【第39回】HUMAN LOST 人間失格
『言葉と映像のバランスの難しさ』
西新井のTOHOシネマズで鑑賞してきましたので、軽くレビューしたいと思います。
古典文学をSF化するってーと、なんだか『明治開化 安吾捕物帖』を原案にした『UN-GO』を思い出させます。
それにしても、今年は『プロメア』に『HELLO WORLD』にこれと、SF映画多いなぁ。
【導入】
かの有名な文豪・太宰治の名著の一つである『人間失格』を原案に、医療革命によって彼岸を遥か遠くへ追いやった近未来の日本を舞台とするダークヒーロー(?)SF映画。
製作はポリゴン・ピクチュアズに、キャラデザはコザキユースケ、声優は櫻井孝宏、宮野真守、花澤香菜と、なにこれアニゴジの二次会かなにか? というラインナップ。
ところが、スーパーバイザーに本広克行、そして脚本には我らが冲方丁と、なになにサイコパスですか今度は、という具合。
ちなみに監督は木崎文智。巷のオタク界隈では「GONZOの奇跡」と呼ばれる『バジリスク 〜甲賀忍法帖〜』を監督した方でございます。
というかそういうのはいいんですよ。
それよりも問題なのは、宣伝が少ないせいか、それともみんなアナ雪2に夢中なせいなのか、めっちゃお客さん少ないってのが、これもう大丈夫? と言いたくなる。
でもねぇ、好きですよこの映画。うん。そこは嘘偽りない。
なのに、レビューしてる人がマジでほっとんどいないから、もうここは私が頑張ってレビューするしかないでしょう!
【あらすじ】
昭和111年の日本。
世界大戦を乗り越えたかの国では、遺伝子療法をはじめとした四大医療革命によって、驚異的な長寿を達成する老人たちが君臨する国家へと変貌していた。
医療革命を先導したその300人近い老人たちは「第一世代の合格者」と呼ばれ、日本政府は、死を遠ざけた彼らのバイタルデータを健康保障機関”S.H.E.L.L.(シェル)”のネットワークを駆使して全国民へ同期させることで、国民の総無病息災化に成功していた。
およそ不死に近い肉体を獲得した日本人たちにとって、経済活動が環境へ及ぼす影響の度合いなど、些末な話だった。どれだけ汚したところで、長寿には影響しない。そんな時代。19時間労働という想像を絶する労働時間が当たり前となり、環境は汚染の一途を辿り、国の社会保障制度は「年金一億円支給」という、狂乱ともいえる政策を平然と履行せんとする。
東京首都圏の「アウトサイド」と呼ばれる貧民街で暮らす大葉要蔵は、死を前提とした生を全うできない社会に絶望し、この、誰かが選択を誤った世界を受け入れられず、今日も今日とて、睡眠薬の大量摂取で自殺を図ろうとしていた。
だが心肺が停止しても、要蔵の肉体が死を迎えることはない。健康管理センターのオペレーターによる遠隔治療により、要蔵の体内に埋め込まれた生体ナノマシンが活性化。臓器損傷を回復し、彼は彼岸の瀬戸際から現実世界へと引き戻される。
自由意志があるかどうかに関係なく、死ぬことは許されない――全国民の平均寿命120歳を達成した日本が、この先行き不透明な社会を支える上で、それは絶対に破られてはならないルールだった。
死の淵から帰還した要蔵が目を覚ますと、そこに見覚えのある顔が二つ。一人は、工場の事故で失った半身を、サイボーグ化によって機械へ挿げ替えた悪友・竹一と、その竹一率いる暴走族集団のパトロンに収まっている謎めいた活動家・堀木正雄だった。二人が心肺停止状態の要蔵を発見し、S.H.E.L.L.(シェル)へコールをかけたのだ。
竹一に無理やり連れ出されるかたちで、要蔵は暴走集団の集会所を訪れる。そこで彼が目にしたのは、貧民層と富裕層という分断化された現状を呪い、今日こそレインボーブリッジを突破し、浄化された空気で満たされたインサイドへの突貫を果たさんとする熱意に燃える、社会の負け組と規定された人々だった。
竹一はこの日のために、爆薬をたっぷり積んだ特注の霊柩車を用意していた。人間が人間であるためには「死」が必要であると説く彼に、堀木はある錠剤を手向けとして手渡す。流されるがまま、竹一と共にインサイド突貫作戦に参加することになった要蔵も、同様の薬を受け取り、口に含んだ。
そうして始まったインサイドへの突貫。竹一率いる暴走集団の活動を察知した政府直轄の治安維持部隊・ヒラメ機関はヘリを飛ばして現場へ急行するが、一歩遅く、インサイドへ通じるゲートが爆破されてしまう。
