【第3回】★ペンギン・ハイウェイ
今回はネタバレ有のレビューです。
『死、あるいは不条理な概念の存在を受容することを決意した少年についての映画』
新宿のTOHOシネマズで鑑賞してきましたので、軽くレビューを書きたいと思います。
このところ諸事情で『アニメ映画恐怖症』に罹っていたんですが、もう上映期間も過ぎちゃいそうだったので、自らを鼓舞して鑑賞してきました。
【導入】
『四畳半神話大系』『有頂天家族』『夜は短し歩けよ乙女』などの作品がアニメ化されている人気作家・森見登美彦先生の同名小説を原作としたアニメーション映画。
ちなみに、当方は原作の方は未読です。
日本SF大賞受賞した作品読んでねぇとか、曲がりなりにもSF書いている身分としてどうなんだってところですが、すいませんね。
監督は、なんと1988年生まれと非常に若い新進気鋭の期待の若手監督・石田祐康。
その石田監督擁するスタジオコロリドが制作しています。
脚本は『四畳半神話大系』『夜は短し歩けよ乙女』を担当し、個人的に森見作品との相性が良いと思っている上田誠。
主役のアオヤマ君の声優は北香那さん。女優さんです。ヒロインのお姉さん役を蒼井優さんが演じてます。
その他にも、釘宮理恵さん、久野美咲さん、能登麻美子さんなどの有名アニメ声優さんや、竹中直人さんも出演されているなど、何気に豪華です。
【あらすじ】
その日、それは、何の前触れもなく、突然起こった。
とある内陸の街に住む小学四年生のアオヤマ君。
彼の自室には『研究室』というプレートが掛けられており、それは彼の日常が、探求と好奇心に溢れていることを意味していた。
アオヤマ君は小学生離れした考察力と大人顔負けの知識力を武器に、日々疑問に思ったことを『研究ノート』に綴るという生活を送る、ちょっと変わった子供だった。
『スズキ君帝国』『プロジェクト・アマゾン』『お姉さん』『妹わがまま記録』……研究テーマのスケールはどれも小さいが、アオヤマ君はアオヤマ君なりに、自らを取り巻いている世界の不思議を解き明かすことに必死で、とても充実していた日々を送っていた。
彼の中で特に興味深い――それが『憧れ』に近い『恋』であるとは自覚せぬままに――観察対象となっているのが、通っている歯科医院に勤める『お姉さん』だった。
常に大人びた態度を取るアオヤマ君をからかう、どこかミステリアスで奔放な性格のお姉さん。
お姉さんの魅力的な『おっぱい』の虜となったアオヤマ君は、日に三十分は『お姉さんのおっぱい』について考えてしまうくらいには、夢中になってしまっていた。あくまでも、研究対象として。
そんなある日、それは、何の前触れもなく、突然起こった。
夏休みを控えたアオヤマ君の住む街に、どうしたことかペンギンの群れが現れる。あの南極に棲んでいるはずのペンギンが、である。
街中が騒然とする中、アオヤマ君は友人のウチダ君と共に、その謎を追う事を決意する。
調査を進めていく中で、次々に奇妙な事実が明らかとなっていく。
街に現れたペンギンは、車にはねられても死なないのだ。それどころか、捕獲されてトラックで輸送されている最中に忽然と姿を消してしまうなど、生物学的なペンギンの挙動からは大きく逸脱した存在だった。
ペンギンはペンギンではなく、実はペンギンの皮を被った『何か』ではないのか。
未だかつて出会った事のない大きな謎を解明しようと研究を続けていた矢先、とある偶然から、アオヤマ君は歯科医院に勤めるお姉さんの投げたコーラの缶が、ペンギンへ変身してしまうところを目撃する。
現実にはとうてい起こりえない不可思議過ぎる現象。呆気にとられるアオヤマ君を前に、お姉さんは飄々と言ってみせる。
「少年、君にはこの謎が解けるか?」――お姉さんの挑戦的な言葉が、小学四年生の彼を邁進させたのは言うまでもない。
合理的な思考の下で結論を導き出そうと研究を続けていたある日、アオヤマ君はウチダ君からあることを打ち明けられる。
実はウチダ君は、こっそりと一匹のペンギンを確保しており育てていたのだ。
ところがそのペンギンは、どうしたことか餌を全く食べようとせず、それなのにピンピンしていた。
それでも心配であることに変わりはない。ペンギン向けの餌を確保する必要があると感じた二人は、ペンギンを連れて電車へ乗り、郊外にある水族館を目指す。
