【第38回】ターミネーター:ニュー・フェイト
『週末に終末を廃したターミネーターを観ることについて』
西新井のTOHOシネマズで鑑賞してきましたので、軽くレビューしたいと思います。
ここ最近、ジョーカーのリピート(3回)鑑賞をしたり、ジョン・ウィックの世界観に浸ったりとしていましたが、小説の執筆もあるのであまりこっちを書く時間がありませんでした。
実に一ヶ月ぶりのレビューになるわけですが。
うーん、やはりこうなったかという感じです。
それでも観るべき点がちらほらあるのが、まだ救いかもしれません。
【導入】
もう前置きなんて書くのも馬鹿馬鹿しいですね。皆さんご存知、低予算ながらその卓越したアイデアセンスでヒットした『ターミネーター』、そしてその続編にしてこれまた空前絶後の大ヒットを飛ばした『ターミネーター2:ジャッジメント・デイ(以下T2)』の『正統な』続編というかたちで作られたのが本作でございます。
つまり、これまで描かれてきた『ターミネーター3:機械たちの夜明け(以下T3)』も『ターミネーター4:救世(以下T4)』も『ターミネーター:ジェニシス(以下TG)』も、今作においては完全になかったことになってるんですわ。
ところでシュワちゃんだが、特にCG加工で若作りしているかというと、そんなことはない。人間みたいに年を取った状態で登場してきます。
ターミネーターの皮膚には人間の体細胞が使われているから、人間と同じように見かけだけは年を取る……ってのは、昔からある設定。たしか明言されたのは『TG』だけだったと思う。まぁ、ターミネーターって擬態潜入型の破壊工作用アンドロイドだし、別にそういう設定でもおかしくないんですけど、なんか釈然としねーなぁ(笑)。
主演は……って、これももう毎度おなじみ、シュワちゃんことアーノルド・シュワルツェネッガー。そしてお久しぶりですね、「ターミネーター絶対殺すレディ」と化したリンダ・ハミルトンでございます。さらには「あの」超絶美少年時代のエドワード・ファーロングがCGのパワーで蘇っています(出番はめちゃ短いが)。何気にこれが一番驚いたし感動したわ(笑)。
それ以外ですと、 マッケンジー・デイビスが救世主を守る強化兵士役で出演しているんですが、この人あれですね、『ブレードランナー2049』でAIと精神同調してトリップ状態になった娼婦の役をやられていた方です。今回はまーったく化粧っ気がないので、まるで別人。
んで、製作はジェームズ・キャメロン。今年の二月に日本で公開された『アリータ:バトル・エンジェル』に引き続き、製作に携わるのは今年で二作目です。
でも私、このターミネーター・シリーズに関して言うと、キャメロンの発言は全て話半分で聞いています。『T3』の製作が決定した時にさんざんこき下ろしておきながら、個人的にシリーズで一番つまんねーと感じている『TG』を、シュワちゃんに気を使って絶賛したりして、なんかこの人、リップサービス過剰なところがあるんですよね。
監督はティム・ミラー。デップーこと『デッド・プール』の監督さんです。しかし私はマーベル映画を一度も観た事ないので、どれくらいの技量の監督さんなのかはよく知りません。
でも本作を観た限りでは、アクションに関して言ったらジョナサン・モストウ監督の方が数倍上だと感じましたよ。それって私だけだろうか……こんなこと言うと、メンドクサイファンの方々に叩かれるんだろうな。
【あらすじ】
1997年8月29日。アメリカ合衆国。
サイバーダイン社が国家戦略防衛を主軸に作り上げた、超高度人工知能搭載の軍用ネットワーク・システム『スカイネット』に、自己認識の発生が確認された。
機械の自我獲得を危惧した国防総省の面々はただちにスカイネットのシステム・シャットダウンを試みるが、すでに米国の軍事防衛システム権限を掌握していたスカイネットはアクセスを受け付けず、あまつさえ大陸間弾頭ミサイルをロシアへ向けて発射し、意図的に核戦争を誘発させた。
混迷に陥る人類を余所に、スカイネットはそのネットワークのパワーを以て機械軍を組織し、人類に対して宣戦を布告。世に言うところの『審判の日』である。
圧倒的な物量と最新の兵器で国という国を崩壊させ、人々を殺戮していく機械軍。しかしそんな絶望的な状況にあって、機械軍の強制労働収容所に囚われていた人々を解放し、勇気を奮い立たせて抵抗軍を組織し、機械に対して戦いを挑み続ける、ひとりの指導者がいた。