だがその直後、竹一の体に異変が生じ、彼は真っ青な爆炎をその身から放出すると、見るも悍ましい、奇妙な触手を吐き出す理性を失くした怪物と化し、ゲートの警備員たちを次々に殺害していく。
突然の友人の変貌に懼れを隠そうとしない要蔵だったが、かつて竹一であった怪物の攻撃を受けた彼にも、また変化が。やはり竹一と同じように、爆炎を撒き散らして、その身を怪物とさせてしまう。
竹一と要蔵。二人の身に起きた異変の鍵を握っていたのは、何を隠そう堀木正雄であった。彼が二人に手渡した錠剤――アンチ・グランプ薬には、強制的にS.H.E.L.L.(シェル)のネットワークから個人を切り離し、体内のナノマシンを暴走させ、長寿命の社会から「ロスト体」という名の怪物という形で解放させる効果があったのだ。
だが竹一はともかく、要蔵の場合は違った。彼は自身の内的世界での葛藤に打ち勝つと、その身を醜悪な怪物から、髑髏を模した顔の人型の「鬼」とも言うべき姿へと変貌させ、ロスト体と化した竹一を蹂躙する。
その場に駆け付けたヒラメ機関の武装兵士によって殺害されそうになる要蔵だったが、そんな彼の窮地を救う者がいた。
柊美子。健康保障機関”S.H.E.L.L.(シェル)”の広告宣伝担当者にして、超人的な感知機能を有するヒラメ機関のメンバーたる彼女は、S.H.E.L.L.(シェル)のネットワークから切り離されてもロスト化することなく、人間としての姿を保てる新人類――俗に、アプリカントと呼ばれる存在だった。
自我を失い暴走する要蔵へ、美子は全く臆する事なく近づき、その赤銅に輝く頬に触れてみせた。その途端、要蔵の体は、もとの真人間のものへ戻ったのである。
一度ロスト化した人間が元の姿へ戻るというありうべからざる現象――アンチ・グランプ薬を取り込んだ際の突然変異によって、要蔵もまたアプリカント化していたのだ。
そんな彼を、はるか遠く離れたブリッジのへさきから双眼鏡で観測する人物がいた。
堀木正雄。要蔵や美子と同じアプリカントでありながら、人から「死」という安息を奪ったS.H.E.L.L.(シェル)を破壊し、都市の上層に居座る老人たちを蹴落とさんと企む過激派の活動家。
医療技術が極度に発展している現状を守り、日本国民を幸福な世界へ導くことこそが己の使命であると信じ切っている美子と、そんな彼女を国家のモルモットと断じて嘲笑い、S.H.E.L.L.(シェル)破壊を実行へ移そうと暗躍する堀木。
二人の人間に挟まれて、懊悩とする要蔵が選ぶ道の先にあるのは、輝かしく明るい社会か。それとも、破滅という名の荒野なのか。
【レビュー】
ウェブ、インターネットが発達し、SNSが幅を利かせ、触れたくない情報すら平然とタイムラインに表示されて思わず目に留まってしまうこの時代は、サブカルの断片的情報洪水をいつでも気軽に浴びることができるという点で、たとえばある小説の中身に触れたことがない人でも、その小説の限りなく薄い表層部分、つまるところ作品の雰囲気というものがおおよそ掴めてしまう時代です。
特にそれが古典や近代、近現代文学であればあるほど、容易に手を出しにくいという苦手意識も働いて「だいたいこんなものだろう」という「知ったか」が横行していると言っても過言ではありません(ついでに言えば、世間的にウケの悪い映画のあらましを知るのにも、こういった手段による「つまみ食い」が横行している)。こんなエラソーなこと言ってる私でも、知ったかに毒されていないかというとそうではないのです。
偏見だと言われるかもしれませんが、『人間失格』はそのようにして触れられる機会の多い作品であるかもしれません。そして決まって、物語のさわりだけをつまみ食いした人たちは、実に薄っぺらい太宰治論、人間失格論を、それが薄っぺらな持論であると半ば自覚しながらも、相手に対してマウントを取らんとする意識ばかりが先行して、無茶苦茶な意見を述べたがります。
太宰の私小説的な作品。あるいは遺書のようなもの。ただのメンヘラの告白本。なんとアメリカでは、これを幼児虐待の告発本だという人もいるとのこと(やーそれは決定的に間違ってるだろw)。
いちおう、それなりに太宰作品に触れてきた身からすると、私にとって太宰治は紛れもない物語作家であり、多くの大衆作家がそうであるように、自らの経験を種に、アイデアを肉付けしていって物語を創出するタイプの人物であり、決して自らの私生活を文字というかたちで切り売りしていた人物ではないと思う。そうでなかったら、『走れメロス』や『御伽草子』のようなエンタメ性に優れた作品は作れんでしょう。こういうと、純文学畑の人から怒られそうだけど。