しかし、電車がまさに街を離れたその時。それまで元気であったはずのペンギンに異変が生じる。
小さな体を不気味に震わせ、奇妙な収縮運動を見せるペンギン。訳も分からず見守っていたアオヤマ君とウチダ君の目の前で、ペンギンは末期の絶叫を残し、さながら絞られた雑巾のように体を捩じりに捩じって、弾け、消失した。
後には、ペンギンの体から放出された水滴と、あのコーラの缶だけが転がっていた……
どうして街を離れた途端、ペンギンは死んだのか。
お姉さんの意味深な言葉は、何を暗示しているのか。
いま、自分達の住んでいる街で、何が起ころうとしているのか。
お姉さんは、本当にただの『お姉さん』なのか。
アオヤマ君を取り巻く小さな世界は、しかし彼の知らないところで、少しずつ、少しずつ、とてつもない変化を遂げようとしていた。
【レビュー】
森見登美彦先生の作品で読んだことがあるのは『四畳半神話大系』と『夜は短し歩けよ乙女』の二作品しかないわけですが、そもそも私がアニメ好きになったきっかけになったのが、森見先生の作品でした。
アジカンことASIAN-KUNG-FU-GENERATIONのファンである私は、アジカンがとあるアニメのオープニング曲を担当すると聞いて、じゃあ曲を聴くついでにアニメも観ようかと、何気なく決心したわけです。
そのアニメというのが、今から八年前に放送された『四畳半神話大系』でした。
これがもう、めちゃくちゃに面白くて。
それまでも『灼眼のシャナ』とか『涼宮ハルヒの憂鬱』とかのオタク的にメジャーな作品は観ていたわけですが、そんな私にアニメーションの面白さを再認識させてくれたのが『四畳半~』だったわけです。
あの、SFとも日常系とも違う、独特の世界観。閉じられた世界を自らの選択でこじ開けていく解放感。病み付きになりました。
さて、この『ペンギン・ハイウェイ』ですが、原作小説は、あの栄誉ある『日本SF大賞』を受賞していることでも知られています。
受賞した小説をすべて読んでいる訳ではありませんが、しかし、かの賞に列せられた作品は、控えめに言って面白いのが多いというのもまた事実。
その中で、特に私が好んでいるのが冲方丁先生の『マルドゥック・スクランブル』です。
まぁ深刻な話なんですよ。マルドゥック・スクランブルって。
なにせ主人公が愛人に殺されかけた少女娼婦ですから。
そのおかげでどのライトノベル・レーベルからも出版を断られてしまうというね。
深刻な話を深刻に語っている。というか、深刻に語らざるを得ないというか。その深刻さが私は好きなんですけど。
しかしですね、作品を鑑賞した限り、深刻さで言ったらペンギン・ハイウェイも負けちゃいない。
というかSF的メロドラマ構造という形を用いながら、超深刻で超哲学的な話を描いているなという印象があるんですよこの作品。
ペンギン・ハイウェイが描いている深刻なテーマ。それは『死』だと私は思うんです。
この映画では、劇中に『死』を暗示させる台詞やガジェットが、後半になってから沢山登場します。
その中でも特に唸らされたのが、街に突然現れた巨大な水の玉<海>です。
この<海>は<世界の果て>に通じる入口であると同時に、どんどん成長して世界を呑み込んでしまう『虚無の大穴』とでも呼ぶべき代物で、まさに『死』をイメージした存在に他ならない。
特筆すべきなのは、全ての生命体が生まれてきた命の揺り籠とも例えるべき海を『死』のイメージに直結させたところで、これはつまり『死と生は同時に存在するものである』『死ぬことと生きることは同じだ』という、北野映画的メソッドに通ずるものがあります。
これだけでも相当驚いたんですが、それ以上にびっくりしたのは『お姉さん』の設定。
お姉さんは非人間的な、超常的な存在であるわけです。
もっと言うと『海辺の町に住んでいた=海からやってきた存在』であり、生を司る母にして、世界という名の『子供』を守るためなら何でもやるという『地球の意思』が具象化したような存在です。
しかし、アオヤマ君が女性としての魅力を彼女に覚えている以上、その時点で『お姉さん』にはキャラクターとしての属性が付与されるわけです。
こうした作劇上、アオヤマ君の視点を通じて物語を観察する観客の眼には、お姉さんは『生身の人間』として映ってしまうという仕掛けになっている。