その名はジョン・コナー。
救世主たる若き司令官の導きの下、人々は終末の世界でわずかな希望を胸に秘めて戦い続け、各戦域で地道に勝利を積み重ねた。
そうして『審判の日』から約三十年後。ついに機械軍の完全鎮圧まで、あと一歩というところまで到達していた。
人類の力を見くびり、劣勢に立たされた機械軍は、ここにきて奥の手を選択する。秘密裏に開発していた時空間遡行システムを稼働させて過去へ跳び、ジョン・コナーの出生母体であるサラ・コナーを抹殺することで、救世主の誕生を妨害し、人類側の勝利を無に帰そうと計画を企てたのだ。
サラ・コナー抹殺のために、スカイネット率いる機械軍が過去へ送り込んだエージェントにして抹殺者。その名は、サイバーダインシステムズ・モデル101シリーズ800――通称・T-800と呼ばれる、ヒト型潜入掃討のアンドロイドであった。
火急の事態を察知したジョンは、制圧した機械軍の時空間遡行システムを再度利用して、T-800の手から若かりし頃の母を守り抜くという一大ミッションに、部下のカイル・リース軍曹を任命する。
1984年5月12日のアメリカ・ロサンゼルスへタイムスリップしたカイルは、当時アルバイト学生だったサラと接触。スカイネットによって支配された世界の有様を伝え、彼女を機械軍の手から必死に守り抜こうとするが、健闘むなしく、T-800の手によって命を落とす。ひとり残されたサラは勇気を振り絞り、近くの工場へ逃げると、プレス機を使ってT-800を圧壊し、この窮地を乗り切るのであった。
それから10年後の1994年。
カイルとの間に一人息子であるジョン・コナーを授かっていたサラ。あのロサンゼルスで経験した惨劇の夜が忘れられず、悪夢にうなされ、来るべき滅びの予兆に恐怖しながらも、彼女は亡きカイルからの言葉を胸に、やがて訪れる『審判の日』に備え、ジョンを一人前の戦士にしようとしていた。
そんなある日、またしても未来世界からターミネーターが送られてくる。
T-800を遥かにグレードアップさせた、モデルT-1000。全身の形状を自在に変化/操作可能な液体金属製の殺戮者。その行動目的は言うまでもなく、未来において機械軍の脅威になる運命を背負わされた少年・ジョンの抹殺である。
命を狙われることになるジョンの窮地を救ったのは、意外なことにも、ロサンゼルスで彼の母を殺そうとしたのと同型のモデル、T-800だった。だがそれは無論のこと、サラの手で破壊されたのと同一のモノではない。実は抵抗軍はT-1000が過去へ派遣されたのを探知するやいなや、拿捕していた一体のT-800の行動プログラムを書き換え、過去へ送り込んでいたのだ。ジョンをT-1000の手から守るために。
ジョンを殺そうとする機械。ジョンを守ろうとする機械。逃避行の果てに二体のターミネーターは激しい死闘を繰り広げ、ついにT-1000は、その身を燃え盛る溶鉱炉に突き落とされて消滅する。
しかし生き残ったT-800もまた、サイバーダイン社から盗み出してきたスカイネットのシステム基幹になり得る開発段階のマイクロチップと、サイバーダイン社が1984年に密かに回収していたT-800の右腕と共に、自らの意志で溶鉱炉の中へ沈んでいく。この時代にスカイネットの機密を体内に抱えている自分がいては、『審判の日』は避けられない。それが分かっていたからこその決断だった。
溶鉱炉へと沈んでいく、T-800の赤い眼差し。その眼は最後まで、サラとジョンへ向けられていた。人間の『感情』について教えてくれた、大切な『友人』である彼ら二人に対して。
そしてまたサラも、もしかしたら、人類と機械が互いの存在を分かり合える、そんな時代が到来してくるのではないかと、淡い期待を抱くようになるのだった。
こうして、苦難に満ちた運命は去った。
スカイネットの開発を担っていたサイバーダイン社の特別企画部長、マイルズ・ダイソンはT-800とT-1000の戦いの最中に死亡し、スカイネットは構築されないまま、『審判の日』であったはずの1997年8月29日は、特にこれといった問題もなく過ぎ去った。
コンピューターの一台だって自我に目覚めることはなかった。ジョンは救世主としての役目から、サラは救世主の母親としての役目から無事に解放され、このまま死ぬまで、穏やかな人生を送ることになるはずだった。