そして私にとっての『人間失格』は、太田光や又吉直樹が言うところの「自分のことが書かれている」という鏡としての性質を持ちえません。高校時代の私は、家庭に色々と問題を抱えていたとはいえ、極めて健全な男子生徒だったし、健康に病んでいたりなんてしなかった。だから何べん繰り返して読んでも『人間失格』は「恐怖小説」のテイストで始まり、「恐怖小説」のテイストで終わる、極めてスリリングな物語という印象しか持てなかった。
すごく乱雑に言えば、『人間失格』は「太宰治版:吾輩は猫である」ともいえるんですよ。
『吾輩は猫である』が、非人間である猫の目を通じて、人間の生態をユーモラスに、オシャンティー(古っ!)に捉えていたのに対し、太宰は「人間になりそこねた人間のような人間」として大葉要蔵という人物を配置して、朗らかな欺瞞と、無垢な精神性がいともたやすく汚染される人間社会の普遍的な残酷性を描いた。
つまり「観察という手段で人間を炙り出す」というのが両作品に共通している点であり、そして決定的に違うのは、「人間失格」は要蔵という観測者の目を通して、観測者本人が生来抱えている人間への恐怖心と、自分が何者である分からないという懼れが、ときに大胆に、ときに繊細に描かれているという点が、当時としてはかなり新しい文学として持ち上げられていたのかなと感じます。
そういう作品ですから、抜き出そうと思えば様々な要素を抜き出せる文学的豊饒性に満ちた一作なわけですが、そこで冲方さんがピックアップし、木崎監督が映像化したのが「死」であるというのがこの映画。
死を描くというのは、反転して生を描くことであり、つまるところそれって、伊藤計劃の『ハーモニー』に他ならない訳だけど、画面に流れている空気感はまぁーったく違う。
真綿で首を絞められるような緩やかな窮屈感が『ハーモニー』の持ち味でしたけど、あれって多分、伊藤さんなりに『ブレ-ドランナー』からの呪いから脱却せんとしたがゆえの、「こうであるかもしれない未来」を描こうした末に生まれた世界観だと思うのね。もちろん死を間際にした時だからこそ生まれたアイデアってのもあるけれど、でもそれが全てではないと思う。
この映画は、ブレランの呪いから遠くもあるし、近くもあるという、なんだかオカシな作品です。やっぱり陰鬱な未来世界よろしく、環境は汚染されてるし、ネオンサインの看板はチカチカ眩しいし、なんか物々しい設備が鎮座してるし、それこそスピナー(空飛ぶ警察車両)が行き交っていても不思議ではない深みある夜が広がり、民衆は富裕層と貧民層に二分化されて分断化されている。こういったディストピアの一つのモデルとして、今なおブレランは絶大な影響力を発揮しています。
なんだけれども、果たして本作がブレランの呪いに完全に絡め取られているかというと、そうとも言い切れない匂いがあると思います。
ブレランはあくまで、東アジアの景観・文化様式を欧米の土地へ過剰なほどに移植することで、異世界めいた暗澹たる未来を創造してみせたのがエポックだった。つまり日本的要素を尖らせたビジュアルやガジェットに包まれているのに、そこで生きているのが日本人ではなく、目鼻立ちの整った外国人であるというある種のチグハグさが生み出す異様な世界観がウケたのがブレランだった。
ブレランが、日本そのものを舞台としたSFではなく、あくまで「エッジの効いたアジア・ファクター」で過剰に装飾された「異国」を舞台とする作品であったことを考慮すると、映像的な面において、『HUMAN LOST 人間失格』がブレランの影響をまるまるパクっているとは、ちょっと言い難い。
だって、これは、日本を舞台としたSFだから。
日本そのものを舞台としたSF。それを描くにあたって、アニメほど便利な媒体もないでしょう。
基本的に日本人の身体性……もっと言えば肉体としての「機能美」は(その視覚的インパクトという点において)外国人と比べるとかなり劣るのはやっぱ否めない。稀にグラビアアイドルのイメージビデオを見ていると、凄まじいプロポーション(奈月セナとか)を持つ人はいたりします。けれども、やっぱり日本人は顔が平たいし、手足がどうしても世界基準で比べると短いし、なにより顔が平たいのです。つまり、カメラのアップに耐えられるだけの「SF顔」の人がいない。え? 阿部寛? あれが出たらローマになるだろローマに!
