番外編 サタンタンゴ――7時間18分の原始的映画が生み出す凄みについて
2019年11月30日に鑑賞した映画のレビューでございます。
突然ですが、あなたが今まで観てきた映画で一番長い映画はなんですか?
私は今回レビューする映画を観る前までは、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』が自己最長時間の映画でした。
ですが先日、その記録(?)を更新する出来事に巡り会えました。
7時間18分
それが、ハンガリー映画界の巨匠、タル・ベーラ監督が1994年の時に発表した超長回し映画にして、今回私が宇都宮ヒカリ座で鑑賞してきた『サタンタンゴ』(4Kデジタル・レストア版)の上映時間です。
7時間18分
この数字を見て即座に異常だと感じた方、多いと思います。
そりゃあそうです。映画の上映時間はその時代時代によって短くなったり長くなったりしてきましたが、今で言うと平均して二時間、せいぜい三時間くらいまでが、世間一般で許される「映画に費やしてもいい時間」でしょう。
しかし映画業界を見渡してみると、実は世間一般の常識なんて知るかと言わんばかりに、とことん長尺の映画を撮り続ける監督さんは、タル・ベーラに限らず結構存在するんですな。
代表的なところで言うと、フィリピンの怪物的映画監督、知る人ぞ知るラヴ・ディアスの作品集。日本で公開されたのは2016年に発表された『立ち去った女』と、昨年の東京国際映画祭で目玉作品として公開された『悪魔の季節』、そして今年の東京国際映画祭で公開された近未来SF映画『停止』の三作品のみですが、どれもインパクト抜群の出来……と耳にしています(実はまだ一作品も観れていない(汗)ヤベー)。
どれも上映時間4時間(『停止』に至っては4時間40分)という長尺ですが、過去には『痛ましき謎への子守歌』という上映時間8時間9分の作品を発表したり、他にも9時間、10時間の映画を平気で作り続ける、商業的な観点から見ると「頭おかしいんじゃないの?」と言いたくなる映画監督です。
もちろん、これだけの長尺作品を作ってしまった以上、興行的な成功は全く見込めません。時間的な敷居が高すぎるし、内容も一見するととっつきにくいしで、私みたいな怖いもの見たさのなんちゃって映画ファンや、余程のシネフィルでなければ寄り付きません。フツーのお客さんはまず観ないです(笑)。
なにより回転率が滅茶苦茶悪いから、商売的観点からみても諸手を上げて喜ばれるシロモノではありません。どう頑張っても一日に一回こっきりの上映になってしまうわけですからね。
まぁ、ほとんど丸一日を費やして一本の映画を鑑賞するというのは(私みたいな人間からすると)極めて愉快で、それでいて恐ろしい体験に他ならないので、食指がどうしても動いてしまうというものですが。
タル・ベーラ。日本ではあまり名前の知られていない、共産主義時代のハンガリーが産んだキワモノ。その映画人人生において、たった四作品だけをフィルムの世界に残し、若干56歳という若さでアッサリと映画産業から身を引いたこの稀代の狂人は、一体何者なのでしょうか。
当たり前ですが、商業的な映像に毒された人ではありません。この方にとって映画とは、どこまでいっても「映像言語の産物」であり「映像技法というツールに支えられた集積品」に過ぎません。ようは、ただの道具なわけです。
いかに従来の映像言語を破壊し、新しいそれを作り出すか。その一点だけにしか興味がないというのが、彼の作品を観ていると嫌でも思い知らされます。
タル・ベーラ。映画監督よりも哲学者になりたかったのに、どういう訳か映画業界に迷い込んでしまった愛すべき賢者。その賢者が最初から最後まで手にしていた知恵の杖こそが「長回し」であり、それをとことん使いこなすことで、新しい映像言語を生み出そうと苦心した恐るべき愚者。
彼の作品を娯楽作品として観る人は、まずいないでしょう。特にこの『サタンタンゴ』という作品は7時間越えという大々大長編でありながら、総カット数はたったの150枚なんですよ。それだけで、娯楽作品としての呈を成していません(そもそも目指してないから当たり前ですが)。