終末へ至る時間軸は切り替わり、核戦争によって死ぬ運命にあった三十億の人々など、もうどこにも存在しない。滅びの予兆は、いずことも知れない次元をたゆたっている。サラとジョンは孤独な闘いを生き抜き、自分達の手で過酷な未来を書き換えることに成功したのだ。
だが――未来は変わっても、彼らの呪われた運命は、何一つとして変わってはいなかった。
敗北を喫した機械軍は、スカイネットの存在する時間軸が消滅する間際に、残り一体のT-800を過去へ送り込み、ビーチでバカンスを楽しんでいたサラの目の前で、ジョンを射殺することに成功する。
『審判の日』が回避されてから、三年後のことだった。
血まみれになって息絶えたジョンの亡骸。それを抱きかかえて泣き叫ぶサラには目もくれず、T-800は任務を完遂したのを確認すると、悠々とその場を後にする。
救世主の抹殺に成功したスカイネットと機械軍。
溶鉱炉に沈んだ『あの』T-800の犠牲も虚しく、サラの淡い願いも呆気なく砕かれた。
人類の運命は、またもや暗い路地へと戻されることになった。
そうして時代は移ろい、2020年。
メキシコシティで暮らすダニエラ・ラモスとディエゴ・ラモス。彼らは仲の良い姉弟で知られており、同じ自動車工場で働く、ごく普通の一般人であった。
ある日、工場で働く彼女らの下を、同居する父親が訪ねてくる。ダニエラが昼食用の弁当を忘れ、それを届けにきたというのだ。しかしその父親は、たしかに姿恰好は人間のそれであるが、本性はさだかではなかった。
なぜなら、ダニエラの姿を発見した途端、彼の右手がぐにゃりと変形し、銃の形状を取り、その銃口を愛するはずの娘へと向けたからだ。
驚きと恐怖にかられて硬直するダニエラ。そこへ、見ず知らずの屈強な女性がどこからともなく割って入る。女性は父親の姿をした『何か』を銃撃すると、渾身の力で突き飛ばし、困惑したままのダニエラとディエゴを連れて、工場を脱出する。
謎めいた女性に腕を引っ張られて逃げる途中、ダニエラは目撃してしまう。あれだけの銃撃を受けたにも関わらず、平然と起き上がる父親らしき『何か』。その銃撃でめくれあがった皮膚から覗く、人にあるまじき、黒く光る金属製の骨格を。
その正体は、ターミネーターREV-9。
未来世界で、スカイネットに代わって世界を支配している軍用ネットワーク・システム『リージョン』が開発した、あのT-1000すらも上回る超高スペックのエージェント。
REV-9は、その身に備わった能力でダニエラの父親へ擬態し、彼女を抹殺しようと、白昼堂々と工場へ乗り込んできたのだ。
ダニエラを未来世界の魔手から守ろうとした女性は、自らをグレースと名乗り、工場のトラックに姉弟を乗せて逃避行を敢行する。実は彼女もまた、未来世界から送り込まれてきた人類側のエージェントだった。
しかし純粋な人間ではない。彼女こそは、抵抗軍が機械軍に対抗するために開発したサイバネティクス技術の申し子。その肉体を最新の科学と薬物によって強化された、強化型兵士の一人だった。
逃げるグレースとダニエラたち。対して、ブルドーザーに乗り込んで任務遂行のために追跡を開始するREV-9。グレースはその超人的な膂力を発揮し、REV-9の猛攻を凌ごうとする。
だが、そんな人の姿をした怪物同士の戦いに巻き込まれ、ダニエラは弟のディエゴを喪う羽目になる。
深い悲しみに暮れるダニエラ。そんな彼女を必死になって守ろうとするグレースだが、しかし分が悪かった。REV-9はその身に備わった分裂機能によって、強化金属骨格と液体金属の二つのボディに分離すると、グレースたちの乗っていたトラックを破壊し、彼らをあと一歩のところまで追いつめる。
だがその時、一台のワゴン車が窮地に立たされた彼女らの下へ駆けつけ、中から一人の、サングラスをかけた老いた女性が颯爽と姿を見せた。
防弾チョッキと豊富な重火器で武装したその老女は、襲い掛かってくるREV-9に対して臆することなく重火器をぶっ放し、一時的にではあるが、これを無力化することに成功する。
「すぐ戻ってくるから」
それだけをグレースたちに言い残し、烈しい炎に包まれたREV-9の様子を確認しに道路を下っていく老女。
愛する夫と息子を、運命の手によって理不尽にも殺された、哀しき女戦士。
非情なターミネーター・ハンターと化した、サラ・コナーその人であった。
【レビュー】
ターミネーター・シリーズの核となる部分はなにか?
