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【第37回】ジョーカー(途中から警告付ネタバレ有)

『人生は笑えない喜劇だ。でも大丈夫。君の側にはジョーカーがいる』


日比谷のTOHOシネマズで鑑賞してきましたので、軽くレビューしたいと思います。


この映画、エロシーンもなければ残酷なシーンもほっとんどないのに、どうしたことかR-15指定されています。なにもそこまで過敏になることなんてないと思いますが。


結論から言いますと、好きですこの映画。





【導入】

アメリカが誇るDCコミックのバットマン・シリーズにおいて、最恐にして最狂の名を欲しいままにするヴィラン、ジョーカーの誕生を描いた本作は、すでにヴェネツィア国際映画祭で最高賞である金獅子賞を受賞する一方で、アメリカ大手のチェーン映画館が本作の上映に際して警告文なるものを発表したり、劇場を警察や軍隊が取り囲むなど、色んな意味で話題に事欠かない作品になっています。


監督は、二日酔いに端を発するブロマンス・コメディ・ムービーの『ハングオーバー・シリーズ』を手掛けたトッド・フィリップス。『ハングオーバー・シリーズ』は、一作目こそただのコメディでしたが、二作目、三作目となるうちに、純粋なお笑いとは別種の、狂気めいた展開にややシフトしていった作品です。笑いと狂気は紙一重、なんて言いますから、コメディを知り尽くしている方をシリアスな作品の監督に抜擢するのは、別になにもおかしくないですね。


主演は『グラディエーター』『her/世界でひとつの彼女』『ザ・マスター』、そして直近では『ゴールデン・リバー』で向こう見ずな殺し屋を演じた、ホアキン・フェニックス。


今回のホアキン、凄いですよ皆さん。コモドゥス帝を演じていた時の凛々しい姿からはほど遠い、ガリガリに痩せこけた風貌。AIに恋しちゃう男性を演じていたとは思えない、飢えた野犬のような眼差し。変幻自在すぎてとても同一人物には見えません。「人で非ざることに優る」と書いて「俳優」とは、良く言ったものです。


そして脇を固めるのは、皆さんご存知、スコセッシと組んで映画界を席巻したロバート・デ・ニーロ。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』のパチーノに続いてのデニーロ、最高ですね!『マイ・インターン』以降あまり目立った作品に出ていませんでしたが、今回は彼の代表作である『キング・オブ・コメディ』を思わせるワン・シーンが出てきたりなどして、ファンにはたまらない役を熱演しております。


あとは『レッド・スパロー』のダグラス・ホッジが、バットマン・シリーズを代表する萌えキャラのアルフレッド役で出ているんですけどもね、今回のアルフレッドは、すげぇイヤな奴です(笑)。アルフレッドだけじゃなく、トーマス・ウェインも相当な野郎です。ブルースを除いて、総じてバットマン側の面子は、ゴッサム・シティの富裕層を代表するヤな奴らで固められてます。


その他にも『セントオブウーマン/夢の香り』のフランセス・コンロイ、『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』のビル・キャンプなどが出ています。ちなみにこのビル・キャンプというお方、男臭さ満点のマイケル・マン映画の一つ『パブリック・エネミーズ』にも出てたっぽい。でもクレジットがないからチョイ役だったのかな。


製作を担当したのはフィッリップスの盟友であるブラッドリー・クーパー。撮影監督は『ハングオーバー・シリーズ』でおなじみのローレンス・シャー。今回は特にサブウェイ(地下鉄)における光と影のコントラスト撮影が見事です。ここは本当に必見です。





【あらすじ】

世界の何処かに、疲弊しきった、一つの都市があった。


その名は、ゴッサム・シティ。


治安は乱れ、ゴミは溢れ、政治は機能不全に陥り、人々の良心は失墜し、貧者は明日への希望も持てずに今生への恨みだけを残して死んでいく。彼らに本来行き渡るはずだった富やサービスのほとんどは、シティを牛耳る一部の特権階級のみが享受しているという有様だった。