一般的に2時間映画の平均カット数が1000枚(ワンシーンあたり平均1.2秒)と言われている現代の映画産業において、この「150」という数字がいかに驚異的で、いかに常軌を逸しているか、感覚でお分かりになられるかと思います。
438分÷150カット。平均して、ワンシーンあたり3分近い長回し(あくまで平均なので、10分以上も続く長回しシーンもあります)で埋め尽くされた、魔性にして原始的とも言える映画『サタンタンゴ』。
それを自発的に、あるいは偶発的に目撃してしまった観客たちの身に突き付けられるのは、想像を絶するほどの遅延と停滞を平然と繰り返す、死んだような静寂に包まれた映像の数々。
本当に冗談抜きで、時間感覚がおかしくなる映画です。と同時に、とつてもない「異界感」を体感することができる、極めて稀有な作品でもあります。
そもそも映画館というのは、意識的に、あるいは無意識的に常時ソーシャルメディアと接続されている現代人が、唯一ITデバイスと切り離されて、一人の「個人」として存在できる密閉空間に他なりません。TVやパソコンモニターがドンと居座り、電波が飛び交う私的な環境に過ぎないリビングでは、絶対に経験することのできない世界を見せてくれるのが、映画館なのです。
その通信から解放された、限定的且つ暗闇に閉ざされた空間で――合間に二回の10分間休憩が用意されているとはいえ――ただひたすらにモノクロの映像を何分、何十分という長回しでスクリーンに投影し、緩慢と停滞の狭間に観客を容赦なく誘うこの映画は、はっきり言って映画館全体を「異界化」してしまうだけの、静かな迫力に満ちています。
では、そんな不可思議にして強烈な映像力を秘めたこの『サタンタンゴ』とは、具体的にどんな話なのか。
意外に思われるかもしれませんが、全編が長回しの構成であるがゆえに場面転換が極めて少ないせいか、ストーリーラインは長尺の割にかなりシンプルです。
逆に言えば「ストーリーだけを追っていては全く楽しめない」ということに通じるのですが。その事に気づけない観客の方もいらっしゃるようで、なんだかちょっと、いや、かなりもったいないなと思います。
内容としては、旧約聖書における失楽園や創世記や、モーセがヘブライ人を解放して十戒を授かる一連の流れを描いた「出エジプト記」なんかを、社会主義時代のハンガリーを舞台にしてアレンジしつつ、監督二作目の『ヴェルクマイスター・ハーモニー』にもみられた、秩序と自由の対立構造を反映させているってな具合です。
「ハンガリーの限界集落に近い田舎町という限定された空間に、神秘的な予感を何者かが持ち込んできて、世界の終末を怠惰に待つ人々を口八丁手八丁で未来へ導こうとする詐欺的なお話」
すごく雑に説明するとそういう映画です。
その外界からやってくる何者かの名前が、イルミアーシュ。これ、ピンと来た方がいるかもしれませんが、聖書に登場する預言者・エリミヤのことです。ヘブライ人たちに「そんなに普段から怠けていると大変な目に遭うよ」と忠告したら、隣国のバビロニアが攻めてきて本当に大変なことになり、腹いせにヘブライ人にリンチされて殺されてしまう、哀れな預言者です。
また、本作では(特に序盤において)画面のところどころに蠅が映り込んでいます。『サタン』と名のつく題名で「蠅」と来たら、これまたピンと来た方は、サタン(ルシフェル)に次ぐ権力を持つとされる地獄の大王・ベルゼブブが脳裡を過る事でしょう。
おそらくですが、その考えは合っていると思います。
なぜなら、舞台となる田舎町では、『セブン』や『迫り来る嵐』よろしく、常に豪雨が降り続いており、悪魔・ベルゼブブの前身が、元々はペリシテ人が信仰していた「嵐と雨の神・バアル」であることを考えると、雨と蠅の演出には何かしらの関係があると見るのが妥当かと思います。
つまりこの映画は、全編に渡って雨=ベルゼブブの化身とも言うべき気象に支配されており、終末の到来をただ待ち続けるだけの名もなき田舎町の様子を映し続けるのですが、視覚的に興味深く映るのは、この悪魔の意識下に置かれたといっても過言ではない田舎町の寂れた風景と、そこに住む人々の怠慢且つ享楽的な日常生活です。