それは、多くの人が勘違いしそうだけど、シュワちゃんでもリンダ・ハミルトンでも、ましてやファーロングでもない。つまり俳優の力によって支えられている映画ではあるが、俳優が全てな映画ではない。
デザインが秀逸だからこそ売れたという意見もある。これは、ある意味では正しい。人膚に覆われていない、剥き出しのT-800。強化金属骨格は機能美のある種の到達点にして、破滅と力の予感を放射してくる。
それでもやっぱり、映画の核を背負わせる対象にはなりえない。なぜなら、強化金属骨格が映画の世界を離れても、それ本来が持つ機能美の価値が損なわれることはないからだ。
アクションが凄い。そういう意見も各方面から耳にする。特にキャメロンは物体の「重み」の表現が上手くて、『T2』ではそれが顕著に現れていた。
でもそれだって演出の一つに過ぎず、ドラマと結びついているという点で言ったら、他に素晴らしい作品はいくらでもある。だから、アクションが訴求力になっているのかというと、これも違う。
ターミネーターを真にターミネーターたらしめているもの。
それは、キャメロンが夢にみた世界。
いつか顕現するはずの悪夢。
終末観。
滅びの予兆。
こうであるかもしれない「閉じられた未来」のビジョン。
それを描いてこそのターミネーター。
『T1』も『T2』も、共に1980年~1990年という、世紀末を間近に控えた中で製作・公開された作品だけれども、あの時代、たしかに世界はおかしかった。
マルクスの「資本論」に書かれた理想を愚直に実現しようとしたソ連は、理想に敗れてロシア連邦へ名前を変えた。「強いアメリカ」の象徴であったレーガン大統領は狙撃され、世界はどんどん病んでいった。
日本においても、それは例外ではなかった。私は当時小学生だったけれども、特に世紀末の到来を間近に控えた日本は、病みに病んでいたと、今でも何となくだが感じることがある。
バブルは崩壊し、多くの日本企業が倒産し、阪神・淡路大震災があり、そしてカルト集団は救済を嘯きながら、世界を破壊する為に、東京の地下鉄にサリンを撒いた。
ノストラダムスの大予言は多くの日本人の精神構造を汚染し、アンゴルモアの大王が空から降臨してくると信じる人で、わんさか溢れていた。
今にして思えば、冷静さを著しく欠如した、狂乱にも過ぎる時代。でも実際にそういう時代はあった。多くの人々が「これで世界は終わる」と、半ば本気で予感していた世界が。
そんな世界で、たしかに終末の幕引きを担う可能性のある、甚大な破壊力を司るデバイスが、無言の威圧感を備えて、我々人類を睨みつけていた。
核兵器。
でも、世紀末を迎えても、それが世界中の大陸や海を灼く事態にはならなかった。それどころか、核の保有量は、ここに来て明らかに激減している有様だ。ピークだった頃の冷戦時代に約七万基あった核兵器は、現時点でその数を一万四千基近くまで減らしている。
だからと言って、私たちの住んでいるこの世界が、必ずしも平和に向かっているかというと、そんなことは決してない。むしろ今の時代は、世界のあちらこちらに暴力が偏在化し、テロや内紛の脅威が蔓延する、終わることのない緩やかな絶望に満たされている。
その端緒は、新世紀が到来したばかりの、2001年9月11日に創造された。アメリカの二つのビルに飛行機が突っ込み、グラウンド・ゼロを刻んだあの惨劇が、全てを決めた。
逆説的に言えば、それ以前の世界は、核兵器という巨大にして逃れようのない滅びのビジョンを司る悪魔の兵器が、現実感を伴って存在するのを許されていた時代なのだ。
キャメロンは世代的に言って、冷戦を経験している世代だ。アメリカとキューバの戦艦が睨み合い、核戦争まであと一歩というところまでいった危機的な時代を、その身を以て経験している。