目を覆いたくなるほどの格差社会。しかしそんな世の中でも、心優しい青年、アーサー・フレックは、「脳機能の障害で発作的に笑いが出る」という変わった障害を抱えながら、年老いた母と貧しくも慎ましい生活を送っていた。


アーサーの母、ペニー・フレックには、ゴッサムの代表的な富裕層の一人、トーマス・ウェインの屋敷で働いていたという過去があり、今の自分達が置かれている現状を知れば、トーマスが必ず力になってくれると信じ、援助を望む手紙を送り続けていた。


しかし、トーマスからの連絡は一向に来ない。気落ちする母を支えながら、アーサーは今日も仕事に精を出す。


大道芸人派遣プロダクションに所属するアーサーの夢は、人気トーク番組「マレー・フランクリン・ショー」の司会を務める大物タレントのマレー・フランクリンのような、皆を笑顔にするスタンダップ・コメディアンになることだった。


夢に近づこうと地道な努力を重ねるアーサー。しかし、ひたむきな彼の姿勢を嘲笑うかのように、ゴッサムに住む心無い人々は、容赦ない悪意を彼にぶつける。


ある日、ピエロに扮して楽器店の閉店セールスの呼び込み営業に励んでいると、突然、不良少年の集団に呼び込み用の看板を奪われてしまう。アーサーは必死になって追いかけるも、待ち伏せに遭い、一方的に暴行を浴びせられるという、理不尽な悪意に晒されてしまう。


不良少年たちが去った後、ボロボロになって地面に横たわるアーサーの胸に去来するのは、羞恥、悔しさ、失意――どうして自分がこんな目に遭わなければいけないのだ。何も悪い事などしていない。ただ、皆に笑顔になって欲しくて、頑張っているだけなのに――


澱のように溜まる鬱屈した感情は、すっかり習慣になっている福祉センターでのカウンセリングを受けても、一向に良くならない。


精神病院にいた頃の方が、ずっと良かった。思わずそう口にするアーサーに対して、カウンセラーは何一つとして優しい言葉をかけようとはしない。「仕事だからこんなことをやっているが、アーサーみたいに突然笑いだすような気持ち悪い奴とは、本当は喋りたくもない」……と、そう無言で告げるように、カウンセラーの眼差しは冷たいものだった。


不良少年たちに暴行された翌日、アーサーは芸人仲間のランドルから、護身用として一丁の拳銃を譲ってもらう。しかし、それが悲劇の始まりだった。小児病棟のレクリエーションで、いつものピエロの恰好で仕事に励んでいたアーサーは、うっかり、腰に差していた拳銃を落としてしまうのだった。


病院に拳銃を持ち込んだことをプロダクションの社長から咎められ、ランドルから譲って貰ったのだと説明するアーサー。だがランドルは保身のために、アーサーが自分から購入したのだと嘘をつく。


仲間だと思っていたはずのランドルに裏切られてしまうアーサー。社長はアーサーの言い分に耳を貸そうとせず、無慈悲にもクビを宣告する。


なんでだ。どうして、どうして何もかもが思い通りにならないんだ――苛立ちを募らせていくアーサーは、帰りの地下鉄の中で、酔っ払いの三人のサラリーマンが、一人の女性に絡んでいる様を目撃する。


居ても立ってもいられなくなったアーサーは、自らの特技にして特徴である奇妙な笑い声を上げて、サラリーマンたちの意識を自分のところに逸らし、その間に女性を逃がすことに成功する。


だがその代償として、ナンパを邪魔されたサラリーマンたちの容赦ない暴力がアーサーを襲う。


なに笑っていやがる?――この化物野郎――心無い言葉を浴びせられ、殴られ、蹴られ続けているうちに、アーサーの精神の防波堤には亀裂が入り、それはあっけなく瓦解した。


怒りに駆られるがまま、アーサーは隠し持っていた拳銃で、躊躇なくサラリーマンたちを射殺すると、その場から逃走。生まれて初めて人を殺した事実に、最初こそ戸惑い、自分がとんでもない過ちをしてしまったのではないかと恐怖するも、次第に、その感情は薄れていく。


