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【第36回】★アイネクライネナハトムジーク

『細やかな日常、それを支える長回しの勇気』


日比谷のTOHOシネマズで鑑賞してきましたので、軽くレビューしたいと思います。


久々の伊坂幸太郎原作映画。首をながーくして待ってました。



【導入】

出版不況が叫ばれる現在でも絶大な人気を誇り、これまで何度も本屋大賞、直木賞候補にノミネートされてきた伊坂幸太郎。その彼が唯一執筆した恋愛小説短編集『アイネクライネナハトムジーク』がついに映画となって公開されました。


監督は『愛がなんだ』が口コミヒットしている今泉力哉。恋愛映画の名手だそうです。実は監督の映画を鑑賞するのは今回が初めてです。邦画はほとんど観ないので、失礼ながら名前を聞くのもこれが初めてでした。


主演は三浦春馬と、たべちゃんこと多部未華子。多部未華子は伊坂幸太郎原作映画『フィッシュストーリー』にも出ていたんですが、その頃と比べると――その時もめちゃ可愛かったけど――暴力的なまでに可愛いくなってます。どちゃくそ可愛いです。なにあの笑窪。ぷにぷにしてぇ。


あとは原田泰三が主人公の上司役で、妻と子供に逃げられる中年サラリーマン役をやってるんですが、この人も『ジャンプ』の頃からいい意味で変わってないというか、朴訥としていながら『無神経なキャラ』をうまく演じられていて、相変わらずの安定感でした。


今回はネタバレ有のレビューになります。





【あらすじ】

マーケットリサーチ会社でシステムエンジニアとして働いている佐藤は、ある日の夜、仙台駅前の広場で街頭アンケートを取っていた。忙しなく歩く人たちのほとんどは佐藤の呼び止めに応じず、アンケートを無視して、足早に去っていく。


途方に暮れる佐藤。その時、わっと一際大きな歓声がすぐ近くで上がった。顔を向けると、街頭ビジョンに、日本人プロボクサーのウィンストン小野と、アメリカのヘビー級チャンピオンとのタイトルマッチの一戦が映し出されていた。




「美奈子ちゃん、良かったらうちの弟と付き合ってみない?」


美容師の美奈子は常連客の板橋香澄からそう持ち掛けられ、なんと口にしてよいものか分からなかった。「喉が渇いてるならこのジュースをあげるよ」とでもいうような、あまりにもさらっとした口調だったから、結局携帯の番号を教えてしまった。けれども、今すぐに結婚したいと躍起になるほど、飢えているわけではないのだ。


その日の夜、美奈子の携帯に見知らぬ番号から電話があった。香澄の弟からだった。香澄が何を考えているのかわからないが、どうやら弟と自分をくっつけようとしているのだろうとは分かった。


その電話をきっかけにして、美奈子は香澄の弟と連絡を取り始める。顔も下の名前も知らない相手と話すのは新鮮で、少しだけときめいたりもしたが、だからと言って結婚願望に結びつくことはなかった。


ある日、美奈子は香澄に呼び出され、香澄の弟が、今度開催されるボクシングのヘビー級タイトルマッチ戦で、挑戦者のウィンストン小野が王者に輝いたら、美奈子に結婚を申し込むつもりであることを知らされる。


「それって、他力本願じゃないですか」と、その煮え切らない態度を若干不快に感じて、美奈子は席を立ってしまうのだった。




「俺、出会いが無いって理由が一番嫌いなんだよ。何だよ、出会いって。知らねーよ、そんなの」


大学時代の友人である織田夫妻の家に遊びに行った佐藤は、酒の席で彼女がいないことを話の流れから不意に告白する。


なかなか出会いがなくて――言い訳を口にする佐藤に対し、織田一真は上から目線で、教え諭すように口にした。


「出会いとかそういうのはどうでもいいんだよ。後になって、『あの時、あそこにいたのが彼女で本当に良かった』って幸運に感謝できるようなのが、一番幸せなんだよ」


何が言いたいのかさっぱり分からないと横やりを挟む妻――織田由美をよそ目に、佐藤は思う。そんなもんだろうかと。




ゴングの響きと同時に、二人の男がぶつかり合う。一人はボクシングヘビー級チャンピオン、オーエン・スコット。もう一人は挑戦者、ウィンストン小野。


引き締まった体を素早く動かし、風を斬るように拳を振るう。スピードだけじゃなく、パワーやテクニックでも自分の上をいくオーエンに対し、必死に食らいつく小野。ボクサーにしてはどこか幼さを感じるその整った顔も、今は勝利への執念に歪んでいる。