こういった映像的な問題点を解決するために、押井守はSF映画『アヴァロン』をポーランドでポーランド人を使って撮影したのだし、日本を舞台に日本人キャストで撮影されたSF映画……実写版『ガッチャマン』や『21世紀少年』や、はたまたあの珍作『デビルマン』が批判されてしまう一因も、結局はそこにあると思うんですよ。
映像の世界において、いくら美術が異世界めいたデザインであろうとも(そしてアジア的景観を備えたSFならなおさら)そこで生きる人間が放つ色気や存在感に「異界感」が出ていないと、特に箱庭的世界を舞台にしたSF映画は急速に魅力を失ってしまいます。そして日本人の、アジア人特有の体つき・顔つきは、それを十分に損ねてしまうだけの民族的宿命があるのではないでしょうか。
一方で、キャラの骨格を読者のイメージ力に担保する部分が大きい小説や、デフォルメを武器とする漫画、そして「萌え絵」という言葉に代表されるように、アニメーションは実写が持つ制約/限界を、時に超えてしまう力を秘めています。
つまり何が言いたいのかというと、ずーっとセルルックなキャラクターイメージを創るのに一生懸命になっていたポリゴン・ピクチュアズですが、ここにきてまたいい仕事してるなってこと。『シドニアの騎士』の頃の、のーっぺりとした顔はいずこへ。瞳の揺れ、わずかに開いた唇、首の角度。ソファに膝をかけた際に、たしかに描かれる体重移動。キャラクターの「動き」に対する「気配り」はアニゴジ以上ですよ。キャラクターの輪郭を、空気感を、この昭和から延長された日本に合致させようという方向性が感じられるような動き(アクション)を見せつけてくれちゃうからいいっすねぇ。
そういう「実写ではない日本人」を舞台に据えたこの作品のルックは、繰り返しになるようだけど、ブレランに近いようで、どこか遠い。
高田馬場のバーの内装が放つ、大正~昭和にかけてのレトロ調の匂い。要蔵の自室が醸し出す、底辺に根付いた生活感。地下鉄は今とさほど変わらないデザインで走り続け、駅前のビルや電柱だって、我々が良く知る形状から逸脱はしていない。
我々が住むこの現代から、大袈裟にかけ離れることのない生活空間を舞台にしたSF。我々が選択した現実とは違う、「こうであったかもしれない昭和」を舞台とした物語。つまるところ、昭和の別次元の延長として東京の下町にロボットを平気で出現させた『機動警察パトレイバー』と同じ空間デザイン、空間の理念が(それが上手く表現できているかどうかはさておき)、この作品には通っていると言えるかもしれません。
しかも分断された社会を描いていながら、バリバリの管理社会であるかというと、そうとも言い切れないというのが、この作品が持つ面白いところなんですね。
本作品内で日本の頂点に君臨する老人たちは、長寿であることを良い事に、問題を常に先送りにしてしまっています。国民のバイタルビッグデータを元に作り出した「文明曲線」なるものを指標にして、それが「再生曲線」を描く未来を祈念する一方で、何か、具体的な政策を打ち出すことはしない。それどころか、人間の限界寿命180歳を突破するように政府機関に働きかける始末で、これは明確な「先送り」の意識の現れに他なりません。
つまり、都市の運営を半ば放棄してしまった状態にあるということで、ここは今年一番の話題作であろう『ジョーカー』のゴッサムシティに通じるところがあり、それは、ブレランや『リベリオン』や『未来世紀ブラジル』にはなかったものです。
また、常時肉体に接続するネットワークというのも、なにも突拍子なアイデアではありません。それは、無意識に、あるいは意識的にSNSに接続してしまう現代人と、そういう仕組みを作ったエンジニアたちに対する、ある種のメッセージ、揶揄として機能しています。
総合するとこの映画は、我々日本人がかつて住んでいた「昭和」を、その時代の空気感ごと延長してブレラン調の分断化された未来を描く一方、その空間デザインや通底に流れる文化理念においては、大袈裟な未来描写をすることを避け、決して日本人的な要素からかけ離れてはいないという、奇態なシロモノになっています。
その「奇態さ=不安定さ」で成り立っているお話なので、ああいった結末を迎えるのは納得。「未来はこうなる!」という確定的な意思が込められたエンディングは、観方によっては製作者側のエゴを強要されているだけに過ぎないのですが、そんなものを押し付けられるほど、この映画が獲得した世界は強靭じゃないんですねぇ。