その怠慢っぷりと言ったら、怖気を覚えるほどです。仕草だけでなく、意図的に役者と役者同士の台詞の「間」を長く空ける事で、映画の流れをますます遅延させているんですから、呆気にとられるしかありません。あくまで漠然とした感覚の下に言うならば、『東京物語』の台詞回しを、もっともっと素っ気なく、難解にアレンジして間延びさせた感じとでも言いましょうか。
そういう設定を持ち込むことに、どんな意味があるのか。観客はなんとかテクストを理解し、映画の流れを掴もうと頭を働かせますが、そんな賢しいことは止めなさいと忠告するかのように、ひたすら遅延された、緩慢ながらも奇妙な不気味さと予感に満ちた映像がスクリーンを覆い尽くすので、次第に「一体こりゃなんのこっちゃ」という疑念に支配されることになります。そして、人によっては壮絶な眠気がやってくる(笑)。かくいう私も5回くらいウトウトしてしまいました。失態。
けれども、じゃあ退屈な画面がほとんどなのかというと……そうとも言い切れない。というか、基本的に退屈はしない(油断しているとヤラれるけど)。ただ、絵画的な要素を画面にぶち込んで「美しい絵だなぁ」と惹きつけられる一方で、キャラクターのほとんどが物語性から大きく逸脱した形而上学的な台詞を緩慢に吐いてばかりであるため、娯楽映画に慣れ親しんでいる人ほど、ショックを受ける度合いが大きいと思います。(実はこの台詞の数々も、そんなに難しいことは言ってないんですな。わざと、そういう言い回しをしているだけで)。
映像面で特に印象深いのは、やはりオープニングタイトルから続くロングショットの映像です。いったいなにが原因でそうなったのか最後まで全く語られないのですが、屠殺場から脱走した牛という牛が「ヴモー、ヴモー」と鼻の奥を絞るような鳴き声を撒き散らしながら、雨でぬかるんだ泥土を踏みつけ、吹き付ける風をものともせず、のんびりとした足取りで、ちまちまと庭先を動き回るニワトリを気にも留めず、なぜか家々の方へ向かっていき、やがて家と家の隙間へ……画面の奥の奥へ去っていく。その去っていった後の映像すらも、まるでフィルムを止めるのを忘れたかのように、しつこくしつこく、ずーっと映し続け、やがてフェードアウトしていく。
この、牛と泥と家を映すだけの長回し映像。体感的には10分くらいでしょうかね。多分本当は5分くらいなんでしょうが、台詞が全くついてないので、実時間よりも長く感じてしまうというトリック。
こんなそっけなさ過ぎる映像、商業性を備えた映画には、絶対にありえない、存在を許されないシーンです。しかし、そんな存在してはならないはずのシーンのオンパレードでこの映画は構成されているので、ある意味めちゃくちゃ貴重な映画体験ができるのです。
他にも、アルコール中毒に罹った肥満体型の医者が、椅子に座ってテーブルに向かって日誌をつけ、荒々しく息を吐きながら、テーブル下に置かれた酒瓶をめんどくさそうに手にとって、グラスへ慎重に酒を注ぎ、一息に呑んで、また日誌をつけて、しばらくしたら椅子に座ったまま居眠りして、少ししたら起きてまた酒を飲む、なんてシーンもあります。
もちろん長回しですから、こういったのも全然カットかけません。ひたすら、でっぷりとした医者が酒を飲み、煙草を吸う様を、体感的に30分ほどの時間をかけて延々と見せつけてきます。
さらに驚異的なのは、ハートフルな展開やロマンティックな流れを憎悪しているのかと思うほど、まったく安直な方向へ流れないことです。
この映画、基本的におっさんとおばさんばかり登場するのですが、ある一人の少女が物語の途中で登場します。その少女の生い立ちとか背景とかは、これまたやっぱり詳細には語られないんだけど、なんとなく観ていると、家に平然と他の男を連れ込む母親と折り合いが悪く、客間で寝ることも許されず、ひがな一日、家の脇にある古ぼけた土蔵の中で暮らしている、寂しい女の子なんだなというのが分かります。
ある雨の日、女の子が土蔵で本を読んでいると、背後で「ニャア」と猫の鳴き声が。猫の存在に気づいた女の子は、なんとかしてその猫を捕まえることに成功します。さびしんぼうの女の子と身寄りのない野良猫。この組み合わせ、もし娯楽作品を作る監督なら、ハートウォーミングな展開へ持っていこうとするものですが、タル・ベーラはそんなことしません。少女は猫の首を締め上げるように持ちあげ、苦しそうな声を上げる猫に構わず、しつこく床に叩きつけ、網にくるめて雨降る軒先に吊るします。