この試合に勝てば、日本人初のヘビー級チャンピオンになれる。


しかし小野には、その栄えある名誉以上に、絶対に負けられない理由があった。




地方都市・仙台を舞台に、小さな小さな夜を積み重ねていく人々の物語は、まだ始まったばかりだ。






【レビュー】

伊坂幸太郎の作品と出会ったのは、私が高校一年生の時でした。


高校の入学祝いとしてラジカセを買ってもらった私は、当時、NHKのオーディオドラマ『青春アドベンチャー』に勉強そっちのけでハマっていました。


神林長平や宮部みゆきや村山由佳や野尻抱介の作品を知ったのもこのラジオドラマがきっかけで、今にして思うと、私の『物語を楽しむ姿勢』の基礎中の基礎を作ってくれたようにすら感じます。


その『青春アドベンチャー』で放送されていた作品の中に『オーデュボンの祈り』というのがありまして、これが偶然にも、私が生まれて初めて聞いたラジオドラマだったんです。


コンビニ強盗をはたらいた末に、なぜか宮城県沖にある謎めいた島に流れついた主人公。その島には人語を操り未来を予言するカカシや、人殺しを合法的に許された男や、マツコ・デラックスもびっくりなぐらいの巨大な体を持つ「ウサギ」という名の女性や、嘘しか口にしない風変わりな画家などが住んでいる……そんな最中、未来を予言できる能力を持つカカシがバラバラにされた状態で発見される。未来を予言できるはずのカカシは、なぜ自らの死を予言できなかったのか……


それまで司馬遼太郎をはじめとする歴史小説しか読んでこなかった自分にとって、『オーデュボンの祈り』のラジオドラマを耳にした時の衝撃といったら凄まじかった。


世の中にはこんなに面白い作品があるのか、いつか原作の小説も読んでみたいなと思って、翌日、何の気もなしに学校の図書館に向かったら、たまたま『オーデュボンの祈り』の文庫本が置いてあって、これは運命だと勝手に思い込んだ私は、勢い込んで借り、活字の海に没頭しました。


翌日小テストがあろうが、睡眠不足になろうが関係なかった。とにかくワクワクが止まらなくて、この世界観をもっと楽しみたくて、時計の針が夜中の三時を過ぎても、構うことなく何回も何回も、繰り返し繰り返し読みふけりました。


高校一年生だった私を虜にした『オーデュボンの祈り』。それを書いた小説家の名前を、私は古文の助動詞や三角関数の公式なんか後回しにして、真っ先に頭に焼き付けました。


伊坂幸太郎――西村京太郎と同じ画数を持つ、ジャンルに依らない『誰も読んだことのないような作品』を作り続ける天才。


『オーデュボンの祈り』と出会って以降、私は東野圭吾よりも宮部みゆきよりも神林長平よりも山田風太郎よりも村上春樹よりも、そして言っちゃなんだがあれほど文体に影響を受けている冲方丁よりも、伊坂幸太郎にドハマリしました。


新作が出たら、なけなしの小遣いで単行本を買って読みふけり、そのニ、三年後に出る文庫本も買って単行本との違いを楽しみ、インタビュー記事が新聞に掲載されたらスクラップにしました。『SOSの猿』が朝日新聞で連載された時は、わざわざ親に言って読売から乗り換える始末。エッセイも当然購入しました。およそ十年前に河出書房新社から発刊された伊坂幸太郎の総特集本は、すっかり色あせてしまったけれど、今でも私の宝物です。


さて、伊坂幸太郎と言えば、東野圭吾や宮部みゆきと同じくらいに、映画化されている作品が多い事でも有名ですが、はっきり言いますと、単純に映画としてそこまで面白いか?と言われたら首を傾げます。