だからこそ、彼の中には『核兵器によって終わる世界』という、強烈な悪夢にして滅びの予兆が、強く、強く、ガチのマジで根付いていた。『T1』と『T2』の間に公開された『アビス』が、核弾頭の回収を巡るサスペンスSFであったことからも、それが伺える。
世界はいつか、核兵器によって滅びてしまうのではないか。
そんな切迫した危機感の片鱗は、すでに『T1』で現れていた。ブラッド・フィーデルが、ターミネーターの「心音」をイメージして、シンセサイザー一本で作曲した、あの実に印象深いオープニング曲。それは聞いた者の心に、死を引き連れる殺戮者の来訪を感覚させ、言い知れぬ不安感を呼び起こしてくる。
そしてキャメロンの悪夢が、具体的な映像となって花開いたのが『T2』だった。
公開から二十年以上経過した今でもなお語り草となっている、多くの観客にトラウマを植え付けた、衝撃的な映像という名の刃。その象徴とも言えるのが『T2』の劇中においてサラが夢見る『審判の日』のシーンである。
平和の象徴であるはずの公園が、筆舌に尽くしがたい爆炎に呑まれるビジョン。核の熱に炙られ、子供たちやサラの肉体は真っ黒な紙くずとなり、骨の一片すら残らない。
オープニング。炎に巻かれるスプリング遊具。炎の衣をまとって四つ並んだそれは、まず間違いなくヨハネの黙示録に登場する「四騎士」をイメージして撮影されている。
あれほどまでに端的に、だが鮮烈に「世界の終焉」を描いた映画はそうそうない。
いつか世界が終わる。審判の日は必ずやってくるというメッセージだけを残し、来るべき世界の崩壊を遠くに見据えて終わる『T1』。そしていよいよ審判の日が迫る中、なんとかして終末を回避しようともがく『T2』
この二つには、明らかにキャメロンの悪夢が、つまり「世界の終末」が映画のバックボーンとして力強く屹立している。
ファンの間では有名だが、じつは『T2』には隠されたエンディングが存在する。一般に「未来公園シークエンス」と呼ばれるその内容は、おおまかに説明すると次のようなものだ。
T-1000を破壊し、スカイネットの脅威が去った後。ロサンゼルスのとある公園。そこでは逞しく成長し、アメリカ上院議員となったジョンが娘と遊び戯れ、それを年老いたサラがベンチに座って、穏やかな表情で見守っている。そして彼女は想いを馳せる。自分とジョンを守ってくれた、あの気高き一体のT-800について――
限りなく美しい世界のカット。だがキャメロンは、この緩やかで安穏としたシーンを撮影し、編集しておきながら、最後の最後にそれをフィルムから取り払った。
それは、映画を撮影し終えたキャメロンの中に、拭いようのない違和感がしこりのように残っていたからに他ならない。
たしかにT-1000は倒した。ダイソン・マイルズも死んだ。スカイネットの脅威は去ったはずだ。
しかしそれで、果たして本当に、滅びの運命が回避されたと言えるのだろうか。
そもそも「運命」という概念は、人間ぽっちの力ではどうしようもない、触れる事すら許されない巨大な壁となって立ちはだかるからこそ、「運命」と名付けられたのではないか。
全ては質の悪い「勘違い」に過ぎず、私たちはまだ、悪夢の中を漂っており、これからもずっと戦っていかねばならない。
キャメロンの、決して楽観主義を許さない、この厳しくも賢明な決断によって、『T2』以降の世界は宙に浮くことになる。
そこに、ジョナサン・モストウやマックGが、自分なりの解釈を含めて続編を製作していったのだが、結果として、ターミネーターという作品を根底から成立させている「終末」の要素を著しく欠いた作品が乱造されることになった。
女性のターミネーターを登場させようが、トランス・フォーマーめいた巨大な機械を登場させようが、ジョンを悪役に据えようが、それはどこまでも、どこまでも、ただの「よくあるSFアクション映画」の枠組みから抜けられない。当たり前の話だ。