初めからこうしておけばよかったのだ――社会に対する恨みを力に変えたのだ。この貧相な自分が。その事実に昂揚とした気分になるアーサー。


その翌日、地下鉄で起こった殺人事件の報道で、彼は知ることになる。自分が手にかけたあの三人のサラリーマンが、ゴッサムを代表する大企業・ウェイン産業に勤めるエリート証券マンであることと、自分の行動が契機となって、貧民層の暴動が激化していることを。


ニュース画面に映し出されるのは、次期市長選に臨むトーマス・ウェイン。都市の権力者たる彼は、悪徳がのさばるゴッサムの現状を変えなければならないと宣言し、都市を破壊の渦に呑み込もうとする貧民層たちを「ピエロの仮面を被り、自分を偽らなければ何もできない卑怯者」として罵り、それがかえって、貧民層たちの暴動にますますの拍車をかけていった。


己の行動が契機となって暴動に明け暮れる貧民層を見て、アーサーの気分はこの上なく満たされていった。今まで自分は、社会に存在しないものと思っていた。精神を患った自分に、世間は優しい言葉をかけるどころか、その存在に気づこうとすらしなかった。だが、状況は変わった。現代の貴族とも言うべき証券マンの殺害が、全てを転換してくれた。今やゴッサムの名士たちは慌てふためき、恵まれない人々は武器を手に立ち上がっている……それは紛れもない、自分が突発的に起こした殺人をきっかけに発生したのだ。そのことが、アーサーを嬉しくさせた。なぜなら、いま、この状況こそが、ゴッサムに「自分が存在している」ことの証明に、他ならないからだ。


地下鉄殺人事件の犯人を警察が捜査する中、高揚感に溢れるアーサーは、以前から恋い焦がれていた隣に住んでいる未亡人・ソフィーにアプローチを仕掛け、二人は晴れて恋人同士になる。


歪んだかたちとは言え、人生の軌道がうまいこと乗り始めた、そんな矢先のこと。アーサーは、母がいつもウェイン家に送っている手紙の内容を、好奇心を抑えられずに盗み読んでしまう。


そこに書かれていたのは、今まで母から聞かされていたのとは全く違う、自らの出生にまつわる驚愕の真実だった――


後に、ゴッサムに悪意の種をばら撒き、数々の凶行に手を染め、悪徳の頂点に君臨することになる男、アーサー・フレック。


彼は、いかにして偽りの仮面を剥ぎ取り、「ジョーカー」となったのか……その全ての謎が、いま明らかになる。





【レビュー】

無敵の人、という言葉があります。


おそらく似たような言い回しの言葉は昔からあったんでしょうが、フューチャーされるきっかけとなったのは間違いなく、今年の五月に発生した川崎市登戸児童連続殺傷事件でしょう。


職もなく、金もなく、友もおらず、愛する人もなく、誰からも愛されない、孤独を煮詰めた者の心の中にある弱さが、狂気という名の刃になって、他者へ向けられる。


ある種のテロだという人もいますし、死ぬなら一人で死ねと、極端な結論を掲示する識者もいます。


でも、無敵の人って本当はなんなんだろうか。失うモノがなければ、守るべきモノがなければ、人は己を省みることなく、心の底から残酷になれるのだろうか。


私は、とてもそうは思えません。ニュースから受け取った印象だけで語れば、あの川崎市の事件の犯人は、ディスコミュニケーションに苛む己を哀れみ、ナルシスティックに――それこそ『エヴァ』以降の創作物に良く見られるキャラクターのように――「健康的に」病んでいただけじゃないでしょうか。