『陽気なギャングが地球を回す』は原作のコメディタッチな雰囲気はなりを潜め、ケイパーモノとしての舵を切っています。それはいいんです。しかし物語の推進に全く必要のないはずのラブロマンスを無理やり絡めて、それが響野の『理屈じゃ納得できねぇ大人もいるんだよ』という、この作品の本質を言い当てる台詞の欠如を間接的に引き起こしています。


『グラスホッパー』も同じく、たしかに菜々緒はフロイラインにいそうな、いかにも冷徹そうな女を演じるにぴったりな配役のはずなのに、演出が安直で魅力が半減。一番許せないのは蝉のナイフ・アクションです。アクションを魅せるならそれで構いませんが、この映画はナイフ・アクションのレベルにおいて『アジョシ』の足下にすら及んでいません。


唯一『アヒルと鴨のコインロッカー』と『ゴールデンスランバー』はいい線言っていると感じます。特に前者に関して言うなら、普通に映像化したら開始十分で大ネタがバレそうなところを、カットと編集を上手く使う事でうまいことやってます。


でもそれだけです。感心はしましたが、それが感動には結びつかなかった。すでに原作を読んでいるから? 違います。小説と映画ではイマジネーションを引き起こす文法が全く違うのですから、小説で得た感動や興奮とは全く別の、観ているこちらの心を揺り動かす何かが、映画にはあってしかるべきだ。私はそう考えています。


ですから伊坂原作映画を評する際に時たま聞こえてくる「原作を越えられなかった」という言い分は、私からしてみれば不適当。正確には「原作のバランス感覚を投影できなかった」とするのが正しいのです。


思えば伊坂幸太郎の作品は、恐ろしいくらいにバランス感覚に長けています。レイプを扱った『重力ピエロ』に、外国人差別を扱った『アヒルと鴨のコインロッカー』、家庭問題を扱った『チルドレン』、国家権力の暴走や監視社会を描いた『モダンタイムス』と『ゴールデンスランバー』と『魔王』と『火星に住むつもりかい?』、人間の死を取り扱った『死神の精度』、反戦のメッセージが込められた『夜の国のクーパー』……普通の人が書いたら、深刻な問題をただただ深刻に書くしかないこれらのテーマを扱っていながら、伊坂幸太郎の作品はどこか軽妙洒脱で、ユーモアを忘れないキャラクターで溢れている。しかしそれは決して、シリアスな展開から逃げようとしていることの裏返しではありません(死神の精度とモダンタイムスとゴールデンスランバーのビターな結末を読めば分かる)。現実の困難さを乗り越えるために、日常に付きまとう不安を脱色するために、そういったユーモア的展開を配置しているにすぎず、そのユーモアとシリアスの成分が、恐ろしいバランス感覚の下に同居しているのです。


伊坂作品の真骨頂は、意図的に物語的脱臼を繰り返しながらも、読者の予想もつかない地点に着地するところにあります。この作家は、他の人がやろうとしていることを決してやろうとしないんです。掘り尽くされたはずと誰もが思い込んでいる鉱山から、誰も見たことが無いような金脈を掘り当てることに執心し、実際にそれが成功する一方で、時にそれが裏目に出てしまう事もある。


私は熱心な伊坂幸太郎のファンですが、そんな私からしても、さすがに『陽気なギャングの日常と襲撃』の「あるシーン」に対しては「それはご都合過ぎやしないか?」と首を傾げましたし、『マリアビートル』の、殺し屋同士が雑誌を盾にしてナイフを捌くシーンを脳裡で想像すると、どうにも滑稽に思えてしかたない。


伏線の回収をゲーム的に処理してしまうことに重点を置き過ぎたがあまり、物語的なおもしろさが疎かになっているという批判も、まぁ分からないでもない。


今回映画化された『アイネクライネナハトムジーク』も、実はそんな「伏線回収」と「繋がり」を、やはり物語的脱臼を繰り返して構築している様が目立つ作品で、ともすればそれに逃げている、とも思われかねない作品だと個人的に思います。


なんでそんなことになったのかといいますと、作品の根底に流れるテーマが『恋愛』だから。そう、この『アイネクライネナハトムジーク』、今まで超能力者だとか殺し屋だとか犯罪チームだとか死神だとかを出してきた伊坂幸太郎が、生まれて初めて書いた(そしておそらく唯一になる)恋愛小説なんですよ。


あの当時、多くの伊坂ファンは、新作の連作短編小説のテーマが『恋愛』と聞いてびっくりしたはずです。は? あの超能力者とか殺し屋とかしゃべるカカシとか孫悟空とか平気で出してた人が、いまさら恋愛小説? え? え? え?