いちおう補足しておくと、実は私は『T4』や『TG』はともかく、『T3』は結構好きな映画だったりする。アクション面においてはいい意味でやりすぎな面があるし、トイレットルームでの肉弾戦なんて、キャメロンを彷彿とさせる「重み」の表現がいかんなく発揮されている。
極めつけは、大人になったジョンの設定だ。世界の終末を母から聞かされ、実際に終末へ至る前哨戦を身を以て体験し、あらゆる危難を乗り越えてきた少年。
しかしだからこそ、平和に「なってしまった世界」に違和感を覚えてしまうのは当然で、取り戻したはずの世界そのものの在り方に疑問を抱くようになり、呑気に日常を謳歌する世間に馴染むことができない。ゆえに社会の落伍者に甘んじるというあのキャラクター設定は、今考えてもかなり秀逸だと思う。
そして『T3』で描かれるスカイネットの正体は、これはいまでも十分に通じるアイデアだ。どこか一か所を破壊すれば世界は救われる? そんな簡単にいくはずないじゃないかという、観た者の心を踏み潰すような、苦々しいエンディングを導くのに相応しい設定が、あのスカイネットには備わっていた。
この時点で、リブートされた『TG』は、そのラスボスの設定からして『T3』の後塵を拝しているとしか言いようがないのだ。
だからこそ、『T3』は極めて惜しい作品だ。もし『T3』にキャメロンの唱えた「終末観」が、あの「炎に巻かれる公園」を超える映像が備わっていたら、おそらくは『T2』と同等の傑作映画になっていただろう。
けれどもフォローさせていただくと、こうなってしまうのは仕方ない。
なぜなら我々の住む世界は、結局2000年を迎えても、終末は到来しなかったからだ。恐怖の大王は空からやってこなかったし、核兵器がどこかの大陸に落とされることもなかった。
2019年.今は、どうだろうか。
私たちは、果たして「世界の終末」を信じることができるのだろうか。
答えは、私の中では限りなくノーだ。
低強度紛争が世界を覆い、国よりも企業が力を持つようになり、IT技術の発展に従って、ひとりひとりの行動履歴がネット社会でそれとなく管理されるようになり、あらゆるサービスや情勢が極めて複雑化してしまった世界で、たった一つのボタンを押すだけで世界が終わるだなんて、そんなことをどうやって夢見ればいいと言うのだろうか。
核の脅威とはまた別の脅威が顕現してしまったのが、この2019年の社会であり、そしてその脅威は、一瞬で全てを焼き尽くすような、「悲劇的な救い」をもたらすたぐいのものではなくなってしまった。
だから今、ターミネーター・シリーズを製作することに意味を持たせようとするならば、終末の到来を信じていない私みたいな観客に、圧倒的なほどの「世界のオワリ」を見せつけるような作品でなければならない。
結論から言って、『ターミネーター:新たなる運命』には、それがなかった。タイトルに「フェイト=運命」の名を冠しておきながら、『T1』や『T2』にあった、息苦しいほどの運命のキツさというものは、皆無と言っていいくらいだった。
それになにより、物語として手放しで褒められるような作品でもないと私は思う。
まず、スポットライトを浴びるキャラクターが多すぎる。
「ターミネーター絶対殺すレディ」と化したサラ。未来から救世主を守るためにやってきたグレース。守られ、だが次第に戦士としての自覚を芽生えさせていくダニエラ。そして、ジョンを殺して隠遁生活を送っているT-800。
これが小説や漫画やワンクールの深夜アニメならともかく、尺の決まった映画という媒体でやるには、かなり混み合い過ぎている。それはキャラクター造形だけでなく、アクション面にも現れている。
とにかく動作が混み合い過ぎていて見づらい。だけでなく、動きが軽い。軽すぎる。重みを感じさせるシーンがほとんど存在しない。アクション・カットの多用とカット当たりの時間も短すぎるせいで、スピードはあるけれども、そのぶん軽さに拍車がかかっている。