しかし改めて凄いのは、この昭和111年という設定ですな。
こういう無茶苦茶な元号設定は今までにも多くの作品で見られたものですが、たとえば『WXIII 機動警察パトレイバー』や『エスケヱプ・スピヰド』のように、昭和〇〇〇年なんて設定は、しょせんは架空の日本社会を強化するための単なる設定であり、アイコンとしての意味しか持ってなかった。というか、あの「やんごとなきお方」の事を考えると、どうしてもそうせざるを得なかったんですよ。
ところが、この映画における「昭和111年」というのは、それらとは全く違います。
animate Timesのインタビューで冲方さんがとんでもないこと言ってんですけど、この昭和111年という設定は、第二次世界大戦終結後に、昭和天皇が四大医療革命で延命しているから、だから今も昭和が続いているってことなんだそうです。
いやなにその凄まじい裏設定。『シャングリ・ラ』のアニメだって、神武天皇のミイラを持ち出すことは避けたのに、こうも堂々と天皇そのものを「支配者」のアイコンに持ち出しちゃうかね。すんごすぎるんですが(笑)。
そんな昭和天皇すら死の世界から遠ざけた日本。この「死から遠ざかる」というのが、言い換えれば「死を前提とした生を生きられない苦しさ」に直結するわけで、つまるところそれって、太宰的な死生観とはちょっと違う。
そう、どちらかというと、三島由紀夫的なんですよこれって。
三島由紀夫って、あの人は最後の最後まで「大義の為に死ぬる事」を、心の何処かで求めていた人で、だからこそ『葉隠れ入門』なんていう本を書いたのだし、だからこそ自衛隊市谷駐屯地で割腹自殺をしたんです。
「現代の死は病気にしろ、あるいは交通事故にしろ、何らのドラマがない。英雄的な死というものもない時代に、われわれは生きております。(中略)それを考えますと、今の青年には、そりゃあ、スリルを求めることもありましょう。あるいは、いつ死ぬかという恐怖もないではないでしょうが、死が生の前提になっているという緊張した状態にはない。(中略)人間は、なにか、理想なり、なにかの為ということを考えているので、生きるのも、自分のためだけに生きることにはすぐ飽きてしまう。すると死ぬのも、なにかのためというのが必ず出てくる。それが昔言われた大義というものです。しかし、今は大義がない」
この映画が伝えようとしている生の倦怠感、死を喪失したがゆえの人間的悲劇というのは、まさに上記した、昔NHKのインタビューで「現代の死」について説いた、三島由紀夫の意見そのものなのです。
我々の世界がそうであるように、民主主義という形態を保持して長寿社会を実現化した社会には、大義ある死を求める隙間など、どこにも用意されてはいない。その息苦しさたるや、どういうものでしょうか。死とは生の対極にあるのではなく、死は生があってこそ、そして生は死があってこそ、はじめて意味を獲得する概念であるのに、その片割れが、永遠に失われる。この悲劇、この苦しさ。それはまず間違いなく、三島由紀夫の思想に通じるものです。
冲方さんが、こういう三島的死生観を意識して人間失格を解釈したかどうかはわかりません。でも、そうであったとしたなら、それはきっと正しいのだと思います。
なぜなら個人の卑しさを描くにあたって繊細な視点を忘れなかった太宰を語るということは、個人の持つ欲望や浅ましさすらも『美しいもの』として昇華した三島を語るのにも通じる部分があるからです。(三島が太宰を嫌っていたのは有名なエピソードですが、これは明らかに同族嫌悪からくるものでしょう)。
だからこの映画は、実は人間失格を原案としていながら、どちらかというと言っていること、その映像が伝えるメッセージ性というのは、三島由紀夫のそれなのです。
それじゃあ単純に物語として面白かったかどうかという点ですが、結構私好みのお話だったりするんですよこれが。
専門用語、テクニカル・ターム、ジャーゴンの嵐が序盤から、たいした背景説明もないのにバンバン飛び交うこの作品。当然、SFに慣れ親しんでいない人は面食らうことでしょうが、私はちゃっかり楽しみました。専門用語が持つ強烈な情報の圧縮率で耳朶を震わされるたびに、ほとんど酩酊感に近い快楽を味わう事ができましたし。