私もそうとう困惑しました(笑)。だってこれまでの伊坂作品を読んでいたら、とてもじゃないが伊坂幸太郎が恋愛に興味を持っているようなタイプには到底思えないから(笑)。どーやって書くんだよと逆に興味が湧いて仕方なかった。


たしかに伊坂作品には魅力的な夫婦や恋人というのが多数登場しますが、それは愛や恋といった幻想的な情によって保たれているというよりも、「奇妙な運命共同体」として描かれている側面が強かった。『呼吸』における潤也と詩織ちゃんの関係性が、夫婦的というよりかは「仲間」的な描かれ方をしているところからも、それが伺えます。


そんなわけで、真正面から恋愛を描こうとするはずのない伊坂幸太郎。『アイネクライネナハトムジーク』では、ほとんど苦し紛れとでも言っていいくらいに「恋愛=出会い」ということで、「出会い」に着眼点を置いた短編が揃えられています。


思えば多くの恋愛小説が、出会って恋が成就するまでの話を書くことばかりに終始しています。あれだけリアルな調子で話を進めていた深夜アニメ『月がきれい』でも、その垣根は最後の最後まで飛び越えられなかった。


けれども、伊坂幸太郎はそこを軽々と飛び越えてくる。王道の恋愛物語はすでに他の人がやってるから、自分はちょっと違った視点で恋愛を書こうとでもいうような軽やかさ。この「軽やかさ」が伊坂幸太郎を伊坂幸太郎たらしめている要素なのです。


この『アイネクライネナハトムジーク』は、出会って恋が実って結婚して、あるいは別れるなりして、それでふと、後々で思い返した時に「あの時の出会いがあるから今があるんだな」とキャラクターが感じ入るようなつくりになっている。


「出会いが直接的にもたらす幸福感ではなく、後々になって分かる出会いの大切さを描いた作品」


しかもこの出会いってのがまた伊坂幸太郎らしい解釈で、恋愛にまつわる出会いだけじゃないんですね。いじめられっ子の少年との出会い、(映画では省略されましたが)復讐したかった相手との再会、友人との出会い……恋愛どこいった?な出会いが描かれます。


そして、気恥ずかしさや不慣れさを隠すように、各短編に散りばめられた伏線を、無理矢理に繋ごうとする強引な手法。そこに「伊坂幸太郎って結構照れ屋なのか。あるいはマジで恋愛に興味ないのかな」と感想を抱いたのは、きっと私だけではないはず。


原作を普通の恋愛小説であると期待して読むと、読み終わってから「これのどこが恋愛小説?」と首を傾げてしまうかもしれませんが、伊坂幸太郎という人はジャンルに依らない作家性の方なので、むしろ彼の作風が恋愛小説というジャンルに収まらないだけなんだ、と見るのが正しいんです。


ですが今泉監督は見事に、実に見事に、この一見抽象的とも思える「恋愛小説もどきの恋愛小説」から、微かに、しかし確かに存在する「恋愛=出会い」を抽出し、映像に落とし込むことに成功しているのです。


圧巻だったのは、この作品、大事な場面や見せるべき場面では、ほとんどカットや編集が入らない。度胸の無い映画人なら思わず小手先の技術に逃げてしまいそうになるところをぐっと耐えて、耐えて、じーっと長回しで映し込む。


その長回しがもたらす効果。細やかな、我々があまりにも日常的に当たり前に繰り返すがゆえに意識しない仕草。


ビールを飲み干す姿、底が尽きそうな洗剤ボトルに力を入れる所作、バスの転倒防止のバーに手をかけて降りる姿、アイスを舐めるように食べる仕草、机の上に散らばった子供の遊び道具……それらを排除することなく、つまらない映像としてではなく「日常にある大切な映像」として撮影するその心意気に、私は感服しました。