端的に言って虐待です。
その後、いったん家に帰ってミルクをつくる描写がされるもんだから、私はてっきり「心を入れ替えて猫に飲ませるのかな?」と思いきや、ミルクの入った皿へ無理矢理猫の顔をぐいぐい何度も何度も押し付け、結果として猫はあっさり衰弱死してしまいます。
立場の弱い者が、さらに弱い者を叩く。ブルーハーツの唄にありそうな展開を見せつつもあんまり悲壮感がないのは、虐待描写が淡々とし過ぎているせいでしょう。猫好きな人が観ると心が痛む可能性大かもしれませんが、やはり淡々とし過ぎている印象の方が勝って、結局私の胸に到来したのは「一体こりゃなんなんだ?」という戸惑いでございました。
しかし、この「一体こりゃなんなんだ?」という憤慨と困惑がない交ぜになったような感情が、苦笑へ転化し、次第にまったく異なる感情へ変貌するシーンが、中盤に用意されているのです。
それが、題名にもあるタンゴシーン。仕事もろくにせず、酒におぼれた住民たちが酒場に集い、安っぽい音楽に合わせて体を揺らし、享楽的に、能動的に、自由気ままに、適当に踊り狂う。おっさんもおばさんも関係なく、ただひたすらに、がむしゃらに足と手を動かす。なぜか分からないが、頭にパンを乗せたおっさんが、画面を何度も何度も横切る。画面の中で酔っ払いは同じ台詞を何度も何度も大声で繰り返し、誰もそれを注意しようとしない。
その滑稽な身振り手振りを観て、最初は苦笑が漏れてしまったのですが、これが三分、五分と続き、八分、九分と続いてもまだ終わらないとなると、話は違ってきます。
六歩進んでは六歩下がる。タンゴのリズムにのって前進と後退を繰り返した末に、動的ながらも物語的には停滞してしまったスクリーン。まったく終わる気配のない狂った映像が続くうちに、次第に私の胸の内を「圧倒的な恐怖」が支配していったのです。
フィクション・ノンフィクションに関係なく、映画を物語として製作することがほとんど娯楽的常識として浸透している現在、そこには必ず始まりと終わりが存在します。オープニングがなければ物語は始動せず、エンディングなければ物語は収束しない。
けれども『サタンタンゴ』は違います。この映画は、停滞と遅延の極北にある映画です。閉ざされた物語の円環に取り残された登場人物たちは、前進も後退も諦め、ほとんど自暴自棄にその場で足を踏み続け、ダンスとアルコールに狂い、見えざる悪魔に支配された世界に留まり続ける道を選び、緩やかな終わりを待ち続ける。
だからこそ、彼らはぬかるんだ泥土を避けることもしなければ、外出時に雨が降っているのに傘をささない。悪魔の意思に晒されているのにその事実に気づけず、その愚かしくも哀しい姿を強調するように、雨粒のぶつかる人々の顔をアップで映す長回しの数々。
映画館という名の密閉された空間で見せつけられる、壮絶にタルいシーン。その終わりが分からないという恐怖。自分達も、終わりの見えない円環に、いつの間にか合流してしまったのでは? という不安感を、抱かざるを得ません。
「もしかしたら、この映画は終わりを迎えることを拒否しているのでは?」と錯覚してしまうのも、致し方なし。私たちが無意識に抱いている「物語は終わりを迎えるものだ」という常識を揺さぶられることが、これほどまでに恐怖と直結してしまうとは。新しい発見でありました。
そんな、終わりを待つしかない堕落しきったハンガリーのゴモラとソドムに、ふらりと舞い戻ってくる魔術師・イルミアーシュ。彼が掲示した選択に従っても、従わずに家に閉じこもっても、どちらにせよ緩慢とした停滞は続き、その不可思議な余韻は、今こうしてレビューを書いている私の頭の中で、なおも張り付いてしまっています。
一度観たら絶対に忘れらない映像言語の作品です。『ニーチェの馬』や『ヴェルクマイスター・ハーモニー』と比較すると物語性は皆無に近いですが、映像的な凄みはこっちが上。
原始的な映画の恐ろしさを知りたい方、長回しの本当の力を体感したい方。娯楽映画には飽きたなという方。精神的なマラソンを体感したいという好き者な方々。
そのような方には、合う映画であるのかもしれません。