だからこそ『人間じゃないよ』と言われても、いや、あんたはもう人間だよ!我々の目にはそう見えるよ!と突っ込まざるを得ない。
そんな『人間の姿をした』お姉さんが、世界の危機を救うためとは言え、自分の命綱でもある<海>を消去する決断をするという流れは……凄まじいまでの自己犠牲を観客に見せつけることになりませんかね。
すごいざっくばらんに言うと、お姉さんが自殺を決意するまでの物語、と捉えることもできる。
だからなのか、とにかく胸に来るんです。でもなぜか、悲観的な感じは全くしない。
そこが絶妙なんですよ。ここまで『死』のガジェットを全面的に押し出してきたら、普通はどうしたって物語に流れる雰囲気が暗くなりがちなんですが、不思議とこの映画にはそれがないんです。
深刻な話を深刻そうに描くのではなく、あっけらかんとして描くことで、画面から滲むはずの死の匂いを消臭させているとでも言えばいいのでしょうか。
これはおそらく、映画の造りがそうなっているというよりかは、原作がそうなんでしょう。となると、森見先生の作品がなぜこうも支持されているのか、その要因の一端が分かった気がします。
似てるんですよね。伊坂幸太郎先生の作品に。
『重力ピエロ』や『アヒルと鴨のコインロッカー』や『死神の精度』など、あの人も死をあっけらかんと描くのに定評がある人で、それが一種の『爽快感』に繋がるような造りになっているんです。
その独特の作風ゆえに、伊坂先生は多くのファンを獲得しているわけですが、それと似たようなところが、森見先生にもあるんじゃないでしょうか。
そうです。ペンギン・ハイウェイは『死』を描くその一方で、観終わった後には『爽快感』が残る映画なんです。
この爽快感ってところがミソで、ここがたとえ原作で描かれていたとしても、映画で描かれていなかったら何の意味もないんじゃないかと感じるのですが、それが見事に表現されていましたね。
あのラスト近くの、『海辺のカフェ』から立ち去るお姉さんのタッチなんて、ものすごく牧歌的、叙情的な描き方をしているのに、蒼井優さんの演技と劇伴のおかげで、感傷的な余韻は鳴りを潜め、爽快感の方が増している。
『死』を描いているのに。『死』なんていう、人間個人の力ではどうしようもできない不条理な事象を描いているのにですよ。
もう一つは、アオヤマ君の心の成長がしっかりと描けているのも、この映画の良いところでしょう。
人間はなぜ死ぬのか。そこに合理的な理論を後付けさせていくことは簡単。細胞のテロメアに限りがあって……とかなんとか、理論武装して『死』を理解することは可能です。
しかし『理解』はできても『納得』はできない。なぜなら『理解』とは合理的論証の集積によって成り立つ知的行為ですが、納得というのはそれとは対極にある、感情的な『ゆらぎ』の問題であるからです。
そこで必要になってくる心構えってのが『納得』ではなく『受容』であると私は思うんです。
だいたい『死』なんて不条理極まる事象を納得するなんて、そんな賢い事が人間にできるなら、戦争なんてしませんでしょう。
それができないからこそ人間は死を取り込む別の思考的作業が必要であり、それが『受容』であるということです。
人間はいつか死ぬ。それは紛れもない真実です。恋人や親友や家族などの近しい人が死ぬのは、頭では分かっていても納得はできない。それは当然のことです。
だったら、私たちに出来ることは何か?
それは受け入れることです。『死』が『死』であることを受け入れ、また『死』は『生』の対義語であるのではなく、『死は生を、生は死を内包している』と考えれば、やることは一つです。
死に向かって真っすぐに生きること。
死を乗り越えるんじゃなく、死ぬ運命を受け入れること。
それまで『海』を見た事がなかったアオヤマ君は、<海=死>の存在を間近で自覚し、お姉さんの自己犠牲的な消滅を目撃したところで、上記の結論を自力で導き出し、それが『大人』になることなのだということを描いたこの映画は、実に地に足のついた結論だと思いません?
死を超越するなんていう、変にアニメ的な、悪く言えばガキっぽい結論に至らない、実にクレバーな、アオヤマ君らしい研究成果です。
アオヤマ君と、石井監督の、今後の活躍をお祈りし続けますよ私は。