そして、それらの「さりげない日常」を「さりげなく撮る」姿勢に延長するかたちで、伏線を回収するシーンもまたじつに「さりげない」。わざとらしいカットや編集は何もない。どこまでも「さりげなく」、すっとこちらの意識に入り込んでくる。それは、後々になってブーメランのように飛んでくる伊坂作品の伏線回収シーンを、映像として見事に可視化したことの証明に他なりません。


人物造形もうまいことやっていて、織田一真なんてまさに原作通りの織田一真。原作と違って二枚目ではないですが、その口調、台詞のタイミング、身振り手振り、その全てが、奇妙な自信とウィットに溢れた伊坂的キャラクターとして確立している。


この映画の成否がかかっているのは、いかにこの織田一真の言葉に説得力を持たせるか、という点だと思っていたので、矢本悠馬さんの演技力に感謝せねばならんでしょう。


もう一つ人物造形で驚愕したのは、佐藤が公園で出会ういじめられっ子の少年。小説と同じく難聴持ちという設定なのですが、小説では普通に喋っているのに対し、映画では難聴者に特有の「もぞもぞした喋り方」を違和感なく表現しています。


盲点でした。そして驚きました。そういう喋り方をするものだよなと気づかされたのではなく、その喋り方が、『十二人の死にたい子供たち』で描かれていた、わざとらしい吃音描写とは比べ物にならないくらい、ド直球で障碍者の姿を描いているから。


今泉監督は、映像を作ることからまるで逃げていないのです。映像をフィルムに投影するという作業に、嘘を入れることを許さない。堤監督とは大違いです。さきほどの長回しの点といい、本当に肝の据わった、そして細やかな配慮を忘れない監督さんなんだと感じました。


優れた映像作家というのは常に、原作の展開をなぞってそのまま映像に落とし込むのではなく、いかに映像的な説得力を以て、原作と同じテイストを確保するかということに余念がありません。今泉監督もその傾向にある方だとお見受けしました。


ウィンストン小野がチャンピオンベルトを取り戻すために、再びオーエンに立ち向かっていくリベンジマッチのシーンなんて、その最たるものです。オーエンの拳をもろに食らってコーナーに戻り、ボロボロで潰れかかった眼の端で、応援する観客の姿を視界に捉える。その時、すっと立つ何者かの姿……それは昔、公園で出会った、あの難聴持ちのいじめられっ子の少年。


ここの演出ですが、完全に原作のテイストを掴みつつ、映像的な感動に溢れているワンシーンです。小説ではラウンドボーイに成長していた少年を、観客に置き換え、しかも折るのがボードじゃなくて枝。しかしこれが、実に伊坂テイスト。あ~~伊坂ならやりそうだなぁ~~って思わず口に出してしまいそうになる。監督しているのは今泉さんなのに、伊坂幸太郎が実際に小説でやってもおかしくない演出に、私は震えました。


そもそもこの映画、原作にはない佐藤の十年後の姿を描くなど、その展開は小説とは微妙に、しかし確実に異なっています。有名な「そちらのお嬢さんの父親が誰なのかわかっているんですか?」の脅し文句も、小説だとたった一編でしか使われていなくてちょっと寂しいなと思っていたんですが、それを上手いことアレンジして映画に落とし込んでいて、しかもこれが、いかにも伊坂的なやり口なんです。


まるで伊坂幸太郎が監督をやってんじゃないかと思わせる、映像的な「伊坂っぷり」に溢れた作品。私はもうこれだけで満足しました。


伊坂幸太郎の小説が、小さな小さな伏線を積み重ねて、最後の最後で伏線を回収して爽快感を与えるように、この映画もまた、人々のなんてことはない日常を長回しで精緻に捉え、捉え、捉え続け、その積み重ねの末に、愛する人との「出会い」に感謝する日々を忘れないことを、軽やかに伝えてくる。


現時点における伊坂幸太郎原作映画の最高傑作です。


恋人で観るのもよし、友人と観るのもよし、もちろん家族で観るもよし。


今泉監督が描き出す「なんでもないけど、それでも大切な日常」を堪能し終えた時、ほっこりとした気分になること間違いありません。


全ての方におススメします。

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