自らの置かれた境遇を恨み、そのエネルギーを、社会という名の「ボリュームだけは立派な、曖昧とした器」にぶつけるしかなかったんじゃないのか。


それってどこが「無敵」なんだろう。ただ弱いだけじゃないでしょうか。そもそも人は本当の意味で「無敵」になれるんでしょうか。


人間、失うモノが何もないと言いながら、最終的には「自己」という「もっとも自意識に近い他人」を、誰しもが心の中に飼っているものです。「自分が一番可愛い」という言葉があるように、誰もが心の中に「自己」を宿していて、ゆえに自分中心で、主観で、物事を見て判断しようとする。


それは言い換えるなら、心の中に飼っている自意識を……すなわち「自己が自己として社会に存在していることを認識している」という当たり前の状況を、何かの弾みで完全に破壊されてしまった時、人は本当の意味で「無敵の人」になれる素養を獲得するのではないか。


本作『ジョーカー』は、そういうことに気づかせてくれる作品です。


監督自らが公言するように、本作はロバート・デ・ニーロの代表作である(その割にはなんか世間の評価イマイチで、とても不満なのだけれど)、コメディアンを目指す中年オヤジ、ルパート・パプキンが人気者になろうと狂気めいた言動に走っていく『キング・オブ・コメディ』から強い影響を受けているのは、一目瞭然です。


ですが、似通っているのは「スタンダップ・コメディアンになりたい」という背景や、途中途中の演出に限られており、実はキャラクターの行動過程を見比べてみると、ジョーカーとパプキンでは似て非なるものがあります。


母親と交流せず、妄想の産物で塗り固められた自室にこもり、延々と一人漫才に没頭するパプキンは、明らかに「現実」を「妄想」の力で塗り替えようとしており、その果てに現実と妄想の境界をごちゃごちゃにしています(世間では鬱映画として有名な『ダンサー・イン・ザ・ダーク』も近い事をやってるんですね)。


しかし、ジョーカーことアーサー・フレックは違います。彼が踊るシーン、彼が笑うシーン、その全ては映画内における現実世界の出来事です。


たしかに途中、憧れの大物タレントと抱き合ったりするなど、明らかに『キング・オブ・コメディ』のオマージュが散見されますが、それは妄想と現実の区別がつかないというよりも、むしろ「こんな風だったらいいなぁ」という、切実な描き方がされています。


フリークスとして描かれていたティム・バートン版でもなく、悪しき摂理の賢者として人心を搔き乱す、理性的な狂気の体現者という「フィクショナル」な存在としてのノーラン版でもない。アーサー“ジョーカー”フレックは、まごうことなき「現実を生きる人」なのです。


妄想の世界に決して「逃げる」ような真似はせず、現実の世界で笑い、現実の世界で踊り、現実の世界でジョークを飛ばすアーサー。しかし彼が生み出す笑いは、このゴッサムという腐った街で生きる人々の心に、掠りすらしないのです。なぜなら、社会が「普通」と定めている人たちとは、感性が違うから――それでも彼はひたむきに笑い続けるのです。それが、彼なりの「現実との戦い方」なのです。


そのあまりにもカッコよく、クールで、でもどこか惨めで物悲しい生き様に、私は心の底から感動しました。


現実。そう、この映画は、その美術背景や光と影の特殊効果において、その全てが1970~80年代、あの当時たしかにあった「現実の風景」を、ものの見事に再現しています。カーキや茶色に限定した抑えめな色使いは当時のファッションを反映させたものであり、年代物の車両が行き交う様などは、アメリカン・ニューシネマの代表的作品である『タクシー・ドライバー』のセットを彷彿とさせます。


しかしながら、この極端に二極化された世界観は、果たしてどうでしょう。この映画には「貧困層」と「富裕層」のたった二種類の人々しか登場せず、中産階級に位置する人々を徹底して画面から消しています。


この手の表現において今なお有名なのが、あの『ブレードランナー』。本作は時代背景が四十年近く昔にも関わらず、かの偉大な映画がフィクションの世界で規定してしまった「こうであるかもしれない暗澹たる未来」の具象化に近いものを感じます。


