私たちはただ受け入れるしかないのかもしれない。


ほんの少しのネタバレも出来ないのでちょっと抽象的な締めになってしまいましたが、とにかく今観るべき一本であることに間違いありません。


「ポン・ジュノ監督あるある」なシーンの目白押しですので、過去作を御覧になっている方はかなり楽しめる。もちろんそうでない方でも、一級の芸術エンタテイメント作品として笑い、恐怖し、呆然としてください。

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