仮にも『T2』の「正当な続編」を主張するのなら、それはやっぱりキャメロン・アクションのような、「重み」を感じさせるアクションを必然的に求められるはず。
人知を超えた対人間抹殺兵器であるターミネーター同士のアクション。その運動のベクトルには、過剰なほどの重みが備わっていなければならない。なぜなら、ターミネーターは「運命」を重苦しく描いた作品であり、ゆえに付随するアクションもまた、重みある描写がなされてしかるべきではないのか。
でもこの映画のアクションはとても軽い。そして致命的なことに、最新型であるはずのターミネーターREV9のアクションの想像力が欠如している。
あらすじにも書いたけど、REV-9は工場から逃げ出したダニエラたちを追うのに、ブルドーザーに乗って道路を驀進する。
そこでなんでブルドーザーなのか。ただ車を跳ね飛ばしていくシーンを撮りたいだけなのか。だったら『T3』の序盤で描かれた、電柱をなぎ倒してめちゃくちゃに街を破壊していくT-Xが乗るクレーン車の方が、何倍もスリリングだ。
だいたい、RV-9は劇中で判明した能力からして、T-1000とT-Xのイイトコどりという設定のはずだ。これは、ただ液体金属で覆われただけの金属骨格というT-Xの設計思想に、実戦的な力を与える決定的な根拠となる。
なのに、やることが手先を刃に変形させたり、槍を作って投擲したり、拳銃を出して発砲するだけというのは、どうなんだろう。あまりにも原始的すぎやしないか?
視覚的な、そして音響も生かそうとするなら、十本の指先すべてを銃口に変えて扇型の射角で銃撃したり、両腕を電動チェーンソーに変えて切りかかったり、対物ライフルを生み出して狙撃したり、液体金属の鞭でめちゃくちゃに打擲するぐらいのことはやって欲しかった。
なんならジェットエンジンを生み出して、先ほどのブルドーザーを加速させるようなことをやるべきだ。背中から翼を生やして、上空から襲い掛かるのだってありだろう。
小説や漫画じゃないんだし、そこは映像の力でどうとでもなる。というかSFアクション映画なんだから、それぐらいやりきらないでどうする。
原始的な攻撃手段ばかり取っているから、最初は体内に電源システム的なものがないのかなと思った。でも電子機器端末にアクセスしてハッキングしている様子からして、そうではないらしい。じゃあ、なんでもっと派手な、見栄えのいい武器を創造して戦わないんだろう。
といった感じで、とにかくこのティム・ミラーとかいう監督、アクション撮るのそんなにうまくないのかな? と思った次第です。
でも、見どころが皆無かというと、そうではない。そもそも見どころ皆無な映画だったら、わざわざレビューなんて書かない。
『ターミネーター:ニュー・フェイト』の見どころ。
それはなんと言っても、シガニー・ウィーバーと並んで80年代ハリウッド映画の「戦う女」の象徴である、リンダ・ハミルトン。もうこれに尽きるよ。
耐え難き辛酸を舐め続け、重ねてきた苦労の名残を皺に刻み、それでもなお運命に立ち向かい続ける気高き女性、サラ・コナーが、この英雄不在の社会に、突如として現れる。
その圧倒的存在感は、あのシュワちゃんを越えています。
精神を摩耗し、愛する人を全て失い、それでも彼女は闘い続ける。
だからこの映画、ダニエラやグレースよりも、サラとT-800の関係性をもっともっと深く描くべきだった。なんならダニエラやグレースは、この映画にはまるで必要ないとまで言い切れる。
そういう方向に舵を切っていれば、少なくとも画面はすっきり見やすく、でも非常に味わい深い一作になっていたんじゃないだろうか。
リンダ・ハミルトン、そしてシュワルツェネッガーの貫禄を堪能したいという方には、おススメの一作です。