それまで映画の中で描かれてきた「未来の風景」とは、極端な話をすればユートピアかディストピアであるかがほとんどでした(『マイノリティ・リポート』はそこのところが違う。中産階級が出てくるので)。なかでも『ブレードランナー』はディストピア物の金字塔として、今なお呪いとも言うべき強い影響力を及ぼしていますが、本作はそれと似たような社会構造を漂わせつつ、ですが決定的に違うものがあります。


それは「誰もかれもが管理/運営することを放棄した世界」を描いているという点です。


この映画には、民衆の言葉を規定して言語を「管理する」ビッグ・ブラザーもいなければ、タイレル社のように、レプリカントたちを「管理する」巨大企業が、画面の中で立体的に描かれているわけでもありません。そのような、象徴としての敵が存在する社会構造の中で貧者が生まれているのではなく、具体的な敵が不在な世界――つまり、皆が都市の運営に「乗り気ではない」から、こんな有様になっていると訴えかけてきます。


権力者たちは暴動から目を背けて、ホールにこもって映画を観て(しかもこの映画が、よりによって『モダンタイムス』なんだよなぁ)現実から逃げるように馬鹿笑いをするばかり。彼らに混じるトーマスもまた、ゴッサムで暮らす富豪の一人でしかない描き方をされており、明確に打ち倒すべき敵としてのポジションを約束されてはいません。


「貴方たちの希望は私しかいない」――劇中でトーマスが貧困層へ向けて言い放つ、この独善的な台詞から読み取れるのは、彼は貧困層の中から優秀な人材を取り上げようとする気はなく、どこまでも「現状維持」であろうとしているってことです。


それのどこが「都市の運営」と言えるのか。


彼はただ、自分の家族を守るために市長になろうとしているのであって、口では色々言ってますが、格差社会を改善しようとする意識が欠如したかたちに描かれています。


そして……本来なら人々に笑いを届け、歪んだ心に一服の清涼剤を与えるはずの人気コメディ番組は、自らの番組を「上品」と謳っておきながら、売れない、ウケないコメディアンを嘲笑し、視聴率を稼いでいる。


都市を運営するべき富裕層たちは、そのハンドルを手放し、ただただ、自分に近い世界だけを守ろうとする。それが社会全体へ配るべき目を曇らせ、誰もかれもが管理を放棄した世界で、民衆は混乱のままに、無軌道に暴れ回るしかない。


美術背景は「かつてあった現代」を忠実に再現していながら、そこで描かれている社会構造は、「身近さを感じさせるリアル」というにはあまりにも救いようがなく、袋小路で、ゆえにどこか浮足立つような感覚に襲われます。


しかし、そんな「リアルなんだけどリアルじゃない」世界で、アーサーがぶつかる障害の数々「だけ」が、この我々が生きる「現実の社会」に通じるある種の理不尽さに満ちているから、なおのこと辛いのです。


先行き不透明な、道とも呼べない道を爆走する暴走列車と化した都市・ゴッサムは、悪意ある社会の象徴として、アーサーという個人「だけ」に牙を剥きます。


このことからも分かるように、本作は、かつて60年代~70年代に流行した「個人が個人として自由に生きようとするが、社会がそれを許さない」というアメリカン・ニューシネマとしての流れを汲みつつ、ニューシネマの潮流に終止符を打った『ランボー』や『ロッキー』的な展開に近い、「個人が社会に牙を剥く」という着地を決めてきます。


その発端となるのが、アーサーの「闇落ち」、すなわちジョーカーへの目覚めであるわけですが、ここで問題になるのが前述した「無敵の人論争」です。


えー、ここからはどうしても「盛大なネタバレ」をぶっかまして話さなければいけないので、すみませんが、一刻も早く本作を観たいという方は、ここでブラウザバックしてください。

















































































































では、改めて。


育った環境が悪いから、障害があるから、見捨てられた存在だから……そのような「ありきたりな」転落の免罪符をぺたぺたと貼っていき、その結果として「ジョーカー」が誕生しただけじゃないか、という批評を目にしますが、なんだかそれは違う気がするのです。