特に私は無類の触手好きでありますから、ロスト体が触手を飛ばそうもんなら、それだけで狂喜ですよ(笑)。まぁ、どこか80年代チックじゃね? なんだか『バイオハンター』っぽいなという印象は否めなかった一方、3DCGできっちりシェーディングがかけられた触手ってのは、グロテスクでありながらも、どこか洗練さを獲得していて、懐かしさと興奮と驚きが同時にやってきたんですわ。
それ以外だと、ヒロインの柊美子が結構ひどい目に遭うんですな。原作と同じく、無垢性を象徴したキャラだから、好き放題に穢せばいいとでも思ってんでしょうか。容赦なく触手に締め上げられるし、恐怖から足下におしっこの水溜まりをつくるし、返り血を首筋から頬にかけてドバっと浴びるし、そういうのが大好物な業の深い変態紳士が、思わず身を乗り出す描写もてんこもり。
なんだけど、二回、三回と観るうちに、面白さが半減していってしまいます。
その最たる要因がなんなのか。私なりに考えてみたんですが、結論として、言葉と映像のバランスがとれていないのかもしれません。つまりジャーゴンの嵐を楽しんだら、もうそれ以外に堪能すべきところがないんです。
この映画における言葉は過剰です。でもその過剰さは、押井守の『イノセンス』で映像の背景として敷き詰められていた、あの言葉たちの過剰さには遥かに及ばない。過剰を通り越して、空虚に近いわけでもない。
言葉は最初から最後まで、シーンの状況やキャラの動きを説明するだけの補助としてあり続け、映像の従属物と化していくのを止めようとはしない。一方で、言葉を従わせるはずの肝心の映像だが、こいつが言葉に匹敵するほど鮮烈じゃない。つまり「強くない」映像だからこそ、「強い」言葉とならべた際に、すごいアンバランスさが際立つように感じちゃう。
昭和の延長として描かれた背景美術ですが、映像としての確固たる訴求力があるかと言われると、ちょっと微妙。CGIのキャラだけを動かすのに夢中になるがあまり、背景のディティールに対するフェティシズムが欠けてしまっている感じがどうしてもしてしまう。
先述したように、この映画には昭和天皇が延命治療を受けているという「裏設定」があります。つまり、作品の見える部分だけじゃなく、見えない部分までもが、製作者側の理念で徹底して覆い尽くされているのです。専門用語、そしてキャラクターの感情吐露という表現を借りた、ことばの力で。
映像ではなく「ことば」の力で強調するという手法。それが結果として、物語の背景に意味を与えるだけのディテールへの追及不足に繋がってんじゃないでしょうか。
ただねー、一回観る分にはけっこう私好みなんですよ。マジで。爆薬積んだ霊柩車とか、三本足の警察犬ドローンとか、デバイスソードの形状とか、オーバーレイ表示される数値表現とか、ガジェットは私好みの(いい意味での)ボンクラ具合だし、特にその中でもネーミングがいつもの冲方丁なんだなぁってのが分かるのがイイんですよね。この人、『微睡のセフィロト』に登場させていた国際機関名を『蒼穹のファフナー』の機体名に再利用しているくらいの人だから(マークツヴァイとか、ああいうの)。
だから本作の予告で、医療システムの名称に「シェル」って単語が使われていると知った時には、全然変わってねーよこの人と、思わず爆笑しちゃいましたよ。そんなん笑うでしょ。『マルドゥック・スクランブル』お読みの方なら分かってくれるだろうけど、絶対そんな名称の医療システムに繋がれたくないわ(笑)。
あとは、しつこいようだけど触手を描いたアニメとしては、けっこうイイ線いってるのよ。厳密に言うとこの映画の触手には多少の「ワイヤー感」があって、もう少し個人的には肉感が欲しい所なんだけど、まぁここまでやってくれたんだから文句は言ってられん。
結論から言うと、この映画は「良い映画」ではないけど、好きか嫌いかで言ったら「好きな映画」です。しかし悲しいことに、あんまお客さんが入っていないせいか、ラストの特典がもらえる三週目(つまり12/9~16)が経過したら、速攻で上映回数を少なくするシネコンがわんさか出てくると思うので、観に行きたいなと思う方は、今のうちに行っておいた方がいいですよ。
引用元:NHK映像ファイル あの人に会いたい #005 三島由紀夫