ただただ、陳腐にして不幸な設定を積み重ねているだけと見せかけて、トッド・フィリップス監督は、腹黒い最大の仕掛けを残していました。


それは、アーサー・フレックという一人の男が、トーマス・ウェインの子供でも、ペニー・フレックの子供でもなく、「どういう経緯で生まれた人間なのか、まるでさっぱり分からない」という、身も蓋もない真実の暴露にありました。


本当の母親も、父親すらも分からないとか、そういう次元の話じゃないんです。「こうこうこういう経緯でこういうキャラになりました」っていう、わざとらしい設計図に基づいた答え合わせすら、アーサーにはできないんです。


そもそも、本当の両親を知らなくて施設に預けらたり養子に出されている子供たちは、物語の中においても、私たちが生きる現実の世界にも沢山います。しかし彼らの全てが犯罪を犯す訳では当然ありません。自らの手で社会を切り拓き、自分の居場所を探し当て、貧富の差に関係なく社会に根を下ろして生活する。そういった方々がほとんどのはずです。


しかし本作では、アーサーにはそういう障害を打破する生き方が「許されない」という描き方がなされています。


見捨てられたのだと錯覚し、恨むべき人物がいると思い込んでいるうちは、まだマシだったんです。怒りのベクトルがはっきりしていたし、それを糧に「生きて」いけるのですから。


でもそもそも、その恨むべき人物など最初からいなかったと知ったら? 不満をぶつける相手や、愛を乞う相手や、自分のいるべき場所など、「己が生まれる以前から」用意されてなどいなかったと知ったら……果たしてどうなるでしょうか。


育ってきた環境が悪かった。だから生まれ持ったニュートラルな人格が負の側面に傾いた――そうではなく、そもそもゴッサムという社会環境にとって、アーサーの誕生は「予期せぬもの」だったのです。彼を受容する集合的にして寛容的な意識が、そもそも最初からゴッサムにはなかったのです。


なにかの弾みで「人生」という名の椅子が、壊され、あるいは奪われたのではなく、ましてや何者かの思惑で、座るべき椅子を挿げ替えられたわけでもない。最初から「それはなかった」のであり、本当のところは、ずーっと我慢して空気椅子に座り続けていただけなのです。自分の居場所を社会に見つけようとして見つからないんじゃないんです。見つけようとしても「そもそも最初から、そんなのはなかった」のです。


コツコツ地道に頑張って、優しさを忘れずに生きていれば、いつか報われる……そんな「可能性」など、この「間違って生まれてきた世界」には、最初からなかった。


哀れなんてものじゃない。同情したくても、どうやって同情すりゃいいんだよこんなの。本当に悲劇を通り越して「滑稽」としか言いようのないこの展開に、私は唖然としてしまいました。こんな絶望と言うには生ぬるいほどの絶望を、たった一人の善良な男に背負わせるなんて、本当にフィリップス監督は酷い人です(誉めてます)。


棄民ならぬ「棄児」としての烙印を押されたアーサーは、健康的に病むことすら許されない。彼の居場所があるとするなら、それはどこまでも暗く、音も光もない、人との触れ合いすらない、同情という偽善的感情すら立ち入ることを許されない、虚無の世界に他ならない。


みなさん。これが本当の「無敵の人」なんですよ。


自己が自己として社会に存在しようにも、そもそも生まれる以前からキャパオーバー。その事に他ならぬアーサー本人が気づいてしまった。ゆえにこの瞬間、アーサー・フレックという名の「自己」は変容を遂げて、虚無の世界へ落ち、そこから「ジョーカー」として這い上がってくる。


つまり本作は、ジョーカーの「誕生劇」であるのと同時に、アーサー・フレックの「復活劇」でもあるのです。


誰かの為に笑うのではなく、この滑稽でどうしようもない人生を「自分だけの喜劇」にするために、そう、自分のためだけに、ジョーカーは笑い続けます。


ジョーカーとして生まれ変わった彼が社会を破壊するのに、人を殺すのに躊躇しないのは当然です。自分の居場所をつくろうとして行動しているからではないからです。「生まれてきた場所を間違えたから、じゃあ何をしたって別にいいよね」……ただそれだけなんです。


どこにも居場所が見つけらないのではなく、どこにも居場所が「用意されていない」という「喜劇」。その象徴的な場面として描かれているのが、マレー・フランクリン・ショーのゲスト出演シーンでしょう。「あんたの座るべき椅子なんて始めからないよ。おもちゃ感覚でレンタルしただけだよ」という底意地の悪い目的を、あの場にいる司会者、他のゲスト、観客、そしてスタッフたちが無意識に共有している事実に対して、ジョーカーがああいった行動をとるのは自然のことなのです。


マレーを銃殺するシーンは、本来ならたっぷりの悲壮感を込めてやりそうなところです。「あんたに憧れていたのに」とかなんとか、その手のお涙頂戴的な台詞を口にしてもおかしくない。でもそんな、観客の同情を誘うような、あざとい台詞を吐いたりはしません。


「間違って生まれてきた世界」に対して、暴力的にして毅然とした態度をジョーカーは取り続け、少しの怒り(・・・・・)と、それに勝る圧倒的高揚感で瞳を輝かせながら、平然と銃の引き金を引いてしまいます。


なんと軽く、そして明るいのか。いや、明るいといえば、出演前に髪を染め、化粧をして、楽しそうにダンスし、歌っている段階から、すでにジョーカーは明るいのです。そんな彼を観ることが、これほどまでに癒されるとは思いませんでした。


その健気な姿は、自分の存在に見向きもしなかった「社会への反逆心」以上に、この「間違って生まれてきた世界」を、自分なりに、悪党として前向きに生きてやろうじゃないかという、決意の表れに他ならないのです。


この映画の結末は、実に『ジョーカー』らしい、そして『タクシー・ドライバー』や『キング・オブ・コメディ』がそうであったように、夢か現実なのか、曖昧とした描かれ方をしています。全ては精神に異常をきたした哀れな患者の妄想に過ぎない……そのような受け取り方もできるでしょうが、きっとそれは、監督がしかけた「安全策」なのです。


これを「本当にあった物語」とするにはあまりにも虚無感が強すぎるし、ああいったオチでお茶を濁すという選択肢もわかります。


ですが、そのオチに関係なく、観客たちは画面の中に確かに見るのです。アーサー・フレックという、一人の男の確かな生き様を。


「お前の座る席なんて最初からねーから!」と告げられて、上等だよと。だったら俺は俺のためだけに立ち上がって(スタンダップ)、この世界を面白おかしく生きてやるぞと。


私は涙しました。そして安心しました。


これから先、どれだけ人生が続くか分かりませんが、きっと辛い出来事が山のように待ち受けているに違いない。社会を生きるのに疲れて、もう全ての事がどうでも良くなる……そんな風に思う日が、きっとやってくる。


そういう時、私はこの映画を観直すのでしょう。そして勇気づけられるに違いありません。


ジョーカーは「本来生まれるはずではなかった世界」に生まれ落ちてしまいましたが、それでも自分なりのやり方で、ゴッサムという名の「みんなが諦めた世界」を、笑い飛ばして生き続けます。彼は確かに法律で裁かれるべき悪人には違いありませんが、その前向きな生き方は、見習うべきところがあると私は思います。


人生は笑えない喜劇です。しかし決して悲観することはないのです。


なぜなら、いつだって私たちの側には、(ジョーカー)がいるのですから。


だから私は、あえて言います。


全ての人に、おススメの映画であると。

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― 新着の感想 ―
[一言] この作品は私も評価するし、世間の評判もよろしいが 映画館で見てて、この作品こそバットマンワールドでなくてもいい映画じゃないかって思ってました あまりにもテーマが普遍的すぎて単に生きづらい青年…
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